さて117ページには、いよいよ本稿にとって意義の大きい章が設けられている。それは「広範に見られるIWAと、それに基づくトラウマ理論」。この章でフランケルはIWAがそれほど深刻ではないトラウマにおいても生じ、結局IWAが生じるという意味ではこれらもトラウマのカテゴリーに入れるべきだ、という議論を展開する。論文の流れとしては当然であろう。ただそこで出てくる例がよくわからないで困っている。ある女性は小さいころから女の子っぽく、セクシーであることを親からほめられ、またそのように強いられていた。(変な親だな!)そこで成長してからも、ストレスを体験するとセクシーな振る舞いをした、という例。ある男性が車を売りに出したところ、広告に応じてきた男性が極めて高圧的で、対応しているうちに謝ったり、申し訳なく思ったりしたという例。ある上司は常に威張っていて機嫌が悪く、何かを聞きにいくと「そんなこともわからないのか、ばか者」といわれ、自分も自分のことが馬鹿に思えるようになったという例。そうか、割と単純に考えればいいのだな。
私ももうひとつ付け加えよう。「杭の長さが足りないんです」と元請けに伝えると、「やかましいことを言うな!」と怒鳴られ、「ばかなことを報告してしまった」と感じたくい打ち業者。ついでに個人的な例。「このスープ、味が薄いね。」「何いっているの、しっかりだしが効いているじゃない!!」「そうか、おれは味覚音痴だからなあ。」
私ももうひとつ付け加えよう。「杭の長さが足りないんです」と元請けに伝えると、「やかましいことを言うな!」と怒鳴られ、「ばかなことを報告してしまった」と感じたくい打ち業者。ついでに個人的な例。「このスープ、味が薄いね。」「何いっているの、しっかりだしが効いているじゃない!!」「そうか、おれは味覚音痴だからなあ。」
これらはみなIWAが生じていて、だからトラウマだという。フーン。このロジック、極端だが悪くないかも。人はこれをPI(投影同一化)と考えるかもしれない。取り入れ、と捉える人もいるかもしれない。でもPIだとしてのその特殊例と考えるだろう。トラウマの基本はこれである、というロジック。
私はしばらくこれに同調することにするが、ひとつ決定的な問題がある。それはトラウマを受ける側の感受性である。彼らに人の気持ちを読む力が旺盛な場合には、それほど相手が高圧的でなくても、それに服従してしまうということはないだろうか?