2013年3月30日土曜日

精神分析と家族療法(13)


そこで私が読んだのは、Psychoanalytic Ideas and Systemic Family Therapy: Revisiting the Question ‘Why Bother?’ (Carmel Flaskas) ここでは構造主義家族療法は、1960年代にはじまり、いかに精神分析とは異なるか、という議論から出発したが、最近、特にこの15年は、精神分析への歩み寄りが起きているといいう。本来精神分析への批判は、それが個人の病理に焦点を当てすぎたことに向けられることが多い。一方家族の構成員の間の関係を知る家族療法は、むしろ最近の関係主義的な精神分析と似ていると考えられる、というのが私の感想だ。
この論文を読んで一つ印象深かった部分がある。それは臨床の実践においては、理論の相違はあまり関係ない、と言うことだ。これは全くその通りであり、しかもこの実践とは、私がこれまでのブログで「面談」と称していたものと同じようなものなのだ。確かに「面談」は実践そのものであり、そこに理論的な差異はあまり登場しないのであった。そこでそれをもとに少し書き直した。

精神分析と家族療法における「中立性と現実」
私は精神分析のトレーニングはいちおう経ているが、自分の立場はかなり自由な立場であると考えている。(もうちょっと言えば “unconventional”ということである。)しかしそれでも私なりに分析的にやっているつもりなのだ。それでは私にとっての分析的、とは、何か? それは治療者が中立的な立場を保つことである。そしてその中立性とは、転移、逆転移の間断なき検討により得られるものと考える。
他方、私は家族療法家ではないが、治療場面で家族には日常的に出会っている。そして時には自分のかかわりが家族療法的であると感じることも少なくないのだが、精神分析的スタンスとある種の共通性を感じることが少なくないのでそれについて論じたい。結論から言えば、家族とかかわる際も、一種の中立性が問われるからである。
さて中立性という観点からは、私は個人とかかわる際も、家族とかかわる際も特にスタンスや依拠する理論を大きく変えているという自覚はない。というよりは同じ個人療法でも、認知療法を行なうときと、精神分析とで、あまり根底にある考え方は変っていないような気がする。そしてそこにあるのは、次のような考えである。
実際の臨床実践 clinical practice においては、理論的な相違はあまり問題とならない。それはおそらく患者の側が特に治療者がよって立つところの治療方針を指定してくることが普通は起きないからである。「私は人とうまく話せません。森田療法で直していただけますか?」とは普通はならない。(ただし最近ではネットで検索して、治療法を指定していらっしゃる方も増えてきているのも確かだ。)私は臨床実践とは高度のスキル、個々の治療技法 skill を超えためた「メタスキル」が要求される場面であると考える。そこではそれぞれの理論は必要に応じて用いられるものであると思う。あるスキルを用いないことを判断するのは、そのスキルを越えた力と考えるべきであろう。他方で患者の要求するものは、決め付けられないこと、共感して欲しいこと、そして家族がよりよく機能するようなアドバイスをほしいと言うことであり、それをかなえてくれるのであれば、どのような技法でもいいのだ(技法を用いなくてもいい、とも言える)。

ここで私がそのような考えにいたったいくつかのビニエットをあげたい。
ケースA
<削除> 
 私はこのような時、いろいろなことを心で思ったり、実際に言ったりしている。
1718くらいの子供って、本当に何も言わないんですよね。(私の一人息子も、本当になにも言わないんだから。」あるいは「本当にそのくらいのときの子供って、もう親から取ることしか考えないですよね。親をモノ扱いする・・・・」と言いながら、実は自分の1718歳のころを思い出している。「自分も全くそうだった。親には大事なことはむしろ言わないでおこうとした。じゃないと大変なことになる、とでも言わんばかりに。もちろん親不孝だった。親の都合は考えなかった。でも、今となってはそのころ親にそれを我慢してもらってよかったと思う・・・・・」このせりふの大部分は言葉には出さない。雰囲気だけである。そして気持ちはモノ扱いされた親が「まあ、しょうがないか・・・」と苦笑している姿である。また「父親は何もしてくれないんです。」に対しては、私の十八番を出す。「そうですよ。男はどうしようもないです。」ここら辺は私が男であるという特権から言えることであるし、父親も私を本当ににらみつけることはない。それは私が「私もそのひとりです。」と目で言っているからである。
ということで私は家族の話を聞いていて、どの立場もそれなりにわかる、ということになる。その時はおそらくそれぞれの家族から飛んでくるであろう転移の対策も考えているのだ。「どうせウチの旦那みたいな考えなんでしょう?」「どうせウチのお父さんみたいなことしか思いつかないんでしょう?」「先生はそうやって一人だけええカッコしているんじゃないんですか?以前に相談に行ったどこかのカウンセラーとそっくりじゃないですか。」
私がジョイニングをし、家族をシステムとして扱いつつ、ここの構成メンバーからの転移に敏感になるのはこういうときであり、そこに分析と家族療法のバウンダリーは感じないのである。私はこのような治療を行なっているときに、家族全体を扱っているか、ここの構成員を扱っているか、という区別を付けることができない。ある意味では療法を同時に扱っていると言えるのではないかと思う。
さて私はこのようなとき、自分の位置が、家族のそれぞれから離れて、なんとなく空中に浮かんでいるようなイメージを持つ。よく見えないけれど、それだけいろいろな感じ方、転移を寄せ付けるようなところがある。よくわからない不思議な存在。何を考えているのかつかめないが、それなりに判ってもらっている気もする。


結局必要とされるのは技法ではなくメタ技法である

メタスキルという概念は、スピリチュアリズムの世界ではよく用いられる概念である。もともとはエイミー・ミンデルの概念であり、彼女はプロセス指向心理学(POP)の創始者であるアーノルド・ミンデルの奥様ということである。メタスキルという名前の通り、それはスキルを超えた「心理療法家・セラピストとしての『姿勢』」であり、それをエイミーが夫のアーノルドの治療姿勢をモデルとしてまとめたものである。エイミーによれば、メタスキルとは自発的に自然に発揮されるものであり、それを意識化し、テクニックと結びつけることで非常に大きな力を発揮するという。家族療法の最中にあるセラピストは、それこそいつ氏捨てミックなし店を発揮し、いつ転移を重んじたらいいかをマニュアルどおりに判断しているわけではない。当意即妙に行なうしかない。家族療法も個人療法もある意味ではいつも「待ったなし」なのだ。