2025年2月17日月曜日

関係論とサイコセラピー 3

この「週一回」の議論に弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編)という著書である。この本では北山修氏、高野晶氏に加えて藤山氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導する考察が提出され、この「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。その中でいくつかを取り上げよう。高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという意味でユニークな立場からこの「週一回」について論じている。その姿勢は基本的には週一回のサイコセラピーは精神分析と似たところがある、というものであり、それを「近似仮説」として提出した。山崎氏のまとめによると、高野の仕事で注目すべきなのは、藤山氏の「平行移動仮説」を「近似仮説」により「もう一歩推し進めた」ことだという。確かに日本の精神分析会はこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきで、この高野氏の主張は多くの分析的な療法家にとって安心する内容であろう。
 この1017年の高野氏の提言は抑制が効き、常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。印象としては藤山氏が「週一回」と精神分析の間にある種の質的な相違を見出しているのに対し、高野氏はむしろ両者の違いを相対的(「近似的」)なものとみているという違いがあると言えるであろうか。

高野氏と同様に常識派として取り上げるべきなのは岡田氏の論文である。彼は極めて常識的な臨床センスを備えており、また特定の学派の影響を色濃く受けていないために、その理論も理解しやすく受け入れやすいと感じる。彼の2017年の論文「週一回の精神分析的精神療法におけるリズム性について」で、岡田氏は「フロイトは純金に銅を混ぜるな、と言ってゐるが、銅に純金を混ぜるなと言ってはいない」と主張しているのが面白い。そして実際に彼は後者の実践を提唱しているようだ。「週一回とは『日常生活や現実に基づく』ということに利点があるのであり、そこでは日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業であると言う。それを彼は次の用に言いなおす。「それは精神分析的に精神療法を行うことだ。」この比喩の是非はともかく、岡田氏は少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。