2021年8月28日土曜日

他者性の問題 18

 アンナO.のケースに魅了されたフロイトは、その治療者であったブロイアーの説明についてもある程度は納得していたはずである。ブロイアーの考え方はいわゆる「類催眠状態 hypnoid state」という状態を考えることであった。類催眠状態とはいわば催眠にかかったような、もうろうとした状態のことを指す。アンナ O.はしばしばこのような様子を示し、その後に症状が現れたり別の人格に代わったりしたのである。ブロイアーの考えはこうであった。ある種のトラウマを体験した人はこの類催眠状態になり、いわばもう一つの意識の流れが出来上がる。そしてそちらの方がトラウマを体験することになり、それが将来の交代人格となっていくのである。
 最初はフロイトはこの見解に異議を唱えなかった。というよりはあまり深くこの問題を考えていなかったのかもしれない。そしてフロイトはブロイアーに共同の執筆を誘いかけ、共著論文「ヒステリー諸現象の心的機制について暫定報告」(1893年) を書いた。ブロイアーにとってはとても成功したとは言えない、しかも10年前のアンナ O. の治療について執筆することは不本意であったがフロイトに押される形で 1895年に「ヒステリー研究」を発表することとなった。この本の構成は、第1章が上記の「暫定報告」の再録、第2章がブロイアーによるアンナ O.の治療、第3章フロイトの4ケース、第4章がブロイアーの理論、第5章がフロイトの理論、というものだった。この本の第1章では フロイトはブロイアーの唱える類催眠状態の理論に賛同していたが、後半ではと異なる意見をすでに表明している。フロイトは1889年にフランスのナンシーという町にイッポリット・ベルネームを訪れてから、催眠ではなく自由連想にシフトし始めていたのだ。その意味で「ヒステリー研究」は フロイトとブロイアーに生じていた隔たりを浮き彫りにする形となった。
 フロイトとブロイアーは、ヒステリーの理解について異なった考えを持っていたが、それを簡潔に言えばこうなる。

ブロイアー:トラウマ時に解離(意識のスプリッティング)が生じる。
フロイト: まず心の中で、切り離したい部分を切り離すという、ある種の意図的な努力がなされる。つまりいきなりひょっこり心が外に生まれるというようなことは生じないのだ。スプリッティングの準備は防衛的に進んでいたのだ。

 フロイトはなぜ解離を受け入れなかったのか?

この様にフロイトとブロイアーの考えの違いを追ってみると、そもそもフロイトは解離という概念が好きでなかったという事が分かる。それはどうしてだろうか?一つの考え方は、フロイトがこれに関して最も“parsimonious(最も簡潔)な理論を選んだからだということが出来るだろう。要するにフロイトはヒステリーの原因を一つに絞りたかったのだ。ところが彼は二つの違う考え方を与えられていたのである。
 一つは内的な因子であるリビドーの考え方である。彼はこれが心に様々な負荷をかけることでヒステリーが生じると考えた。しかし他方ではフロイトは複数の外的な因子がヒステリーに関与しているらしいとも考えていた。それらは例えば大人からくわえられた性的なトラウマである。これらは全く違う方向からヒステリーの原因を説明することになることになる。そしてフロイトはこの二つの理論を統一するような考え方を模索した。それが彼の欲動モデルだったわけである。そしてこの理論はフェヒナーや他のヘルムホルツ学派の理論と同じように、心のエネルギーをあたかも物理的なエネルギーと同等に扱うというアプローチであった。そしてそれに従う限りは、性的トラウマ説を放棄することもできたのだ。彼は性的トラウマの存在を否定したわけではなかったが、それはファンタジーを介してリビドーの量を高めるという影響があったと想定した。そしてそれが心に大きな不快を呼び起こすために、それを抑圧する必要があり、それが心のスプリッティングを生み、ヒステリー症状をもたらす。ただしそうなるためには、心はあくまでも一つであり、ややこしい意識の分割という事はその説明にとってむしろ不都合だったという事になる。

 結局フロイトは理論の為にこの不思議な現象から目を逸らしたというのがよく分からないことなのである。

実はフロイトはこんなことを1936年に書いている。「離人症の問題は私たちを途方もない状態、すなわち「二重意識」へと誘う。これはより正確には「スプリット・パーソナリティ」と呼ばれる。しかしこれにまつわることはあまりにも不明で科学的にわかったことはほとんどないので、私はこれについては言及することは避けなくてはならない。」(Freud, 1936 p245