2026年1月15日木曜日

「甘え」の関係の双方向性について ― 精神分析的視点から ― 1

  土居の甘え理論と相互性

甘え理論は、土居健郎が1950年代の異文化体験を契機に確立したものであり、日本文化を説明する鍵概念であると同時に、精神分析の文脈において早期の対象関係を論じるうえでも高い学問的価値を持つ。土居は「甘えの心理は人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである」と抽象的に表現したがそれはまた本来誰もが甘えの意味を体験的に知っているとした。そしてそれを「相手の愛をあてにして、それによりかかる」とわかり易く定義し、その「甘えの構造」(1971)で、その発想のきっかけとして自身の米国での異文化体験をあげている。ただし後の報告によると、土居の甘えに対する関心は、実は自身の幼児体験に関わる根本的な疑問に根差していたことが推察される。
 甘えの概念に関して特に土居が注意を払ったのが、それがもっぱら「受け身的」であるとの竹友からの批判への対応であった。そして「甘える」という言葉は愛されたいという受動性を含むが、それが本来自動詞であることから、そこに積極性や主体性が含まれると指摘する。そして土居はそれが「甘えることで子どもがそれを楽しんでいる」ことに表れるとした。
 私はこの甘えの性質に注目して「能動的な受動性」と表現し、甘える側が同時に相手の「甘えてほしい」という願望を満たしていることを指摘する。すなわち本来の甘えの関係は決して一方向的なものではなく、二人の人間が互いに「甘え、甘えてあげる」⇔「甘えさせ、甘えてもらう」という双方向性の関係を築く現象として捉えることが出来る。そしてこの双方向性が成立している際は、そこに相互の愛他性を含む「素直な甘え」が成立しているものとしてとらえることができると考える。

 M.バリントの primary love との関連

土居は甘えの理論を考案して後に、自らの理論が、ロンドンの分析家M.バリントが提示した早期の対象関係を表す primary love に極めて近いことを発見した。バリントのこの概念は、S.フェレンツィの「受け身的対象愛」を受けて言い換えた概念であった。土居はこの primary love を「最初の愛」ないし「根本愛」と訳し、甘えがそれと同等のものであり、ともに「対象関係を作る原動力」であるとした。これは、英国の対象関係論による捉え方、例えば「人間は出生直後からすでに対象を希求している」とする R.フェアバーンの理論と符合する一方では、S.フロイトの一次ナルシシズムやM.マーラーの「正常な自閉期」など、初期の対象不在を前提とする立場とは対照的であった。その意味で土居の甘えの理論は図らずも精神分析における一つの大きな流れ(対象関係論)と軌を一にしていたと言える。

ところで母子関係において甘えが兆し始める段階で、乳児の心に対象が存在するか否かは単純な問題ではない。乳児は対象表象を持たない段階から、生理的なケアを求めて泣き声をあげ、母親は本能的にそれに応じる。私はこの時期を「甘え前駆期」と呼ぶが、この時期には、乳児に「愛されたい」という明確な願望はまだ存在せず、母親の側から「甘えさせる」という一方向的な関係(上下関係、北山)が中心となる。土居も「甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎内の延長であり、母子未分化の状態にある。・・・次第に乳児は自分と母親が別々の存在であることを知覚し・・・母親に密着することを求めることが甘えである」(1971、p.81 )としている。
 私は、母子関係において本来の甘えの関係が成立するのは、乳児が初めて母親に微笑みかけ、母親がそこに子供からの能動的な愛情表現の兆しを感じ取ってからではないかと考える。つまり母親の本能的な母性愛は子供の微笑みを受けて具体的な慈しみや「甘えさせ」の感情という形をとり、ようやく「甘える」「甘えさせる」の相互性は名実ともに成立するのである。逆にこの乳児からの微笑みの授受に何らかの原因で遅延や齟齬が生じた場合、それは「素直な甘え」の成立が阻害されることで、後の「屈折した甘え」につながる可能性があろうと考える。