2025年10月3日金曜日

遊戯療法 文字化 3

  その後、精神分析における真の治療作用は、このような転移解釈を超えた何かではないか、という議論が起こるようになって来ている。その一つが、治療者との関係性の中での一種の出会いということである。この出会いとは治療者と患者がお互いに一人の人間として心を通じ合うということを意味し、先ほどの話と一致することになる。

2.出会いの理論と愛着理論

この出会いの治療作用としての役割については、「ボストン変化プロセス研究グループ」により提唱されている。

Boston Change Process Study Group (2010) Change in Psychotherapy:  A Unifying Paradigm. Norton & Norton. 

 彼らの著作である「精神療法における変化-統合的なパラダイム」(邦訳「解釈を超えて」)という著書には次のようなことが書いてある。

「出会いのモーメント moments of meeting」とは人間としての治療者との真摯なつながりに由来するような特別な瞬間であり、それが治療者との関係性を改変し、患者自身の自己感をも変化させる。(p10)

 さてここからはこの出会いの理論についてのお話になりますが、精神療法を出会いとみる視点は主として愛着論者からもたらされたと言える。彼らは精神療法における治療者患者関係を母子間の愛着との類似性、ないしは再現という視点から理解しようと試みたのである。

 精神分析の分野で愛着研究を行っている研究者たちはよく「baby watcher」と呼ばれるが、彼らは科学的な手法を使ってこの出会いということを究明しようとした。彼らは実際の母親と乳幼児のやり取りを同時にビデオに録り、母子の細かな動きを観察しようとした。彼らは精神分析家でありながら、同時に動物学的な視点を備え、その点が分析のエスタブリッシュメントとかなり意見を異にしていたといえる。ここで彼らの意見を極めて単純化して言うと、患者は人生の中で最初の出会いである母親との愛着関係にある種の問題が生じていたのではないか、と考えたと言えるだろう。

 この精神分析の中で主流派と発達論者が最初から犬猿の仲であったことは重要な事実ですから、ここで強調しておこう。何しろ発達論者の創始者とも言えるボウルビイは精神分析の始まったころからその本拠地の一つであるロンドンで活動をしていたのだ。ところがボウルビイはクライン派のリビエールに分析を受けて、メラニー・クラインやアンナ・フロイトのもとで学んだのに全然違った考えを持っていた。

2025年10月2日木曜日

FNSの世界 推敲の推敲の推敲 4

 現在の精神医学において変換症がFNSへと移行するためにはDSM-5を待たねばならなかった。しかしその移行の経緯はかなり込み入っていた。  まずDSM-5(2013)では変換症(機能性神経学的症状症)という表現が登場した。そしてさらにDSM-5-TR(2022)では機能性神経学的症状症(変換症)へと変更になった。つまりSDM-5₋TRでは変換症の方が( )の中に入り、FNS(機能性神経学的症状症)という呼び方がより正式な扱いをされることとなったのである。  このようにDSMで着々と起きているのは変換症という用語の使用の回避である。ちなみにICD-11(2022)ではconversion という表現がなくなり、変換症に相当するのは、「解離性神経学的症状症」となっている。こうしてFNDの時代が到来したことになる。

なお世界的な診断基準であるDSM(米国精神医学会)とICD(国際保健機構)は,精神疾患一般についての理解や分類に関してはおおむね歩調を合わせつつある。ただし変換症を解離症に含めるかどうかについては顕著な隔たりがある。すなわちDSM₋5においても変換症は、「身体症状症」(DSM-IVにおける「身体表現性障害」に相当)に分類される一方では、ICD-11では解離症群に分類されるのである。   言うまでもないことだが、このFNDの”F”は機能性 functional であり、器質性 organic という表現の対立概念であり、神経学的な検査所見に異常がなく、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。そして変換症も、時間が経てば、あるいは状況が変われば機能を回復するという意味では機能性の疾患といえる。だからFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。  上記のごとくDSM-5において変換症がFNSに取って代わられたのはなぜだったのだろうか?これについてはFNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone の論文(2010)を参考に振り返ってみる。本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freud は鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したい。」(Freud, 1894)  しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudによる仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからだという。もちろん心因が常に意識化されているとは限らず、心因が存在しないことを証明することも難しいが、その概念の恣意性を排除するという意味でもDSM-5においては conversive disorder の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。

Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.  DSM-IVあった「症状が神経学的に説明できないこと」については、DSM-5やICD-11ではあえて強調されていないことになったことは注目に値する。実際には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)

<以下略>

2025年10月1日水曜日

遊戯療法 文字化 2

 例えばまだ10代の女性の患者さんが初診時に緊張した面持ちだとする。彼女が千葉出身でC高校に通っていることがわかると、たまたま同じ高校に通っていた私は次のように言ってみる。「C高校か。毎日あの坂を登って登校するのはきついよね。」

するとそれまでこわばっていた患者さんの顔が急に綻んだりする。  この例はたまたま患者さんと私の出身高校が同じであるという偶然があったから行えた介入だが、もっと普通のやり方でこのような交流を行っている。たとえば今年の夏は非常に暑い日が続いていたが、精神科の外来を訪れる患者さんで何となく接触を取るのが難しい場合には、私はよく「ここまでいらっしゃるのは大変だったでしょう。今日の暑さは半端ありませんね」と言ってみる。すると必ず患者さんの表情が崩れて、「いやまったくそうですよ!」となるのが普通だ。

 このような例を考えた場合、私が考える遊びの要素、ないしは遊びごころとはある体験を共有すること、同じ感情体験を持つことではないか?と思うのである。


 このような話をしても、ここでの「遊び」や「遊び心」がどうして治療につながるのかは読者には不明かもしれない。確かにこれは例えば精神分析とは全く無関係なかかわりあい方と言えるかもしれない。しかしそもそも治療とは何か、ということが精神分析の世界の中でも従来から大きく変わってきているのも事実なのである。

 古典的な分析的治療モデルにおける「患者に変化をもたらすもの」(治療作用)とは「転移解釈」であり、患者はある種の知的な理解(洞察)を得ることで変化する。


治療者:「あなたは私を怖い父親のように感じているようですね」(転移解釈)
患者:「そうか、これまで自分はちょうど今ここで起きていたように、人を歪曲して見ていたんだ。」(洞察)

ここに見られるような転移解釈とそれに基づく洞察というのが、精神分析の治療作用なのだとされてきたのです。これはフロイト以来、モーゼの十戒の様に信じられてきたことである。


2025年9月30日火曜日

遊戯療法 文字化 1

 遊戯療法と精神療法 - そのかけ橋としての愛着理論

本稿では精神療法における遊びやプレイフルネスの持つ意味について、愛着理論や最近の脳科学に基づいた理論を援用しながら、その臨床的な意義について論じる。


精神療法で「遊び」を感じる瞬間とは?
さて心理療法、カウンセリングは常にプレイセラピー的である、ということはどういうことなのかから始めなくてはならない。私は精神分析の出身であるが、私がこれからお話しすることは、精神分析的な超自我からの抑制がかかる可能性もある。しかし後に出てくるように、精神分析の世界ではドナルド・ウィニコットやジョン・ボウルビー、ダニエル・スターン、ピーター・フォナギー、アラン・ショア、ジェレミー・ホームズといった大先輩たちが私と同様のことを考えているのである。そこで彼らに勇気をもらいながら論を進めていこうと思う。

 さて私が心理療法はプレイセラピー的だと考える際、別にセッション中に冗談を言って笑い合ったり、一緒に卓球やオセロをして楽しむというようなことではない。それは患者さんとの対話の中で自然に生じてくるのである。それらの具体的な例としては、一緒に他愛のないおしゃべり chatting をしたり、時には一緒に笑ったり、一緒に心を動かしたり、ということである。

 例えば新患さんとのインテーク面接の始まりに、「東北の森林火災は大変だね。」とか「長嶋さん、なくなったね。」とか「毎日鬱陶しい雨ですね。」などなど治療者としてではなく、一隣人として話しかけることがあります。向こうはこちらをいちおう一種の権威と思っているのが普通だから、それで表情が硬く、緊張した様子を示すこともある。それを少しでも解消するためにこのように話しかけるのである。時には私が軽く自分のことを話したり、今度は患者の趣味や専門分野について尋ねてその世界について子供の様になって質問をしたりすることもある。


2025年9月29日月曜日

🔴一見普通の男性の性加害性 3

  以上の二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である一見普通の男性の性加害性(以降「普通の男性の性加害性」の問題と略記しよう)は①,②に関連はしているが、基本的に別の問題であるということであり、新たに論じなくてはならないのである。

 この「普通の男性の性加害性」問題は、①②と異なり、おそらく病気としては扱われないという事情がある。それはもっともなことだろう。そこには多くの場合一見健康で普通の社会生活を送っている、そして特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっているからである。(もちろん、中居氏や山口氏や松本氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると主張する場合には、この限りではないが、私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。)

以下、前のバージョンとほとんど変わりないので省略。本当はかなり突っ込んだことも書いてある。

2025年9月28日日曜日

FNSの世界 推敲の推敲の推敲 3

 変換症およびびFNDとしての歴史 (DSMの登場)

 ここまではヒステリーについて論じてきたが、1980年代以降はヒステリーという名称が避けられ、変換症 conversion disorder という名前になる。それが具体的に反映されたのがDSM-Ⅲ(1980)の診断基準においてである。DSMの旧版、すなわち1968年のDSM-IIにはヒステリー神経症(解離型、変換型)という表現が存在した。ただ1970年代になり、様々なトラウマを体験した人々、例えばベトナム戦争の帰還兵や性被害者や幼児虐待の犠牲者にさまざまな解離及び身体症状が見られたこともあり、それまでともすると偏見の対象になりがちで、いわば手垢のついたヒステリーという概念や呼称が表舞台から去るきっけとなった。
 しかしDSM-IIIで定義された変換症は本質的には従来のそれと変わらなかった。すなわちそれは、心理的要因が病因として関与していると判断され、そこに疾病利得が存在すると考えられるものとされた(B項目)。変換症 conversion dirorder という名称は、無意識領域に抑圧された葛藤が身体領域に象徴的に「変換」されたもの、という Freud の理解がそのまま引き継がれたものと言える。

このDSM-Ⅲの診断基準で注目すべきなのは、それまでヒステリーの名のもとに分類されていた変換症が、「身体表現性障害」として分類されることになったことである。これはDSM₋IIIが「無理論性」を重んじ、身体症状を示す変換症と精神症状を示す解離症を同じカテゴリーのもとに置くことを回避したせいであるが、その後2013年のDSM₋5に至ってもこの方針は変わらず、もう一つの世界的な疾病の診断基準であるWHOのICDとの間の齟齬が生じたままである。

1994年に発刊されたDSM-IVでも上記の分類のされ方は変わらなかった。ただしDSM-IIIでは心因の存在と疾病利得をうたったB項目は心理的要因のみとなり、疾病利得の存在を診断基準として含まなくなったことは注目すべきであろう。

2025年9月27日土曜日

🔴一見普通の男性の性加害性 3

  以上の二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である一見普通の男性の性加害性(以降「普通の男性の性加害性」の問題と略記しよう)は①,②に関連はしているが、基本的に別の問題であるということであり、新たに論じなくてはならないのである。

 この「普通の男性の性加害性」問題は、①②と異なり、おそらく病気としては扱われないという事情がある。それはもっともなことだろう。そこには多くの場合一見健康で普通の社会生活を送っている、そして特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっているからである。(もちろん、中居氏や山口氏や松本氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると主張する場合には、この限りではないが、私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。)
 しかしこの「普通の男性の性加害性」は社会に大きな問題を引き起こし、また数多くの犠牲者を生み出している問題であり、しかもこれまで十分に光が当てられてこなかったのである。特に病気とは言えず、一見普通の人が起こす問題だけに、私たちにとって一種の盲点になっていたのだろうか。
 臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけにそれによる心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
 この「普通の性加害性」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「男性の性加害性」を回避するのに同じロジックは成り立たない。何しろそれは職場の上司や同僚として、あるいは指導教官や部活の先輩として、さらには夫や父親として回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。ここにこの問題の深刻な特徴があるのだ。

 「普通の男性の性加害性」の問題の特徴を一言でいうと、通常は理性的に振る舞う男性が、それを一時的に失わう形で、性加害的な行動を起こすということである。しかし私たちが時折理性を失う行動に出てしまうことは、他にもたくさんある。酩酊して普段なら決してしないような暴行を働いたりする例はいくらでもある。しかしこれはそれが予測出来たらふつうは回避できるはずだ。
 ところが酒がやめられないアルコール中毒症の人だったり、ギャンブル依存の人なら、ちょっと酒の匂いをかいだり、ポケットに思いがけず何枚かの千円札を見つけたりしただけでも、すぐにでも酒を買いに、あるいは近くのパチンコ屋に走るだろう。彼らはごく些細な刺激により簡単に理性を失いかねないのだ。ただしこれらの場合は、彼らがアルコール依存症やギャンブル依存という病気を持っている場合だ。つまりは上で述べた②に相当する。そして一見健康な男性の豹変問題はそれとは異なる、と私はこれまで述べてきたのだ。

 ここで「普通の男性の性加害性」の一つの重大な特徴を述べるならば、それはいったんその満足を追求しだすと加速していくということだ。彼は可能な限りオーガスムに向かって突き進むだろう。そしてそれを途中で止めることは難しい。これは飲酒やギャンブルと大きく違うところだろう。例えば酒なら、飲めば飲むほど「もっと!もっと!」というわけではない。私は下戸なのでこの体験をしたことがないが、たぶんそうだと思う。いい加減に酔えば「まあ、このくらいにしよう」となるのが普通ではないか。かなり深刻な飲酒癖を有する人も、大体飲む量は決まっている。もちろん生理的な限界ということもあり、そもそも血中濃度が増してアルコール中毒状態になり意識を失なえば、もうそれ以上酒を飲み続けることはできなくなる。でもそうなる前に酔いつぶれて寝てしまうのが普通なのだ。
 ではギャンブルはどうか。これも最後にオーガズムに達するということはない。ではだんだん使用量が増えていくコカインなどはどうか。これは同じ量の満足を与えてくれるコカインの量が増えていくといういわゆる耐性という現象だが、一定の量を使い、最終的にオーガスムに達するまで止められない、というわけではない。そして一定の使用量を超えると失神や呼吸困難に至り、その先に死が待っている。


     (以下略)