私がトラウマについて精神分析との関連で論じる際は、いくつかの断り書きが必要になる。一つには、これは当たり前のことであるが、私が定義する精神分析の特殊性である。そしてそれは現代アメリカにおける関係精神分析と呼ばれる流れのことだ。関係精神分析においては、トラウマは重要なテーマとして扱われるが、それは精神分析がある種の進化を遂げて、21世紀に入ってやっとその域に達したかといえば、そういうわけではない。むしろその向かう先には、精神分析の中に一つの流れとして存在していたある文脈と密接なつながりを持ちつつ、ある意味では精神分析の中では傍流として扱われていた流れに関係しているといえる。
少し極端な言い方をすれば、解離―トラウマの流れは、精神分析の最初に、フロイト自身の中に存在し、後にフェレンチに引き継がれ、それに対してフロイト自身が全力を持ってそれを阻止したということもあり、現在に至っているのである。そしてそれは現代の精神分析により再び再発見され、新たな命を吹き込まれつつあるといっていいのである。
Atlas-Koch はフェレンチが述べた「言葉の混乱」は、実はアナリスト―アナリザンドの間にも生じるという可能性について述べる(Atlas-Koch, G. (2010). Confusion of Tongues: Trauma and Playfulness. Psychoanal. Perspect., 7:131-152.)これは極めて問題発言である。よってこのフェレンチの概念についてのフランクルの論文を少し読んでみる。(Frankel, J. (2002). Exploring Ferenczi's Concept of Identification with the Aggressor: Its Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic Relationship. Psychoanal. Dialogue)
このフランクルの論文は13年前に発表されたものだが、重要な内容を含んでいる。フランクルは冒頭で、「攻撃者との同一化」(面倒なのでIWAと書かせていただく。(Identification with the aggressor の頭文字である。) フランケルが強調するのは、通常はIWAはアンナ・フロイトが1936年に提唱したと理解されているが、実は1933年にフェレンチがすでに述べたことである。それは例の「言葉の混乱」(1933)で用いられた概念だからだ。フェレンチによれば、IWAにおいては、トラウマの際に私たちは「自分たちを消す」という。それはカメレオンのように周囲に溶け込み、自分を脅かすものになりきり、それにより自分を防御することだ。「私たちは自分であることを中止し、他人が思っている自分についてのイメージになりきる。」そしてこの意味でのIWAは明らかなトラウマでなくても生じ、例えば遺棄 abandonment や孤立や、より大きな力に服従することbeing subject to a greater power でも起きるという。
もう少し詳しく見よう。フェレンチはそれを三つの段階に分ける。1.「私たちは精神的に、自らを攻撃者に従属させる。」2.「それにより攻撃者が何を望んでいるかを知る。つまり攻撃者の心の中に入り込み、それが何を考え、感じているかを知り、それにより彼が何をするかを知ることで自らを守る。」 3.「私たちは自らの身を守るようなことをする。」これはアンナ・フロイトのIWA概念に見られるような、攻撃者に成り代わる、といったイメージとはむしろ逆のニュアンスがあることに注目すべきである。フェレンチによれば、子供は自分が感じると期待されていることを感じ、自分をいじめることによる快感を、攻撃者と分かち合うことさえある。そしてしばしば攻撃者に対する崇拝にまでつながっていくことがあるというのだ。