分析の「間主観的な文脈における「第三主体 the third」(Ogden)はどうか?オグデンによれば、両者の間主観性により形成されるものの、手に取ることが出来るような対象tangible objectを意味しないという。ところが共同の現実は両者のコミュニケーションにおいて直接的に感じ取れるものについての議論なのである。また第三主体は二人がいるところに、すでにある、というニュアンスがあるが、CRは二人で創造し、確認していくというニュアンスがあるのだ。
この直接感じ取ることが出来るという性質は、共同の現実が意識レベルの現象であることを意味する。しかしそれは無意識レベルの関与を軽視することでは決してない。事実分析カップルに課せられた課題の一つはその共同の現実の背後にある無意識的、ないしは象徴的な意味合いを探求することでもあるのだ。
共同の現実で、どうして両者の主観の相違がそれほど強調されなくてはならないのか。それは現代的な精神分析においては、その目標は患者個人の洞察を達成することにのみ限定されなくなったからである。それは患者が自分だけでなく他者や世界に目を開かれることであり、そこには他者の主観に彼がどう映るかの探索も含まれる(Gabbard,1997, Benjaminn)。
シンディは最初は私を彼女に対して懲罰的な姿勢を持つと感じた。その事実を受け取った私は、後ろめたさを感じるとともに、私自身の中に、彼女を「よくやった」という気持ちと「やり過ぎだったのではないか」という、肯定と否定の両方の気持ちへの気付きを促し、それを彼女に示すことになった。それを聞いたシンディは、私の中に様々な矛盾した気持ちを持つ人間を見出したのだろう。それはこれまで人を「自分を肯定してくるか、否定してくるか、どちらか」という二者択一的な見方をしていた彼女にとっては新しい体験になったに違いない。つまり他者を両側面を持った存在と見なすようになったのである。