2021年8月29日日曜日

死について 1

 日本人と死 (日本人がいかに特殊で変わっているか?)

私は日本人はとても変わっていると考えている。おそらくこのような文化を他に知らないのであるが、それは死についてもそうである。落とした財布が、中身ごと警察に届けられるような国は他にあるだろうか。もちろん「財布は落とした人のものだから、その人に返すべきだというのは当たり前ではないか?」という声は聞こえる。私自身もそのように思う。しかし実際の社会でそれが実行に移されるような国や文化が何と希少な事か。そのことが興味深いのである。

さてそのユニークさは、死という問題についても当てはまる。一言で言えば、日本は他人のために、あるいは名誉の為に自分の死を厭わないという事がかつて常識と考えられていた、稀有な国なのである。

という事で2021221にこんなことを書いた。

武士道に見られる死生観

 禅の思想が死生観と最も顕著な形で結びついていたのがいわゆる武士道の倫理である。武士道については、1900年の新渡戸稲造の英文による紹介が広く知られている。(Bushido:The Soul of Japan)。新渡戸はそのBushidoの中で、武士道の由来は禅であるとしたうえで、その武士道の精神を次のようにまとめる。「それは運命を冷静に受け止め、避けられぬことに静かに服し、危険や悲惨な出来事に対して禁欲的に心を安定させ、生を軽蔑し、死を身近に感じることである。」いいねえ!

 このような武士の死生観は最も直接的に表したものとして葉隠を紹介しよう。その中でもとくに有名な文章について紹介しよう。

まずは原文

二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。(中略)二つ二つの場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。

 

現代語訳

どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。私も含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。

この葉隠の精神について、よくある解釈は、「恥をかくのを恐れて死を選ぶのは正しい選択ではない、命を粗末にするだけだ」というものである。「図に外れて生き延びたら腰抜けである」けれど、「図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない」。だから死んだほうがいい、という部分は確かにその様に読める。たしかにそうかもしれない。だから死の覚悟をすることが正しい、あるいは間違っているという話ではない。ただその様な覚悟を人に持たせるような社会や文化は稀有であるという事だけを私は言っているのである。

恥をかくくらいなら死ぬ、という考え方は狂気かも知れない。でも気位の高い武士が世間から非難や好奇の目に晒されるよりは死を選ぶという決断は心情的に分かる。よく覚えていないが、確か近隣の国でスキャンダルの報道を目前にして自殺をした人の話を聞いた気がする。それに葉隠の精神で死を選ぶ人の場合、おそらく恥を雪ぐため以上の何かが働いていることが少なくないであろう。それは究極の「滅び」の行動である。そしてこれはマゾヒズムとは違う。マゾヒズムの場合にはそこに快感が後押ししてくれている。そして結局はナルシシズムとも通底している可能性がある。三島の自害も結局はそれだったのであろう。ところが「滅び」には一見したところ利得が伴わないのである。そこにあるとすれば、それは美意識、かも知れない。