2021年6月1日火曜日

嫌悪 3

 一つ言えることは、100年前、いや200年前に比べて私たちは格段に快適な生活を送っているはずであるということだ。電気もなく、水道もなく、冷暖房もない時代に生きていることを想像しよう。もちろん電話もスマホも何もない。わたしたちはおそらく日常生活を送るというそれだけのために大きな労働を強いられていたはずだ。川に水を汲みに行き、食料を採集しに行き、火をおこし、調理をする。冬は寒さをしのぐために焚火をし、動物の皮や繊維を用いて衣服を作り、夏は暑さに耐えて木陰でじっと過ごすことになるだろう。学校に行くには何時間も整備されていない道を歩いて通うしかなかったのかもしれない。そこには肉体的な労働の量が格段に多かったはずだ。これは彼らにとってどの程度苦痛だったろうか? そしてそれらを一挙に失った私たちの生活はどのような意味で私たちの精神に影響を与えたのだろうか?
 200年前は、そのような苦労、労力を当たり前のものと思い、それ自身を苦痛と考えることは少なかったであろうということである。冷暖房の体験がない人間は、夏の暑さに苦しんでも、「冷房が効いているところに行きたいけれど行けない」ことの不幸は体験しないだろう。おなかが空いても食料が限られていることは分かっているから、近くのコンビニに行けば安価な菓子パンが買える、という誘惑は存在しない。快適さを味わうことは一種の嗜癖のようなもので、すぐに渇望を生み出す。昔だったら当たり前のことを苦しく感じるということが起きるのだ。
 実は今快適な世の中に暮らしている私たちも、100年後の人間から見たら、苦痛だらけかもしれない。「え、がんで死ぬことがあるの? 薬Xを吞めばがん細胞はすぐに消えてしまうはずなのに。」「昔は乗り物に乗って何時間もかけて移動していたの? 『どこでもドア』を使えばいいのに。なんて大変な世の中だろう?」という風に。私は新幹線に乗って往復26000円払って東京と関西の間を行き来しているが、これを特に苦痛だと思ったことはない。しょうがないこと、ほかに手段がないこととしてあきらめている。でももしタイムマシンで200年未来に行って「どこでもドア2221」を使うことに味を占めたら、現代に戻って新幹線に乗ることはとてつもなく苦痛になる可能性があるのだ。