初学者の陥りやすい思考
初学者について何かを書くとなると、結局説教じみた内容になってしまいそうで、恐縮である。でも30年前の初心の自分に出会ったとしたなら、伝えてあげたいことはある。それをいくつか挙げるつもりで書いてみよう。
私たちはどの年代になっても、何事かについての初学者としての経験を持つ可能性がある。趣味や学問で新しい分野を開拓する時、あるいはまったく新しい職場環境に入る時、私たちは右も左もわからない状態、ないしはそれに近い状態になる。そしてその状態で陥りやすい思考がある。
私たちはどの年代になっても、何事かについての初学者としての経験を持つ可能性がある。趣味や学問で新しい分野を開拓する時、あるいはまったく新しい職場環境に入る時、私たちは右も左もわからない状態、ないしはそれに近い状態になる。そしてその状態で陥りやすい思考がある。
この「右も左も分からない」という状態を言い換えるなら、「何が分からないかも含めて分からない」という状態である。そのような状態で私達が通常考えるのは、「これから自分が学ぼうとすることにはある種の『正解』が用意されているはずだ」ということである。あるいは正解はないとしても、専門家の間で何らかのコンセンサスが成立しているはずだと考えるであろう。そして初学者はその正解を、ある種の手続きを踏むことで的確に学ぶ手段がどこかにあると考える傾向にある。
初期の「刷り込み」問題
初学者は不安や好奇心に駆られ、上述の「正解」を得るために、成書を買い求めたり、その道の先達に教えを乞うたりするであろう。そしてそれらにより得られる情報を「正解」とみなして、さっそくそれを取り込もうとするだろう。これは一種の「刷り込み」に近い状態といえる。あるいは最初に与えられたベクトルないしは方向性と考えてもいいかもしれない。
このような初期の「刷り込み」と共に出発した初学者は、徐々に自らの経験値を蓄え、それとともに「自分が何を知っていて、何が分からないのか」を漠然と知るようになっていく。そしてその世界で「正解」と呼ばれるようなものは少なくとも自分が考えていたほどの明確な形では存在しなかったり、そこに経験者の間でも様々な見解の相違が存在したりするということが見えてくるものだ。
しかし人によってはこの初期の「刷り込み」が、結構尾を引くことがある。もちろん初学者がいろいろな理論を勉強することで自分が「これが本物だ」と思える考えや理論に逢着し、最初の「刷り込み」から脱出してそちらに乗りかえるということもあるだろう。しかしそれが起きないままに経験値が増すにつれ、この「刷り込み」自体を持ち続けることが、その人にとってのひとつのアイデンティティとして獲得されてしまう場合もある。
しかし人によってはこの初期の「刷り込み」が、結構尾を引くことがある。もちろん初学者がいろいろな理論を勉強することで自分が「これが本物だ」と思える考えや理論に逢着し、最初の「刷り込み」から脱出してそちらに乗りかえるということもあるだろう。しかしそれが起きないままに経験値が増すにつれ、この「刷り込み」自体を持ち続けることが、その人にとってのひとつのアイデンティティとして獲得されてしまう場合もある。
そのような事情は、職業選択にしても、対象選択にしても頻繁に見られる。自分が目の前のたくさんの選択肢の中から最善だと判断したから、というわけではなく、何らかの経緯でその職業や対象に出会ったり与えられたりしたという事実そのものが、自分のその後の半生をそれらと共にする最大の根拠となるのである。だからこそ、私たちはたまたま入社した会社にわが身をささげたり、見合い結婚した相手とその後の生涯の大部分を過ごしたりするのである。そこで少なくとも初学者は自分のアイデンティティと化した「刷り込み」によりいかに自分の思考や行動が規定されているかを自覚する必要があろう。
さて私は初学者の方々に、「刷り込み」が生じてしまう前に、いくつかの視点を提供したい。それらはいずれも、精神療法という大海で迷子になってしまわないために重要な点なのである。
クライエントの前で立ち往生しないために ― 面接方針を「共感するための明確化」と考えよ
もし初学者が面接中に突然、頭が真っ白になったらどうしたらいいだろう?たいていこの「頭真っ白状態」は、クライエントとの間での沈黙が生じた場合に起きる。初学者はこの沈黙を自分ひとりで処理しなければいけないと思う。ちょうど友人との会話の中で、自分の不用意な発言で気まずい沈黙が流れたときのように。そしてその沈黙をクライエントの前でどう扱ったらいいかかわからずに、パニックに陥ってしまうのだ。
おそらくクライエントの側からすればそのようなことが自分の治療者に起きることなど想像しないだろう。彼らは自分の問題を語ることで精いっぱいなのだ。自分の恥ずかしい話を聞いた治療者にどのように思われるかが心配で仕方がないかもしれない。そのような彼らに、治療者のあせりや動揺の表情の有無を見る余裕などないのだろう。しかしそれは実際に起きうることだ。
私は時々初心の治療者が心理療法の進め方がわからず、途方に暮れている姿を見かけることがあるが、それも無理はないことだと思う。心理療法とは海図を持たずに航海をすることに似ている。カウンセリングについて教える側も、その方法を順を追って懇切丁寧に示すわけでは決してない。ベテランの治療者でも、自分が何をすべきか、治療がどこに向かっているかが、ふとわからなくなってしまうことがしばしばあるものだ。
もちろん初診の治療者にとっても、このような不安や懸念がほとんど起きないようなセッションもある。クライエントがある辛い体験について息をつく間もなく語り、治療者がその話に相槌を打ち、共感を示すことで時間が過ぎていく。セッションの終了時にクライエントは「だいぶ気持ちが楽になりました」と感謝の意を表し、次回のセッションを待ち望むというような状況である。そのような面接は、いわばクライエントの側が治療者の手をとり、進むべき方向に導いてくれているようなものだ。しかし時間がたち、クライエントが最初に持っていた治療への期待や情熱を失いかけた時、あるいはクライエントが最初から受診に消極的だったり、治療時間中ずっと黙っていたりする時、治療者はふと疑問を感じる。「そもそも心理療法とはなんだろう? 私は今クライエントの前で何をすべきだろう?」そのような疑問は面接者が初学者であればなおさら起きてもおかしくない。
そのような時、治療者がクライエントの治療動機やニーズを改めて捉えなおすことは助けとなるであろう。「結局クライエントは私とのセッションに何を期待しているのだろう?」さらに端的に言えば、「セッション中にクライエントは何に、どこに達成感や安心感や癒され感、心地よさを感じているのだろうか?」と治療者が自らに問うてみることだ。
治療者とクライエントの関係は非常にドライなものになりかねない。特に決して安くない料金が絡む場合にはなおさらである。クライエント側としては、自らのニーズが満たされなければ、一回数千円から一万円近い料金を支払うセッションを続ける意欲を早晩失ったとしても、それはもっともなことだ。一セッションごとにニーズが満たされれば、治療は無難に継続していくと考えていい。逆にそれが起きていないと感じた時、治療者は大海原で無風状態に遭遇した帆船のような気分になるのである。
クライエントのニーズは実にさまざまである。とにかく一方的に気持ちを吐き出す機会を求める人。セッション中ずっと治療者が目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは自分の持ち込む質問に的確に答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、あるいはそれらの根底にあるものとして、クライエントには「自分を理解してもらう」ことのニーズがあることを、特に初心の治療者は心得るべきである。それはかなり直接的に面接における心地よさや満足感と結びついている。
私がなぜこのように考えるかといえば、これまでの経験上、クライエントの置かれた状況や有している精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感の重要な部分を形成しないというケースに出会ったという体験は思い出せないからだ。人が心を持つとはすなわち、他者からそれを「理解される」ことを希求することとほとんど同義である。どんなに深刻な妄想にとらわれていても、どれほど深刻な自閉傾向を持とうとも、理解してもらえることが安心感や心地よさを生まないということは考えられない。
もちろんクライエントが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさを生む」ということの苦しさを「理解される」ことは、結局はその人にとって安心感を生むはずである。
またアスペルガー傾向を有するクライエントは、人の気持ちを理解することにさほど興味がないかもしれない。しかしそれでも彼らは人から「理解される」という体験には大きな安心感や心地よさがともなうはずだ。彼らは自分の特異で奇妙な思考パターンが人には理解しがたいということを思い当たらないとしても、それだからこそ孤独を日常的に感じ、「理解される」ことを渇望するというところがある。少し逆説的な言い方をすればこうである。「彼らは人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求している」のである。
ここでシンプルな提言をするならば、それは治療者はいかなる心理療法場面においても、その目的が「クライエントの話を理解し、共感すること」であると取りあえずは見なすことが出来るということだ。そうすることで初心者が一番頭を悩ますセッション中の沈黙の問題は、その処理の仕方がより明確になるであろう。沈黙はクライエントの反応を待っているか、あるいはこちらが次の質問を投げかけるためのタイミングをうかがっているかの二つに一なのである。
一つ明確にしておこう。治療者はクライエントの前で頭が真っ白になっている余裕など、本来はないはずなのだ。なぜなら治療者は常にクライエントとの「理解してもらう」というニーズに応え続けなくてはならず、そのための質問をしていかざるを得ないからだ。(そして幸運なことに、その質問をする技術は、クライエントに対面することなく、ある程度一人で練習することが可能なのである。いわゆる「シャドウ問診」である ― 後述。)
ちなみにこの問題は、治療者のセッション中の質問の問題にもつながる。精神分析ではよく「分析家は余計な質問はすべきでない」という警句を聞くかもしれない。しかし実際の臨床場面では、たとえフォーマルな精神分析のセッションであっても、治療者がクライエントに何らかの問いかけをすることが重要な意味を持つことは少なくない。
ここで治療者が向ける質問に関して一つのシンプルな理解を示すならば、「治療者の質問は、クライエントを理解し、最終的に共感を行うことが出来るようになるための手段だ」ということである。治療者はクライエントの体験を心に写し込むためには、その詳細を明らかにしなくてはならない。そのためにはより多くの情報がどうしても必要である。たとえばクライエントが「大変なことが起きてしまいました…。」と深刻な顔で治療者にいきなり訴えかけたとする。その時点では治療者には「何か深刻なことが起きたようだ、大変だ。」ということしかわからない。漠然とした不定形の塊を投げかけられたようなものである。共感しようにも、これだけでは無理なのであり、それに対して質問を投げかけることでそのアモルファスな塊が徐々に形をなしていく。治療者はそれをある程度把握したことを伝えることで、クライエントの側は「理解された」という感覚をより確かのものにしていくのである。その意味では質問は「明確化」のためであり、それはクライエントの体験の理解とそれに対する共感を深めるために、そしておそらくはそれのみのために行われるべきものである。
ちなみに治療者が自分を理解してくれることを目的として問いかけてくる言葉は、それがプライベートで繊細な部分に触れるとしても、おおむねクライエントにとっては侵入的には体験されないものである。ただしもしそれが不躾で侵害的に感じられたことを、クライエントが暗に伝えてくるのであれば、もちろん治療者はそれ以上その件について問いかけることは控えるべきであろう。しかし相手を理解するという目的のために投げかけられた質問である限りは、その言葉の選び方やタイミングが最善なものではなかったとしても、治療者には倫理的な責はない。
ところでここでの「治療目標は、クライエントの話を理解し、共感すること」という主張は、いわゆる支持的な療法の考えにある程度は沿っているものの、伝統的な分析的精神療法とも認知療法とも、あまり馴染まないと考える方もいるかもしれない。たしかにそれはクライエントの洞察を深めようとか、その思考プロセスを考え直そうといった考え方とは、大きく異なるように感じられるだろう。しかしそれらと全く相入れないというわけではない。むしろクライエントが「理解された」と思えることは、伝統的な分析的精神療法や認知療法の治療の出発点として考えるべきである。クライエントが人生の中で似たような問題を他者との間で繰り返し起こしたり、不適応的な考えを持ったり不用意な行動を起こしてしまうということが生じている場合、その際の当惑や不甲斐なさを含めて治療者が理解することは治療の成立する前提条件とさえ言える。そこで「(そのような状況であれば)そう感じるのも無理はありませんね。」という気持ちを治療者が持つ事が出来、それをクライエントに伝えることなしには、クライエントがそこから抜け出すことを援助することなどできるはずはないのだ。
ただし、と、ここで付け加えなくてはならない。人を理解することは難しい。否、治療者がクライエントを理解したと感じることはやさしくても、クライエント自身が理解された、と感じるような仕方で理解することは時として非常に困難なことである。とくに発達障害やパーソナリティ障害をともなうクライエントの場合、彼らの考えはユニークすぎて、私たちの理解しようという努力をすり抜けてしまう傾向にある。それはいくらダイヤルを微調整してもとらえることのできないラジオ放送のようなものである。クライエントの持っている「理解されたい」という希求は、実はそれが完全な形で実現することは決してありえないと言っていいだろう。そしてそれに直面することを助けることもまた、心理療法の一つの重要な役割なのかもしれない。
その意味では心理療法に携わる人たちにとってはさまざまな精神疾患についてそれらに馴染み深くなり、クライエントの持つさまざまな障害に対する深い理解を示すことができるようになるのは大切なことである。さらにはクライエントが人生上体験するさまざまな問題、たとえば離婚、別離、事業の失敗、破産、受験の失敗・・・などの体験を直接、間接に持つことで、臨床家のクライエントを理解する力は深まる。ただし、それらの体験を持ちすぎるにより臨床家自身が「生き急いで」しまい、傷つき疲弊してしまわなければ、の話ではあるが。
ところでこの「理解してもらうこと」というテーマは、クライエントの持つ孤独感の問題に最終的に行きつくことがわかる。自分の問題を理解してもらうことは、それまで誰にもわかってもらえずにひとりで人生を生きてきたクライエントの孤独感を和らげるという意味があるのだ。このように考えると他者から理解される事を望まない人はいない、という意味はより明確になるだろう。それは人は深刻な孤独に耐えることはできない、ということと同義なのである。本来人は孤独を嫌うし、それを苦痛に感じるものなのである。孤独が好きだという人は、それまで自分を理解し、愛してくれた存在の内的イメージが豊富なので、現実の友人やパートナーを持たないということがそれほど響かないということを意味するのだろう。それらの内的イメージを持てるほどに幸運でない人たち、つまり私たちの大部分は、孤独に耐えることは難しいのである。
おそらくクライエントの側からすればそのようなことが自分の治療者に起きることなど想像しないだろう。彼らは自分の問題を語ることで精いっぱいなのだ。自分の恥ずかしい話を聞いた治療者にどのように思われるかが心配で仕方がないかもしれない。そのような彼らに、治療者のあせりや動揺の表情の有無を見る余裕などないのだろう。しかしそれは実際に起きうることだ。
私は時々初心の治療者が心理療法の進め方がわからず、途方に暮れている姿を見かけることがあるが、それも無理はないことだと思う。心理療法とは海図を持たずに航海をすることに似ている。カウンセリングについて教える側も、その方法を順を追って懇切丁寧に示すわけでは決してない。ベテランの治療者でも、自分が何をすべきか、治療がどこに向かっているかが、ふとわからなくなってしまうことがしばしばあるものだ。
もちろん初診の治療者にとっても、このような不安や懸念がほとんど起きないようなセッションもある。クライエントがある辛い体験について息をつく間もなく語り、治療者がその話に相槌を打ち、共感を示すことで時間が過ぎていく。セッションの終了時にクライエントは「だいぶ気持ちが楽になりました」と感謝の意を表し、次回のセッションを待ち望むというような状況である。そのような面接は、いわばクライエントの側が治療者の手をとり、進むべき方向に導いてくれているようなものだ。しかし時間がたち、クライエントが最初に持っていた治療への期待や情熱を失いかけた時、あるいはクライエントが最初から受診に消極的だったり、治療時間中ずっと黙っていたりする時、治療者はふと疑問を感じる。「そもそも心理療法とはなんだろう? 私は今クライエントの前で何をすべきだろう?」そのような疑問は面接者が初学者であればなおさら起きてもおかしくない。
そのような時、治療者がクライエントの治療動機やニーズを改めて捉えなおすことは助けとなるであろう。「結局クライエントは私とのセッションに何を期待しているのだろう?」さらに端的に言えば、「セッション中にクライエントは何に、どこに達成感や安心感や癒され感、心地よさを感じているのだろうか?」と治療者が自らに問うてみることだ。
治療者とクライエントの関係は非常にドライなものになりかねない。特に決して安くない料金が絡む場合にはなおさらである。クライエント側としては、自らのニーズが満たされなければ、一回数千円から一万円近い料金を支払うセッションを続ける意欲を早晩失ったとしても、それはもっともなことだ。一セッションごとにニーズが満たされれば、治療は無難に継続していくと考えていい。逆にそれが起きていないと感じた時、治療者は大海原で無風状態に遭遇した帆船のような気分になるのである。
クライエントのニーズは実にさまざまである。とにかく一方的に気持ちを吐き出す機会を求める人。セッション中ずっと治療者が目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは自分の持ち込む質問に的確に答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、あるいはそれらの根底にあるものとして、クライエントには「自分を理解してもらう」ことのニーズがあることを、特に初心の治療者は心得るべきである。それはかなり直接的に面接における心地よさや満足感と結びついている。
私がなぜこのように考えるかといえば、これまでの経験上、クライエントの置かれた状況や有している精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感の重要な部分を形成しないというケースに出会ったという体験は思い出せないからだ。人が心を持つとはすなわち、他者からそれを「理解される」ことを希求することとほとんど同義である。どんなに深刻な妄想にとらわれていても、どれほど深刻な自閉傾向を持とうとも、理解してもらえることが安心感や心地よさを生まないということは考えられない。
もちろんクライエントが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさを生む」ということの苦しさを「理解される」ことは、結局はその人にとって安心感を生むはずである。
またアスペルガー傾向を有するクライエントは、人の気持ちを理解することにさほど興味がないかもしれない。しかしそれでも彼らは人から「理解される」という体験には大きな安心感や心地よさがともなうはずだ。彼らは自分の特異で奇妙な思考パターンが人には理解しがたいということを思い当たらないとしても、それだからこそ孤独を日常的に感じ、「理解される」ことを渇望するというところがある。少し逆説的な言い方をすればこうである。「彼らは人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求している」のである。
ここでシンプルな提言をするならば、それは治療者はいかなる心理療法場面においても、その目的が「クライエントの話を理解し、共感すること」であると取りあえずは見なすことが出来るということだ。そうすることで初心者が一番頭を悩ますセッション中の沈黙の問題は、その処理の仕方がより明確になるであろう。沈黙はクライエントの反応を待っているか、あるいはこちらが次の質問を投げかけるためのタイミングをうかがっているかの二つに一なのである。
一つ明確にしておこう。治療者はクライエントの前で頭が真っ白になっている余裕など、本来はないはずなのだ。なぜなら治療者は常にクライエントとの「理解してもらう」というニーズに応え続けなくてはならず、そのための質問をしていかざるを得ないからだ。(そして幸運なことに、その質問をする技術は、クライエントに対面することなく、ある程度一人で練習することが可能なのである。いわゆる「シャドウ問診」である ― 後述。)
ちなみにこの問題は、治療者のセッション中の質問の問題にもつながる。精神分析ではよく「分析家は余計な質問はすべきでない」という警句を聞くかもしれない。しかし実際の臨床場面では、たとえフォーマルな精神分析のセッションであっても、治療者がクライエントに何らかの問いかけをすることが重要な意味を持つことは少なくない。
ここで治療者が向ける質問に関して一つのシンプルな理解を示すならば、「治療者の質問は、クライエントを理解し、最終的に共感を行うことが出来るようになるための手段だ」ということである。治療者はクライエントの体験を心に写し込むためには、その詳細を明らかにしなくてはならない。そのためにはより多くの情報がどうしても必要である。たとえばクライエントが「大変なことが起きてしまいました…。」と深刻な顔で治療者にいきなり訴えかけたとする。その時点では治療者には「何か深刻なことが起きたようだ、大変だ。」ということしかわからない。漠然とした不定形の塊を投げかけられたようなものである。共感しようにも、これだけでは無理なのであり、それに対して質問を投げかけることでそのアモルファスな塊が徐々に形をなしていく。治療者はそれをある程度把握したことを伝えることで、クライエントの側は「理解された」という感覚をより確かのものにしていくのである。その意味では質問は「明確化」のためであり、それはクライエントの体験の理解とそれに対する共感を深めるために、そしておそらくはそれのみのために行われるべきものである。
ちなみに治療者が自分を理解してくれることを目的として問いかけてくる言葉は、それがプライベートで繊細な部分に触れるとしても、おおむねクライエントにとっては侵入的には体験されないものである。ただしもしそれが不躾で侵害的に感じられたことを、クライエントが暗に伝えてくるのであれば、もちろん治療者はそれ以上その件について問いかけることは控えるべきであろう。しかし相手を理解するという目的のために投げかけられた質問である限りは、その言葉の選び方やタイミングが最善なものではなかったとしても、治療者には倫理的な責はない。
ところでここでの「治療目標は、クライエントの話を理解し、共感すること」という主張は、いわゆる支持的な療法の考えにある程度は沿っているものの、伝統的な分析的精神療法とも認知療法とも、あまり馴染まないと考える方もいるかもしれない。たしかにそれはクライエントの洞察を深めようとか、その思考プロセスを考え直そうといった考え方とは、大きく異なるように感じられるだろう。しかしそれらと全く相入れないというわけではない。むしろクライエントが「理解された」と思えることは、伝統的な分析的精神療法や認知療法の治療の出発点として考えるべきである。クライエントが人生の中で似たような問題を他者との間で繰り返し起こしたり、不適応的な考えを持ったり不用意な行動を起こしてしまうということが生じている場合、その際の当惑や不甲斐なさを含めて治療者が理解することは治療の成立する前提条件とさえ言える。そこで「(そのような状況であれば)そう感じるのも無理はありませんね。」という気持ちを治療者が持つ事が出来、それをクライエントに伝えることなしには、クライエントがそこから抜け出すことを援助することなどできるはずはないのだ。
ただし、と、ここで付け加えなくてはならない。人を理解することは難しい。否、治療者がクライエントを理解したと感じることはやさしくても、クライエント自身が理解された、と感じるような仕方で理解することは時として非常に困難なことである。とくに発達障害やパーソナリティ障害をともなうクライエントの場合、彼らの考えはユニークすぎて、私たちの理解しようという努力をすり抜けてしまう傾向にある。それはいくらダイヤルを微調整してもとらえることのできないラジオ放送のようなものである。クライエントの持っている「理解されたい」という希求は、実はそれが完全な形で実現することは決してありえないと言っていいだろう。そしてそれに直面することを助けることもまた、心理療法の一つの重要な役割なのかもしれない。
その意味では心理療法に携わる人たちにとってはさまざまな精神疾患についてそれらに馴染み深くなり、クライエントの持つさまざまな障害に対する深い理解を示すことができるようになるのは大切なことである。さらにはクライエントが人生上体験するさまざまな問題、たとえば離婚、別離、事業の失敗、破産、受験の失敗・・・などの体験を直接、間接に持つことで、臨床家のクライエントを理解する力は深まる。ただし、それらの体験を持ちすぎるにより臨床家自身が「生き急いで」しまい、傷つき疲弊してしまわなければ、の話ではあるが。
ところでこの「理解してもらうこと」というテーマは、クライエントの持つ孤独感の問題に最終的に行きつくことがわかる。自分の問題を理解してもらうことは、それまで誰にもわかってもらえずにひとりで人生を生きてきたクライエントの孤独感を和らげるという意味があるのだ。このように考えると他者から理解される事を望まない人はいない、という意味はより明確になるだろう。それは人は深刻な孤独に耐えることはできない、ということと同義なのである。本来人は孤独を嫌うし、それを苦痛に感じるものなのである。孤独が好きだという人は、それまで自分を理解し、愛してくれた存在の内的イメージが豊富なので、現実の友人やパートナーを持たないということがそれほど響かないということを意味するのだろう。それらの内的イメージを持てるほどに幸運でない人たち、つまり私たちの大部分は、孤独に耐えることは難しいのである。