2019年7月24日水曜日

冪乗則と揺らぎ 6


冪乗則についてのいつ終わるともしれない話につきあっていただいている。でも残念ながら、私にはまだ全然わかっていない。というか、本来そんなに簡単にわかることなどできないという気になっている。ただ一つこんなことが言えるだろうか? まずこの世の中はとんでもない複雑な世界である。そこにはそれぞれの運動にある種の最小単位を考えることが出来、それがさまざまなインターラクションを起こしながら、世界の動きを形成していく。世界が複雑で、そしてそこにエネルギー源があれば、それは常に動き、さまざまな現象を生み出す。そしてそれは基本的には「動的平衡」を保ちつつ変化していく。「動的平衡 dynamic equilibrium」とはWiki 様によれば、「互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、全体としては時間変化せず平衡に達している状態」だという。まあ当たり前だけれど。日本ではこの概念は、福岡伸一先生のエッセイで有名だ。でも動的に平衡であるという事は、臨界が近いという事でもある。世の中が大体安定しているという事は、そこでの動きはゆっくりである程度はどこに向かっているかが予測可能な状態だという事だろう。たとえば常温での水は、気体になって行く分子と液体になる分子の両方向のバランスが取れている。つまり「動的平衡」だ。ところが水が冷えて徐々に氷になって行くという状態では、動的平衡が崩れ、臨界状態が進行していることになる。だからこそ氷が大きくなっていくという形での「変化」が生じるのだ。つまり変化が起きる時に一つの動的平衡からもう一つの動的平衡の間に繰り広げられるのが臨界状態であり、そこには大概冪乗則が出現する、という仕組みなのだ。そしてこの世は常に変化しており、だからこそ冪乗則は至る所に存在する ubiquitous というわけだ。何か不思議なようで当たり前な話。
水から氷のことを考えよう。最初に水の中の塵を核にし、小さな氷の結晶が出来上がる。するとそこに次の氷の粒がくっつき・・・・。そこからの仕組みはDLAで見たとおりだ。変化はあるきわめて微小な形で起き、そこから小さな粒、大きな粒が出来上がり、小さな粒は小さいなりに、大きな粒は大きいなりにスケールフリーで出来上がっていく。この様子は見てきた。
では人間の活動についてもどうしてこれが言えるのか。というより何が臨界状態なのだろう? たとえば富はどうか。もし世の中の人間がすべて同一の富を有していたとする。商取引をして金の出し入れはしているから動的平衡は保たれている。もし富が変化していかないなら臨界は起きない。しかし実際の世の中では、貧乏な人は一生懸命お金を稼ごうとする。それぞれがある状態から別の状態に向かって動こうと企てている。これがいわば臨界状態を結果的に作り出しているという事だろう。丁度氷結する際に水の分子が一生懸命すでにできている氷の塊にくっついて、隙あらば氷として成長しようとしているのと同じように。あるいは地震の例では、マグマの流動という外的な影響により、地殻を形成する砂の粒がどれも隣りの粒とのずれによる力を緩和させようとしているという形で臨界状況を作っている。
あるいは株取引などは典型的ではないか。それぞれの投資家が少しでも利益を出そうとして、高くなったら売り、安くなったら買おうとする。だからそれぞれの投資家の存在はそれ自体が臨界状況を作り上げている。アルハート・ラズロ=バラバシの「バースト! 人間行動を支配するパターン」(青木薫訳、NHK出版、2012年)を読んでいると、人のメールや手紙を送るタイミングが冪乗則に従うという事が書いてあるが、メールを返す、手紙の返事を書くという事が冪乗則に従う時は、その人がかなりアップアップし、必死になって追い付こうとしている時に、臨界状態を表す「バースト」が現れる。この場合の臨界とはいっぱいいっぱいの状態であるということだろう。つまり自由意思で何かをのんびり行っている時は臨界は訪れず、やむにやまれずに何かを行っている時にこの臨界が現れる。となると臨界とは人間が必要に迫られて行動を起こすところには常にあらわれてもおかしくない。そして人間のその行動にとって、ちょうど氷や砂粒のかけらに相当するもの、それが揺らぎを構成しているという事だ。どうだろう。ちょっとまとまってきたかな。