2026年10月31日土曜日

「甘え」は本当に受け身的か?

  ところでこの甘えの受け身性に関してはかつて議論の焦点となったことがある。甘えに関する論争としては、当時ニューヨーク在住の精神科医竹友安彦との間でのそれが知られるが(竹友, 1988, 土居,1988)、そこでの中心となったテーマがこの甘えと受け身性の問題であった。この詳しい内容については割愛して要点のみを述べるならば、発端は竹友が同じ留学仲間である意味ではライバルでもある土居の甘えについての批判的な論文を発表したことである(竹友、1988)。土居自身がそれへの反論の中で「氏の方が私の説を全面的に否定する以上、私も氏に対して対決姿勢を取らざるを得ない」(甘えさまざま、49)とまで述べている以上、その対立は苛烈を極めたものであったと言える。その否定的な文脈の中で、竹友は「甘えの概念はすこぶる曖昧であるとした上で、「甘えは受け身に愛されたい動機である」と書いた。これは土居自身が用いた表現を竹友が引用した形になるが、それに対して土居はこう応答した。「確かに自分はそうは定義したが、甘えは決して受動的ばかりではない」(土居,1988)。土居は甘えの概念に関して竹友が匂わせた「単なる」受け身性という雰囲気に反発したのであろう。そして次のように述べている。  「『甘える』には『愛される』という受動態が入っているのは事実としても、この言葉が自動詞であること自体、そこにある種の積極性、主体性が含まれる」(p53)。そしてさらに「ただ愛されているだけでなく、愛されることを子どもが楽しんでいることを示唆している」という。   ここで土居が甘えの概念が含意している、単なる受け身性を越えた能動性について苦心しながら表現しようとしている気持ちは私にはよくわかる。確かに「甘える」はそれ自身は積極的な態度を含んでいるようである。それが私が「能動的な受動性」と表現した甘えの性質である。