2019年8月26日月曜日

書くことと精神分析 推敲 2


学術書の著述の基礎となる「博士論文」

簡単に本を書く、と言っても、そのような経験を持たない人には難しいであろうし、何から手を付けたらいいかさえもわからないだろう。おそらくある程度のノーハウを習得する必要がある。もちろんノーハウがなくても本を書けることが出来る場合もある。あなたが何かのきっかけで時の人になったとしたら、出版社からゴーストライターがやってきて、あなたに23時間インタビューをして瞬く間に本を仕上げてくれるかもしれない。あるいは常人にはとても体験できないような出来事を書きおろせば、多少体裁が整っていなくても編集者が手を加えてベストセラーに仕立ててくれるかもしれない。しかし私たちのほとんどはたとえ斬新な発想を持っていたとしても、それを文章にしてくれる人など現れない。独力で本を書き上げなくてはならないのである。その際には私たちは正攻法で本を創ることが出来るようになるための、ある種のトレーニングが必要になる。それが博士論文の執筆である。そこでここからしばらくは、博論執筆のノウハウという、少し真面目な話になることをお許しいただきたい。
 ここでの私の主張は、ある程度の学術的な内容の本を書こうとしたら、そのノーハウを正式に学ぶことができるのが大学院の博士後期課程であるということである。もちろん博士論文は著書とは異なるが、質、量ともに著書の数歩手前の段階に到達しているものと見なすことが出来る。優秀な博士論文ならそのまま出版可能な域に達している可能性もあるし、実際できのいい卒論であれば、大学からの助成金に後押しをしてもらって著書として世に出るということは最近しばしば目にする。ただし博論として受理されたものの、そのままでは出版できるレベルではない場合も少なくない。もちろん博士課程に進んだから自動的に博士論文が書けるわけではないし、実際に論文を書かずに博士課程を修了する人もたくさんいる。ただおそらく博士課程に進んで、博士論文を書くことを一度は真剣に考えない人も少ないだろう。その意味では博士課程に進むことは、自分が博士論文を、あるいはその先にある本を書くことが出来る能力があるか、あるいはそれだけのモティベーションや根気があるかを見極めるプロセスでもあるのだ。
 そこでここからしばらくは「いかに本を創るか」、を「いかに博士論文を書くか」に置き換えて論じたい。もちろん博士後期過程に進まなくても将来著作を発表できる人はいるであろう。その場合には、その人は博士論文を書くという作業に含まれる段階を別の形で、あるいは自然に習得する力を持っていた場合と考えることが出来る。言い方を変えれば、博論を書くという作業は、文章を書くことに特別な才能を持たない人が正攻法で本を創るためのトレーニング(あるいはそれを諦める過程)と考えることが出来るのだ。