2024年11月7日木曜日

統合論と「解離能」推敲 17

 解離能の議論に関してRichardson の論文が参考になる。

Richardson RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210.


「解離とは機能的な機能不全である」というちょっと挑発的なテーマだ。

その抄録には次のような主張がなされている。

もしある現実の一部が対応するにはあまりに苦痛な場合に、私たちの心は何をするのだろうか。痛みに対する生理的な反応が生じると同様に、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。その一つのメカニズムが解離だ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常的な機能を継続することを可能にしてくれるのだ。

たとえば自分の身体に痛みが加えられる前に体外離脱を起こすというのは、能力なのか。おそらくそう考えることもできよう。それにより痛みを体験をしている自分から離れて観察している自分が出来上がる。柴山先生のいう「存在者としての私」に対する「まなざす私」の成立である。少し飛躍するかもしれないが、これは即自存在から対自存在になるという、私たちの自意識の成立と同じくらいの大きな転換点となるだろう。ちなみに対自存在とは、意識は自分と一体化していない、あるいは自分そのものと意識が分かれているという状態である(少なくともサルトルは対自存在についてそう言ったらしい。)これは画期的な能力であり、一つの重要な獲得である。解離における存在者としての私とまなざす私の分離は、対自存在のあり方をまさに血肉化したような現象であり、ごく一部の人たちにしか体験されないものである。これを能力と言わずして何であろう。

これとの関連で歌手野口五郎氏の体験を思い出す。(スポニチ Sponichi Annex 2024年9月23日(月)から引用。)

・・・歌手の野口五郎(66)が29日放送のフジテレビ「ボクらの時代」(日曜前7・00)に出演。35年間も歌唱イップスと闘い続けた過去を明かした。「そんな長らく苦しんだイップスを克服したきっかけは「コンサートで歌ってて、ふと俯瞰で見られた瞬間があって、自分と会話しているような瞬間があって。歌を歌っている最中に“お前、ブレスしてないぞ、大丈夫?ブレス忘れたのか、大丈夫か?”“マジ、ブレスしないで歌っちゃったの?”“やべー”なんてしゃべってる、そんな瞬間があったんですよ」と野口。「そこから楽になった。今は楽しい。“今のために歌ってるんだ”って思って…。“あ~良かった、35年間イップスで。こんな瞬間があるんだったら、許す!”って思っちゃう、苦しんだことを」と笑顔で語った。・・・

これは一つの偉大な能力(治癒力?)という気がする。ただしイップス自体が解離症状という考え方もあるが。


2024年11月6日水曜日

解離における知覚体験 7

 幻聴の中でそれが正常範囲で生じるものか、病的なものかを分ける上で重要と考えられるのが、その内容が不快なものか否かという点であると指摘されている(Johns et al 2014) この論文では幻聴が陰性感情に伴い生じる場合には、それが精神病理の前兆となるとされる。まあ、当たり前の議論と言えるだろう。 幻聴の機序を解明することは難しいが、その中でそれを解離の文脈でとらえる向きがある(Longden, et al. 2012)そして解離性の幻覚体験を有する人にしばしば見られるのがトラウマ体験である。トラウマ→解離→幻聴(幻覚一般?)という路線が、精神病→幻聴という路線と共に意味を持つことになる。幾つかの研究が特に幼少時のトラウマ体験が解離傾向を生み、それが幻覚体験へとつながるという結果を報告している。

 ところで「わかりやすい解離性障害入門」星和書店 2010年 p131に次のような表を示したことを思い出した。


解離性障害

統合失調症

本人がそれを誰の声として感じるか?

「あの人の声だ」と特定出来ることが多い。(「あの人」とは交代人格である場合が多いが、かつての実際の加害者の声であることもあり、その場合はその幻聴はフラッシュバックの要素が増す。)

多くの場合、それが誰の声かがわからない。あるいは神や悪魔などの「超越的」な存在の声として感じられることもある。

どの程度声に影響されやすいか?

声におびえたり不気味に思ったりなど、様々な影響を受ける可能性がある。しかし別人の声が勝手に聞こえて来ると感じのように聞き流すことも多い。(ただし交代人格の声である場合は、時には自分がその声の主に成り代わってしまうことも生じる。)

幻聴の内容はしばしば、自分の意志や考えと区別がつかない。(通常は幻聴の内容イコール妄想内容、ということが起きる。たとえば「あいつがお前を狙っている」という幻聴を聞くと、そのことを理屈抜きで確信してしまう、など。)

関係念慮(自分にかかわってくるという印象)を伴うか?

通常は伴わない

(他人事のように聞こえる)

通常は伴う。

いつから体験されるか ?

幼少時から「想像上の友」の形で聞こえていることが多い。

思春期ないし青年期に統合失調症が発症した時、その前兆として数ヶ月程度前から聞こえ出すことが多い。

精神科の薬がどの程度有効か?

幻聴そのものにはあまり効果がない。

比較的効果がある。

(場合によっては劇的におさまる。)

 表4-1 解離性障害と統合失調症の幻聴の比較


2024年11月5日火曜日

統合論と「解離能」推敲 16

昨日の考えをもう少し進める。私たちはどういう時、なぜ「統合されている」と感じるのだろうか。一応の結論は出している。それは脳全体の一種の同期化であり、それがフロイトのいう identification (同一視、同一化)の感覚に結びついているはずだ。人格Aが「これは甲だ!」という体験を持った時に人格Bの「いや乙だろう」という声が聞こえたとする。おそらく脳のあるネットワークに生じた同期化と別のネットワークに生じた同期化がそうさせているのだ。「スイーツを食べよう」と思った直後に「ダメだよ」という考えが浮かぶ時、それは私の心に起きた同期化だ。つまり両方の同期化が私の中で順番に起きたことである。それに比べてDIDにおける同期化は、「向こう側」に起きたそれなのだ。そして同期化が起きている以上、何らかの主体(人格)がそれを自分のものと体験しているのである。とすると脳梁が繋がるということは、どちら側の同一化も「自分に属するもの」として体験することになるのであろう。

8.解離能の問題について



これまでの考察をひとことで言えば、「治療目的=統合」という考えはもう古いということだ。そしてそれはそもそもは解離=悪い事、病理と決めつける考えとも結びついていることになる。そもそも人格の統合を目指す臨床家の心のうちには解離(=病理)をなくすべきだという発想があるのだろう。しかしそうであろうか?

これとの関係で触れなくてはならないのがいわゆる「解離能」の問題である。
Judith Herman (1992)はトラウマにおいて生じる解離を一つの能力(解離能 dissociative capability) と考えた。そしてその上でトラウマの体験時にこの能力を使えるか否かでDIDとBPDを分けている。違いをもう一度示そう。

DID=解離能を有することで、トラウマの際に自己の断片化や交代人格が形成される。

BPD=解離能力を欠くためにトラウマの際に交代人格を形成できないが、その代わりスプリッティングを起こす。

どこまでこのように決めつけられるかは別として、一つの重要な見識である。
しかしこのように解離を一つの能力と見なすという立場は文献でも意外と少ない。中島幸子氏(「解離は障害であり、力でもある」精神医学 現代における解離 2024, 66:1085-1089.)は「解離は障害であり、力でもある」という論考で語っている。「解離が出来たからこそ生きのびることが出来たのであれば、それは能力であり、ゼロにしてしまう必要はないはずです。」

これは大いに注目すべき議論だ。どの様な心的機制についても何が payoffs (それによる利得)で何が pitfalls(落とし穴)かを考えるべきなのだ。そして解離にもそれがある。


2024年11月4日月曜日

統合論と「解離能」推敲 15

 7.統合の代わりに見られる共意識状態 co-consciousness

統合についての議論との関連でぜひ述べておきたいのが、いわゆる共意識状態である。こちらの方は臨床的にも非常に頻繁に見られるのだ。二人(あるいはそれ以上)の意識状態(人格)が存在し、目の前で「掛け合い」をする。 これこそ「どうせなら統合すればいいのではないか(どうしてしないのだろうか?)」という疑問を抱かせる現象である。

私の患者さんにも共意識状態が普通になっている方がいる。その方に、それぞれ別々の7桁の数字を覚えてもらったことがあったが、その方は出来なかった。「混乱してしまう」というので、それ以上はもちろんお願いしなかった。しかしこれには随分考えさせられた。二つの心が本当に別々に共存しているのであればこの作業をできるであろうが、どうも二人の違う人間が目の前にいる、という状態とも違うようだとわかった。
 この共意識の話で思い出すのはやはり分離脳状態の話だ。左右脳を分離した状態ではある種の掛け合い、ないしは言い合いが成立する。それぞれが独立して作業を行なうことも出来る。マイケル・ガザ―ニカの作成した動画で分離脳の患者さんに左右で別々の絵、例えば四角と星などを同時に描いてもらうというシーンがあったが、特に問題なく描けていた。それぞれに7桁を覚えてもらう、というのはその様な作業に相当する。しかしDIDの方にこれが苦手であるとすれば、分離脳ともまた異なる現象が生じているのであろうか。

しかし考えてみれば、私たちの左右脳は、脳梁で結ばれているから一つと感じるだけで、この場合は「心は一つ」がむしろ錯覚と言えないであろうか。

DIDの方の体験で時々聞くのは、体の一部が自分のものではないという感じである。たとえば自分の手を触っても、誰かの手を触っている感じがして気持ち悪い、ということを聞く。通常自分で自分の手を触る時は、その触覚が自分が触っているという意識による干渉を受けるのだ。だから自分で自分をくすぐることが出来ないのだ。ところがその種の干渉が起きない(起きにくい)状態が共意識状態である。

このような共意識状態が自然な統合に向かわないということの方が不思議と言えないだろうか?それほど心は統合に抵抗しているのかもしれない。

ところでこれまで一度も考えたことはなかったが、私は右脳と左脳が統合した状態であるということを自覚できるかについて自問してみた。私の右脳と左脳は別々に考えることが出来る。これまでそうしたことはなかったが、もし脳梁を切断したらそうなるはずだ。ということは「私」は左右の心の統合状態と考えるしかない。私が抵抗を感じている統合という現象を、実は実践していることになる。それはどういうことか。

例えば目の前のスイーツに手を出すかを迷う時、「糖質制限中だよね」と「ちょっとくらいいいじゃん」という二つの心があることを私は知っている。何時もこられのせめぎあいで結局スイーツに手を出すかどうかを決めている。その時私は二つの心があると思うのだろうか。

もう少し具体的な問い。もし私がスイーツに手を伸ばしそうになった時、「ダメだよ!」というこころの声を聞いた時、私はなぜそれを他人の声と思わないのだろうか? おそらくそこには例の「側方抑制の抑制」が働いているために「他者性」が減じられたり、消失したりしているのだろうか?

このように考えると、統合状態での「自分が一つ」という感覚こそ錯覚の産物という気がしてくる。


2024年11月3日日曜日

解離における知覚体験 6

柴山先生の記述に刺激されて、というわけではないが、解離性幻聴を分類するならば、FB、交代人格由来、に加えて第3のカテゴリーが必要になろう。それは解離の陽性症状としての幻聴である。そしてこれにはいわゆる転換性障害において見られるようなあらゆる幻聴ないしは幻覚が含まれることになる。もちろんそれの一部は、実はその人がDIDを有していて、そこからのメッセージとして送られてくるものであったことが判明するということもあるだろう。この柴山先生の理解はまずはごもっともである。 さて解離性の知覚症状についてのこれまでの文献を調べる作業に並行して、「本文」となる部分を書いていく必要がある。この論文の一つの意義は統合失調症的な知覚異常との鑑別である。 ここでDSM-5を紐解き、解離性の幻覚体験に相当する部分、すなわち「機能性神経症状症」の中の記載を見ると、「感覚症状には、皮膚感覚、視覚、又は聴覚の変化、減弱、又は欠如が含まれる」とあるだけである。ここは実にシンプルだ。というより「何でもあり」という印象を受ける。しかし診断を支持する関連特徴としては、「ストレス因が関係している場合があること」、「神経疾患によって説明されないこと」「診察の結果に一貫性がないこと」(315)などが挙げられている。すなわち解離性の幻覚は、神経疾患で説明されず、浮動性を有する傾向があるという以外には、あらゆる形を取り得ることが許されているのだ。従来は解離性の視覚症状として管状視野(トンネルビジョン)がよく記載されていたが、実際には様々な形を取り得ることを私も臨床で経験している。

幻覚の定義としては「対応する感覚器官への客観的な入力 objective input がないにもかかわらず生じるあらゆる様式 modality の知覚的な体験」(Walters, et al, 2012) Waters F, et al. (2012) Auditory hallucinations in schizophrenia and nonschizophrenia populations: a review and integrated model of cognitive mechanisms. Schizophr Bull. 2012 Jun;38(4):683-93.

幻覚はしばしば深刻な精神病理との関連を疑わせるがlife time 有病率は5.2%とされる(McGrth, et al, 2015)。

McGrath JJ, et al. (2015) Psychotic Experiences in the General Population: A Cross-National Analysis Based on 31,261 Respondents From 18 Countries. JAMA Psychiatry. 72(7):697-705.

その中でも機序として注目されるのが解離性の幻覚である。そして解離性の幻覚体験を有する人にしばしば見られるのがトラウマ体験である。


2024年11月2日土曜日

統合論と「解離能」推敲 14

 以上自我状態療法の流れに沿ってワトキンㇲ、杉山先生、ポールセンなどについてみて来たが、結局統合についての立場はどうなのだろうか? 本家本元のワトキンㇲ夫妻にとっては、おそらく統合は眼中になかったのであろう。すでに述べたとおり、彼らは自我状態療法において一人の人間の心に家族療法やグループ療法を応用しようと考えたのだ。彼らは家族の構成員たちに一つの心にまとまれ、とはまさか言わないだろう。あるべき姿はあくまでも平和共存である。 「講座精神疾患の臨床4(中山書店、2020)」で福井義一先生が「自我状態療法」(p.165~)で書いていらっしゃるが、「[自我状態療法は]あくまでも自我状態理論に基づいて事例を概念化するので、必ずしも自我状態との(ママ)統合という方向だけを目指すわけではない」とある。(文中の「ママ」とは、「自我状態の統合」の表記間違いかも知れないと私が思うからだ。) ちなみに同書では野間俊一先生にお願いした「解離症の治療論」(p.155~)が治療論としてはもっとも本格的で包括的なものと言えるだろうが、そこで先生はかの Colin Ross 大先生が最近出版した、小さな著作(Ross CA.Treatment of Dissociative ldentity Disorder :Techniques and Strategies for Stabilization. Manitou Communications, 2018.)を紹介した上で、そこにも依然として治療目標としては「完全な統合を目指す」と書かれているという、しかしそのような志向性を持つことで、どのパーツも排除しないこともまた強調しているのだという。

付録)

 ロス先生の近著( Ross CA.(2018)Treatment of Dissociative ldentity Disorder :Techniques and Strategies for Stabilization. Manitou Communications.) の該当箇所を読んでみたが、なんともトーンダウンしていることが分かる。

そのまま訳そう。

「治療のゴールは安定した統合 stable integration である。少なくとも私の立場はそうだ。しかしそれは患者にとってのゴールではないかも知れない。ある人は全てのパーツが共意識状態になり一緒に作業をする段階に留まることを望む。それは彼らの選択であり、その人にとって正しい選択かもしれないし、それはそれでいいのだ。」(662/1438)

そして Ross はそれでも統合の方がベターである理由を以下のようにあげる。

「1.ほんの少しの精神障害を持つことよりは、まったくもたない方がいいのではないか?

2.内部のグループ全体をマネージするよりも、一人の人間である方が時間もエネルギーも少なくて済むだろう。

3.「すべての人が調和している」状態がどれだけ続くかは誰にもわからない。

4.あなたが[パーツ同士が]協力している段階で留まるとしたら、人生で深刻なトラウマが将来生じた時に、あなたは完全に統合している状態よりも、葛藤あるDIDの状態に戻ってしまう可能性がより高いだろう。」

そして続ける。「完全に統合したDIDと部分的に統合したDIDを比較した長期的な予後の研究は存在しない。」(662/1438)。これは気弱な発言だ。そしてこの章の最後にこんなことも言っている。

「これは言っておかなくてはならない。統合はずっとずっと先のことだ。このことを現在の時点でこれ以上話す必要はない。このセッションの残りの時間は他の問題に焦点を当てよう。」「統合についてこの種の話をすることにより、パーツの抵抗も和らぎ、治療作業もスピードアップするだろう」(715/1438)。

これははっきり言って歯切れの悪い「統合論」の撤回と言えるのではないだろうか。

ところでRossはこの本の中で面白い表現を用いている。ある人格が、他の人格は消えて欲しい、と言った時に、それは integration by firing squad つまり 銃殺刑執行部隊による統合、つまり他の人格たちをdumpster  大型ごみ容器に投げ込むようなものだという。


2024年11月1日金曜日

統合論と「解離能」推敲 13

 ポールセンの用いるテクニックの中で興味深いのは「BASK要素の封じ込め containment」である。BASK モデルとは、Braun, B. G. (1988)の提唱したもので、人間の活動は behavior 行動 、affect 感情 、sensation 感覚 、knowledge 知識 というトラックにより成り立っており、解離においてはのうちどれかが欠損しているという理論である。そして「BASK要素の封じ込め」とは解離されている体験を、まとめて一つのボックスに入れておくというテクニックだという。いわば一時的に解凍されたトラウマ記憶をそのまま取っておくという作業らしい。これは仕舞いこみ、とも表現されているが、要するに外傷記憶が賦活された状態で、いわばフラッシュバックがおさまっていない状態に対する対処法と言える。それをポールセンは小さいパーツが未だに「しまい込まれていない」と表現するのだ。また興味深いのは、ポールセンはフロントパート(他者と関わる時の表向きの顔)と未解決のトラウマ記憶を抱えているほかのパーツの間の健忘障壁を利用するという姿勢だ。 ポールセンを読んでの感想を述べよう。やはり催眠から出発した療法家たちは、ワトキンㇲも含めてとても操作的で、言い方によっては「機械的、理系的」とも言える。私も「心の地下室」などの手法にはなじみがあるが、ポールセンのようにそこまでクライエントにいろいろ操作をすることには少し後ろめたさを感じる。しかしそれは彼らにしてみれば、「それでは何も治療をしていない」ということになるのだろうか。 このテーマとの関連でゲシュタルト療法を思い出す。患者さんに empty chair (空の椅子)を想像してもらい、そこに座っていると想像している誰かに話しかけてもらう。例えば自分の亡くなった母親に対して、これまで言えなかったことを言う、などである。これは単に「お母さんへの思いを話してください」ということとどれほど違うだろう? おそらくケースによれば、すごく臨場感あふれるセッションになるかもしれない。すくなくとも悪くはないやり方であろう。それなら同じ状況で「空の椅子」の手法を私達は用いるだろうか? ケースバイケースとしか言いようがない。認知療法しかり。エクスポージャー法しかり。EMDRも同様である。それらはしばしば一つのメソッドとして抽出され、プロトコールが出来上がり、その為の研修が行われる。ポールセンの推奨する治療法も、EMDRによるトラウマ処理の流れの延長として想定される治療目標と言えるだろうが、本当に現実の人間はその様に動くのだろうか。 ポールセンのテキストもプロトコールを作るうえで恐らく「統合」というかなり遠く、おそらくバーチャルな目標も書かざるを得なかったのではないかと思えてしまうのだ。