2015年3月16日月曜日

15年前に「現実」について書いたもの(6)


「共同の現実」と間主観性
というタイトルで、現実の無謬性について論じられていく。現実の無謬性は、両者の間に自由で対等なコミュニケーションが成立する素地を与える。なぜなら治療場面で何が「間違い」で何が「正しい」という制限から解放されるからである。治療者と患者の間の「共同の現実」とは、二人の間で共通したもの、というのとも少し誤解を招きやすい。むしろ違いもまた「二人の間ではこういう風に違うのだ」という意味で共同の現実に組み込まれていくのだ。(意見の不一致を認め合うagree to disagree というわけだ。)
「共同の現実」は様々な概念との類似性や関連性を持つ。例えばサリバンの「合意による確認consensual validation 」との類似性が挙げられる。この概念はいわゆる一者心理学的な視点からは大きく踏み出した、その時代にとっては画期的な概念であったと言える。ただしこの概念は患者の持つ病理性に関する両者の合意に重きを置く傾向にある。他方「共同の現実」(以降CRとしよう)はむしろ共通性と相違性の認識に向けられる。
 またコフートの共感の概念はどうであろうか? 共感とは、コフートによれば「身代わりの内省vicarious introspection」ということになる。すなわち治療者が患者の主観世界に入り込んで患者の代わりに内省をするという営みを意味する。これは共同の現実の構成における活動の一部を表していると言えよう。しかしこれは治療者から患者への一方向的な働きかけというニュアンスがあり、またそこで目指されるのは治療者の側からの患者への合意、ないしは同一の現実の体験ということになる。しかしCRは相互性が重要であり、そこでの両者の差異が重んじられる。いわば患者の側もまた治療者へ共感を行い、互いにその共感を照合し、そこでの合意形成を行う。また共感によっては理解しえなかった、ないしは誤って理解したような他者の心の内容は、共同の現実では依然として話し合われ、その共感の限界も含めて合意形成がなされる点が大きな特徴と言える。