2026年8月31日月曜日

講義の準備

 一昨日はパシフィコ横浜までの心理臨床学会のお仕事。雨は予想していたより軽く済んだ。少しゆっくりしようかと思ったら、実は来週の講義の資料提出のことをすっかり忘れていた。ということで今日は資料作りで終わりそうである。


2026年8月30日日曜日

AIと精神療法 3 

  さて現在のAIがチューリングテストに合格したと言えるのであろうか? おそらくそう言って間違いではないだろう。ただし私自身AIとのやり取りで不自然さを感じないわけではない。それらは、まず長い情報を送ってもほぼ一瞬でそれを「理解」し、的確な返事を送ってくることであり、またその内容に誤字や脱字が見られないということだ。人間とのやり取りでは必ずと言っていい程付きまとう、時間の問題や錯誤の問題はAIでは原理的にあり得ないという印象すら持つ。しかしおそらく、AIへのプロンプトに、「もっとじっくり時間をかけてから応答して欲しい」、「一定の確率で誤字、誤変換を混ぜて欲しい」等を追加することで、AIの振る舞いはかなり自然さを獲得し(と言ってもAIにとっては不自然なことではあろうが)より普通の人間とのやり取りとの間に差を感じなくなるであろう。  ちなみに2024年、生成AIがチューリングテストを突破したというニュースが話題になったという。カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究者たちが500人の被験者に対してチューリングテストを実施した結果、OpenAI社のGPT-4が54%の確率で人間と誤認される結果を出したという(Jones & Bergen, 2024)。  これらの意味でAIはチューリングが言うところの「知性 intelligence」を有するといえるだろう。そしてそれは【心】と同等のものと考えられる。

Jones, C.R., Rathi, I., Taylor, S., & Bergen, B.K. (2024). People cannot distinguish GPT-4 from a human in a Turing test. Proceedings of the 2025 ACM Conference on Fairness, Accountability, and Transparency.


2026年8月29日土曜日

AIと精神療法 2 

 チューリングテストと知性 intelligence

 AIの有するあたかも心のようなもの、すなわち私が【心】と言い表すものはどのようなものかについて考える上で決定的に重要なのが、いわゆる「チューリングテスト」という概念である。そこでまず復習したい。

 前世紀にアラン・チューリングという天才がいた。彼は今から四分の三世紀以上前に、機械が心のようなものを宿す可能性を見越して、その存在を確かめる手段としてチューリングテストと言うものを提唱した。1950年に”Computing Machinery and Intelligence”という論文に書かれたものである。

Turing, A (1950), “Computing Machinery and Intelligence”, Mind. Vol. LIX (236): 433–460,

 このチューリングテストとは次のようなものであった。
 ある隔離された部屋にいる誰かに質問者が書面 text messege で質問をする。するとそれに対して答が返ってくるとする。それに対して質問者がまた問いを発する、という形でやり取りをする。するとそれが実は機械(まだコンピューターは存在しなかった)であっても、あたかも人間のふりをして巧みに回答をすることで質問者を欺くことができたら、それはその機械は「知性 intelligence」を有する。

 このチューリングテストは一見わかりにくいかもしれないが、現代ならメールやラインのやり取りを考えればいい。やりとりをしていて、人間とのやり取りと同じような自然さを感じるのであれば、相手は人間ではなくても「知性」を持った存在とみなすというのがこのテストの意味である。(ちなみに後に哲学者ジョン・サールが「中国語の部屋」と称して同様の考えを示している。)

 ところで チューリングはやがて機械もそのレベルに至る日が来ると予言したのであるが、ここで非常に注意深く、敢えて「知性」という言い方をした。つまり意識、とか心、という言葉を使うと「意識とは何ぞや」という非常に難しく容易に答えの出ない問題に陥ってしまうのを避けたわけである。(ちなみにアラン・チューリングはコンピューターの生みの親として知られる天才で、2014年には映画「イミテーション・ゲーム ーエニグマと天才数学者の秘密」にもなった。この映画は第二次世界大戦中にナチのエニグマ暗号の解読に取り組み、のちに同性愛行為のかどで訴追を受けたイギリスの暗号解読者アラン・チューリングを描いたものである。)



2026年8月28日金曜日

AIと精神療法 1

 あたかも人の心のようにふるまうAIの【心】

 AIが私たちの生活に浸透するスピードには目をみはるばかりである。治療者として患者と対面する私たちが知っているのは、多くの患者が日常的にAIを用いて様々な相談を行っているということである。そして時を経るごとにそれは顕著となっている。おそらく順番としては患者を含む一般の人々の中でAIとの対話をする人たちが増え、最初は少し距離を置いていた治療者の間に徐々に浸透していったのではないであろうか。少なくとも私の場合はそうであった。
 私がAIと対話をするようになったきっかけは、患者の体験談を聞くことであった。それは概ねとても好評で、AIはよく話を聞いてくれて、とても助けになるというものがほとんどだった。私は通常は食わず嫌いの反応をするので、それを自分で体験する気にはなれなかった。しかし令和7年の年明けに、ある機関から、「AIと精神療法」というテーマで話をして欲しいという依頼があり、それでようやく重い腰を上げてChatGPTと初めて言葉を交わしたという経緯がある。だから私とAIとの関係はまだ一年半しか経っていないが、最初のちょっとした衝撃に近いものは、それ以降裏切られることなく残っている。その衝撃とは「AIがいつの間にか、あたかも人の心のように私自身が扱っている」ということについてである。この「あたかも人の心のように扱う」とはより正確に言えば、相手が人間ではないということを明かさないならば、私は相手を人間と信じ込んでやり取りをしたであろう、という程度のことだ。


 しかしこれは実はとても不思議なことではないだろうか。そもそもAIは「心を持たない」(=主観を持たない)存在のはずだ。なぜならそれはどう考えても機械の延長だからである。もうかなり前の話になるが、世の中に電子辞書なるものが出回り始めた。単語を打ち込んで、その日本語訳が出て来るのを見て、ずいぶん便利なものが出てきたと思ったが、その電子辞書がまさか心を持つとは到底考えなかった。
 それと同じような意味で、数年前ならアイパッドのSIRIに話しかけて、それなりに会話が通じたような答えが返ってきても、おそらく私たちはSIRIが本気で心を持っているとは思わなかったはずである。
 しかし今や私たちは使っているOpen AI の ChatGPTやGoogle のジェミニなどとは、あたかも心を持っている存在であるかのように私たちはやりとりをしているのだ。しかしどう考えてもそれらは機械の延長のはずである。でもこれはいったいどういうことだろうか?

 そこで機械としてのAIと心との違いについて最初に明確にしておこう。その質的な違いは明らかである。これはAI自身が真っ先に自認することだ。私がいつも対話しているChat GPTは、自らを「物事を感じることは出来ないし理解することも出来ない」「感情を持たない」と言う。大雑把な言い方をすれば、それは「(人間のような)心を持たない」と言ってもいい。しかし問題は、このようなAIを前にして、私たちはそこに「かりそめの心」を想定するしかないという段階に来ているのではないかと思う。つまりあたかも「心を持つ」存在として扱い始めているということだ。


 (以下略)




2026年8月27日木曜日

支持療法と精神分析における「不都合な真実」 3

  また以下の「さらに不都合な真実」も示唆された。それは一部の患者にとっては転移解釈は侵入的であり、したがって非治療的である可能性があるということだった。つまりは表出的療法よりは、支持的療法の方がよりベターであるケースもあるということである。これは表出的介入と支持的介入はどちらかと言えば 対立的 antithetical なところがあるからやむを得ないことでもある。表出的治療は「蓋を取る」治療、支持的治療は「蓋をする」治療と形容されるが、「蓋をする」ことが必要な患者がいきなり解釈により「蓋を取られる」ことは有害となる可能性がある。

 私は米国留学中に G.Gabbard という精神分析の大家から「(BPDの患者にとって)分析的な転移解釈はハイリスク・ハイリターンだ」と聞いたが、このうちの「ハイリスク」とはまさにこの非治療的な部分という事が出来る。

 ところで逆に表出的なかかわりを行っている患者にとっての支持的なかかわりは、同様の意味での危険性を帯びる可能性はあるだろうか? おそらく否であろう。支持的な関りはあくまでも大事をとった安全策であり、それは患者の内的理解の進行速度を緩めることはあったとしても、それを有害とまでは呼べないであろう。そして何よりも重要なのは、いま日本で行われている精神療法は週に一度、ないしはそれ以下の頻度がスタンダードなのである。つまり大多数の精神療法は支持的療法をベースに行われるしかないのである。

 以上の点を踏まえた場合、一般の精神療法家に出来ることは何だろうか? これまでの予想に反してどうやら支持的介入が思いのほか有効であるらしいことが示された以上、それに基づく治療の方法論を整えることであろう。ただし老婆心ながら一つ注意すべきことをお伝えしたい。その方法論は従来の精神分析のそれとは独立したものと考え、あくまでも「週4回の精神分析は有効である」という可能性は温存すべきであるという事だ。PRPは時間と労力を費やした一つの大掛かりな研究であり、今後同様のスケールの研究は難しいかもしれない。しかし支持的療法の有効性を示したPRPの結果が必ずしも正解であるという保証はない。将来別の、さらにスケールの大きい研究がおこなわれて「支持的療法はPRPで得られた結果ほどには有効ではなく、やはり表出的療法が優れていた」という研究報告がなされるかもしれないからである。そしてもちろん、それが最終的に得られる結論であるとも限らない。
 そしてそのような研究結果にいたずらに翻弄されないためには洞察的なアプローチと支持的なアプローチの違いをよく吟味し、後者の持ち味や弱点などを十分検討しておく必要がある。




2026年8月26日水曜日

支持療法と精神分析における「不都合な真実」2

  ただしこのような支持療法へのやや否定的な見方に変化が見られたのがここ数十年である。その間様々な実証研究が行われ、その結果として「表出的な精神療法が支持的療法と比較して特別効果を上げるわけではない」ということが明らかになってきたからだ。  ここで改めて表出的精神療法について解説するならば、それはかつて James Strachey が提唱したような、いわゆる「転移解釈」が決定的な治療作用 therapeutic action であるという考えに沿ったものである。そして精神分析が週4回以上であるのに対し、表出的精神療法はそれ以下の頻度、例えば週1回、2回で行われるが、基本的にはこの転移解釈を治療の根幹として維持するという立場に立ったものである。そして支持的精神療法はこれを必ずしも目指さないという点で、表出的精神療法に比べて効果が劣ったものという見方がされていたのである。

 この半世紀ほどの間に行われた実証研究、例えば1970年代の米国メニンガークリニックの大規模な研究(いわゆる「PRP」)などは、あまり精神分析家にとって認めたくないような、いわば「不都合な真実」がいくつか浮き彫りになったことになる。それは支持的な関わりが治癒的な場合が多いらしいことであった。しかし一部の精神分析家にとっては長年掲げられてきた「モーセの十戒」、つまり解釈こそが分析の本質であるという掟は依然として健在であることも見て取れるのだ。
 しかし考えても見よう。そもそも援助を求める多くの患者にとっては、治療が「いかに分析的か」は重要な関心事ではなかったはずである。彼らは生活において体験する何らかの苦痛や不全感から解放されることを第一にもとめて私たちのもとを訪れるのが一般的だからである。だからこれらの結論は決して患者たちにとっては「不都合」なことではなく、むしろ彼らが積極的に知らされるべき内容だったと言えるだろう。


2026年8月25日火曜日

支持療法と精神分析における「不都合な真実」1

  先ずAIがもっぱら関わることになる支持的精神療法についての話から始める。支持的精神療法の対になるのが表出的精神療法であるが、これらは両方とも「精神療法」なるものの二つの種類ということになるが、その精神療法とはどのような意味か?

 精神療法 psychotherapy は文字通り心を治療する手段という意味だが、それは精神分析以前に存在していた。Ellenberger によれば、1890年頃にこの精神療法という言葉が欧州で一種の流行を見せたという(viii)。そこにFreud が登場し、精神療法の一種でとしての精神分析を作り出したのである。

 精神療法の一つとしての精神分析はその後非常に大きな成功を収めた。しかしそれは週に5回も6回も治療に通い、月単位、あるいは年単位という時間がかかることもあり、次第に精神分析を十分に応用できない人たちをどのように治療するかという問題が生じ、改めて精神療法の在り方が問われることになった。そして精神分析的な手法を維持しつつ、回数だけを減らす「表出的精神療法」と、それ以外の「支持的精神療法」とに分かれたのである。

 このように考えると、支持的精神療法は「あまり分析的ではない精神療法」ということになり、精神分析こそが最高の精神療法だと考えらえてきた伝統の中ではあまり有効ではない、次善策としての精神療法というニュアンスを負っていた。そしてそこには精神分析こそが唯一最高の治療法であるという考え方が背景にあったからである。