2024年2月18日日曜日

昨日の続き

  ディープラーニングというテーマの一つのスピンオフとして述べたいのは、この関りの中では、実は治療者の失敗もまた非常に大きな意味を持つという事である。愛着についての議論の中で、若干の愛着不全がより愛着を強める、あるいは少しの愛着欠如にも耐える力を発揮することにつながるという点とも関係してくる。

 精神分析家のウィニコットは沢山の謎めいた言葉を残しているが、その中で私が好きなのは、

「[愛着の時期における愛着不全により引き起こされる乳児の原初的な苦悩]は分析家の失敗や間違いに対する反応としての転移の中で体験される。それは過剰ではない分量で扱うことが出来、患者は分析家のそれ等の技法的な誤りを逆転移として納得するのだ。」(p.105)

これを意訳すると次のようになる。

「赤ん坊の時代に愛着を築けなかった人が精神分析を受けると、それが将来の治療関係の中でも再現される。それが治療者の側の共感や配慮の行き届かなさや的外れの解釈などが起きた時の反応である。それは深刻な過ちではない限り、治療者の側の失敗として体験することで心に収めることが出来るのだ。」

 すなわち治療者の側がちょうど愛着期における母親の一時的な行き届かなさを認め、反省することにより修復できるのだ、という事である。逆に言えば母親がそれを認めない場合に愛着形成が健全な形で行われないという事を意味する。ただしここで重要なのは、母親の失敗も分析家の失敗も、それが適量以内であるべきだという事だ。適量であれば母親の場合も、分析家もそれを認めてもあまり自己愛の傷つきが深刻とはならない。つまり余裕をもって自分の過ちを認め、それを自分から話すことになる。そしてこのプロセスそのものが発達促進的である。

 この比喩で私が思いつくのは、筋肉の修復過程である。ある種の負荷をかけた筋肉の運動は、おそらく微視的な筋の断裂が生じることで可能となる。ちょうど重力の負荷を受けない骨は粗鬆症をおこしやすいという事と同じだ。骨芽細胞による骨の補強は、足に対する負荷がかかることで、破骨細胞が古くてもろくなった骨を壊すというプロセスに触発される。愛着の場合もそのもろい部分が多少の養育の欠損を通して崩れ、補強されることでより盤石になり、またレジリエンスを獲得するのだろう。

ちなみにこの議論はいわゆるPTG(post-traumatic growth,外傷後の成長にもつながるが、それが治療者側の失敗の受け入れを決め手とするという点が重要なのである。