2026年10月29日木曜日

成田先生のこと 推敲 25 

 しかしまた同時に、患者は治療者が生身の人間であることをどこかで十分知っており、自分の持ち込む問題を解決できないかもしれないという一種の覚悟や諦念を持っているかもしれない。それは自分が持つに至った問題の責任の所在は自分にしかないということを知っているからだ。  例えば子供の肺炎を看病していて自分も感染してしまった母親を考える。そもそも肺炎になった子供に責任を転嫁しても始まらない。あくまでもうつってしまった自分の問題だとして受け入れ、不注意に誰か身近な人に感染させてしまったとしたら全面的な責任感を覚えるだろう。そして内科を受診して抗生物質を出されても治らないとしても、それで内科医を訴えるという気持ちは普通はあまり起きないであろう。「すみません、起炎菌の推測を誤りました」と医師に謝られても、「普通の抗生物質が効かないような変な菌に感染した自分が悪いのだ」と思ったりするのである。  同様のことは精神科医もよく経験することだ。患者さんの鬱状態に対して、ある抗うつ剤を投与する。そして残念ながら吐き気がするばかりで何も効果が得られない場合、「私の出した薬が効かずに申し訳ありません」という気持ちをにおわすと、多くの患者は「とんでもありません。先生のせいではありません」という反応を示す。どこかに自分の鬱状態について最終的に責任を取るのは自分でしかないという気持ちがあるからであろう。  精神療法にも同様のことが言えると私は考える。「いくら通ってきていても、先生は私のことを分かってくれないし、少しも良くしてくれない」と治療者を責めるのは、どこか理不尽なことであるということを、たいていの患者は気が付いているのである。そして治療者に「すみません。私の力不足です」と「白状」されることで、患者は結局自分の問題に責任を持つのは自分自身なのだという冷たい現実に立ち返ることになる。つまり治療者の「白状」は、患者が治療者に過剰に期待していたことへの気づきを促すことになるのである。