2025年10月2日木曜日

FNSの世界 推敲の推敲の推敲 4

 現在の精神医学において変換症がFNSへと以降するためにはDSM-5を待たねばならなかった。しかしその以降の経緯はかなり込み入っていた。  まずDSM-5(2013)では変換症(機能性神経学的症状症)という表現が登場した。そしてさらにDSM-5-TR(2022)では機能性神経学的症状症(変換症)へと変更になった。つまりSDM-5₋TRでは変換症の方が( )の中に入り、FNS(機能性神経学的症状症)という呼び方がより正式な扱いをされることとなったのである。  このようにDSMで着々と起きているのは変換症という用語の使用の回避である。ちなみにICD-11(2022)ではconversion という表現がなくなり、変換症に相当するのは、「解離性神経学的症状症」となっている。こうしてFNDの時代が到来したことになる。

なお世界的な診断基準であるDSM(米国精神医学会)とICD(国際保健機構)は,精神疾患一般についての理解や分類に関してはおおむね歩調を合わせつつある。ただし変換症を解離症に含めるかどうかについては顕著な隔たりがある。すなわちDSM₋5においても変換症は、「身体症状症」(DSM-IVにおける「身体表現性障害」に相当)に分類される一方では、ICD-11では解離症群に分類されるのである。   言うまでもないことだが、このFNDの”F”は機能性 functional であり、器質性 organic という表現の対立概念であり、神経学的な検査所見に異常がなく、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。そして変換症も、時間が経てば、あるいは状況が変われば機能を回復するという意味では機能性の疾患といえる。だからFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。  上記のごとくDSM-5において変換症がFNSに取って代わられたのはなぜだったのだろうか?これについてはFNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone の論文(2010)を参考に振り返ってみる。本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freud は鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したい。」(Freud, 1894)  しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudによる仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからだという。もちろん心因が常に意識化されているとは限らず、心因が存在しないことを証明することも難しいが、その概念の恣意性を排除するという意味でもDSM-5においては conversive disorder の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。

Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.  DSM-IVあった「症状が神経学的に説明できないこと」については、DSM-5やICD-11ではあえて強調されていないことになったことは注目に値する。実際には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)

<以下略>

2025年10月1日水曜日

遊戯療法 文字化 2

 例えばまだ10代の女性の患者さんが初診時に緊張した面持ちだとする。彼女が千葉出身でC高校に通っていることがわかると、たまたま同じ高校に通っていた私は次のように言ってみる。「C高校か。毎日あの坂を登って登校するのはきついよね。」

するとそれまでこわばっていた患者さんの顔が急に綻んだりする。  この例はたまたま患者さんと私の出身高校が同じであるという偶然があったから行えた介入だが、もっと普通のやり方でこのような交流を行っている。たとえば今年の夏は非常に暑い日が続いていたが、精神科の外来を訪れる患者さんで何となく接触を取るのが難しい場合には、私はよく「ここまでいらっしゃるのは大変だったでしょう。今日の暑さは半端ありませんね」と言ってみる。すると必ず患者さんの表情が崩れて、「いやまったくそうですよ!」となるのが普通だ。

 このような例を考えた場合、私が考える遊びの要素、ないしは遊びごころとはある体験を共有すること、同じ感情体験を持つことではないか?と思うのである。


 このような話をしても、ここでの「遊び」や「遊び心」がどうして治療につながるのかは読者には不明かもしれない。確かにこれは例えば精神分析とは全く無関係なかかわりあい方と言えるかもしれない。しかしそもそも治療とは何か、ということが精神分析の世界の中でも従来から大きく変わってきているのも事実なのである。

 古典的な分析的治療モデルにおける「患者に変化をもたらすもの」(治療作用)とは「転移解釈」であり、患者はある種の知的な理解(洞察)を得ることで変化する。


治療者:「あなたは私を怖い父親のように感じているようですね」(転移解釈)
患者:「そうか、これまで自分はちょうど今ここで起きていたように、人を歪曲して見ていたんだ。」(洞察)

ここに見られるような転移解釈とそれに基づく洞察というのが、精神分析の治療作用なのだとされてきたのです。これはフロイト以来、モーゼの十戒の様に信じられてきたことである。