2021年8月24日火曜日

他者性の問題 16

 解離の理論の歴史を振り返る

ポリサイキズムとフロイト理論

そもそも精神分析を含む精神力動学が始まった19世紀には、様々な理論が存在し、そこには「ポリサイキズム」、すなわち一人の人間に複数の人格が存在するという理論もありえたのである(Ellenberger,1972)。話はそのようなポリサイキズム的な考えを有していたジョゼフ・ブロイアーとその後輩であったシグムント・フロイトとの関係にさかのぼる。ブルッケ教授のもとで修業をしていたフロイトは、1880年代になって結婚をして家計を成り立たせるためにも臨床医として独立をする必要に迫られた。フロイトはもともと研究者志向であったが、今も昔も研究者として経済的に独立して生きていくことは容易ではない。そこでフロイトは精神科医の開業をすることになったが、その際ブロイアーはよき先輩であった。ブロイアーは開業にあたってフロイトにいろいろな治療法を薦めた。開業するならばいくつかの治療手段の心得が必要である。現代なら薬物療法や認知行動療法、EMDRなどの知識が必要であるのと同じである、フロイトも最初は当時行われていた電気療法やワイアー・ミッチェル・システム療法を試みるが、あまり成果が表れなかった。ブロイアーはフロイトに、催眠についても偏見を持たずに学ぶよう勧める。そしてフロイトはヒステリーの性的な起源という考え方も学んだが、特に興味は示さなかったとされる。そのフロイトが最終的にヒステリー研究をブロイアーと著すことになったのであるから、運命とは面白いものである。
 運命と言えば、ブロイアーと催眠の結びつきもまた偶然であった。その頃ウィーンではモリッツ・ベネディクトという医学者がメスメル流の催眠を用いていたのだ。そしてこのベネディクトの友人であったブロイアーはその影響のもとにアンナ O.の治療を行った。ちなみにベネディクトはシャルコーの友人でもあり、フロイトのパリ留学に際して、シャルコーに紹介状を書いた人でもある。
 さてブロイアーが特に熱を入れてフロイトに語ったのが、有名なアンナ O.のケースである。アンナ O.はブロイアーが1880年から2年間にわたって治療に腐心した多彩で不思議な症例を示す患者であった。アンナやその治療者ブロイアーこそが、フロイトのヒステリーへの興味の火付け役であったと言ってもいい。事実フロイトはブロイアーを「精神分析の事実上の創始者である」と述べたのである。
 アンナ O.(本名ベルタ・パッペンハイム)はブロイアーのもとを受診した当時は21歳、性的には極めて未経験で、父親に対しては非常に献身的だった。父親の肺の病とともにアンナ O.も発症し、夕刻の失神、様々な身体症状、手足の硬縮、斜視、神経性の咳、失語などの多彩な症状がみられた。フランス語しか解さない人格と、ドイツ語しか話せない人格など複数の人格が見られ、これらの症状は恐らく現在の診断基準で言えば解離性同一性障害の基準を満たしていることになる。ちなみにブロイアーはパッペンハイム家の家庭医であり、1980年から二年間、毎日、時には一日二回往診した。(当時ウィーンにそこまでヒステリーを真剣に治療する人はいなかった。)
 フロイトはこのケースに強い関心を寄せた。そして1886年のパリの留学において時の神経学の大家であるジャン=マルタン・シャルコーがヒステリーの患者に催眠を施すのを目の当たりにしたフロイトは、さらにその関心を深めていった。