2024年1月31日水曜日

連載エッセイ 12の6

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 今回はこのエッセイの最終回であるが、テーマとしては、「心理士(師)にとっての脳科学」とした。この連載のタイトルは「脳科学と臨床心理」となっているが、それは私が研究者ではなく臨床家として脳科学について語ることを目的としていた。というのも脳の話は人の心を理解する上で非常に役に立つからなのである。つまり私は純粋に脳科学に興味があるというよりは、それが「だから心ってこういう風に動くんだ!」という気付きを与えてくれることがとてもありがたく感じ、だからこそそれを読者に語りたくなるのである。

 しかし毎回脳の話をしながら、それが心理療法やカウンセリングの場面でどの様に応用すべきかについても論じることは容易ではない。あるテーマで脳の話をしているうちに枚数がすぐ尽きてしまうのである。

 だからこの連載中、「タイトルと違って心理臨床について述べていないではないか!」という批判を常に覚悟していた。編集の方から特にその様なクレイムが来ているという話は聞いてはいないが、当然そのようなお叱りを受けるとしても当然である。そこでこの最後の章は「臨床家にとっての脳科学とは何か?」という話題についてもっぱら論じたい。(ちなみにここでいう臨床家には、患者やクライエントの話を聞く立場の医師や心理士等を指すことにする。)

 ただしこの問題についてのテーマも数限りなくあるため、だいたい3つのトピックに絞って論じることにする。


脳を知ることはクライエントの訴えをより深く知ることの助けとなる

 まず最初に言いたいこと、それは脳を知ることが患者の話を聞く姿勢に大きな影響を与えるという事である。私達は他人がある体験を話す時、それをにわかには信じがたいと思うことが多い。臨床家なら多少覚悟をしているから、話を最初から疑って聞くことは少ないが、それでも「えっ、本当に?」という素の反応を心のどこかでしていることが多い。

 例えばある人が誰もいないはずの部屋の中で人の姿を見たと報告する。おそらくいわゆる幻視という体験だが、通常私たちは「そこにいないはずの人の姿をみるはずなどないだろう」と考えがちだ。(精神科の患者さんの話を聞くことの多い読者なら、このような話には慣れているだろうが、ここは予備知識のない人が家族から初めてその様な話を聞いたつもりになっていただきたい。もちろん自分にもそのような経験はないとしよう。すると「ほんとに?気のせいじゃない?」と尋ね返したくなるだろう。「あなたの思い込みじゃないの?」と返すかもしれない。「最近少し疲れがたまっているんじゃないの?」もあるだろう。恐らく家族が幻覚だか心霊現象だかを体験したと思いたくないという気持ちも働き、私達は一生懸命その様な話を否認しようとするのだ。部屋の中での人影ならまだしも、「きのうの晩、近くの公園でUFOを見た」などという話を聞いたら、99%以上はこのような反応になるだろう。

 ここで私達の口から出る「気のせいじゃない?」とはどういう意味だろうか? それは本当は起きていないことを起きたと思い込んでしまうこと、という事だろう。また「思い込みじゃないの」という表現には、自分がそれを思い浮かべただけ、つまり自作自演というニュアンスがある。「人騒がせなことを言うな!」という気持ちが透けて見える。

 ここまで極端ではないにしても、私達臨床家は一般に患者さんの訴えに関してそれを疑いの目で見やすい。思い込み、気のせいという風に決めてかかる部分がどこかにある。そう思わざるを得ない例は数多く経験しているし、私自身の同じような傾向も感じる。特にその患者さんに何らかの理由で煩わされていると感じている場合にはその傾向が強くなってしまう。しかしこの「症状は自作自演」という発想は、残念ながら精神分析的な考えにおいても見られた。なぜならフロイトは症状は無意識的な願望と結びついていると考えたからである。

 しかしおよそ100年も前に Georges de Morsier という先生は幻視に関して「当時一般的だった精神分析的な考えに異を唱え」(Carter, et al, 2015))、幻視は神経学的な症状、すなわち脳において生じている異常と考えたという。ここで彼のいう精神分析的な考えとは恐らく、「幻視はその人が持っている無意識的な願望の表れである」という、上述の自作自演的な考え方であろう。de Morsier 先生はそれに反対し、てんかんや認知症や統合失調症などに見られる幻視には共通の神経学的な基盤があると考えたのだ。そしてそれは現代にも引き継がれ、その理論の信憑性は脳科学的な研究で再認されているという。

Carter, R, Ffytche DH.On visual hallucinations and cortical networks: a trans-diagnostic review. J Neurol. 2015; 262(7): 1780–1790.