2025年10月1日水曜日

遊戯療法 文字化 2

 例えばまだ10代の女性の患者さんが初診時に緊張した面持ちだとする。彼女が千葉出身でC高校に通っていることがわかると、たまたま同じ高校に通っていた私は次のように言ってみる。「C高校か。毎日あの坂を登って登校するのはきついよね。」

するとそれまでこわばっていた患者さんの顔が急に綻んだりする。  この例はたまたま患者さんと私の出身高校が同じであるという偶然があったから行えた介入だが、もっと普通のやり方でこのような交流を行っている。たとえば今年の夏は非常に暑い日が続いていたが、精神科の外来を訪れる患者さんで何となく接触を取るのが難しい場合には、私はよく「ここまでいらっしゃるのは大変だったでしょう。今日の暑さは半端ありませんね」と言ってみる。すると必ず患者さんの表情が崩れて、「いやまったくそうですよ!」となるのが普通だ。

 このような例を考えた場合、私が考える遊びの要素、ないしは遊びごころとはある体験を共有すること、同じ感情体験を持つことではないか?と思うのである。


 このような話をしても、ここでの「遊び」や「遊び心」がどうして治療につながるのかは読者には不明かもしれない。確かにこれは例えば精神分析とは全く無関係なかかわりあい方と言えるかもしれない。しかしそもそも治療とは何か、ということが精神分析の世界の中でも従来から大きく変わってきているのも事実なのである。

 古典的な分析的治療モデルにおける「患者に変化をもたらすもの」(治療作用)とは「転移解釈」であり、患者はある種の知的な理解(洞察)を得ることで変化する。


治療者:「あなたは私を怖い父親のように感じているようですね」(転移解釈)
患者:「そうか、これまで自分はちょうど今ここで起きていたように、人を歪曲して見ていたんだ。」(洞察)

ここに見られるような転移解釈とそれに基づく洞察というのが、精神分析の治療作用なのだとされてきたのです。これはフロイト以来、モーゼの十戒の様に信じられてきたことである。