2012年2月16日木曜日

心得10.治療の最終目標の一つは、来談者が「自分はこれでいいんだ」と思えることである

  先週の日曜日の対象関係論勉強会。一緒に発表した藤山直樹先生と相当言いたいことを言い合ったが、楽しかった。お互いに精神分析に情熱を傾けているいうことは確認できた。彼の真摯さはとてもよくわかった。藤山先生を見ていると、非常に精神的健康度が高く、うらやましいという気分になった。

人間は皆、心のどこかに「自分はこれでいいのだろうか?」という疑問を持っているものである。面接者が出会う来談者は、それをもう少し尖鋭な形で感じていることが多い。ある女性の来談者Aさんは、アルコール中毒で仕事をしない夫から時々暴力を振るわれるという。そして「お前が俺をちゃんと支えてくれないから俺は酒を飲むんだ」と言われ続けたそうだ。こんな屁理屈でもAさんは「やはり自分が悪いのだろうか?」と考えさせられてしまっている。何しろAさんは夫に毎日それを言われ続けるだけでなく、舅、姑からもこう責められるのだ。
「うちの息子は、あんたと結婚するまでは、酒を飲むことはなかった。だからこれは嫁のせいだ」
親としては可愛いわが子を擁護することに必死なのだ。もしこんなことを言われ続けた場合、正常な神経を持っている場合にでも人は気弱になっていくものだ。そこで面接者がAさんに「あなたは悪くない.あなたはあなたのままでいいんだ」というメッセージを伝えたとしたら、それは大きな意味を持つだろう。
ただし当然一つの問題が生じる。世の中には様々な問題を抱えている人たちがいるが、その中には「自分はこれでいいんだ」と思って欲しくない人たちもいる。彼らは「自分はこれではいけないのだ」ということを自覚し、むしろ自分を変えて行くべきなのかもしれない。たとえばAさんの夫についてはどうだろう?彼こそ妻を非難するのではなく自分の飲酒の問題に直面化し、それを改善して行かなくてはならない人のように思える。
しかしその彼が来談者となって面接者に次のように話すのだ。「結婚して以来、妻のAは私のことを心の底で見下しているようです。私のことを軽んじたり軽蔑していることは言葉の端々に感じられます。すると家に帰って彼女と顔を合わせるのがつらくなり、どうしても酒に逃げてしまうんです。僕は生きて行く価値のないダメな人間でしょうか?」
なるほど話は聞いてみるものである。Aさんの夫の言うことも全く間違っているわけではなさそうだ。Aさんは確かに夫を見下すような態度を取っているのかもしれない。とすると自分を変えなくてはならないのは本当はAさんのほうかもしれない・・・・。
こうして彼の話を聞き続けた面接者は、「僕は生きて行く価値のないダメな人間でしょうか?」と言う夫に、「あなたはあなたでいいんですよ」と言う言葉をかけているかもしれない。
ただしこちらの場合は、Aさんが「自分はこれでいいんだ」と思い至ることとは少し事情を異にする。たしかに夫の方も根源的な意味での自己肯定感を持てずに、妻に見下され、馬鹿にされたという思いに過剰に取り付かれてしまっているかもしれない。しかし彼がその結果として酒におぼれ、妻に暴力を振るうということに関しては、決して「これでいい」わけではない。彼は自分のそのような点を直さなくては、本当の意味で「自分はこれでいいんだ」と言う感覚をもてないであろう。
ところでこの心得10は、実は「アマい」と思われかねない。世の中には「自分はこれでいいんだ」と思うべきでない人もたくさんいるはずだ。そう、社会の一番の問題は反省すべき点をたくさん持ちながら無反省に生き、権力を振り回し、他人を蹂躙する人々が跋扈していることだろう。
ただし彼らはまず絶対に心理療法を求めてはやってこない。そして万が一彼らが弱気になり、面接者に援助を求めてきた場合、そこに垣間見るのは以外にも脆弱で弱気な自分、常に「これでいいのか」と言う問いを心のどこかに抱えている人たちかもしれないのである。

2012年2月15日水曜日

心得15.面接者は先入観なく話を聞くことを心がけよ


人の話を普通に、つまり先入観なしに聞くということは実は非常に難しいことだ。人は大概は先入観をもって他人の話を聞くからである。お互いをよく知り合っているはずのもの同士の会話でも、相手の話を普通に聞く事が難しくなることはよくある。親子間や夫婦間でこれはよく生じる。たとえばこんな会話がその例である。
 A:「ねえ、はさみを使った後はもとのところに戻しておいてね。」
B:
「わかったよ、もう、・・・・・ いちいち。」
A:
「何よ、その言い方!」
B:
「あ~、キミとはやってられない。」
普通に聞くということが出来なくなった者同士の会話の例である。「使ったものは元に戻しておいて」というAの要求はもっともらしいものに聞こえる。しかしすでに最初の「ねえ」という呼びかけに、苛立ちが表現されていたのかもしれない。そしてBAからの字義通りのメッセージを先入観なく素直に聞いて、反省して謝罪するということはしない。そしてAはそのBの態度に腹を立てる。それに対してBが更にキレる。
ここにはお互いに「どうせ相手は~という人だ」という決め付けがある。AにとってBはいくら言っても使ったものを戻してくれないだらしない人。BにとってAは細かいことをいちいちうるさく言う人。だから互いのメッセージは、その直接的な内容を超えて、相手に対する先入観を裏付けるあらたな証拠として相手に届くことになり、それが感情的な反応を引き起こしているのである。
ところでこの場合のA,Bがそれぞれ相手に抱いているイメージ、あるいは「どうせあの人は~なひとだ」という先入観や決めつけは極端だろうか? こんなことくらいで感情的にならずに、克服していくことで共同生活は成り立つのではないか? 互いに一見胴でもいい事にこだわっているように見える。しかし共同生活を続けている人々の間では、大体折り合いのつくところはすでについていることが多い。ABの間でさえ、そうなっているはずだ。
たとえばBがトイレを使ったあとにちゃんと蓋を閉めないが、そのことについてAはあまりこだわらないから、この件では揉め事は起きていないのかもしれない。またAは薄味が好きで、Bも似たようなところがあるから、料理の味付けについては喧嘩にはならないのだろう。
ところがAにはこだわりがある。彼女はかなりの整理好きで、文房具を置く位置には非常にうるさいのだ。他方ではBは短時間に何回もはさみを使う作業をする際に、いちいち道具箱(もちろんAの一存で設置したものだ)の所定の位置に戻しに行くのは面倒くさいし不必要だと思っているが、なんとかAに従っているというわけだ。同様にBのあるこだわりの中にはほとんどAはついていけないものの、何とか我慢していることがある。そしてそれらの点についてはもう互いの主張を「普通に聞く」ことは出来ない段階まで進んでしまうのだ。
はさみの置き場所とは他愛もない例だが、ABは互いの人生観や倫理観の違いがそこに表れるようなかかわりについても同じような食い違いを見せる可能性がある。Aが何度も持ち出す過去の親へのうらみ、Bの繰言である上司への不満。これらについてはお互いに「自分の方にも問題があるんじゃないの?」という見方を心の底ではしている。しかしお互いにそれを面と向かって言うと角が立つので、表面上はお互いの立場を擁護して、それぞれが攻撃している相手を一緒になって責めるというスタンスを取っている。しかしそれにも限度がある。家事や仕事に疲れている際は特に身を入れて聞くことができない。すると「もういい加減にしてくれ!」となる可能性がある。そう、同居するパートナー同士は互いの話のあるものについては先入観なしに普通には聞かない状態にいたっているものなのだ。
さて来談者の話を聞く面接者の姿勢は、もちろんパートナー同士とは異なる。そこには相手への尊重があり、遠慮もある。それは両者が基本的には社会的な関係にあるからであり、面接者は来談者に対してサービスを施す側だからだ。二人はため口をきくこともないし、はさみを共有することもない。そして面接者は来談者の話を素直に、普通に、何度も聞く。一つには、50分以内にそれから解放されることがわかっているからだということもある。しかし何よりも「やれ、やれ」「またか、参ったな。」という、それ自体は自然に起きる反応に流されることなく、それらを一つ一つチェックする事を、面接者の機能としてわきまえているからである。
おもえばA,Bも実は最初に出会った頃は、そうだったのだ。最初にはさみの置き場所を指定されたBは、Aのいつにないこだわりに当惑しながらも、Aに嫌われないためにすなおに言うことを聞いていたはずである。あるいはAの方も、最初はあまりうるさく言わないようにして、Bが戻し忘れたはさみを、そっと道具箱に戻していたのかもしれない。「やれ、やれ」を互いに自分の内側で処理していたのだ。
治療関係においては、面接者は来談者とのかかわりで生じる内心の「やれ、やれ」を一つ一つチェックしながら、それが自分のほうのこだわりから来ている反応なのか、それとも来談者のこだわりからなのかを考える。そしてそれがどのような形で来談者にフィードバックされたら言いか(あるいはするべきかどうか)を考える。
このように先入観なく普通に相手の話を聞くとは、実はすごく込み入った仕事なのだ。「普通に聞く」は決して「普通には出来ない」かもしれないのである。「普通なかかわり」について細かく考えていくのは、面接者の業であり、それ自身は決して「普通」ではないかもしれない。だから精神療法はきわめて人工的に「普通」や自然」を作り上げる作業とも言える。
そういえば以前に著した「自然流精神療法のすすめ」の中で、精神療法過程を「盆栽のようなもの」と表現したことを思い出した。思えば悪くない比喩のように思う。

2012年2月14日火曜日

心得16.来談者に贔屓目に話を聞くことが多くの場合は共感である

よく面接者は中立性を保ちつつ来談者の話を聞くことを薦められる。しかし本当にそうであろうか?むしろ来談者の立場にかなり贔屓目に聞くべきであることが多い。次のようなやり取りを考えてみよう。
来談者:「また店長に差別されたんです。」
面接者:「そうですか。この間もそんなことがあったそうですね。」
来談者:「今度はもっとひどいんです。連休はシフトに入れてほしくない、と前から言っていたのに、他にいないからどうしても入って欲しい、と強引に押し切られました。明らかに私に不利なスケジュールをぶつけてくるんです。」
面接者:「なるほど。あなたは前からそこは旅行にいくつもりだとおっしゃっていたんですよね。」
来談者:「そうなんです。店長は私をやめさせようとしているのかも知れません。」
面接者:「なるほど。その可能性もありますね ・・・・・・。」
このようにセッションが始まるとする。面接者の方は、もちろん来談者が店長の行為を被害的に受け取りすぎている可能性も考えている。いや、かなりその可能性が強いと踏んでいるかも知れない。でも面接者は「店長はひどい人だ」という来談者の主張にいったんは沿う。明らかに来談者に味方をし、来談者の話を贔屓目に聞くのだ。これは技法だろうか、それとも面接のプロセスの中でのごく自然な流れなのだろうか?それはたいていはそうすることが来談者に対して共感的だからだ。
来談者の話を贔屓目に、好意的に聞くというのは多くの場合、来談者に対する共感と等価である、という理屈は、当たり前すぎてちょっと盲点かもしれない。でも私達人間の物事の捉え方は、たいていは自分に甘い、すなわち自分に贔屓目であるということは確かなことである。だから面接者がそれに沿うことは、面接者が自分の心を正確に理解してくれている、と感じ取られる。そしてそれが結局は共感なのである。
(以下略)

2012年2月13日月曜日

心得17.療法家は「楽しい」治療を心がけよ

「楽しい」治療を心がけよ、と言うと必ず反論が聞かれる。「治療は楽しいはずはない。自分に関する真実に直面する苦痛なプロセスのはずである。」しかし、だから・・・なのである。苦痛に満ちたプロセスであるからこそ、治療設定が快適さに欠けて冷酷なものであれば、それこそそれ自体が外傷的になってしまいかねないのである。


         (以下略)

2012年2月10日金曜日

心得101. 困ったらとりあえずエンターキー

今日は三田病院の引っ越しであった。荷物を新病院に移し、新しいコンピューターシステムの練習をしたが、薬の処方の入力の仕方がわからない。「デパス 3錠」、と入力したはいいが、次に用法として「3× 朝、昼、夕食後」、と入れたいのに何をどうやっても、その用法のウインドウが出てこない。薬の上をダブルクリックしても、困った時の右クリックをしてもダメ。20分くらい悪戦苦闘。一緒に考えてくれたU心理士もわからない。近くにたずねる人もいない。薬の名前を入力したら、あとは当然用法に移るはずなのに、なんと使い勝手の悪いシステムだろうと呪っていたら、たまたま押したエンターキーで用法ウィンドウが出てきた。なんだ、そんなこと???そこで心得101.(番外編) 困ったらとりあえずエンターキー。

心得27. 「禁欲規則」はまず治療者が自分に課すべし

精神療法はいかにあるべきかについて考える際、フロイトが唱えたの「禁欲規則」rule of abstinenceの意味や功罪について一度は真正面から取り上げ、考えをまとめておく必要がある。 フロイトは禁欲規則に関して、おおむね次のようなことを言っている。「精神分析においては患者の願望を満たしてはいけない。すなわち患者に愛情を与えたり褒めたりすることは慎まなくてはならない。治療者は患者が見ることを避けていた無意識内容に直面化するのを手伝うことが、その本分なのだ。」(実はもう少し微妙な言い方をしているが、おおむねこのように取れる。)
この規則はフロイトの唱えた諸原則や規則の中では、あまり関心を払われていないようであるが、私は無視できない問題であると考える。精神分析を一生の仕事のひとつと考えている私としては、治療とは何か、人を助けることとはどういう事かについて常に問うて来たが、このフロイトの禁欲規則をどのように捉えるかはもう30年来の重大な問題である。フロイトが100年前に提案した規則など、どうでもいいのではないかと思うかも知れないが、療法家の中にはこの規則をかたくなに守ることで、本来の治療者としての力を発揮できない場合が多いのであるから、この問題は深刻なのである。
かつて論じたことではあるが、現代的な禁欲規則の理解としては、まずそれを療法家の側に適応すべきものであるといえよう。すなわち療法家が治療関係の中で満たしたい個人的、神経症的な願望についてそれを放棄することが先決である。これは事実上「療法家はまず自らの逆転移を点検せよ」ということと同等なのだが、このことに比べれば「患者の願望を満たしてはいけない」という考えはほとんど重要性を持っていないとさえいえる。否、「患者の願望を満たしてはいけない」は非倫理的ですらあるのだ。なぜなら自らがよくなりたい、苦しみから逃れたい」というのが患者の本質的な願望であれば、それを満たすのが療法家の務めだからである。
もちろんここには分析家からの注釈が入るだろう。「いや、患者の神経症的な願望は満たしてはならない、ということですよ。自己の向上につながる願望はその限りではありません。」
でも何が神経症的な願望で何がそうでないかは、本当は識別が難しい。「たとえばマズローの欲求階層説に出てくる低レベルのものについては満たさず、ハイレベルのものは満たしてもいい」という考えは一見合理的だが、それこそ生理的な願望、たとえば「トイレに行かせてください」という願望なら無視すべし、というわけにもいかないだろう(ちょっとたとえが極端か?)。
そして最大の問題がある。それは療法家が一番持ちやすい?患者のひとつは問題を追及し、それを指摘したいという願望なのである。もちろ。もちろん逆に患者の長所を指摘し、ほめて勇気付けたいという願望を持つ療法家もいるだろう。教師やスポーツのコーチなどの中にはこの後者をモットーとする人たちも多いであろう。しかしこと精神療法においては、そうでないというケースが圧倒的に多い、というのが私の経験から言えることである。褒める、長所を指摘するという方針をその基本指針として掲げている心理療法は聞いたことがないからだ。(続く)

2012年2月9日木曜日

心得19.事例

事例)
患者から厳しいメールをもらうことがある。かなり以前の話だが、隔週で会っているある若い男性の患者Aさんから次のようなメールをもらったことになる。
「先生が昨日のセッションで言ったひところがずっと残っています。あの時先生は私のことをストーカーのようだといいました。でもそれは私の彼女に対する純粋な気持ちを全然理解していらっしゃらないことを証明していると思います。だいたい先生とはこれほど何度も話しをしてきても、やはり全然私の気持ちを汲み取ってくれていないのだと思うと、とてもむなしくもあり、情けなくなりました。」 このメールを読んだ瞬間私は苛立ちを体験した。すぐにAさんに送るメールとして次のような文面が浮かんだ。
「メールは緊急用に用いるだけになっていましたね。この種のコミュニケーションに使うのは適当ではありません。また念のために申しますが、私は昨日のセッションで、別にあなたがストーカー行為をしている、といったつもりはありません。『ストーカーのように思われるという可能性はありませんか?」と尋ねただけです。この種のミスコミュニケーションがあなたを時々悩ませていませんか?・・・・・』
しかしこのメールをそのままAさんに出すのは適当ではないということがわかっている。私の心は苛立ちでバランスを崩しているからである。そこで私はメールを「寝かす」ことにする。一晩置いて考え直すと、少し心のバランスが戻っている気がする。昨日頭に浮かべた文面は、まるでAさんと一騎打ちをしているようなところがある。正論で押しながら、やはり「私の言ったことを誤解するなんて、なんて人だ!」と思っているのである。「あなたがストーカーだといったわけではない、ストーカーと思われはしませんか、といっただけだ」という私の主張は、何かへ理屈のようにも思えてくる。ただし実際にAさんの執拗さが、彼女にとっては煩わしく思えているのではないかという懸念はあった。でも言い方に気をつけなくてはならなかっただろう。さらに言えば、「緊急連絡用」と断りながら、私自身もメールをAさんを論駁することに使っているということも自己矛盾だ。
         (以下略)

2012年2月8日水曜日

心得26. 直面化を促すのは、不可知的な「現実」である

精神療法で重要なテーマの一つとして、どのように患者に直面化を迫るか、すなわち彼らがあまり目にしたくないような事柄や問題点を直視するのをどのように促すか、という問題がある。「あなたは~についての意識化を避けていますね。」というコメントや、「あなたのなさったことはこういう点で問題だったわけですね。」というメッセージは、それを直接伝えることを避けたとしても、言外に患者の側に伝わってしまう場合がある。そして療法家がこの直面化を促すということをことさら避けるとしたら、自らの役目を果たしたことにはならないと考える人もいるであろう。
(以下略)

2012年2月7日火曜日

● 心得29.助言やアドバイスは容易には汎化されない事を肝に銘じよ

私は本書(本にするつもりである)の多くの心得については、スーパーバイザーとスーパーバイジーの関係と、療法家と患者の関係を同類のものと考え、一緒に論じる傾向にある。しかしこの心得29については、主としてスーパービジョンにおける助言のあり方に限って考えてみる。もちろん精神療法においても療法家から患者に助言やアドバイスが与えられることはあるだろう。しかし通常の精神療法においては、療法家の主たる役割はそれらとは本質的に異なるものと考えられるため、ここではスーパービジョンにおける話に限定しておくのである。


    (以下略)

心得9.心に常に天秤を思い描く(マインドフルネス)

昨日のアップし忘れ。

この心得は、実は他の心得に対してそれを総合するようなものである。というのも他のいくつもの心得が、結局は中庸の重要さ、バランスをとることの大切さに関連しているからである。だからこの9は特に必要というわけではないかもしれない。ただし最近欧米の文献でしばしば聞かれるマインドフルネスとの関係で加えておきたい。
マインドフルネスはいわゆる弁証法的行動療法(DBT)を提唱したマーシャ・リネハンが精神医学に導入した概念と理解しているが、その根幹にあるのが、この心のバランス、ということである。これをリネハンは、情緒的な心と知的な心の間のバランスであるとしている。マインドフルネスmindfulness という言葉自体は、仏教のsati から来ていて、awareness気付きという翻訳があてられることがある。しかしわかりやすく言えば、心が一方に傾こうとしている時に、もう一方の見方とのバランスを取るということである。その意味で私が心の天秤と言い表すことに近い。
(以下略)

2012年2月5日日曜日

心得21.治療者は自己開示を「適正価格」で行う

 山口市では、帰りの便までの時間に、河野先生に五重の塔に案内していただいた。室町時代にできた瑠璃光寺(るりこうじ)という塔である。小さな池の向こうに見せるたたずまいは絶景であった。山口は西の京といわれるそうだが、その意味がわかった気がした。仕事のほうもまあまあ。ただ・・・・ホテルの部屋がとても寒く、ダウンジャケットを着てその上に布団をかぶってねた(こんなことは初めてだ。でも面白かった。)企画を主催なさっているのはみな素敵な方々であった。河野先生、渡辺先生、原先生そのほかの方々に感謝。
治療者の自己開示ほど「適正価格」が求められるものはないであろう。通常の対人関係を考えてみる。求められてもいないのに自分のことについての話をする人は、見ていてはしたないし苛立たしい。自己開示の押し売りは控えなくてはならないのだ。しかし売り惜しみもよろしくない。すなわち正当な形で求められている自分についての情報を伝えないというのも問題なのだ。だから自己開示には「適正価格」が要求されるのである。これは通常の対人関係についていえることであるが、精神療法における関係性についても同様である。すなわち治療者は自分についての情報は必要に応じて患者に伝える(患者から控える)ということである。したがって分析的な治療者の「匿名性の原則」はあくまでも相対的なものである・・・・
      (以下略)

2012年2月3日金曜日

心得19.治療者は常に直感とは反対を考えよ

明日は山口県に出張の予定。山口県に降り立つのは生まれて初めてということになる。友人である藤山直樹先生の出身地でもある。

療法家は患者との対話では、常に直感はと反対の発想を持つべきであるというのがこの章の趣旨である。もちろん直感に従って自然に出てくる言葉とまったく逆のことを常に語るべきである、と主張しているわけではない。療法家が最終的にどのような言葉を選んで患者に告げるべきかは実に複雑な問題である。しかし言葉を選ぶ段階では、無反省に自然と出てくる考えを常に批判的に検討しなくてはならないのだ。

    (以下略)

2012年2月1日水曜日

心得7. 事例

事例)
認知行動療法の創始者アーロン・ベックはまだご健在である。彼は若い頃、他の同年代の精神科医の多くががそうしたように精神分析のトレーニングを行っていた。そしてその最中に、認知療法的なアイデアを得たと講演などで語っている。彼によればある分析の患者の自由連想による面接を終えてふと「今日のセッションはどうでしたか?」と問うてみると「先生には自由連想でも言えないことがあります」という。どうしてかと聞くと初めてその患者さんは「私は何を話しても先生に馬鹿にされるような気がするんです」と打ち明けたという。その女性はうつ病を長く病んでいたが、ベック先生はうつ病の患者さんが一般的に、ある種の決まった考えを常に持っていて、それが彼らの病状を悪化させているのではないかと考えたという。そしてそのパターン化された考え方に焦点を絞って治療を行うことを考え、認知療法を創始したというわけである。このように考えると精神分析と認知療法は結構近い存在であるということが実感できるであろう。