人は本来「弱い嘘」つきである、というアリエリーの主張
「アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みた。彼の著書『ずる―嘘とごまかしの行動経済学』(櫻井祐子訳、早川書房、2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうと考えるわけである。実はこの種の性悪説、「人間みなサイコパス」的な仮説はすでに存在していた。
しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は報酬を多くしても変わらず(というか、虚偽申告する幅はむしろ後ろめたさのせいか、多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)、ごまかしは縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。 そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人は良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に6尾釣った(ということは二尾は逃がした、人にあげた、という言い訳をすることになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。
もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその認知の共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点で、かなり現実的で、私達を少しがっかりさせるのが、このアリエリーの説なのである。
アリエリーの説は結局「人は皆マイクロ・サイコパス」であるということであろうが、それをもっと単純化させ、「人間はある程度の自己欺瞞は、持っていて普通(正常)である」と言い換えよう。これが含むところは大きい。人が真っ正直であろうとした場合、その人は強迫的な性格であり、病的とさえいえるかもしれないのである。
ではどうしてごまかすのか?それは快感だからであろう。4尾というより6尾の方が自慢のし甲斐がある。気持ちがいい。だからであろう。あとは嘘をついていることによる良心の呵責がどの程度それに拮抗するかだ。その拮抗点がその人にとっては10尾でもなく、5尾でもなく、6尾ということだ。このような嘘を「弱い嘘」と呼んでおこう。
話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と聞かれれば、「すごく良かった」というだろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でも。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。これは礼儀としての「盛り」でも、例えば「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと日常のエピソードを話すときは、たいして驚いた話ではなくても、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきだろう。そしてアリエリーの「魚が6尾(本当は4尾)」はその延長にあるものと考える。
そこで話を最初の賄賂を受け取った政治家に戻す。彼の嘘もこの魚の話の延長なのだろうか?恐らく。そして「秘書が受け取ったかもしれないが報告を受けていない」というのは、「絶対に受け取っていない」と言うよりは良心の呵責が少ないはずなのだ。そして「秘書が・・」と「弱い嘘」をつくことは、「ごめんなさい、受け取りました」と頭を下げるよりはるかに快感原則に従うのだ。
うん、後から読んでも結構うまく書けている。