2022年1月22日土曜日

偽りの記憶 論文化 11

ちょっと付け加えた。

 私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1980年代の半ばより1990年代までアメリカで精神科の臨床を行っていたが、その間の動きをよく思い出す。1980年代には多くの女性や子供が、一般的に知られるよりはるかに高い頻度で性的、身体的なトラウマの被害者となっていたことが明らかにされた。その結果として戦闘体験を有する人や性被害の犠牲者となった人々が示すPTSDや解離性障害が数多く報告されるようになったのである。ただしこれは個々人があまり思い出したり語ったりしようとしなかった記憶が問題とされるようになったというばかりではない。社会が、医療従事者がそれを無視したり注目していなかったことがかかわっていた。1988年にはエレン・バスとローラ・デービスによる「生きる勇気と癒す力」では、チェックリストを示し、それに該当すると幼児期に性的虐待を受けて、その記憶を抑圧しているために忘れている可能性が高いことを示した。また1992年にはハーバード大学のジューディス・ハーマンも「心的トラウマと回復」で幼少期のトラウマによって自責や自殺願望に苦しめられている女性たちを救うためには、“抑圧された記憶”を回復させることが必要だと説いた。虐待の被害者が治療によりその記憶を蘇らせ、そこから回復する過程を描き、わが国でも阪神淡路大震災の翌年の1996年に翻訳されて出版され、大きな反響を呼んだ。
 ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマであった。つまり数多くの人々が性的虐待の加害者であったことが告発されるとともに、過剰に、または誤った形で被害記憶を「想起」してしまうという出来事も生じてきてしまうという事態になった。そして出来上がったのがFMSF(偽りの記憶症候群財団)である。
 偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。それがFMSFであった。
 欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む傾向にある。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこのFMSFをめぐる論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。 
 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベス・ロフタスその人である。ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994年)から要約すると以下のようになる。
「私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。」
 ロフタスは彼女の研究を通じて、幼少時の性的外傷がしばしば抑圧され、それが治療により想起されるという立場を取った臨床家、特に「トラウマと回復」の著者であるジュディス・ハーマンなどに向けられた。このハーマンとロフタスの論争は、このトラウマ記憶の回復をめぐる論争や対立を象徴していたと言えよう。そしてロフタス自身も2003年に、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、タウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。しかしそれ以後もロフタスの「回復した記憶の理論」は児童虐待の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判され、「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていたと言われる(Jenkins)。
Jenkins, WJ (2017) An Analysis of Elizabeth F. Loftus's Eyewitness Testimony. Routledge.

2022年1月21日金曜日

偽りの記憶 論文化 10

 ●過誤記憶の植え付けは可能か?

ある意味ではここからが本論考の主たるテーマとなる。過誤記憶は人工的に、それも健常人に作り出すことが出来るのであろうか? 結論から言えば、条件さえ整えばかなりの割合で可能であるという研究結果が出ている。私たちは過去の出来事を誤って想起することがあることはすでに見たが、さらに外部からの働きかけによりさらに大きな歪曲を伴った過誤記憶としてよみがえる可能性があるのだ。もちろんそのような例のすべてで過誤記憶が生じるわけではないが、それが私たちが考える以上に高頻度で生じることが明らかになっている。

例えば海軍でのサバイバル訓練の例が挙げられている(p.208)。そこでは被検者が模擬的に捕虜にされた特定の人物に厳しい尋問を受けるという状況に身を置かれる。そして被検者たちは実際とは異なる尋問者の写真を示された。やがて解放された被検者は、何と8491%の率で、写真で見せられた人物を実際の尋問者として報告したという。さらにはその尋問に関連した具体的な情報についても、質問の仕向け方により過誤記憶を生み出した。例えばそこに電話はなかったにもかかわらず「尋問者は電話をかけることを許可したか?」そしてその電話について描写せよ、と言われただけで、98%の被検者は、そこに電話があったと証言したという。

 この実験は過誤記憶が成立するという一つの例であるが、それを増幅するような様々な手続きがありうるという。例えば記憶の内容を言葉にすることで、その正確さが損なわれるという研究があり、これについては興味深い実験が知られている。被検者に30秒ほどある人物の写真を見せ、二つのグループに分ける。一つにはその写真の人物を言葉で描写してもらい(例えば髪の毛が茶色、目の色が緑、唇が薄い、など)、もう一つのグループにはそれを求めなかった。そして数日後にその写真をどのくらい覚えているかを調べると、書き留めてもらった人の正解率は27%で、それをしなかったコントロール群は61%であったという。つまり言葉で描写することを求めた方のグループに、より大きな記憶の歪曲が起きたのだ。この種の実験も結構色々な研究者により追試されて、色や味、音などについても同様の結果が出ているという。言葉にするということはそれをかなり限定し、歪曲することに繋がる。体験を忘れないように文章に書きとめるということ自体が過誤記憶を生み出す可能性があるのだ。

これらの研究は偽りの記憶財団が糾弾したような虐待の虚偽記憶を生み出すプロセスが可能となることの実証的なエビデンスを示しているといえるであろう。

 

●過誤記憶を助長するファクター (催眠、洗脳、サブリミナル効果)

 

1.催眠でも埋もれた記憶を掘り起こせるのか

想起された記憶と虚偽記憶というテーマで欠かせないのが、催眠による記憶の回復についてである。例えば次のような想像をしてみよう。非常に有能で経験豊かな催眠術者が被験者に深い催眠をかける。すると彼はそれまで思い出すこともなかった子供時代のあるエピソードについて滔々と語るとしよう。テレビ番組などでそのようなシーンを見た方もいらっしゃるかもしれない。これは実際に可能なのだろうか? ある研究によれば、アメリカの大学生の44%はそのような現象を信じているという。研究結果はその実証性は「ない」ということだ。あるいは退行催眠(催眠状態で年齢を退行させる施術)による実験でもその信憑性は疑わしいとされる。
 1962年の研究で、ボストン大学のセオドア・バーバーが発見したのは、幼児期まで退行するという暗示をかけられた被験者の多くが、子供の様なふるまいをし、記憶を取り戻したと主張したという。しかし詳しく調べてみると、その「退行した」被実者が見せた反応は、子供の実際の行いや言葉、感情や認識とは一致しなかったという。バーバーの主張によれば、被検者たちには子供時代を追体験しているかのように感じられたのだろうが、実はその体験は再発見した記憶というより、むしろ創造的な再現だった。同様に、心理療法中、暗示的で探るような質問に催眠術を組み合わされると、複雑で鮮明なトラウマの過誤記憶が形成される可能性があるという。

これが一般の心理学における一つの見解であることは了解したとしても、一つの問題が生じる。退行催眠が可能な人のいったい何人にDIDの人が混じっている可能性があるだろうか?そもそも催眠にかかりやすい人とは、結局解離性障害を有している人という事はないだろうか? 誰かこの疑問に答えてくれないだろうか? おそらく無理であろう。

2022年1月20日木曜日

偽りの記憶 論文化 9

 記憶の脳科学と再固定化の問題

蘇った記憶や過誤記憶について理解するにあたり、まず記憶が脳でどのように形成されるかについて論じたい。ただし記憶の問題の解明はまだ始まったばかりであり、かなり仮説的なものも含まれることをお断りしたい。

まずある事柄を覚えている、あるいは想起する、とはどういうことかを考えよう。例えば高校の卒業式のことを私たちは「覚えている」と感じるとする。するとその時体験した様々な事柄、「仰げば尊し~♬」のメロディー、クラスメートとの別れの握手や先生方の顔などが沢山一挙に浮かんでくるだろう。それは視覚的情報、聴覚情報、触覚情報などあらゆるものを含む。そしてそれらはもともと脳の様々な部位で蓄えられていたはずだ。ということは記憶とはそれらが結びつけられている状態と見なすことが出来よう。

いわゆるニューラルネットワークモデルでは、人間の脳が膨大な数のニューロン(神経細胞)が網目状の構造をなしていると考える。それに従えば、過去の出来事を想起することとは、数多くのニューロンが同時に興奮する現象とみていい。そしてそこで物事の想起がまさに進行していく過程を説明するのが「連想活性化説 associative activationである。これは記憶とはある一つの事柄からの連想という形で波紋が広がるようにニューロンが活性化されていくという事だ。そのつなぎ目をノード(結び目)と呼ぶ。似た意味を持つノードの間には、強い結びつきがある。そこを伝わって記憶のネットワークが賦活化され、記憶内容が次々と広がっていくのである。

例を挙げよう。私がパリという言葉を思い出すと、昔留学した一年間の出来事がザザーッと流れてくる。それはパリ留学のうちのどの部分の記憶を思い出すかによりいかようにも展開していく。そのうちの一つ、例えばパリ滞在中に行ったドイツ旅行のノードについて思い出すと、そこからザザーッと流れ、パリとは直接関係のないミュンヘンの街角の喫茶店で食べた、生クリームてんこ盛りのケーキのことまで思い出す、というように広がっていくのだ。

このようなネットワークの広がりとしての記憶は、最初にどのように形成されたのだろうか。そこで中心的な役割を果たすのが大脳辺縁系にある海馬と扁桃核である。私たちはある出来事を経験し、そこで特に印象に残った記憶は海馬や扁桃体という部分が強く働いてそれを一時的に記憶にとどめる。つまりその記憶に関するネットワークの核となるべき部分が形成されるのであるが、それはいくつかのニューロンの間のノード(シナプス)が太くつながりを持つようになるという事だ。そしてそこでは具体的にはそのシナプスを形成する材料となるタンパク合成が行われる。川幅を広くするためにはブロックなどの建材を積み上げるなどの作業が必要であるが、それと同じである。このことは、ラットにある学習をさせる際にアニソマイシンなどのタンパク質合成阻害薬を投与することで学習が行われないという研究結果から明らかになった。

(以下略)

2022年1月19日水曜日

偽りの記憶 論文化 8

 欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこの偽りの記憶の論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。 

 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベス・ロフタスその人である。ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994)から要約すると以下のようになる。

私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。
 
ところでロフタスとワシントン大学は2003年に、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、タウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。しかしそれ以後もロフタスの「回復した記憶の理論」は児童虐待の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判され、「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていたと言われる(Jenkins)
Jenkins, WJ (2017) An Analysis of Elizabeth F. Loftus's Eyewitness Testimony. Routledge.

ところで常識的な立場からは、ロフタスの主張は概ねその通りであるという事は言えるだろう。記憶はしばしば書き換えられるだけでなく植え付けられることもある。記憶は脳にデータとして保存されているというわけではない。ただし多くの記憶内容は信頼に足るという点も事実である。つまり記憶は概ねにおいて現実を反映しているものの、細部に亘るに従い忘却されたり改変されたりする、というのが真実だ。そして後は程度問題であり、ケースバイケースである。とんでもないあり得ないストーリーを「想起」する人もいるが、それほど高頻度に起きることではない。かと思えばフォトグラフィックメモリーを誇り、教科書を隅から隅まで正確に再現する人もいる。だからロフタスの主張はそれを極論として用いるならばどちらも誤解を招く可能性があるのだ。

筆者はこの問題はどちらにも政治的に巻き込まれることなく客観的に論じたい。その一番の根拠は次のようなことである。
 イノセンスプロジェクトという団体が冤罪の濡れ衣を着せられた人たちを337人ほど釈放させたという。それらの例の少なくとも75パーセントで、誤った記憶が有罪の根拠とされていた。この数字は米国の、それもDNA鑑定が出来た事件に限ったものだという。

私は個人的にはここに含まれる問題は二つあると思う。一つは純粋な過誤記憶、もう一つは自己欺瞞的な過誤記憶である。私たちは「ABかもしれない」を「ABである」に変えてしまう傾向を恐らくデフォルトとして持っている。イノセンスプロジェクトの場合も、二つの場合が共存するのだ。そしてより多く、えん罪の被害者を救うためにも、この蘇った記憶の問題を少しでも明らかにすることは重要なのである。

 

2022年1月18日火曜日

偽りの記憶 論文化 7

 ところで読者の皆さんはこのテーマで書かれた多くの論文や著書を読んで結局失われていた記憶が突然蘇ることがあるのか、について曖昧な回答しか得られない可能性がある。特にそれが臨床家により書かれたものでなければそうだ。そこで以下の論述の前に私の結論を最初に申し上げておく。それはその様な現象は実際に「起きうる」のである。その頻度は多くないにしても実際に臨床で体験される。例えば次のような例を挙げておこう。

「ある中年の男性が課長としてリーダーシップを取っていたが、(以下略)。」

この例に関しては、教会への通所という忘れていた出来事は事実関係が確認され、少なくとも偽りの記憶でないことを私自身が確認することが出来た。そしてもちろんこの出来事だけが特別ではない。解離の機序が働く場合にはこの種の健忘、そしてその後の想起はしばしば起きることを私自身が目にしているのである。

 記憶は蘇るのか?

さて、忘れていたはずの記憶が後になって甦ることはあるのか、そのプロセスで偽りの記憶はいかに形成されるのかについての考察が本論稿のテーマである。心理療法に携わる人にとっては、「抑圧されていた記憶が治療により蘇る」という現象があることはある意味では常識と考えられるのではないか。少なくとも精神分析ではその様なフロイトの考え方に異議を唱えることなど思いもよらないほうが普通ではないだろうか。それに比べて「偽りの記憶」の問題の歴史はまだ浅く、人々にもその正体が十分には理解されていないであろう。「抑圧された記憶がよみがえる中で、時々偽りの記憶が生まれるが、それはあくまでも例外的なものである」というのが一般の臨床家の感覚ではないであろうか?
 私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1980年代の半ばより1990年代までアメリカで精神科の臨床を行っていたが、その間の動きをよく思い出す。1980年代には多くの女性や子供が、一般的に知られるよりはるかに高い頻度で性的、身体的なトラウマの被害者となっていたことが明らかにされた。その結果として戦闘体験を有する人や性被害の犠牲者となった人々がPTSDや解離性障害が数多く報告されるようになったのである。ただしこれは個人の中に抑圧されていた記憶がよみがえったというばかりではなく、社会が、医療従事者がそれを無視したり注目していなかったことがかかわっていた。ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマであった。つまり数多くの人々が性的虐待の加害者であったことが告発されるとともに、過剰に、または誤った形で被害記憶を「想起」してしまうという出来事も生じてきてしまうという事態になった。そして出来上がったのがFMSF(偽りの記憶症候群財団)である。
 偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。それがFMSFであった。

2022年1月17日月曜日

偽りの記憶 論文化 6

 この論考を読む方々の多くが臨床に携わっていることを想定して、次のような問いを掲げよう。
 あるクライエントAさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ましたが、内容は覚えていません。でも何か幼い頃の光景が出てきたように思いました。そして目が覚めてから小さい頃の母親とのあるエピソードが思い出されました。私は母親に何かの理由で怒られて、家を追い出され、裸足のままドアをたたき続けたんです。あの時の怖さや不安が急に蘇ってきました。」
 心理面接で聞く話としてはさほど珍しくもないであろうが、これを聞いた面接者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?おそらく臨床家によって実に様々な答えが返ってくるであろう。「Aさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際に起きたことの記憶が想起されたのであろう」「一種のトラウマ記憶であり、フラッシュバックとともにその出来事が再現されたのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。しかし他方では、「このAさんの記憶は夢に触発されたものであり、実際にこのようなエピソードがあったのかについてはその保証はない。」「いわゆる偽りの記憶である可能性があり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。実際にはこの様なごくシンプルそうに見える事例を取ってもその扱い方には様々な可能性がある。このようなエピソードをどのように受け入れ、扱うかは、現実にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるであろう。ところが「ケースバイケース」で済まされない問題がそこにある。もし母親の虐待的な養育があった場合に、それを偽りの記憶として片づけられたら、それはクライエントにとってのトラウマになりかねない。しかし逆に十分な養育を行っていた母親が虐待していたという可能性を疑われるという事もありうる。以上がこの「蘇った記憶、偽りの記憶」をめぐる議論の複雑さを示している。臨床家ごとの異なる扱いは、しかし恣意的であってはならず、高度な臨床的判断が必要となるのだ。本稿での以下の論述も、Aさんのエピソードをどのように考えるべきかという画一的な扱いを提案することはできないが、その場に置かれた臨床家がより良い判断を下すことが出来るような柔軟性に寄与することが出来ることを願う。

2022年1月16日日曜日

偽りの記憶 論文化 5

 トラウマ記憶は特別か?

蘇った記憶、偽りの記憶について考える際、トラウマ記憶の問題は特に重要である。私たちが外傷的な出来事、トラウマを体験した際に、その際の記憶は通常の記憶とは異なる振る舞いを見せることが知られている。それはしばしば突然蘇り、またしばしば偽りの記憶という形をとる。1980年代から米国で社会問題となった偽りの記憶は患者により報告された幼少時に受けたというトラウマ記憶であった。

様々な記憶の中でもトラウマ記憶は特別な存在なのか? それは突然蘇ったり偽りの記憶として生成される傾向を持つのであろうか? 一般に信じられているものは以下のようなものであろう。トラウマを受けた状態では、精神が極めて動揺し、そのために通常の記憶とは異なる記憶が形成される可能性がある。その際しばしば人は興奮状態や解離状態になり、その結果としてトラウマ体験の時の記憶はある意味では抑制され、別の意味では促進される傾向にある。一部に記憶喪失が、そして別の部分に記憶増進の両方が起きるという。これは臨床的に言っても妥当である。前者は自伝的な記憶の障害であり、後者はフラッシュバック等の情動的な部分の過剰な記憶ということになる。この問題について正面から問いただした研究がある。2001年にスティーブン・ポーターとアンジェラ・バートの論文  “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?)がそれだ。

Porter, S., Birt, A. (2001) Is Traumatic Memory Special? A Comparison of Traumatic Memory Characteristics with Memory for Other Emotional Life Experiences.  Applied Cognitive Psychology. 15;101-107.

 彼らは306人の被検者にこれまでで一番トラウマ的であった経験と、一番うれしかった経験を語ってもらった。その結果トラウマ度が極度に高くても、非常に明確で詳細な内容を語ることが出来たという。ただし彼らはトラウマ的なことに関しては抑圧repression を用いるのではなく、一生懸命意識から押しのけようとしていた(抑制 suppression)という。またトラウマの度合いが高い人ほどDES(トラウマ体験尺度)の値も高かったという。この抑圧と抑制の区別はもう少し解説が必要であろう。抑制とは意識的な努力であり、そのことを考えないようにしているわけで、その意味では「忘却」はしていないのだ。それに比べて抑圧とはその内容全体が無意識にあり、その代理物としての症状や夢を通してしかその存在を知ることが出来ないのである。

 このデータをどう理解するべきか。私の考えでは、おそらくトラウマが抑圧されるという議論についての一定の結論はここに出されているのではないかと思う。つまりそれはフロイトが(誤って、ではあるが)非難されている議論、すなわちトラウマは抑圧されるという議論をさしている。ただ解離の関連する記憶の想起は実際に臨床上体験されることであり、それを否定することは出来ない。

結論から言えば、この研究では、臨床上問題となるようなトラウマ記憶を救い上げることが出来ていないと言える。それが一般の健常者を対象とする研究の限界かも知れない。では改めてトラウマ記憶について説明しよう。これはPTSDで問題になるような、恐怖を伴ったトラウマ的な記憶である。トラウマ記憶は通常の記憶と異なる性質を有するという事が知られている。一番の特徴はそれが通常の記憶と異なり、いわば情緒的な部分が時空間的な情報の部分と別れてしまったものである。これについてはかつて「忘れる技術」という本を書いたが、記憶は認知的(「頭」の)部分と情緒的な部分と情緒的(「体」の)部分の組み合わせであるという説明の仕方をした。前者は時空間的な情報の部分であり海馬で作られるが、後者は扁桃核や小脳で作られる。一般的な記憶はその両方を備えているのがふつうであるが、それが分かれてしまい、例えば体の部分のみになってしまったり、両者はバラバラに思い出されると言ったことがトラウマ記憶の特徴であると説明した。

このトラウマ記憶はキチンと想起できない、という面と、逆に忘れられない、という両側面を持つ。PTSDの患者と一般人に記憶力テストを行い、一連の単語を見せた後、それを覚えておくか忘れるかを被検者に指示する。すると、PTSDの患者の方が記憶できた単語数が少ないという。ところが興味深いことに忘れるように言われた単語は逆に余計覚えているという所見も明らかになった。つまりPTSDでは「忘れる」能力が低下しているということなのだ。

 

 

2022年1月15日土曜日

偽りの記憶 論文化 4

 始まりの部分。

この論考を読む方の多くが臨床に携わる人であることを想定して、次のような問いを掲げよう。

あるクライエントさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ましたが、内容は覚えていません。でも何か幼い頃の光景が出てきたように思いました。そして目が覚めてから小さい頃の母親とのエピソードが思い出されました。私は母親に家から出されて、裸足のままドアをたたき続けたんです。あの時の怖さや不安が急にありありと蘇ってきました。」(以上架空の症例の話である。)

よくある心理療法の一コマである。これを聞いた面接者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?おそらく臨床家によって実に様々な答えが返ってくるであろう。「クライエントさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際に起きたことの記憶が想起されたのであろう」「一種のトラウマ記憶であり、フラッシュバックとともに蘇ったのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。しかし他方では、「これは夢に触発されたものであり、実際にこのようなエピソードがあったのかについてはその保証はない。」「いわゆる偽りの記憶であり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。実際にはこのエピソードをどのように受け入れ、扱うかは、現実にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるであろうというしかない。つまりこれらのどの立場もありうるというのが現実なのだ。

この様なごくシンプルそうに見える事例を取ってもその扱い方には様々な可能性があるというのが、「蘇った記憶」をめぐる議論の複雑さを示している。本稿での以下の論述も、蘇った記憶に対する画一的な扱いを示すことにはならないが、その「複雑さ」を考える上での参考となり、より臨床的な柔軟性に寄与することになればと願う。

2022年1月14日金曜日

偽りの記憶 論文化 3

 記憶の脳科学と再固定化の問題

蘇った記憶や過誤記憶について理解するにあたり、まず記憶が脳でどのように形成されるかについて論じたい。ただし記憶の問題の解明はまだ始まったばかりであり、かなり仮説的なものも含まれることをお断りしたい。

まずある事柄を覚えている、あるいは想起する、とはどういうことかを考えたい。例えば高校の卒業式のことを私たちは「覚えている」と感じるとする。するとその時体験した様々な事柄、「仰げば尊し~♬」のメロディー、クラスメートとの別れの握手や先生方の顔などが浮かんでくるだろう。それは視覚的情報、聴覚情報、触覚情報などあらゆるものを含む。そしてそれらは脳の様々な部位で蓄えられている。ということは記憶とは脳の様々な個所に保存されている記憶の断片が結びついた状態であることは確かである。

いわゆるニューラルネットワークモデルに従えば、想起とは数多くのニューロンが同時に興奮する現象とみていい。そしてそこで物事の想起が進む過程を説明するのが「連想活性化説 associative activationである。これは記憶とはある事柄からの連想という形で活性化されていくという事だ。ニューラルネットワークをニューロンの網目状の構造と見なし、そのつなぎ目をノード(結び目)と呼ぶ。似た意味を持つノードの間には、強い結びつきがある。そこを伝わって記憶のネットワークが賦活化され、記憶内容が広がっていく。例を挙げよう。私がパリという言葉を思い出すと、昔留学した一年間の出来事がザザーッと流れてくる。そのうちの一つ、例えばパリ滞在中に行ったドイツ旅行のノードについて思い出すと、そこからザザーッと流れ、最初パリをイメージした時には出てこなかったミュンヘンの街角の喫茶店で食べた、生クリームてんこ盛りのケーキのことまで思い出す、というように広がっていくのだ。

このように昔形成された長期記憶は大脳皮質その他の様々な部位に散らばっており、それらが一瞬にして同時に興奮するわけだが、その記憶は最初にどのように形成されたのだろうか。そこで中心的な役割を果たすのが大脳辺縁系にある海馬と扁桃体である。私たちはある出来事を経験し、そこで特に印象に残った記憶は海馬や扁桃体という部分が強く働いてそれを一時的に記憶にとどめる。ではこの一時的な記憶が作られるとはどういうことかを考えるならば、要するにシナプスの間の結びつきが強くなるということだが、そこでは具体的にはタンパク合成が行われる。川の幅を広くするためにはブロックを積み上げるなどの作業が必要であるが、それと同じように脳の場合はタンパク合成によりシナプスの補強を行うわけだ。このことは、ラットにある学習をさせる際にアニソマイシンなどのタンパク質合成阻害薬を投与することで学習が行われないという実験からもわかる。
 さて以上を基礎知識として、最近記憶に関する研究に大きな進歩が起きているので紹介したい。その一つがいわゆる記憶の再固定化の問題である。これは一度記憶された内容が思い出されることで、その記憶がさらに増強されたり、逆に消去されたりするという現象であるが、これについては東大の喜田聡先生のグループの研究が有名である。

ただしこの実験は実はきわめて専門的な知識が必要となるので、少しわかりやすく書き換えたい。喜田グループはPTSDで生じるようなフラッシュバックを伴う記憶がどのように形成されるかを長年にわたって研究してきた。フラッシュバックとはあることを思い出そうとしないのに突然何かのトリガーにより想起されるという現象である。その詳しいメカニズムは十分に分かってはいないが、一つたしかなのは記憶はそれを思い出すという事で一時的に「不安定」になり、そこから増強されるか消去されるかの選択肢が生まれるということだ。比喩を用いるならば、それまで記憶という名のパズルの一つのピースとして治まっていたものが、思い出すことでいったん外れ、その形を変えるのである。そしてトラウマを思い出す時間が短いと、その記憶はよりしっかりと定着し(つまりそのピースはよりしっかりと嵌り直し)、思い出す時間が適度に長いと(例えば10分以上)それは薄れる方向に働く(つまりピースはサイズが小さくなったり、より外れやすくなる)という事だ。実は臨床的にとても大きな意味を持つ。ある種のトラウマ記憶を短時間思い出しただけではそれは消える方向にはいかない。どうせ思い出すなら、安全な環境で3から10分以上思い出す必要があるという事だ。

2022年1月13日木曜日

偽りの記憶 論文化 2

 サブリミナル効果

サブリミナル効果とは、意識にのぼらないような強度の刺激を与えられることで、人間の行動に変化が生じるという現象を指す。1950年代の有名なポップコーンの実験以来このテーマの研究は色々行なわれているが、それでも今一つその存在の決め手がないようだ。しばしば例に挙げられる1957年のジェームズ・ヴィカリーの調査とは次のようなものだ。彼は米国ニュージャージー州のある映画館で上映中のスクリーン上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し映写したという。するとコカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことである。この実験は大きなセンセーションを巻き起こしたが、ヴィカリーは、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、この実験の内容と結果についての論文を発表せず、また同様の実験が追試されたがこのような効果はなかったとされる。数年後にはヴィカリー自身が「マスコミに情報が漏れた時にはまだ実験はしていなかったし、データも不十分だった」という談話を掲載したという。また19582月に、カナダのCBCが行った実験で、ある番組の最中に352回にわたり「telephone now(今すぐお電話を)」というメッセージを映してみたが、誰も電話をかけてこなかったという。さらには放送中に何か感じたことがあったら手紙を出すよう視聴者に呼びかけたが、500通以上届いた手紙の中に、電話をかけたくなったというものはひとつもなかったというのだ。
 ただしサブリミナル効果の存在を示したという、信憑性のある実験結果も報告されている。ベリッジとウィンキルマンBerridge and Winkielman2003)による研究では、参加者を募って3つのグループに分け、彼らが気が付かないようなほんの一瞬、3枚の写真のどれかを見せたという。それらの写真とは笑顔と中立的な顔と怒った顔の三枚である。そしてその後フルーツ飲料を自分で好きなだけ自分のグラスに注がせるという実験である。その結果は笑顔を見せられた人たちは、それ以外の人たちに比べて50%ほど多くフルーツ飲料を自分のグラスに注いだという。

という事でサブリミナル効果の真偽は実験者によって異なるという事になるが、一つ言えることがあるだろう。それは意識に上るか上らないかの情報が私たちの判断に影響を与えるという事は数多くあるという事実だ。例えば無人の販売所で、大きな目を描いた絵を置いておくと、人はよりずるをしないという研究がある。その場合正直に支払った人のどの程度がその絵を意識するか、なんとなく感じるか、あるいはまったく気が付かないかというのは、その間の線引きもあいまいなものである。つまり人は気が付かないうちに様々な情報に影響を受けるという事実は間違いなくあるのだ。しかしそれは恐らく、気が付こうと思えば気が付くようなレベルの刺激であろう。3000分の一秒という瞬時に映される像は、おそらくそれにいくら目を凝らしても知覚できないであろうし、それに影響を受けるという事はあまり考えられないだろう。ところがどのような表情の写真を見せられたかは、はっきり意識化される情報である。その意味でヴィカリーの研究に信憑性はないが、ベリッジの研究には信憑性が生まれるのである。

 ところでこのサブリミナル効果の問題は、私が専門としている精神分析の世界では深刻なテーマを呈している。精神分析の世界で通常私たちが無意識として考えるのは、私たちの心の奥底にうごめいているが意識できないような本能や願望などである。しかしそのような無意識内容などそもそもあるのかという事について、疑問符が付けられるという動きが、精神分析の内部でも、少なくとも一部の分析家によりみられる。これはその様なフロイト的な無意識が存在しないというわけではなく、それを確かめようがないという問題があるからだ。ただし重要なのは、精神分析の本流にいる分析家が、無意識の例としてサブリミナル効果を挙げているという事は、彼もまたフロイトの古典的な意味での無意識をあまり想定していないという事になるのだ。それよりは、意識していない部分が私たちの意識的な考えや行動に影響を与え得るという意味で一番検証しやすい「無意識」内容こそがサブリミナル効果なのである。

フロイトは夢において極めて特徴的なプロセスが働き、いくつかの単語が組み合わさるといったいわば化学反応のような現象が脳で生じて、それが症状として表れるという説明を行った。しかしそれは最近のサブリミナルメッセージの研究の一つと似ている。例えば歌に組み込まれた「バックワードメッセージ」(逆に再生すると現れるメッセージ)が効果を発揮するという研究もある。「ルイテレワノロハエマオ」と聞いた人が、なぜか背筋がゾッとする。それはこれを逆向きに読むと「お前は呪われている」となり、しかし無意識はその様なパズルを解き、ヒヤッとするという理屈だ。でもこんなことあるはずはないではないか?その意味ではアナグラムの持つ効果なども同様ではないかと思う。

2022年1月12日水曜日

偽りの記憶 論文化 1

 初めに 問題のありか

本論文は「偽りの記憶」についての考察である。私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1990年代はずっとアメリカで臨床を行っていたが、多くの女性や子供が、実は性的な被害を受けていたことが明らかにされたことになる。ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマであり、FMSF(偽りの記憶症候群財団)が出来上がった。そこでは数多くの人々が性的虐待の加害者であったことが告発されるとともに、過剰に、または誤った形で被害記憶を「想起」してしまうという出来事も生じてきてしまうという事態になった。偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。それがFMSFであった。

欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこの偽りの記憶の論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。
(以下略)

2022年1月11日火曜日

偽りの記憶 推敲 7

記憶の神経学的な仕組みについての補足 記憶について考えるうえで参考になるのが、ミラーとブッシュマンの研究 (ショウp225)である。(Miller ,EK & Buschman, TJ (2013)Brain rhythms for cognition and consciousness. Neuroscience and the Human Person; New Perspectives onHuman Activities.121.) 要するに記憶の正体とは、脳の中でいくつかの神経からなるネットワークが興奮し、起動しているということである。そしてそれはさらに言えば、ある特定の事柄を意識しているとは、それに関連した神経ネットワークに参加するニューロンが同期化しているという話だ。ここで同時に興奮することと、それらが同期化することの違いを理解していただきたい。同時に興奮することとは、脳のいくつかの部位が同時に興奮しているということであり、そこに必ずしも同期は含まれない。例えば料理をしているときは、料理に関するいくつかの部位が同時に興奮していることで、例えばフランス料理を作っている時は、イタリア料理のことも比較的容易に思い出せるであろう。それは例えば家で料理と全く関係のないゲームをやっている時にはイタリアンのことを思い出せないという違いにより表される。ところがフランス料理の中でも、例えばブイヤベスを作っている時、それに使っている食材のことも、過去に作って評判の良かったブイヤベスの記憶も、おそらく一つのこと、同じこととして体験されるのではないか。そのような時におそらくそれらのイメージを結ぶ神経細胞の興奮は同期化している(サインカーブが重なり合う)のである。同期化という言い方が分かりにくいなら、「共鳴」でもいい。神経細胞の興奮が同期することとは、それらがお互いに高め合う効果を生むということである。 さてすでに同期化を繰り返している神経細胞のグループならこれはやさしい。例えば歴史上の人物「ショウトクタイシ」を私たちはよく知っているから、これらの8つの音は同期し合うことで共鳴する。すぐにピンとくるわけだ。同時に「オノノイモコ」も同期しやすいはずだ。ところが二つを切ってつないで「ショウトクイモコ」としてもすぐには鳴ってくれない。しょうがないから両者を同時に無理やり鳴らすことに意識野は使われる。これをやり続ける仕事がワーキングメモリーだ。もう少し身近な例だと、でたらめな7桁の番号、例えば34290765を一分後に書けなくてはならないとする。しかもメモすることが出来ない。その時にはこれら7桁の数字をこの番号で覚えるという記憶を、意識のワークスペース全体を使わなくてはならないことだ。ショウはこのことが、人間の意識がどうしてマルチタスクが出来ないかについても説明するとしている。それをするには一つのニューロンがいくつもの波長のリズムを送り出さなくてはならないが、それが出来ないというわけだ。 過誤記憶にはいくつかの種類がある 私たち精神科医が遭遇する過誤記憶に類似した現象には、他にいくつかありそうだ。それらとは妄想であり虚言、つまり嘘である。これらは精神病理学的に明白に区別されるべきものだが、これが案外厄介だ。  ある架空のAさんを考えよう。彼は野球をやっていて、巨人軍のスカウトからアプローチをされたという。その話を聞いた私は、Aさんの野球の実力を知っているためにそれがおそらく現実には起きそうにないように思えるとしよう。しかし全くあり得ないことではないところが難しいのだ。まずこれが妄想である可能性についてはもちろんある。現実にないことを頭の中であたかも実際に起きていることとして作り上げてしまうという病的な現象が妄想だ。あるいは虚言(つまり嘘)であるという事も十分ありうる。こちらは精神疾患とは言えない。多かれ少なかれ人間は嘘をついてしまうことが時々ある。 ところがこれが過誤記憶である可能性があるとはどういう事だろうか。例えばAさんが夢を見て、その中で野球の練習からの帰り道にある男が「私は巨人軍のスカウトですが、貴方の練習を見ていて将来性を感じました。連絡先を教えていただけますか?」と言い、Aさんは電話番号を告げるとその男は立ち去ったとしよう。ところが月日が経つと、Aさんはそれが夢なのか現実なのかがわからなくなって来たとしよう。その練習場所はいつものなじみのグラウンドだし、そこでAさんの練習をたまたま見ていたスカウトがAさんにアプローチするという事は全くないわけではない。そして夢の内容を現実に起きたものに知らぬ間に置き換えてしまうというのは過誤記憶に分類されるのだ。こうなると一見あり得そうにない話を聞いた場合、それを過誤記憶か妄想かという問題になるが、前者は正常でも起きえることで、後者は精神病の症状だという区別をすればそれで済むというわけではない。何しろ妄想的な着想は一見正常人と思われる人にも突然孤立して現れることがあるからだ。 ちなみにこれにはさらに厄介な事態が関係する。Aさんにファンタジー傾向が強く、実際にプロ野球の球団からスカウトされることを夢見ている彼は、そのような場面を夢想することもあるだろう。白日夢、ファンタジーという事になるが、それは夢とは違い、ある程度意のままに構築することが出来るのだ。そしてAさんがそれに没入した場合に、これも将来過誤記憶として成立する可能性がある。ファンタジーの中で生じる出来事が、より現実に近い内容であるとするならば、それは現実といよいよ区別がつきにくくなることもあろう。
  自己欺瞞か嘘つきか? ある研究では写真の顔を魅力的に出来たり、不細工に出来たりするソフトを作り、(面白いソフトがあるもんだ)被検者のオリジナルの写真と、加工を加えた何枚かの写真を提示した。するとほとんどの被検者が選んだのは、オリジナルより10~40%魅力度を上げた修正写真だったという。ちなみに友人の写真と面識のない人の顔では、10%上げたもの、面識のない人なら2.3%上げたものを選んだというのだ。まあ分かりやすく言えば、人は自分の顔を美化する、ということだが、これは過誤記憶の問題にもかかわってくる。私たちは自分を欺くことがうまいのだろうか?ところが他人の写真でも、アカの他人でも同じような傾向が起きるとしたら、これは自己欺瞞とも言い切れないことになる。 このテーマとの関連で私はダン・アリエリーの研究を思い出す。(以下省略)

2022年1月10日月曜日

偽りの記憶 推敲 6

偽りの記憶の植え付け

 人工的に健常人に偽りの記憶を受け付けることが出来るのだろうか?結論から言えば、被検者の70%以上が、犯罪と感情的な出来事の両方で、完全な過誤記憶を作り上げるという。こうなると例えば裁判などにおける証言の意味すら曖昧になってきたりする。(裁判にかなりの回数出た経験があるが、利害関係を有しない人に関する証言は、自然科学におけるエビデンスと同等にあつかわれるという印象を持っているからだ。)

例えば海軍でのサバイバル訓練の例が挙げられている(ショウ、p.208)。そこでは模擬的に捕虜にされた特定の人物に厳しい尋問を受けるという状況に身を置かれた人たちが、その後に偽の尋問者の写真を示された。やがて解放された被検者は、何と8491%の率で、写真で見せられた誤った人物を尋問者として報告したという。それに具体的な情報でさえ、質問をそのように仕向けるだけで過誤記憶を生み出した。例えばそこに電話はなかったにもかかわらず「尋問者は電話をかけることを許可したか?」そしてその電話について描写せよ、と言われただけで、98%の被検者は、そこに電話があったと証言したという。

私はここには人間が人の言葉を信じたり、そこに迎合したりする上で極めて重要な性質が示されていると思う。例えばABかという比較的重要な決断を下すような場面を考える。あなたはそのどちらかについて決定的な意見を持っていないものの、とりあえず個人的にはAを選ぼうと決めているとする。しかしそれを数人の間の徹底的な話し合いにより決まるとし、そこでは全会一致の判断が採用されるとするならば、最終的にBに合意することになるとしよう。あなたは本当はAに未練を残しているが、「あなたも話し合いでは最終的にBで納得したはずじゃないですか。あれは本心じゃなかったのですか?」などと言われると「いや、確かにBでいいと思いました。はい、Bでいいです・・・・」となるだろう。ここには無言の圧力、英語ではpeer pressure が働くはずだ。この偽りの記憶の生成にも似たような作用が働くのではないか。

例えばこの海軍の実験で、「電話を使うことを許可されましたか?」と言われたときの被検者の反応は「え、電話ってあったっけ?」かもしれない。しかし尋問者のさも自信ありげな質問の態度から「あの電話を見過ごすのは私がどうかしていたからだろうか」と思い始め、いつの間にか電話がそこにあったことになってしまう。「電話があったか自信がない」から「電話があったことにしよう」という変化のプロセスがかなり微妙な形で、しかも一瞬で生じた場合、私たちはこのことに気づかず、過誤記憶が生み出されるとしたら、これは大いにありうるし、実際に私自身にも起きているような気がする。

言語化が過誤記憶を生み出す

おそらくこの問題に関連して興味深い話がある。それは「言葉にすると記憶が損なわれる」という説である。これに関連して面白い実験が描かれている。人に30秒ほどある人物の写真を見せ、二つのグループに分ける。一つにはその写真の人物を言葉で描写してもらい(例えば紙が茶髪、目の色が緑、唇が薄い、など)、もう一つのグループには何も施さない。そして数日後にその写真をどのくらい覚えているかを調べる。すると書き留めてもらった人の正解率は27%で、それをしなかったコントロール群は61%であったという。つまり言葉に直した方のグループに、そこで大きな記憶の歪曲が起きたのだ。この種の実験も結構色々な研究者により追試されて、同様の結果が出ているという。色や味、音などについても同様の結果が出ているらしいのだ。言葉にするということはそれをかなり限定し、歪曲することに繋がる。それが過誤記憶を生む傾向を増すという事らしい。
 この問題との関連で、ジェフリー・ミッチェルのストレス・デブリーフィングについても触れたい。CISD(Critical Incident Stress Debrifing 緊急事態ストレス・デブリーフィング)というやつだ。ある事故が起きて、多数の人が犠牲になっている時、そこに乗り込んで犠牲者を集め、何が起きたかを徹底的に聞くという手法だ。これは911の時も用いられた有名な手法だが、その後これを受けた患者により多くPTSDが発症したなどの報告があった。ショウの本はこの試みがどの様な意味で問題なのか、なぜ記憶の専門家からの異論があるのかを解説する。一つには人の記憶を融合させる見本であるという。例の「言語隠蔽効果」(言葉にすることでかえって誤った記憶が生成される)により自分の描写と他者の描写が記憶として混同されて残ってしまうかもしれない。それに代理トラウマも起こる。ショウは以下のように記述する。トラウマになりかねない体験potentially traumatic experience, PTE はアメリカ人の90%が体験する。ところがそれによりPTSDを発症するのはその10人に一人だという。つまりほとんどの人は深刻なトラウマとなりうる体験に対して反応を起こさないのだ。しかしそれでPTSDになるかもしれないのではないか、という疑いを持った人は実際にそうなってしまう可能性があるという。

ここの部分は私がこの偽りの記憶について書く論文の核心部分になるかもしれない。私が個人的に知りたいところだからだ。いつか英国と米国でPTSDの罹患率がずいぶん違うというデータを見たことがある。同じ戦闘体験による外傷でも、米国ではそれがPTSDを起こしかねないという言説に晒されると、よりPTSDになりやすいという話を聞いて、とても混乱させられた。でもこのことなのかもしれない。

以下に書く問題はこの偽りの記憶の問題とは必ずしも結びつかないが、大切な点だ。自分が親から厳しいしつけを受ける。体罰も含めて虐待に近い扱いだ。ところがそれを当たり前だと思うとそれがトラウマになりにくい。どこの家庭でも子供が悪さをしたり、行儀が悪いだけで殴りつけられていた社会では、自分だけがひどい扱いを受けているという実感がなく、したがってトラウマとして体験されにくいという事はないのではないか?このことは子供を人とも思わない扱いをしてきた人類の歴史を考えればわかる。これは悲しい現実だが、あらゆる機会に子供は虐められ、女性は凌辱を受けかねないというのが私たちの歴史である。その様な状況で、おそらくPTSDは今ほど起きなかった可能性がある。それは一つには「皆がそのような扱いを受けている」という感覚があったのではないだろうか。奴隷は人間として扱われないという過酷な状況を生き抜いたが、みなCPTSDを発症したわけではないだろう。あるいは社会主義、共産主義体制が厳格に守られている社会で、さらには軍隊のような規律が厳しい体制の中で、例えば不登校、出社拒否に相当する行為が許されただろうか。トラウマによる被害と発症は、それが可能な状況においてのみ起きるのではないか?

これは想像するだけで怒られそうな話だが、このことと代理トラウマのことが関係していそうだ。

2022年1月9日日曜日

偽りの記憶 推敲 5

 トラウマ記憶は特別か?

私たちが外傷的な出来事、トラウマを体験した際に、その際の記憶はどうなるのだろうか?トラウマ記憶は特別なものなのか? この問題についてはさまざまな見解があるが、2001年にスティーブン・ポーターとアンジェラ・バートの論文Is Traumatic Memory special ? はそれに答えたものだ。(何と!! ただでダウンロードできた!)彼らによれば、よく信じられているのは、トラウマを受けると動揺し、そのために記憶が十分に残らないという説だ。そしてそこには解離の議論もよく出てくる。これもトラウマの最中にひとは解離状態になり、そのためにその出来事を十分に記銘できない、という主張である。ただしその際にトラウマ記憶は一部に記憶喪失が、そして別の部分に記憶増進の両方が起きるという。これは臨床的に言っても妥当である。前者は自伝的な記憶の障害であり、後者はフラッシュバック等の情動的な部分の過剰な記憶ということになる。ところがポーターとバートはそのような理論に根拠はないという。精神医学では半ば定説化しているこのトラウマ記憶と解離との関係についての否定的な理論も2000年以降提出されているというのは意外だった。それによると「通常は感情的な出来事の最中に解離を起こすことはなく、トラウマとなる状況の記憶が特別に断片化されることを裏付ける根拠もない」という。(P194)。ここの部分は読み飛ばすわけにはいかない。ぜひこの論文の原著に当たってみなくてはならない。

しかしそれとは別の見解もあるらしい。それは脳に損傷がなければ、記憶に対する「トラウマ優位効果」が存在するという。ある研究者は最近トラウマを経験したという被検者を集めて、その時点、三か月後、三年半後に聞き取り調査をしたという。そしてそれとともに心に良い影響を与えた記憶についても尋ねたそうだ。そして衝撃的な出来事の記憶は、時間を経ても非常に一貫性があり、特徴の大部分がほとんど変わらなかったという。また心に良い影響を与えた経験に比べ、悪影響のあった経験の記憶は時間を経過しても極めて安定していたとされる。これが「トラウマ優位効果」という事であろうが、私たちが体験しているPTSD症状を伴う体験を持った人々の語りはこうではない。という事はこれらの実験に参加した人々は、臨床群とは異なると考えるしかないように思える。

 ところで例の論文Is Traumatic Memory special ? に目を通してみた。トラウマ記憶に関する議論には、私たちが臨床上親しんでいるトラウマ理論とは別にトラウマの優位/同等議論というのがあるらしい。こちらの方をこの論文は支持しているのだ。そこで読んでみると…いやはや、私はこのような地道な研究をする人たちに改めて頭が下がる思いである。

Porter, S., Birt, A. (2001) Is Traumatic Memory Special? A Comparison of Traumatic Memory Characteristics with Memory for Other Emotional Life Experiences.  Applied Cognitive Psychology. 15;101-107.

 

最後のディスカッションのところをまとめると、彼らは306人の被検者にこれまでで一番トラウマ的であった経験と、一番うれしかった経験を語ってもらった。その結果トラウマ度が極度に高くても、非常に明確で詳細な内容を語ることが出来たという。ただし彼らはトラウマ的なことに関しては抑圧repression を用いるのではなく、一生懸命意識から押しのけようとしていた(抑制 suppression)という。またトラウマの度合いが高い人ほどDES(トラウマ体験尺度)の値も高かったという。

このデータをどう理解するべきか。私の考えでは、おそらくトラウマが抑圧されるという議論についての一定の結論はここに出されているのではないかと思う。つまりそれはフロイトが(誤って、ではあるが)非難されている議論、すなわちトラウマは抑圧されるという議論をさしている。ただ解離の関連する記憶の想起は実際に臨床上体験されることであり、それを否定することは出来ない。

 

2022年1月8日土曜日

偽りの記憶 推敲 4

 催眠でも埋もれた記憶を掘り起こせるのか

もう一つ本書で問題にするのが、「催眠でも埋もれた記憶を掘り起こせるのか」というテーマは偽りの記憶の問題にとって重要である。このような想像をしてみよう。非常に有能で経験豊かな催眠術者が被験者に深い催眠をかけると、彼はたとえば子供時代のあるエピソードについて滔々と語るというようなことが起きるのだろうか。ショウの書によれば、アメリカの大学生の44%はそのような現象を信じているという。しかしその実証性はなんと、「ない」ということだ。
 1962年の研究で、ボストン大学のセオドア・バーバーが発見したのは、幼児期まで退行するという暗示をかけられた被験者の多くが、子供の様なふるまいをし、記憶を取り戻したと主張したという。しかし詳しく調べてみると、その「退行した」被実者が見せた反応は、子供の実際の行いや言葉、感情や認識とは一致しなかったという。バーバーの主張によれば、被検者たちには子供時代を追体験しているかのように感じられたのだろうが、実はその体験は再発見した記憶というより、むしろ創造的な再現だった。同様に、心理療法中、暗示的で探るような質問に催眠術を組み合わされると、複雑で鮮明なトラウマの過誤記憶が形成される可能性があるという。
 もしこのような記述になぜこの数行の文章が悩ましいか? 考えてみよう。退行催眠が可能な人のいったい何人にDIDの人が混じっている可能性があるだろうか?そもそも催眠にかかりやすい人とは、結局解離性障害を有している人という事はないだろうか? 誰かこの疑問に答えてくれないだろうか? おそらく無理であろう。 

洗脳

洗脳は最近ではむしろ感化 influence という表現を用いることの方が多い。この感化は、実は私たちが日常的に体験していることでもあるという。私たちはよく、「自分は洗脳などされていない」と思いがちである。しかし私たちはこの国に生まれて、ごく普通に生きているだけで、すでにたくさんの考えを受け付けられ、信じ込んでいるものだ。例えば私は無宗教だが、●●教の信者に彼らの信じていることを話してもらえば、彼らのことを一種の洗脳状態が起きていると見なすかもしれない。しかし●●教の側から見れば、私の方が明らかに無宗教という形での洗脳の犠牲者になっているように思えるだろう。いや、宗教などを持ち出すこともないかもしれない。例えば私たちが属する学派などはその例かも知れない。私は××(どちらかと言えば)学派に属するわけであるが、▽▽学派に属している先生の気持ちはわからない。ところが向こうはこちらのことを同じように考えているであろう。一つ確かなことは、私たちはある環境である考え方を取り入れ、それをかなり頑強に守るという傾向がある。それは何となく信じている感じでも、それをいったん変えようとするとかなりの抵抗を自分の中で感じる。つまりこれは一種の信じ込み、洗脳、いや感化のレベルと考えてもいいのであろう。
 私は時々人はなぜこれほどまで自分の考えを変えないのかと不思議に思うことがある。もちろん私自身も含めてだ。ある時AM真理教の元信者がインタビューに応じるのを見たことがある。彼は今でもM教祖様との間柄について問われると、陶然とした表情になり、いかにM様に救われたか、いかに自分を分かってもらえたかと話す。つまり洗脳状況ではある思想、思考は報酬系としっかり結びついているのだ。一種の嗜癖と考えてもいいだろう。ある思考は、それに関連した人間関係、知識体系を巻き込んでいて、全体がその人の快感につながっている。だからそこから逃れられないのだ。ではなぜその宗教や人に信心し、ほれ込むのか。それは恐らく非常に偶発的なものだ。たまたまその人との関係に嵌まり込み、そこで快感を体験すると、そこから抜け出すことが出来なくなっていく。それは人が恋愛対象を見つけるプロセスとかなり類似しているのだ。 

サブリミナル効果

サブリミナル効果とは、意識にのぼらないような刺激を与えられることで、人間の行動に変化が生じるという事である。実は有名なポップコーンの実験以来このテーマの研究は色々行なわれているが、今一つその存在の決め手がないようだ。

1957年に行われたジェームズ・ヴィカリーの市場調査業者はしばしば例に挙げられる。ニュージャージー州のある映画館で映画の上映中にスクリーンの上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し二重映写したところ、コカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことであったという。この実験は大きなセンセーションを巻き起こしたが、ヴィカリーは、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、この実験の内容と結果についての論文を発表せず、また同様の実験が追試されたがこのような効果はなかったとされる。数年後にはヴィカリー自身が「マスコミに情報が漏れた時にはまだ実験はしていなかったし、データも不十分だった」という談話を掲載したという。また19582月に、カナダのCBCが行った実験で、ある番組の最中に352回にわたり「telephone now(今すぐお電話を)」というメッセージを投影させてみたが、誰も電話をかけてこなかったという。また、放送中に何か感じたことがあったら手紙を出すよう視聴者に呼びかけたが、500通以上届いた手紙の中に、電話をかけたくなったというものはひとつも無かった。 さらに、新潟大学の鈴木光太郎教授は、この実験そのものがなかったと指摘している。

なんかひどい話であるが、この種の検証は色々行なわれていて、あるものはサブリミナル効果の存在を示し、あるものは示さなかったという結果になっているらしい。例えば次のような実験には信憑性がありそうだ。Berridge and Winkielman2003)による研究であり、参加者を募って3つのグループに分け、彼らが気が付かないようなほんの一瞬、3枚の写真のどれかを見せる。それらの写真とは笑顔と中立的な顔と怒った顔の三枚である。そしてその後フルーツ飲料を自分で好きなだけ注がせるという実験である。その結果は笑顔を見せられた人たちは、それ以外の人たちに比べて50%ほど多くフルーツ飲料を自分のグラスに注いだという。

 ところでこのサブリミナル効果の問題は、私が専門としている精神分析の世界では深刻なテーマを呈している。精神分析の世界で通常私たちが無意識として考えるのは、私たちの心の奥底にうごめいているが意識できないような本能や願望などである。しかしそのような無意識内容などそもそもあるのかという事について、疑問符が付けられるという動きが、精神分析の内部でも、少なくとも一部の分析家によりみられる。これはその様なフロイト的な無意識が存在しないというわけではなく、それを確かめようがないという問題があるからだ。ただし重要なのは、精神分析の奔流にいる分析家が、無意識の例としてサブリミナル効果を上げているという事は、彼もまたフロイトの古典的な意味での無意識をあまり想定していないという事になるのだ。それよりは、意識していない部分が私たちの意識的な考えや行動に影響を与え得るという意味で一番検証しやすい「無意識」内容こそがサブリミナル効果なのである。

フロイトは夢において極めて特徴的なプロセスが働き、いくつかの単語が組み合わさるといったいわば化学反応のような現象が脳で生じて、それが症状として表れるという説明を行った。しかしそれは最近のサブリミナルメッセージの研究の一つと似ている。例えば歌に組み込まれた「バックワードメッセージ」(逆に再生すると現れるメッセージ)が効果を発揮するという研究もある。「ルイテレワノロハエマオ」と聞いた人が、なぜか背筋がゾッとする。それはこれを逆向きに読むと「お前は呪われている」となり、しかし無意識はその様なパズルを解き、ヒヤッとするという理屈だ。

2022年1月7日金曜日

偽りの記憶 推敲 3

 忘れられない病

 いわゆる超記憶に悩む人たちがいる。この本ではそのような超記憶を、いわゆるハイパーサイメシア、エイデティカ―、サバンの三種類に分けている。二番目のエイデティカ―は、いわゆるフォトグラフィックメモリーのことであるが、ここは省略する。
 最初のハイパーサイメシアについてであるが、AJという人は、過去の出来事を何年何月何日というレベルでことごとく語ることが出来、それは彼女が詳細につけている日記によってその正しさが証明できるというのだ。研究者たちはこれを「ハイパーサイメシア」(超記憶症)ないしHSAM (highly superior autobiographical memory)名付けた。そしてこのような桁外れの能力は現在では世界中で少なくとも56人が確認されているという。

さてこのメカニズムを説明するためにペンフィールドは大胆な理論を提出したという。それは脳の中にはPCみたいな装置があり、すべてを記憶している部分があり、私たちはそれにアクセスできないというものだ。HSAMの人たちはたまたまそこにアクセスするカギを持っているからそれが可能だという事になる。しかしこの理論は今ではあまり受け入れられていないという。さてここからが面白いのだが、彼らはHSAMに過誤記憶を作ることがどれほどあるかを調べたという。ある話をし、あるいはある映像を見せ、後にその詳細について尋ねる。そこに誤ったものが含まれると過誤記憶というわけであるが、HSAM群は非HSAMよりも不正確な細部を受け入れる傾向が強かったという!!
 こんな実験があるという。ある架空の事故について説明し、それが広くテレビニュースやネットで流されていると伝え、その映像を見たことがあるかと尋ねる。するとHSAM29%、非HSAM20%が実際にそれをテレビで見たことがある、という過誤記憶を報告している。これは人がいかにうそを信じやすいか、という話ではなく、記憶の生成そのものがそのような過誤記憶を生み出す性質を持つからであり、HSAMの人々はその力が強いために過誤記憶もより多く生み出すということだ。
 ちなみにHSAMのメカニズムについては、コリンズとロフタスによる「活性化拡散モデルspreading activation model」というのがあるという。要するにある単語や概念が四方八方に連なっていて、そのうちの一つが興奮すると周囲にその影響がいきわたり、周囲を活性化させるというモデルである。
 要するにHSAMの人たちはいわば蜘蛛の巣状に広がった神経細胞の組織の結び目が極めて太いということであろう。

他方のにサバンについては、これはHSAMとはある意味で逆の性質を有する。HSAMの人々は個人的な記憶、自伝的な記憶が異常に優れているが、事実や情報などは普通である。ところがサバンは個人的な記憶ではなく、事実と情報に限られる。こうして二つの超人的な記憶のパターンが紹介されたが、残念なことに、結局は彼らの異常なほどの記憶力の秘密は解き明かされていないということになる。 

 PTSDについて

PTSDもまた忘れられない病ということが言える。この病気ではいわば忘れられないトラウマ記憶にさいなまれるわけであるが、それ以外にも記憶の問題がみられるという。PTSDの患者と一般人に記憶力テストを行い、一連の単語を見せた後、それを覚えておくか忘れるかを被検者に指示する。すると、PTSDの患者の方が記憶できた単語数が少ないという。ところが興味深いことに忘れるように言われた単語は逆に余計覚えているという所見も明らかになった。つまりPTSDでは「忘れる」能力が低下しているということなのだ。

2022年1月6日木曜日

偽りの記憶 推敲 2

 記憶の再固定化の問題

この偽りの記憶の問題に入る前に、最近記憶に関する研究に大きな進歩が起きているので紹介したい。その一つがいわゆる記憶の再固定化の問題である。これは一度記憶された内容が思い出されることで、さらに増強されたり、変更を加えられたりするという現象である。これについては東大の喜田聡先生のグループの研究が有名である。ただしこの実験は実はきわめて専門的な知識が必要となるので、少しわかりやすく書き換えたい。
 ま
ず私たちはある出来事を記憶する際、特に印象に残った記憶は海馬という部分が強く働いてそれをよりしっかりと記憶にとどめる。しかしそれでも記憶は次第に忘れられていくものだ。それを心理学用語で消去という。これは時間経過とともにいわゆるエビングハウスの曲線に従って忘れられていくと考えられる。
 これを見る限り、何と一日後には40パーセントくらいしか覚えていないことになるが、繰り返し復習すると記憶の定着度が高まるというわけである。それが赤線部分が示すところだ。(ちなみに記憶した内容は一晩寝た後にはより多く定着するという研究がなされている。)つまりある印象深い内容は、最初に強く記名されるとともに、何度も思い出されることで「復習」という効果があり、それだけ定着していくというわけだ。
 ではPTSDで問題になるような、恐怖を伴ったトラウマ的な記憶はどうだろうか。トラウマ記憶は通常の記憶と異なる性質を有するという事が知られている。一番の特徴はそれが通常の記憶と異なり、いわば情緒的な部分が時空間的な情報の部分と別れてしまったものである。これについてはかつて「忘れる技術」という本を書いたが、記憶は認知的(「頭」の)部分と情緒的な部分と情緒的(「体」の)部分の組み合わせであるという説明の仕方をした。前者は時空間的な情報の部分であり海馬で作られるが、後者は扁桃核や小脳で作られる。一般的な記憶はその両方を備えているのがふつうであるが、それが分かれてしまい、例えば体の部分のみになってしまったり、両者はバラバラに思い出されると言ったことがトラウマ記憶の特徴であると説明した。Fukushima, H, Zhang, Y & Kida, S (2021) Active Transition of Fear Memory Phase from Reconsolidation to Extinction through ERK-Mediated Prevention of Reconsolidation. The Journal of Neuroscience 41:1299-1300.

さてその上で喜田グループの研究である。彼らはPTSDで生じるようなフラッシュバックを伴う記憶がどのように形成されるかを長年にわたって研究してきた。フラッシュバックとはあることを思い出そうとしないのに突然襲ってくる記憶である。それはトラウマ記憶として理解でき、つまり認知的部分と情緒部分が分かれてしまっていて、襲ってくるのは情緒的な部分のみである。それは自分でもよく分からないような何らかの切っ掛けで突然襲ってくる。その詳しいメカニズムは十分に分かってはいないが、一つたしかなのは、その記憶の想起の仕方が、その後その記憶がどの様な運命をたどるかに関係しているという事である。特に興味深いのは、トラウマ記憶は、そしておそらく記憶一般は、それを思い出すという事で一時的に「不安定」になるという事だ。不安定、とはそれがその後より強く記憶され続けるか、それとも忘れられていくかという選択肢を与えられるという事である。比喩を用いるならば、それまでパズルの一つのピースとして治まっていたものが、それを思い出すことでそこから外れ、それから先にどのような形で嵌っていくかが未定になるという事である。そして彼らが見出したのは、トラウマ記憶を思い出す時間が短いと、その記憶はよりしっかりと定着し(つまりそのピースはよりしっかりと嵌り)、思い出す時間が適度に長いと(例えば10分以上)それは薄れる方向に働く(つまりピースはサイズが小さくなったり、より外れやすくなる)という事だ。これを私はサラッと書いたが、実は臨床的にとても大きな意味を持つ。ある種のトラウマ記憶を短時間思い出しただけではそれは消える方向にはいかない。どうせ思い出すなら、安全な環境で3から10分以上思い出す必要があるという事だ。そしてひょっとしたらこのことは、EMDRがどうして有効な場合があるかとも関係しているかもしれない。EMDRではかなり時間をかけて個々のトラウマ記憶を想起し、作業を加える。それがその記憶の消去に繋がるのではないかという考えにも一理あるだろう。

 もう少し解説が必要だろうか。トラウマ記憶を想起させると、その時間に応じて3つのフェーズに分かれるらしい。再固定化期(最初の1分)、移行期、消去期(3から10分)である。大切なのは、再固定化も消去も、タンパク合成が伴うという事だ。つまりはシナプスを工事しなくてはならない。(忘れると言ってもただで忘れていく、というわけではないのかもしれない。例のエビングハウスの曲線も、ただダラダラと下がっていくのではない???ここら辺は筆者にもよくわからない。)そのことはタンパク合成を阻害する薬を注入すると、再固定化も消去も両方とも阻害されるということからわかるという。ちなみにタンパク合成が行われるのは、再固定化なら扁桃核と海馬であり、消去は扁桃核と内側前頭前野だという。

 ところでこの再固定化や消去という現象はこの論文の主たるテーマである「偽りの記憶」とどのように関係しているのだろうか?一つ言えるのは、ある記憶が再固定化を繰り返した場合に、その内容にどのような変化が起きるのか、という問題が関係しているであろうという事だ。例えば記憶内容は「コンビニにコーヒーを買いに行った」だとしよう。その記憶が増強されていったら、その記憶にいろいろな尾ひれがついていくのであろうか? 例えば実際にコンビニにコーヒーを買いに行った場合、コンビニに行く途中で体験したこと、コンビニでほかに手にした商品についての記憶なども一緒に覚えているであろうが、だんだんエビングハウスの曲線に従って忘れていくであろう。ところが「コンビニにコーヒーを買いに行った」という事だけが再固定化されて増強していったら、途中で見たものなども一緒に残っていくのか、それとも「新たな尾ひれ」も誤って付け加わるのか。想起されるのがコンビニにコーヒーを買いに行ったことだけであるなら、それが生々しく保存する際にはその周辺部も必ず一緒に思い出される筈である。するとそれが新生されてしまうことはないのか。おそらくこの辺が偽りの記憶とも関係しそうである。なぜならロフタス先生をはじめとするFMS派の先生方の実験は結局は子供に架空の話を何度か教示することでそれが定着してしまうというパラダイムに従っているからだ。

2022年1月5日水曜日

偽りの記憶 推敲 1

 本論文は「偽りの記憶」についての考察である。私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1990年代はずっとアメリカで臨床を行っていたが、これらの関心にワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマである。そしてあっという間にFMSF(偽りの記憶症候群財団)が出来上がった。欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこの偽りの記憶の論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。
 偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。
 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベスロフタスその人である。ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994)から要約すると以下のようになる。

私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。
 ところでロフタスとワシントン大学は2003年に、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、タウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。しかしそれ以後もロフタスの「回復した記憶の理論」は児童虐待の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判され、「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていたと言われる。

Jenkins, WJ (2017) An Analysis of Elizabeth F. Loftus's Eyewitness Testimony. Routledge.

 ところで常識的な立場からは、ロフタスの主張は概ねその通りであるという事は言えるだろう。記憶はしばしば書き換えられるだけでなく植え付けられることもある。記憶は脳にデータとして保存されているというわけではない。ただし多くの記憶内容は信頼に足るという点も事実である。つまり記憶は概ねにおいて現実を反映しているものの、細部に亘るに従い忘却されたり改変されたりする、というのが真実だ。そして後は程度問題であり、ケースバイケースである。とんでもないあり得ないストーリーを「想起」する人もいるが、それほど高頻度に起きることではない。かと思えばフォトグラフィックメモリーを誇り、教科書を隅から隅まで正確に再現する人もいる。だからロフタスの主張はそれを極論として用いるならばどちらも誤解を招く可能性があるのだ。

2022年1月4日火曜日

偽りの記憶の問題 いったん終了

  頑張って読んできたショウの本も、いよいよ最後の部分である。かなり極端な主張もある気がしたが、全体としてはとても勉強になった。最後に次の記載を述べておく。

 2015年、現代のDNA 検査により合理的疑いの余地なく無罪と立証された325件の事件のうち、なんと235件に目撃者の誤認が関わっていたことが分かったという。これが示唆しているのは、過誤記憶が無実の人の投獄に決定的に重要な役割を果たしているということだ。やはりこの問題が決定的であろう。偽りの記憶は現実に多くの問題を生じさせ、そして多くの犠牲者を出し続けていく。しかしもしそうなら「証言」そのものの価値がいやおうなしに下がっていきかねない。現在の裁判制度の根本が揺らぐことになる。すると・・・・私たちは結局はDNA鑑定や監視カメラという具体的なデータに頼るしかなくなるのであろうか?するとどこかの国のようなことになるのだろうか……。

2022年1月3日月曜日

偽りの記憶の問題 24

 ショウの本の 273ページでは次のように書いてある。抑圧された記憶(つまり多くのトラウマの記憶は大抵抑圧されている)という誤解は、臨床医の7パーセント、分析家の10パーセント、催眠療法士の28パーセントにより信じられているという。この書き方だと、「抑圧された記憶という誤った考え方を、いまだにこれほど多くの人が信じている」と言っているようだ。ところがこれがまた紛らわしい問題なのである。ここで私たちは非常に大きな問題に出会うのだ。「トラウマ記憶を思い出すという事は実際にあるのか。」これについてよく聞かれる臨床家からの反応は、以下の通りだ。「いやいや、長く抑圧されていたものがポッと思い出されるなんてことはないよ。」そう、これは抑圧に関してはそうなのである。その意味でショウの言っていることは正しい。しかし実際に臨床上も、また私たちの日常でも、昔の記憶がポッと蘇ることは実際ある。そして私はここで過誤記憶のことを言っているわけではない。そこで起きている現象は解離と呼ばれている。これは実に不思議なことだ。どちらの主張が正しいのか分からなくなってしまうからだ。
 昔の記憶が回復するという現象は、「抑圧」が関与している場合にはありえない。しかし「解離」が関与している場合にはありえる。これは一体どういうことか。
 まず私たちが考えるフロイト流の心の図式では、ある出来事を思い出したくない、回避したくないという防衛が働くことでそれが抑圧されることになる。ただしフロイト自身が考えていたことだが、抑圧された内容は無意識にじっととどまっているわけではない。それは形を変えて意識野や身体症状レベルに表れる。その意味では主体はその存在を予感しているのだ。だからこそそれは自由連想や夢に表れて解釈の対象になる。その意味で「抑圧障壁」は一種の半透膜のようなものだと考えられる。あるいは無意識内容に掛けられたモザイクといってもいい。すると大抵はその内容は薄々意識野には知られているわけである。全く知られなかったことがいきなり出てくることはない。しかしこれはあくまでも抑圧された内容についてである。解離の場合はどうか。解離はちょうど心のどこかに箱に入って密閉されていた体験内容である。それがあることをきっかけに蓋が開き、内容が出てくることはある。だから結論から言えば、「トラウマ記憶を思い出すという事は実際にあるのか。」はありうるのである。ショウの著書のこの部分はだからかえって誤解を招いていることになる。

2022年1月2日日曜日

偽りの記憶の問題 23

  次に本書で挙げていうのが、「Michelle Remenbersミッシェルの記憶」(スミス、パズダー)という本で、これは米国で一躍ベストセラーになったという。この本では精神科医パズダ―がスミスという女性と会っていて、彼女が「何か大切なことを打ち明けなくてはならない気がするが思い出せない」というので600時間以上の催眠療法により聞き出した話をまとめたものである。それが米国で一時非常に話題になった悪魔的儀式虐待のストーリーだった。このMichelle Remembers は日本語訳されているかはわからないが、矢幡洋先生の『危ない精神分析』〈亜紀書房〉でも言及されている可能性がある。この後米国では悪魔崇拝の被害者と主張する人々が急増し、一次は大騒ぎとなったが、すべてが偽りだったという事になっているそうだ。この「ミッシエルの記憶」についてもいくつかの現実とはそぐわない点が指摘されたという。ここで熱弁を振るったのがロフタス女史であるというわけだ。

さてこの後に出で来る部分は本書の中で一番理解しがたい内容だった。それはそもそも過誤記憶の問題の責任の一端はフロイトによるという記述である。ただそこで批判されているのは、フロイト自身が1897年以降打ち消した考え方である。ショウの本も「フロイト先生のウソ」(ゲーデン)も、フロイトに対する誤った考えが繰り返し書かれている。それはフロイトは過去のトラウマが抑圧され、それがのちの神経症を生むという考え方であるが、これはいわゆる性的誘惑説であり、フロイト自身はそれを撤回したことで精神分析理論が始まっているのは、分析を知る人間にとっては常識なのである。

ただし一応フロイトシンパである私はここの部分を多少なりとも憤慨しながら読んでいたのだが、これらの記述が一生懸命問いただそうとしている部分は、確かに大きな問題であることに気が付いた。というのもこれらの文章が問いただしている「抑圧」ということは確かに大きな問題を含んでいるからだ。

2022年1月1日土曜日

偽りの記憶の問題 22

 何度も書くが、このショウの本を読んだら私は「偽りの記憶」に関する依頼論文に着手することになる。まだ全体の方針が定まっていないのだが、多少は見えてきたような気がする。
 第9章は「秘密の悪魔的儀式」という章であるが、これが虚偽記憶というテーマの極めつけという気もする。西洋人はとにかく物事を極端に推し進めるところがある。例えばコロナのワクチンに対して賛成派と反対派が出るのはわかる気がするが、それが示威行進や政治運動にまで発展するのが彼らの性質を反映している。とにかく血の気が多いのだ。肉食的、といってもいい。そして偽りの記憶というテーマでも、大袈裟に言えば、血で血を洗うという事が生じている。そして「偽りの記憶」問題の極端さを示すのが、この悪魔的儀式 satanic cult と呼ばれる問題だ。いくつかの際立った事件がここに描かれている。フェルスエーカー託児所事件というのは1984年の託児所で起きた事件である。このくらいは常識として知っておいた方がいいかもしれない。ここである母親が4歳半の子供の最近の行動異常、つまり夜尿や乱暴の振る舞いなどが気になり、息子が性的虐待を受けていたのではないかと思い始め、彼女の弟に息子と話すことを頼む。弟は昔性的虐待を受けたことがあり、弟はその話を彼女の息子に話し、同じことが起きていた場合は自分に話すように、と伝えたという。息子はある男性(ジェラルド・アミロー)に服を脱がされたという話をするが、その男は息子がお漏らしをした際の着替えを手伝っていたという。その話を聞かされた母親は驚き、託児所に訴え、警察が捜査を始める。そして同じ託児所に子供を預けていた親たちは集会を開き、性的な虐待を受けた子供に特徴的な症状、例えばお漏らし、悪夢、食欲低下、通園途中で泣き出す、などの「症状」を示す子供たちを洗い出し、彼らに「粘り強く」虐待について尋ね、子供が虐待を否定しても信じる必要はないとまで指示したという。さらに面接者は性器を備えた人形を使用し、恐怖体験を打ち明けるように子供たちに促し、その結果としてあり得ないような架空の出来事について語る子供たちが続出したとある。

この事件に関して一つの朗報は、いったんは有罪の判決を下された関係者が1998年の裁判で覆されたことである。ただし事件に一番関与していると言われたアミローの判決は覆されなかったという。

ショウの本はこの後、いわゆる「性的虐待適応症候群」なる概念についての解説に及ぶ。これは英語のウィキペディアにも乗っている。CSAASという。以下に少し引用する。

Child sexual abuse accommodation syndrome (CSAAS) という概念はローランド・サミット Roland C. Summit という医師により1983年に提唱された概念で、要するに性的虐待をサバイブした子供たちの様子を描いた。しかしこの「症候群」という表現のせいで、一種の診断名のように扱われたことは本人も不満であったと書かれている。とにかく彼の概念はその後に法廷での証言に甚大な影響を与えたというのだ。

 特に性的虐待を開示しないのは自然なことで、いったん開示し始めれば精神的な抑制が軽くなるという。しかしこれに対しては別の研究では、「実際にあったことが示されている虐待の場合、否認や撤回は多くない」という研究もあるという。また心理学的及び医学的な症状では、被虐待児とそうでない子供たちを識別できない」という研究もあるという。

P265 あたりに重要なことが書かれている。虐待を受けた子供たちに見られる傾向のある所見、例えばほかの子供たちへの暴力、欠席や遅刻、夜尿や便失禁などがあげられることは多いが、確かに虐待と関係ある場合が多い。しかし虐待を受けた子供たちの三分の一は無症状だったという。すると虐待を受けた子供たちの症候群というものは存在せず、虐待を受けた子供の反応はケースバイケースであるという結論になってしまうという。