2016年7月7日木曜日

いろんなハイがある ③

しかし他方では「ダイエットハイ」という言葉もある。これは絶食して30時間以上たつと、ストレスホルモンのひとつであるCRH(CRF)という物質が視床下部から分泌され、それが結果的に、ランナーズハイのところで出てきた、βエンドルフィンを分泌させるということらしい。「ことらしい」、というのは、この情報、ネットにかかれてはいるが、出典も明らかではないからだ。そもそもストレスに関連するホルモン、例えばCRH, ACTH, コルチゾールなどが脳において及ぼす影響は多岐にわたり、分かっていないことばかりということらしい。疲れても眠れないのはACTHのせい、とかいう話も聞いたことがあるが、うろ覚え。本を書こうとしている人間としては、こんなことでは困る。とはいえ、何も専門家のための本を書いているのではない。私に言えるのは次のようなことだ。

ストレスがあらゆるハイに関係している。ストレスを感じると、視床下部からCRHが出る。体がストレスに反応するための臨戦態勢を取る最初の反応だ。するとすぐ下にある脳下垂体からACTHが出て、それが副腎を刺激してコルチゾールを出す。コルチゾールが多くなると、視床下部でCRHにネガティブフィードバックのループが機能してストップがかかる。そして、この複雑なメカニズムのどこかに、ハイになる要因がある。それはCRH(CRF)かも知れない。しかしコルチゾールの分泌もハイに関係しているという記述も見かける。
  

Fingerprint (指紋)ならぬ 「Pleasure print 快紋」

ここでまた新しい概念を考え出した。「快紋」である。もうどうしようもないね。誰も使ってくれないよ。でも説明させてもらおう。英語でfingerprint というと指紋のことである。人により様々。一卵性双生児でも異なる。これになぞらえて、ある分析家が sexprint という言葉を作り出した。人それぞれセックスに関する思考は違うという意味。私はそれを「性紋」と訳した。これでお分かりであろう。快紋とは要するに、人により何に快を感じるかのパターンであり、それは千差万別であるということだ。


2016年7月6日水曜日

いろんなハイがある ②

(ランナーズハイの続き)

人が走ることに快楽を見出すことは疑いない。東京マラソンに何万と応募する人々の多さを考えればいい。体を動かすことは苦痛であると同時に大きな快楽の源泉になる。子供が駆け回る様子を見ても、子犬がじゃれ合っているのを見ても、それが純粋な快楽の源泉になっていることを見て取ることは決して難しくはない。私がかつて示した快楽の原則、すなわち「脳のネットワークの興奮は、それ自身が緩徐に報酬系を刺激する」という原則をここで思い出して欲しい。単細胞生物が走性をすでに発揮している時点で、パンクセップの言う探索モデルが働いている時点で、動き回ることそのものがデフォルトとしての快楽を提供することは、生命体の運命として定められていたのだ。
 ある高名な博物学者が言った言葉だが、「生命体は、動きたくなければ植物になればよかっただけの話なのだ。」というわけである。報酬系を持たない植物は、報酬勾配に従った動きをする必要もなく、したがって動きを封印されている(必要としていない)というわけである。(←この「高名の博物学者」は、私のでっち上げである。告白しておく。私がテキトーに書いた。)
ちなみにランナーズハイに関連して論じられたβエンドルフィンはおそらくあまり根拠がないであろうと最近では言われている。βエンドルフィンが実は血液脳関門を通らない。体でいくら発生しても脳には行きつかないという。むしろ関係しているのは、脳内マリファナ物質であるという。エンドカンナビノイド(anandamide など)という物質である。要するにマリファナ成分だ。ネズミを一日数時間走らせると、人工的にランナーズハイを起こし、明らかに痛み刺激に強くなるが、このカンナビノイドをブロックするとその効果が無くなってしまうだろう。
頭の中で、何か大阪のおじさんの声が聞こえてきた。「なんや、マラソンやっている人たち、自前のマリファナやってたんかー!」
いやいや、決してマラソン人達に他意はない。

2016年7月5日火曜日

いろんなハイがある ①

いろいろなハイがある、という章立てで、これまでに述べたことを集めてみよう。

サドル窃盗男は「変態ではない」のか?

ライターのインベカヲリ氏の記事(新潮4520164月号)は、2013年に神奈川県で、自転車のサドル200個を盗み集めた男の話を書いている。「においを嗅いだり舐めたりするのに欲しかった」そうである。このケースで不思議なのは、のちに不起訴になったこの男性が「報道され、深刻な名誉棄損を受けた」としてマスコミ各社を訴えたことである。「サドルフェチ」的な報道に深く名誉を傷つけられたということだ。
似たような例として、最近(20165月)一部で話題になったのが、匂いに興奮して(「ハイ」になって)30着の雨合羽を盗んだ32歳の男性の話。それもヤクルトレディーのものに特化したとのこと。
これなども完全な変態扱いである。
私もこれだけ報酬系の話を続けていると、「報酬系フェチ」と言われても仕方がないが、私としては断固彼らを擁護したくなる(しかし、もちろん窃盗はいけない。しっかり正規のルートで購入すべし、と言いたいところだが、彼らにとってはそれでは意味がないのかもしれない。)
結局私が言いたいのは次のことである。報酬系が何により興奮するのかは、人によって全く異なるのだ。その一部は生活習慣により決まり、別の一部には遺伝が関係し、別の一部はおそらく偶然により左右される。しかしそうはいっても読者はその実情を知らないかも知らない。そこでこの章(ナンの事だ)では、報酬系はいろいろな刺激によりハイになるという事情を具体例を通じて伝えたい。


ランナーズハイ


まずは無難な例から行こう。皆さんもよく知っているランナーズハイ。イイや、資料に当たらずテキトウに書こう。必ず出てくる、脳内麻薬物質のエンドルフィンの分泌、という記載。でも要するに報酬系の興奮なのだから、最終経路のドーパミンの分泌が起きるということであれば、エンドルフィンでなくてもいいわけだ。しかしここで考えよう。走っている時の快感は、ドーパミンとの深い関連があるとは限らない。思い出そう。ドーパミンの分泌は、急に報酬を与えられた時、あるいは将来の報酬を約束された瞬間。(最近では痛み刺激でもドーパミンが放出される、というのだから、ますますよくわからない。でも脳の話とはそんなもんだ。)

2016年7月4日月曜日

偉大な魂 ③

私はおそらくムヒカ氏は現代の岩窟王であろうと思う。彼は13年収監された。南アフリカのネルソン・マンデラは27年の刑務所暮らしをしたという。モンテクリスト伯は14年間、しかも出獄した後に、復讐を遂げたのだ。すると復讐を遂げる代わりに清貧になったムヒカ氏こそ偉大な魂と言うべきか。彼の13年間の体験と、その「磨かれた報酬系」とはおそらく深いつながりがあるのであろう。ムヒカ氏は牢獄で、幸せとは何かを考えたはずだ。そして少なくとも彼にとっては、それは物質的な豊かさではないことに行き着いた。そして何が本当に自分を満足させるのかに気が付いたのであろう。
ごく単純に考えたい。ムヒカ氏は出獄して再び権力を手に入れ、物質的な豊かさを得ることを想像して満足をしただろうか? もちろんいい車を運転し、豪華な公邸に住むことは満足感をもたらすであろうが、それは同時に彼に何らかの不快や空虚さを感じさせたに違いない。彼にとっては自分の物質的な満足と、他人の不幸とが相補的であるとすら感じられるのであろう。そしてそれには想像力が必要だ。誰でも豪華な食事をとることはうれしいかもしれないが、同じテーブルの隣に座っている人がほとんど具の入っていない薄いスープしか啜れていないとしたら、その豪華な食事ものどを通らなくなってしまうに違いない。ムヒカ氏の隣に貧しい人が実際に座っていたわけではないだろうが、彼はそれを想像できたのであろう。ムヒカ氏が給料の9割を返上する裏には、何かそのような心が動いているとしか考えられない。(しかしそれにしては、彼はどうしてあんなに肥満しているのだろうか?決して豪華とは言えないものを「飽食」しているのだろうか?まあ誰もそれを咎める人はいないだろうが。)
ここで報酬系の磨かれ方を表現するならば、それは物質の摂取による満足だけで満たされることなく、精神的な満足、それも愛他性を伴う満足に特化しているということが出来るだろうか?
ここで精神的な満足のみならず、愛他性ということにことさら言及する理由を述べよう。精神的な満足を得ながら、自閉的、自己愛的である人はいくらでもいるのだ。数学的、物理学的な才能がある人にとっては、数式を頭の中で扱うことは、それだけで大きな満足を与えるであろう。ピアノの才がある人は、一日何時間もの演奏も喜びをもたらすはずだ。しかしそのような満足を追い求める人を偉大だという人はあまりいないだろう。その人の満足体験が、周囲の人のそれに連動していてこそ、人はそれを偉大だと感じるはずだからだ。つまり愛他性がその人にとっての満足の源泉になっている必要がある。

偉大な魂はブレない報酬系を持つ

ここで私が最初に述べた偉大なる魂の話に戻りたい。物事に固執せず、余計な期待をせず、あきらめがいいということと、愛他性問題はどのように関連しているのだろうか? こう考えて欲しい。
 愛他的であることは、自己愛的な満足を得ることとは対極的である。自己愛とは他人から満足体験を吸い取る人である。人が自分を振り向かなかったり、自分を称賛しなかったりすると不満に感じ、怒りを覚えるはずだ。愛他性の場合は、他者からの入力ではなく、自分からの出力が問題となり、それだけ自分のコントロールの対象になる。人から愛されている補償はどこにもないが、人を愛することはいつでも好きなだけ可能なのである。
 ただし「諦めのよさ」と愛他性とは同一の問題ではない。愛他的であることは、諦めのよさに貢献する要素であるとしても、愛他性を含まない諦めのよさもある。たとえばプロのトレーダーを考えよう。一つの銘柄で損失が出たからといってアツくなることなく、冷静に新たな投資先を考えるだろう。他方投資依存症に陥っている人の場合は、損失が出ると一気にカーッとなって、それを取り戻そうと無理な投資をするかもしれない。優秀なトレーダーであるということは、例の射幸心がいたずらに刺激されないことと言い換えることができるかもしれない。しかし私の中では、それは死生観ともつながっていく。というかそちらに結び付けていかないと面白くない。
もし自分の命が近い将来奪われるとしたらどうだろう。そこでパニックに陥る人もいれば、平然と受け止める人もいるだろう。後者の場合に何が起きているかといえば、常にいつ死んでもおかしくないという覚悟を持っていることといえるだろう。でもそれは現在の生の喜びをいささかも減じることはないのである。私の出会った偉大な魂たちは少なくともそうであった。今体験していることは喜びを与えてくれる。しかしそれは同時にいつ失われてもおかしくないという覚悟がある。これはどのような報酬系の仕組みなのだろうか? それは今の喜びが偶々、偶然に得られたという自覚があるということではないだろうか? 今のこの喜びは確かなものだが、それがこれからも続くことを保障はしない。そのことも同時に分かっている。
 しかしそう考えると、「今の生の喜びを少しも減じることがない」、ということの意味が、書いている自分も分からなくなってくる。少なくともそれが、「これを手放したくない」と思わせるようなものだったら、「なくても平気」とあっさり手放せるのだろうか? 
「あきらめの良さ」は、報酬系からはどうもいまひとつ理解できない。諦めが良い、とはたとえば、砂漠で水を求めて歩いていて、遠くに自販機を見つけて「やった!」と思った時、実は半分しか喜びを味わわないということだろうか? 「やった」くらいとか。ということはその人の報酬系は、常人の様には容易に興奮しないということだろうか? ぬか喜びをしないように訓練されていると考えるべきか?
報酬系が鍛えられ、磨かれるとはどういうことかを考えた場合、一つの答えは、予想した快を得られなかった際の苦痛を最小限に抑えるということであろうか?過剰な期待とそれに続く失望は明らかに人の心にとってのストレスである。そのためには、報酬系は将来の快の予想をした後に、心の中でそれが得られなかったことを想定し、その目減らしを行っているのではないか。つまりドーパミンの反応は、二相性ではないだろうか? 彼は体験がことごとく刹那的であり、いずれは失われるものという見方をする。体験は、「それが起きることがうれしい」のではなく「それがもし起きたらうれしい」という仮定法でしか体験しないのではないか。そのように報酬系が出来上がっているのだ。
以上、磨かれた報酬系の二つの特徴を示したことになる。
1.   愛他性に基づくため、他者による失望の要素が軽減されている。そしてそれはより報酬系を自分のものとすることを意味するのだ。(つまりはそこでの快、不快を他者の手にゆだねることが少ないということである)
2.  先取の快が「仮説的」であり、条件付きのものである。そのために過剰な期待を抱いた末の失望という要素が極力少なくなっていると考えられるのだ。




2016年7月3日日曜日

偉大な魂 ②

またムヒカ氏の話に戻る。ウルグアイ第40代前大統領。2010年から2015年の間ウルグアイの大統領を務めた。彼の有名な言葉に次のようなものがある。「貧しい人とは、あまり持っていない人のことではなく、もっと欲しがる人のことを言う」。
1935年生まれの79歳。貧困家庭に生まれ、家畜の世話や花売りなどで家計を助けながら育った。1960年代に入って都市ゲリラ組織「ツパマロス」に加入。1972年に逮捕された際には、軍事政権が終わるまで13年近く収監された。200911月ウルグアイ大統領選挙に当選し、201031日より同国大統領。第40代大統領の彼に大統領公邸が用意されているものの、ムヒカ氏は自宅の農場のトタン屋根の家に住み、収入の9割を寄付しているため生活費は1000ドルほど(約10万円)しかないという。車は1980年代のおんぼろフォルクスワーゲン。富の象徴として公邸に住むことを拒否し、大統領だがネクタイをつけることも嫌がる。ムヒカ大統領の下でウルグアイは、人工妊娠中絶や同性婚をはじめ、マリファナの生産や販売を合法化した。マリフアナの 合法化は世界初だったが、これには批判を浴びたという。
極貧に生まれ、家計を育てながら育ったというところは、例の●添さんと同じだ。しかしどうしてあんな差がついてしまったのだろうか?こちらの方は政治資金を生活費に流用してほくそ笑み、公用車を使って別荘に行き来するのである。
ここで偉大な魂と普通の魂の違いを報酬系という視点から考える。●添さんは、「ふつうの魂」代表、ということで。だって彼が特別だとは言えないだろう。都知事という巨大な権力の座についた人間は、おそらく報酬系をやられてしまう。自分が動かすお金が巨大で、ふるう権力が大きい場合に、人に何が起きるのか。それはちょうど報酬系を著しく満たすような薬物を体験した人と似ている。人はそれを常習したくなる。一度味わった権力の味は容易には忘れられない。繰り返しそれを味わおうとする。別荘通いを行い、趣味のネットオークションで絵画を落とす。「やった、これでうん十万円いただき。取っておいて後で売ろう…」ものすごく庶民的だけど楽しい人にとっては楽しいのではないか?釣りに行って魚を釣り上げるのと似た感覚ではないだろうか?

ムヒカ氏も当然似たような体験をしたはずである。彼はそれを常習するのではなく、むしろ拒絶した。その力たるや凄まじいものであろう。一度は味見くらいはしたであろう麻薬を目の前に積まれ、それをゴミ箱に捨てるような行為。普通だったら考えられない行為を彼は行う。世界中の政治家を探しても例がないような、給料の9割返上を平然と行うのだ。

2016年7月2日土曜日

偉大な魂 ①

●報酬系と偉大な魂
量的にはかなりのところまできているので、そろそろまとめ始めなくてはならないが、どうも不全感がある。最後あたりに入れたい章がある。題して「報酬系と偉大な魂」。もちろん大仰なタイトルだが、このようにしないと本として売れなくなってしまう。
あるセレモニーでのムヒカさん
ホセ・ムヒカ氏のことを書こう。百聞は一見にしかず、である。まずこの写真。2013年のウルグアイ政府の式典で、この姿である。いいなあ。こんな老人になりたいものだ。ぜんぜん気にしていない感じ。さすがに大統領になると他の人に気を使う必要はないのだが、この人、オバマさんにあってもプーチンさんに会ってもノーネクタイだったと言う。A proudly underdressed Mujica is flanked by his vice president (left) and finance minister at a 2013 government ceremony. (AP Photo/Matilde Campodonico)
読者は報酬系とどう関係があるのかと思うだろうが、実は大有りである。報酬系のあり方はその人そのもの、と言うのが私の趣旨であるが、質のよい、ハイレベルの報酬系は教養と知性の裏づけがあって初めて出来る。そしてそれは自分にとっても他者にとっても大切なものである。
偉大なる報酬系、と題したが、私の考える報酬系の偉大さとは次の様なものである。それは将来の快、不快を敏感に察知する。その達成(または回避)の実現については、しかし大きな感激や失望は伴わない。と言うか、予想した段階である程度のあきらめを含んでいる。そう、偉大なる魂は自分や周囲にあまり期待しないのである。
私はこの種の偉大な魂の片鱗に出会ったことがあるが、彼らは他人を恨まないし自分の自己愛におぼれることもない。淡々としているのである。「過剰な期待をしない」がその人を一番特徴付けると言ってもいいであろうか。もちろん周囲に向けて主張をするし、期待もする。でもそれが受け入れられないときの失望は、ある程度予期されているので、一瞬で終わる。だから失望させられた相手への怒りもわかない。「あ、そうか」で一瞬にして考えを変えることが出来る。

偉大な魂は、たとえばAと言う方針を持ち、その実現に向けて動く。しかしそれがかなわなかったときにBを用意してある。だからAが実現しないことは苦にならない。あるいは”It’s not end of the world”. それでこの世がなくなるわけでもないし、とあきらめることが出来る。では本当にAをあきらめきっているかと言えば、実はそうではない。

2016年7月1日金曜日

報酬の坂道 ⑪

私の報酬系を最も刺激するローソンのドーナッツ (クイニーアマン メープル風味)

遂行プログラムにおける反復の問題
報酬勾配や探求モデル、遂行モデルの問題は、私たちの持つこだわり、ルーチンを守る傾向と深く関係している。それはまたアスペルがー障害などでは特に顕著であろうし、もちろん強迫性障害などにおいてもそれが端的に見られる。とりあえずは健康な生活を送っている私たちも、程度の差はあっても皆この反復の傾向を持つ。多くの人にはお気に入りのワインがあり、行きつけの店があり、病み付きになっているスナック菓子があり、何度も聞いているCDがあるだろう。
 なぜ私たちは同じことを反復するのか? 私は問題は反復というよりは常同性であると思う。いつも同じ事を行うと、結果として反復になるのだ。反復強迫というよりは、常同強迫である。私も同じような傾向があるから良く分かるが、同じことをするのは心地よく、安心感を与えることが多い。ただし全くの反復は面白くない。少しバリエーションがなきゃね。でもバリエーションは、こちらから意図しなくても、向こうから与えられるというところがある。同じ曲を聞いても、毎回聞こえ方が違うかもしれない。毎日同じ道を通勤しても、雨が降る日も風が吹く日もある。ルーチンをこなすこととは、そのような放っておいても襲ってくる変化から身を守るための手段、平衡状態 equilibrium を作るための手段という気もする。そう、常同性の追求は実は奥が深いのだ。
プロ野球のイ●ロー選手などはよく引き合いに出される。なぜ毎日決まった時間に球場に表れて同じ練習のメニューをこなすのか。おそらくそれを行うことへの快があるのであろう。そこに脳のネットワークの介在を容易に想像することが出来る。脳の中に、たとえば広大なネットワークがある。イ●ロー選手は、車で球場に向かうあたりから、もうそのネットワークのスイッチが入ってしまい、あるパターンに入り込み、そのあとは殆どオートマチックであるというようなことを、テレビのドキュメンタリーで語っていた。まさに水路を伝って水が流れるがごとく、回路が興奮を続けていく。 このルーチンをこなすからこそ、彼はその練習を積み上げることが出来、冒険をしない分だけ怪我も少なく、現役を何年も続けることが出来るのだろう。そのネットワークは刺激を受けて興奮することをいわば待っている状態であり、途中で止めることなどできない。イ●ロー選手なども、彼の野球用具を誰かが間違って触れたりすると、それがわかるし、それが少しでもいつものところに置かれていないと耐えられないという。目が、手がすごく敏感なセンサーのようになっているのだろう。
 それにしても習慣とは不思議である。私はアメリカ生活が長かったためか、コカコーラをよく飲むが、数ヶ月コーラばかり頻回に飲む時期が続いた後、見向きもしなくなるということが起きる。そして2,3年してまたコーラに戻るということを繰り返す。どうしてか全く分からない。しかしこれも一種の平衡状態の維持と考えることが出来るかもしれない。同じ食物を、獲物を食べ続けることには良し悪しがあるだろう。微量の毒物を含んでいるかもしれない。環境自体が大きく変化をしない限り、その場所で採れる獲物には限りがある。しかし当面はそれを食べている限り安全だろう。動物には一種類の獲物を安全に摂取できた場合、目新しくて毒を含む可能性のある獲物に目移りをするような個体はそれだけ身を危険にさらすことになる。ところが同じものにこだわることで、その獲物や植物を取り尽くして資源の枯渇を招くことも避けなくてはならない。結局生命体は生き延びるために摂取する獲物に対して、ある程度は同じものにこだわる傾向を持ちつつ、時々別のものに目移りするという、常同性と変化への希求の共存を併せ持つものなのであろう。