ただしもちろん親子の関係はこのように一方的なものとして割り切ることはできない。実は多くの場合生殺与奪の権は実は子供の側が握っている場合もある。あるいはその方が普通かもしれない。子供は無力で親を100%信じて頼ってくる。そこで子供の身に起きることは、すべて親の責任である。仕事を持つ母親ならそのことを痛いほど知っているはずだ。保育園に預けに行く途中のわが子が熱を出していると知った瞬間に、母親はその日のスケジュール全体を大きく変更する必要があることを悟る。医者に連れて行くのは自分の責任だ。仕事に穴をあけることのつらさ、しかし仕事を子育てに優先しようとしているのではないかという罪悪感も計り知れない。そして子供に万が一のことがあったと想像したときの恐怖。それは母親の側に子への愛があるからだ。
「願望の押し付け」ということであれば、実は子から親へのそれもまた活発に生じているであろう。しかしそれは発達早期にはむしろ正常なことだ。乳幼児は自分が空腹なときは、世界が空腹であり、母親はそれを魔術的に知ってすぐにでもおっぱいを与えてくれると思うだろう。分析家ドナルド・ウィニコットのいう「錯覚」はこうして起きる。しかしそれは子供にとってまだ自他が未分化な状態にある場合には起きるべくして起きることであり、母親は子供がやがて自然に「脱錯覚」するまでは、徹底してそれに付き合う以外にないのだ。
このように考えると母子の関係は、お互いがお互いの運命のカギを握りあっているのっぴきならないものといえる。そしてその緊張関係の中で子供は育っていく。親になった経験のある人ならわかるだろう。昔を振り返ると子育ての最初の数年間が人生の中で少し浮かび上がって見えるのは、この緊張感とそれに伴う充実感のために人生の質そのものがそれ以外の時間とは異なっているからであろう。少なくとも通常の親子関係の子育て期間とはそういうものである。
さて「しんどい」母親とエイコとの関係の何が、通常のそれとは違うのだろうか、と問うてみる。確かに母親はエイコを「ギーン」とにらみつけ、言うことをきかすところは普通ではないかもしれない。しかし彼女は娘を愛していないのだろうか?漫画には母親がしばしばエイコに笑顔を見せ、一緒に遊び、愛情を注ぐ情景も描かれている。おそらくエイコの身に何かあったら、母親は不安と恐怖に慄いていたかもしれない。しかしそれでも自分の願望をエイコのそれと同一視してしまうという。これは病理だろうか?おそらく。しかしそれは程度問題であり、おそらく多くの母娘間で多かれ少なかれ起きることだ。というより母娘間の「正常」な関係の中に、この種の「願望の押し付け」はもう「コミ」になっているとみていいだろう。
さて徐々に成長するにつて、娘は母親から離れたいと思うようになる。しかしそれは容易には実現しない。最初は自分がまだ未成年で一人で生きていく能力がない以上やむを得ないとあきらめるしかない。しかし徐々に娘は自立する年齢に至る。だがそれでも母親から離れられない。一つには強烈な罪悪感。自分という自由に支配することができる存在を亡くした母親がいかにさびしい思いをしなくてはならないかは、手に取るようにわかるのだ。そしてもう一つは自分自身の寂しさ。不幸にして自分でものを決めるという機会を与えられてこなかった。いきなりカンガルーの母親の袋から出されても、独り立ちすることへの耐性がまだできていない。そしてそのことをしっかり観察しているしんどい母親は、「ほらね、ウチから出ていくなんて無理なことがわかったでしょ?あなたはお母さんなしでは生きられないのよ。」と言うのだ。
「願望の押し付け」ということであれば、実は子から親へのそれもまた活発に生じているであろう。しかしそれは発達早期にはむしろ正常なことだ。乳幼児は自分が空腹なときは、世界が空腹であり、母親はそれを魔術的に知ってすぐにでもおっぱいを与えてくれると思うだろう。分析家ドナルド・ウィニコットのいう「錯覚」はこうして起きる。しかしそれは子供にとってまだ自他が未分化な状態にある場合には起きるべくして起きることであり、母親は子供がやがて自然に「脱錯覚」するまでは、徹底してそれに付き合う以外にないのだ。
このように考えると母子の関係は、お互いがお互いの運命のカギを握りあっているのっぴきならないものといえる。そしてその緊張関係の中で子供は育っていく。親になった経験のある人ならわかるだろう。昔を振り返ると子育ての最初の数年間が人生の中で少し浮かび上がって見えるのは、この緊張感とそれに伴う充実感のために人生の質そのものがそれ以外の時間とは異なっているからであろう。少なくとも通常の親子関係の子育て期間とはそういうものである。
さて「しんどい」母親とエイコとの関係の何が、通常のそれとは違うのだろうか、と問うてみる。確かに母親はエイコを「ギーン」とにらみつけ、言うことをきかすところは普通ではないかもしれない。しかし彼女は娘を愛していないのだろうか?漫画には母親がしばしばエイコに笑顔を見せ、一緒に遊び、愛情を注ぐ情景も描かれている。おそらくエイコの身に何かあったら、母親は不安と恐怖に慄いていたかもしれない。しかしそれでも自分の願望をエイコのそれと同一視してしまうという。これは病理だろうか?おそらく。しかしそれは程度問題であり、おそらく多くの母娘間で多かれ少なかれ起きることだ。というより母娘間の「正常」な関係の中に、この種の「願望の押し付け」はもう「コミ」になっているとみていいだろう。
さて徐々に成長するにつて、娘は母親から離れたいと思うようになる。しかしそれは容易には実現しない。最初は自分がまだ未成年で一人で生きていく能力がない以上やむを得ないとあきらめるしかない。しかし徐々に娘は自立する年齢に至る。だがそれでも母親から離れられない。一つには強烈な罪悪感。自分という自由に支配することができる存在を亡くした母親がいかにさびしい思いをしなくてはならないかは、手に取るようにわかるのだ。そしてもう一つは自分自身の寂しさ。不幸にして自分でものを決めるという機会を与えられてこなかった。いきなりカンガルーの母親の袋から出されても、独り立ちすることへの耐性がまだできていない。そしてそのことをしっかり観察しているしんどい母親は、「ほらね、ウチから出ていくなんて無理なことがわかったでしょ?あなたはお母さんなしでは生きられないのよ。」と言うのだ。
ちなみに同様なことが母親と息子については相対的に起こりにくいのはどうしてだろうかとも考える。私の中では、結局母親は男性についてはシロートだからということになる。母親にとっての息子は、特に思春期を過ぎたあたりからその生態がよくわからないままに、手元を離れ、やがて向こうの世界に消えてしまうのだ。「ギーン!」とやっても結局は振り切って行ってしまう。すると今度は愛すべき息子から見捨てられるのではないかと脅される側に立たされるために、母親は息子を支配することをあきらめるのだ。
しかし「ギーン!」が効く息子であれば、話は別である。多かれ少なかれ娘と似たようなプロセスが待っているかもしれない。すると今度は息子の結婚相手、嫁がしわ寄せを体験することになるのである。娘の場合は、息子ほど「ギーン!」を振り切れないだろう。しかし多くの場合は娘も最終的にはそれを逃れ、自分の人生を歩むようになる。そのうち結婚して娘ができて、ふと気が付くかもしれない。自分も時々「ギーン!」を使い始めていることを・・・。
しかし「ギーン!」が効く息子であれば、話は別である。多かれ少なかれ娘と似たようなプロセスが待っているかもしれない。すると今度は息子の結婚相手、嫁がしわ寄せを体験することになるのである。娘の場合は、息子ほど「ギーン!」を振り切れないだろう。しかし多くの場合は娘も最終的にはそれを逃れ、自分の人生を歩むようになる。そのうち結婚して娘ができて、ふと気が付くかもしれない。自分も時々「ギーン!」を使い始めていることを・・・。
実は私はこの文章が母親のバッシングにつながらないことを祈るばかりである。そのために二つの点について最後に断っておきたい。
一つは母親の「ギーン!!」の被害を特に受けてしまうような、素直で感受性の高い娘の要因も大きい、ということだ。それは一部には生まれつきの問題かもしれない。同じ「ギーン!!」に被爆しても、強くたくましくそこから身を引き離す娘もいるだろう。しかし悪魔に魅入られたように屈してしまう娘もいる。その差が生まれる原因はいろいろ考えられるだろうが、本稿では詳しく論じる余裕はない。
そしてもう一つ。父親の「ギーン」はそれこそ腕力を伴いかねない点ではるかに悪質である可能性がある。男性の性的な嗜癖や他人の気持ちを読む能力の限界は、さらに男性のナルシシズムの問題を助長しかねない。母親の自己愛が娘にその力を及ぼす裏には、父親(夫)から母親(妻)への暴力的な支配の問題が伏在する可能性もまた高いのである。
そしてもう一つ。父親の「ギーン」はそれこそ腕力を伴いかねない点ではるかに悪質である可能性がある。男性の性的な嗜癖や他人の気持ちを読む能力の限界は、さらに男性のナルシシズムの問題を助長しかねない。母親の自己愛が娘にその力を及ぼす裏には、父親(夫)から母親(妻)への暴力的な支配の問題が伏在する可能性もまた高いのである。