2013年3月29日金曜日

精神分析と家族療法(12)



ここまでのまとめ

 そろそろこのシリーズに、一つの区切りをつけなくてはならない。このままではあまりに離散的だ。これまでの私の主張をまとめるならば、次のようになる。家族にかかわる治療者は、個々の構成メンバーの話を聞いてそれぞれの言い分を理解することで、家族で生じている問題について、誰のどのような言動や性格が問題の原因であり、なにが引き金になっているかが「見えなく」なっていく。ただしそれは家族というシステムの複雑さが理解され、それぞれのメンバーの関係性が重層的であり、そこで生じていることに単純な因果関係を見出すことが困難になるということでもある。全体が漠然として雲をつかむようだ、というのではなく、詳細が明らかになってきて、その複雑さに呆然とする、あるいは魅了されるという意味である。
ここで補足的に言えば、これは「自分自身が見えない」という感覚と似ている。私たちは自分たち自身が一番見えない。時には自分の顔が分からなくて、鏡で確認する。何度も鏡を見るというのはそういうことだ。集合写真を撮っても、できた写真を見てみると、ほかの人はそれらしい顔をしているのに、自分の顔だけは「自分らしくない(本当はもっといい、または悪い、こんなはずではない)」などと思ってしまう。
自分に問うてみるといいだろう。自分はどういう人間か。自分は幸せか。それとも不幸か。自分はいい父親や母親で、いい夫や妻だろうか?いい子供だろうか?正直な人間なのか、裏表があるのか?この世に生きていていいのだろうか?・・・・・・
それらの答えは日々異なるし、同時にいくつもの正解があるように思える。人に非難されると、自分がとんでもない人間のように思えてくる。だからセラピストの一言が助けになるのだ。自分はいい息子だったか親不孝だったかは、それにまつわる思い出が次から次へと出て来て、どれもが少しずつ異なった答えに導く。それでもある意味では自分をわかっている部分があり、自分の中で動かない部分を実感しているから比較的安定して生きているのである。家族を、あるいはシステムを理解するということは、そのような意味で分からなくなることである。
これは家族療法では、ミニューチンらの提唱する構造派家族療法のいわゆる「ジョイニング(joinning)」におおむね該当すると考えていいだろう。そして家族の全体を理解する為に、その中に分け入り、それぞれの立場を聞き取るという姿勢は、いわゆる関与しながらの観察と言っていいのであろう。しかし私はジョイニングをやっています、と宣言すると専門の家族療法家に怒られてしまうから、それは控える。私はあくまでもミニューチンと一緒に写真をとってもらったというだけである。(私はよほど自慢したいらしい。でもあの写真、ここ数年見かけていないなあ。)
と、ジョイニングまでは良いが、その後の治療方針は「自然流」で行くしかない。治療者がさらに家族を知る上で自然と発せられる質問は、運が良ければ治療効果を持つ。それはマイルールに縛られている自分の頭には発想としてわかない、しかしよりリアルな視点を提供するかもしれないからだ。それにより、家族の構成員も、お互いのことがわからなくなっていく。娘にとってはあれほど横暴で勝手な、軽蔑すべき人間に思えていた父親が、ただのおじさんに見えてくる。「この人、いったいなんなの?」ふと父親に「結局あたしにメンツをつぶされるのがこわいの?」と尋ねると、治療画面でセラピストの前で正直モードにある父親なら「うん、実はそうなんだ…」となるかもしれない。こうして娘も父親のことを父親と見えなくなっていったらシメタものだ。しかし普通はそうは簡単にはならない。普通の顔を示した父親も、たいていはセッションが終わって日常生活に戻れば、元のこわい父親の顔を取り戻すのである。

治療方針はリアリズムに裏打ちされなくてはならない

実は私は治療、ということをあまり信用していない。そんなに簡単に人は良くなっていかないのである。私たち(少なくとも私)はそんな特別なパワーを持ってはいない。治療する側は「治療してます」と思いたいし、受けている側も「治療を受けている」と思いたいのだろう。その意味では治療とは一種の儀式のようなところがある。お金を払って、アポイントメントを取って、白衣を着た治療者の前に座ってする「面談」。時間が来たら終わって会計を済ます。最後に薬などが出てきたら、ますますそれらしくなる。でも心理士さんなどに、「では患者さんの診察をお願いします。」とか患者さんに「前回の診察の時に、先生が…・」などというとき、恥ずかしくなる。診察に値することを自分はしているのだろうか。ここだけの話であるが、どうも自信がない。
それでも治療の意義を否定するわけではない。一応治療 treatment という呼び方もいいだろう。ただ治療といっても治療者側が積極的な手段を用いるのとは裏腹に、あるいはそれと並行して、患者さんたちは自分たちの自己治癒力を発揮している。治療者は時々その役になっている、という程度にすぎないのだ。
家族療法において、治療者がそこの問題に一緒に入り込んで、保護色のようになって見えなくなるプロセス。そこから出てくる「素朴な反応」に基づく問いかけが、時には家族にとって役に立つ、という文脈もそこにはまる。治療者の何をピックアップし、何を役立ててくれるかは、実は患者の側にかかっている。治療者は使おうと思えば使えるような資源を提供しているにすぎないのだ。実はこの見方は治療者が自分たちの仕事を卑下したり脱価値化するということとは違う。これがリアリズム(現実主義)というわけだ。
全く違う話題だが・・・・。黒田氏が日銀総裁になり、物価上昇2%の目標を打ち出した。それに対して麻生財務相は「そんなに簡単にいかないよ」とか言っている。でももともと経済って、暗中模索で、それこそ蓋然的、偶発的、予想不可能なものの典型ではないか?人の心とどっこいどっこいなのである。アベノミクスだって、そもそもアメリカでの株価上昇と連動してたまたまうまくいっているように見えるだけじゃないのか?
経済政策はそもそもリスクをはらんだものであり、この政策は、〇〇という効果が期待されるが、××というリスクもあります。私はそれを考えたうえで、この政策を提案いたします。自信はありませんが・・・・。
これはリアリズムである。もちろん国民はこれには納得しない。もっと堂々と自信を持って主張しないと、国民はだれも支持してくれない。
家族療法も、あるいは治療法一般がそういうところがある。「これが治療です。」と打ち出したい。そうでないと医者も患者も納得しない。でも本当はそれが有効かどうかはわからない、というリアリズムを心の中ではもっていたいと思うのである。
現実はわからない、治療は有効かわからない、という問題発言も、実はその立場からのものである。・・・・
ということで次は少し論文でも読んでみるか・・・・・。