「汝怒るなかれ」の原則を守ったとしたら、人は自分の誤りを正してもらう機会もなく、道を誤り続けるのではないか?」「自分の子を叱りつけることも出来ないで、親の役割をはたすことなど出来るのであろうか?」うーん、分かる、もっともらしい。「汝怒るなかれ」は人工的で、いかにも人間の本性に逆らい、無理をしているという感じが伴う。
私はこれについてはなんとなく答えを持っている。たとえばバイジーのAさんがかなり不味い過ちを起こしてしまったとする。例えば寝坊して、学生相談室であっている患者さんとの面接を、スッポカしてしまったとする。学生自体に悪気はなかっとはいえ、面接者としての覚悟が不十分であり、患者さんはすっかり怒ってしまい、もう治療にはきたくない、とまで言っている。多くのバイザーは、Aさんに対してかなり厳しい叱責をしたり、怒りをあわらにしたりするはずだ。
私はこれは怒るようなところだな、と思えば思うほど怒らないと思うが、大いに困惑し、それをAさんに伝えるだろうと思う。実際最近あるバイジーーさんがかなりよろしくないことをしてしまった時、私の反応といえば、「いやー・・・・・・・・。これは困った。どうしようか。何かあなたには考えはあるの?そうか・・・・・。あなたがそんなことをするのを予想できなかった私にも問題があったよね。」ここらへんでバイジーさんは、ただならぬ気配を察して、まだ十分に理由がつかめながらも謝罪を求め始めるだろう。
実はこのようなとき、心のどこかで私はAさんにムカついている。そしてそれが外に出ないようにかなり警戒している。その全体をAさんは察知している。それで十分なのだ。「汝怒るなかれ」の「怒り」は、外にact out されたそれ、というニュアンスがある。
汝怒るなかれ、とか言いながら、昔今とは別の病院に務めていたときに、そこのある女性の患者Bさんにすごく腹がたったことを思い出した。本人に直接はぶつけていないが、実は「なんてことを!アイツ!」とつぶやいてその患者さんを責めた。
そのBさんのしたことは、正確には言えないので、脚色をしてみると、こうなる。診察を終えたあと、気がつかないうちに、Bさんは自分のカルテを持ち出してしまったのだ。そしていまどのページを読んでいるところだ、ということを電話してきたのである。
ただその時のことを思い出すと、私は自分の当惑や失望についてはいくらでもBさんに伝えたが、彼女への怒りの部分は何の意味もなさないと考えていたのだ。なぜなら、Bさんは患者さんだし、そのような衝動的な行動を説明するに足るような傾向をかなり以前からしめしていたのである。ある意味ではBさんはそのような行動や、その他諸々の事情で仕事を続けられず、友達も持てずに私のところに来たのであり、言わば私はBさんのそんなところの改善の手助けをする役回りだったのだ。これは考えて見れば、骨折を扱う整形外科医が、その治療の途中で再び骨にヒビを入らしてしまい、それに怒るようなものである。ヘンでしょ?当惑や失望はあってもおかしくないが、怒るような問題ではそもそもない。とすればそれでも生じてきてしまったBさんへの怒りは、もう身から出た錆として自分で処理するしかないと感じられたのである。ここらへん、「失敗学」とも関連。
それに・・・・・治療者の怒りは患者の側にとってはあまりに破壊的なものになりかねない。大体精神科医やカウンセラーに怒られた体験を思い出し、「あの時先生に怒られていなかったら今の私はありません」というような話を私たちはどれほど聞くだろうか?ゼロとは言わないが、実際にはそれで医者や治療者嫌いになったり、それを一種のトラウマ体験としてしまったケースのほうが圧倒的に多いだろう。