抑圧と解離の文脈での無意識
そもそも無意識的幻想とは・・・・
ところで日常的に解離性障害を扱うという私の立場上、解離理論の文脈で無意識をとらえなおさなくてはならないのは当然だ。現在無意識を問い直すとしたら、それは解離の問題を私たちは臨床の中で避けることができなくなったからである。
まず精神分析の世界で何が起きているかと言えば、無意識的なファンタジーが治療対象として扱われることがますます少なくなり、より現実的な問題に重きが置かれるようになってきたということだろう。無意識に潜む何かを問題にするというパラダイムが昔ほどは考えられなくなったということだろうか。ギャバードさんがそのテキスト「力動精神的心理療法」(p6)で書いていることだが、「 無意識」を中味が存在する空間的なたとえとみなす考え方は,近年の議論ではどんどん流行らないものとなっている。
私は精神分析家なので、「患者の無意識的幻想」をしっかり探求しているだろうか、などと心配になる。無意識的幻想は、分析家がそのトレーニングの途中で刷り込まれた考え方で、武道でいえば一種の「型」のようなものだ。しかし分析を続けているうちにそれまであらわになっていなかったものがそうなるという体験はそんなに多くないと考えるようになっている。むしろそれとは別の体験の方が多いのではないだろうか。精神分析や精神療法での変化としては以下のようなものが圧倒的に多い。
l それまで受け入れられなかったことが受け入れられるようになる。たとえば「母親に対して自分の考えを言えるようになった」など。
l ある種の外傷的な出来事の想起や、それを取り扱えるようになったことにより、部分的に精神の健康を取り戻した、など。
あるいは現代の精神分析は転移中心の考え方になっているので、どのような転移逆転移関係が生じ、それが解消されていったかが主たるテーマになり、「無意識的云々」ということはあまり出てこないということもあろう。
結局はある種の無意識的なファンタジー、欲動を宿す無意識という考え方があまり妥当ではなかった、ということになろう。そもそもこのモデルはフロイトが幼児性欲を前提として作り上げたモデルであるために出来上がったわけだが、最近のモデルはもっとトラウマモデルに近くなっている。つまり人の精神的な問題の背後にはある種の愛着の問題やトラウマの問題が隠されている場合が非常に多く、むしろそれを想定した治療の方が間違いがないということである。つまり想定はこうだ。
「患者さんは幼少時に、あるいは思春期以降にトラウマを体験し、それが十分に扱われなかったり、新たに想起されたりするということが生じることが多い。」
もちろんそうではないケースもたくさんあるが、治療によりこれまで明らかでなかった「無意識内容」があらわになる、というプロセスは、実はこのようなケースが圧倒的に多い。いわば幼少時の性的外傷の記憶が想起されるというプロセスであるが、実はこれはフロイトがヒステリー研究の段階で扱っていたストーリーと同じものであることは重要である。ということはフロイトはこの境地にすでに精神分析を編み出す10年以上前に至っていたのか、ということになる。ある意味ではフロイトはそこから大きな迂回をしたわけで、精神分析の歴史で起きた迂回ともいうことが出来るのだ。そしてそれが現在の精神分析の世界の中で一つの大きな問題となっている。
そこで現代的な想定と、フロイトの発見は同じだったのだろうか。これは少し違っていたのだ。その点を説明する。
フロイトの考えをもう少し正確に書くとこうだった。
「幼児期のトラウマは心に深刻な影響を及ぼし、それによる欲動の高まりが影響が無意識にとどまり、それが後に治療により扱われる」。
そしてそれが無意識にとどまった理由は、それが幼児の性的願望と結びついており、それが罪悪感を生み、抑圧されていたからだ。」
ところが現在の臨床家は考える。「幼児期のトラウマは心に深刻な影響を及ぼし、その内容は解離されてしまい、それが後に治療により扱われる」。
違いを強調しよう。
l フロイト トラウマ → それによる欲動の高まりが無意識にとどまる。
l 解離理論 トラウマ → その内容は解離されてしまう。
ここで私が何を言いたいかと言うと、欲動、という迂回路を考えると、そこに無意識の要素がかかわってくるし、そうでないと、解離という概念が入り込んできて、これと無意識との関連があやふやになってしまう。そしてそこのところは精神分析理論では定説がないのである!!すなわち無意識を論じるのであれば、解離を含めたこの論点の整理が前提となるという事だ。