2019年7月25日木曜日

人の行動と臨界状況 1

冪乗則に関する考察の続きで、臨界状況について考えている。こんな状況を考えた。セリである美術品が出る。100万円では安い、ぜひ手に入れたいツボだ。ところが競争相手が出てきて、値を吊り上げていく。120万と言い出した。「120万か、まあもうちょっと押そう」と140万と希望値を伝える。「これでギリギリだ」と思いながら。すると相手は150! とさらに吊り上げる。あなたの中で何かがぷつんと切れる。「こりゃなしだな!」と引き下がる。あれほどよさげに見えた、深みと光沢の加減が何とも言えない青磁のツボ(まったくテキトー)である。でも140万だったら欲しくて、150万だったらいらないって、どういう事だろうか。差額は10万である。その10万で次に出てきたどうでもいいような骨董品を、「まあ。安い買い物だな」とか言いながら買っているのである。これって、なんか臨界に関係するような気がする。消費行動において起きているのは、この140万なら買うが150万なら買わないという、ある意味ではランダム性を帯び、理屈に合わない行動であり、実はそれが臨界状況を表しているのだ。人はこれを揺らぎの一種と捉えるかもしれない。丁度氷の枝の近くをフラフラ通った水の分子が、そこに付着しようかしまいか迷うという状況だ。揺らぎとは、まさにこの付こうか付くまいか、買おうか買うまいかといういい加減さであり、この種のゆらぎを含んだ行動は、たとえば株の取引などで顕著になるのではないだろうか。ちょっとした根の動きで行う売り買いは、おそらくかなりランダム性に富んでいて、それは微妙な状況であればあるほどサイコロころがしに近くなるのだろう。すると臨界状況を作り出しているのは、このサイコロころがしではないか、という事になる。まあ恣意性、といってもいいだろう。すると基本単位が恣意の積み重ねにより成り立つような人間の行動は、ことごとく臨界状況を生み出すのではないか。というよりかそこまで行ってやっと人間の行動の動きは止まるという感じだろうか。するとこう問いたくなる。人間の行動の中で、臨界まで進まないものはいったいなんだろうか。私が好んで引用するウォーコップ・安永理論では、人間の行動は生きる行動と、死を回避する行動のせめぎあいである。伸び伸びと自由に行っている行動は、すぐどこかで限界に達する。暑い夏に外出先から帰る。冷蔵庫から麦茶を出してのどを潤す。どんなにのどが渇いて、最初の一杯が心地よくても、大体3杯目くらいにはきつくなってくるだろう。それでも3杯目を飲み干すかどうか、微妙な時にサイコロは振られる。ここは臨界状況となり、揺らぎが働く。