2026年5月13日水曜日

ストレスとDID 7 

  このところかなり本題からずれた話を続けている。そもそも最初のテーマさえ忘れかけている。それは「解離性同一性障害についてストレス因との関連から論じる」ということだった。ただしこのテーマはいかにもストレス―脆弱性モデルに従ったものであるが、現実に起きていることはこのモデルでは論じにくいという事情がある。これまでの議論からわかるとおり、本稿で進むべき方向は「トラウマ決定論から差異感受性モデルへ From Trauma Determinism to Differential Trauma Susceptibility」である。  私は基本的にはトラウマ論者である。最初はかなりはっきりと「トラウマ決定論」的な考えを持っていた。それは言語的、身体的暴力に苦しみ、発症した数多くの人々が長年非常に軽視されてきたという歴史があるからだ。しかし現在は「トラウマが精神障害を来す」という言い方には慎重になるべきであると考えるようになっている。なぜなら「トラウマ」と呼ぶ時点でそれが「本来障害を招くべきストレス」という含意があるからだ。しかし誰にとってもPTSDを生むような出来事というものは恐らく存在しない。(その代わりに不安や抑うつや身体的な症状を生む可能性は高いだろうが。)そうである以上それはある種の環境の刺激、ないしは環境因としてしか呼べないものと考えざるを得ない。  そしてその上で私が29年前に考案した「解離原性のストレス」について改めて考えると、多少なりとも修正を加えなくてはならない。この概念はストレスにはいくつかの種類があり、その中には解離を起こしやすいものとそうでないものがあるという考え方だ。しかし解離を起こしやすい人とそうでない人というファクターも見逃せない。そうでない人は以下に解離を起こしそうなストレスでもそれ以外の反応を起こしてしまう(あるいは反応をそもそも起こさない)その意味ではまさにストレス―脆弱性モデルにそのまま当てはまるべきものという気もする。これを言い直せば、ストレスの中でも解離を起こしやすいもの×ストレスに対する反応が解離という形を取りやすい人により解離性障害が起きる、ということになる。  さてこれがBelsky のDSモデルに従えばどうなるのか。彼のモデルの最大の売りは、「感受性=リスク」ではなく「感受性=可塑性 plasticity」と定式化したことである。つまりは解離反応はストレスにより自分を大きく変容させることであり、それ自身が弱さの表現ではないということだ。解離そのものではなく、それをコントロールできないことに弱さ、脆弱性がある、というべきであろうか。しかしコントロールできない≒弱さ、と決めつけることも出来ない。少なくとも危機的状況で自分が変容することは、十分適応的だからだ。獲物に狙われた袋ネズミが仮死状態のようになるのは、「弱さ」ではないだろう。それは生物学的には適応的に働いていたのだ。そしてこれは一種のブレーカーのような形で心身の機能をシャットダウンすることで急場をしのぐことができる。しかしこのブレーカーがそれほど大きな危機的状況でないにもかかわらず働いてしまうとしたら、そこに問題が生じてしまうわけである。