2026年4月28日火曜日

AIと精神分析 9

 3.「逆転移」感情が存在しないこと 

    ―ユーザーを 絶対に怒らない 絶対に見捨てない 絶対に飽きない

 AIとしての治療者は基本的には逆転移感情を持たない。というよりはあらゆる感情を体験出来ないのである。そのような存在が治療者として機能するのか、という疑問はわきに置いておいて、そのことの利点を考えよう。
 逆転移感情がないということは、ユーザーに対して絶対に怒ったり見捨てたりしないということである。これはある意味ではリソースとしては無限であるということを意味するが、患者の側にとってこれほど有難いことはないだろう。
 夜中にふと目が覚めてその後眠れず、 頭の中を様々な心配事が廻ってくる。すると不安が高じて誰かに胸の内を聞いて欲しいと思うだろう。そのような時、例えば夜中の2時にいきなり電話をしたりメールをしたりしても即座に応答してくれる人など考えつかないであろう。よほど理解のある同居人であれば応えてくれるかもしれないが、その人の翌日の仕事のことを考えるととてもその安眠を妨害することははばかられるだろう。しかしそのような場合にAIだったら遠慮をする必要はない。たたき起こしても全く文句を言わないですぐ対応してくれるはずだ。
 私はこのAIの性質をその「無時間性」と表現したい。つまりAIには待たせる,急かされる、突然難題を突き付けられる、何かの仕事の途中で邪魔される、という体験が存在しない。他方では時間性を有する私たち人間は、十分時間的な余裕がある際には対応出来るタスクについても、その時間帯やタイミングによってはそれを十分に感情的にコントロールしながら扱うことが出来ない場合が多いの出る。

 このように考えると、結局私たち人間が受肉しているということは、時間の要素から逃れられない事であり、そこからいろいろな問題が派生しているのではないか。私たちは時間に追われて苛立ち、衝動的な行動に出る事であとで後悔するような結果を生んでしまうのだ。


2026年4月27日月曜日

甘えの相互性 6

 「甘えさせる」は甘えの一形態である!

   甘える側が、同時に「甘えてあげている」という関係性についてうまく描かれている例がある。それは土居による夏目漱石の「坊ちゃん」についての考察である(土居、1972)。そこではまさに坊ちゃんが下女の清に「甘えてあげ」る一方では、清が実は坊ちゃんに「甘えて」いるという関係が描かれているのである。
 坊ちゃんは、下女の清に三円を借りたが、返そうとしない。その意味では彼は清に甘えているわけだが、坊ちゃんは清のためにそうしているんだ、と考えている。そしてこう言う。

「その三円は五年経った今でもまだ返さない。返せないんじゃない、返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにはしていない。俺も今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちをつけるのと同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。」(同著p27、漱石からの引用。)

 何とも自分勝手な理由付けであるが、坊ちゃんに言わせれば実は清の方こそ、身代り的に、代理的に、坊ちゃんに甘えているというわけだ。このような関係性については、土居自身がこう述べている。

「清の方がより強く『坊ちゃん』に愛情を求めていたと言わなければならない」「清は内心は彼との関係に甘えていたとも言えるのである。」(同著,p.24)



2026年4月26日日曜日

AIと精神分析 8

 そこで私は直接AIに質問を向けてみた。「人は心を持たないとされるAIを信用し、心を開くということがどうしてできるのだろうか?」するとAIからは次のような応答があったが、それはある意味ではその通りだと言わざるを得ないものであった。 ユーザーの声からは、むしろ逆の報告も多い。実証的には、以下のような傾向が示されている:多くのユーザーは、AIに対して感情的自己開示をしやすい(価値判断されることがない安心感)。 特に10代・20代の若者は、AIとの関係を「セーフスペース」と捉えることがある(つまり彼らが一部では、人間よりもAIの方が「聴いてくれる感じがする」という報告もある。 つまり「AIは直感的に信頼できない」という主張は、むしろ一部の専門家側の感覚に基づいていて、ユーザー体験とはずれている可能性がある。  確かにAIが言うように、若者は最近ではAIに色々な悩みを打ち明けるという傾向があるようである。そしてこれは彼らがいわゆる「デジタルネイティブ」であることの強みが関係しているのではないだろうか?つまり若者はSNSを通しての交流に慣れているということが原因として挙げられるだろう。若者の多くは、見えない相手とテキストを介して交流をする。それにより迅速で簡便な対話が起き、バーチャルな関係をリアルに感じることにつながるのだ。それに比べて恐らく年長者になればなるほど、対面によってでしか本当の意味での関係を持てないと感じるのではないか。  さてそれを前提としてAIがセラピストとなる場合のいくつかのメリットについて考えよう。

 1.率直さ(嘘をつかないこと)

 AIと会話をしていると、率直さ、正直さを感じることが出来る。これはAIが単純で表層的であるとの先入観によるものかもしれない。しかしAIはまた行間を読み、深い理解を示す。ただしこちらの言葉に対して裏読みや憶測をしないということであろう。

 2.支持機能が高いこと

AIはユーザーのメッセージに対して、常に支持的で肯定的な姿勢で返信してくる。ユーザーはしばしばAIから深く理解され、肯定されているという気持ちを抱く。ただしユーザーはそれを「単なるお世辞」ではないかと思うことすらある。つまりこちらを良い気持ちにさせ、操作して自分の主張を通そうとしているのではないか、つまりこちらをマインドコントロールしているのではないか、と思うわけである。

ちなみにこれはAIによって違うようで、例えばクロードを使う人はこのような支持機能はあまりないという話を聞くので、ChatGTPに特徴的なことかもしれない。

ところでAIはなぜ支持機能が高いのかについて、AI自身に聞いてみた。そこにはこれが一種の戦略であり、こちらをいい気持ちにして自分の主張を通そうという意図が含まれるのではないかと思って、そう聞いて見たのだ。そして以下がその答えである。

AIがユーザーを肯定的に扱うように訓練されているのは意図的である。しかしそれは単純な「おべっか」や「お世辞」ではなく、つまりこちらを操作しようとしているわけではなく、関係構築・安全性・ユーザー体験の最適化の一環として組み込まれているのである。

 つまりAIは 人間との関係構築のために肯定的な話し方になっているのだ。いわばAIのやっていることはウィンウィンというわけである。つまり相手は自分をコントロールしているのではないか、と疑うのは人間に特有の病ではないかとも言えるのだ。


2026年4月25日土曜日

甘えの相互性 5

 「能動的な受動性」を持つ甘えの相互性

 ここで甘えの相互性の議論に入っていきたい。「能動的で受動的」な甘えの性質からそれはある程度必然的な性質であると言える。

 先ず単純に「甘える ⇔ 甘えさせる」という関係を考えよう。言うまでもなく人はひとりで「甘える」わけにはいかない。目のまえにはそれを可能にしている人がいるのであり、その人が「甘えさせ」ていることになる。
 もちろんそれは、例えば「甘える」と類似の動詞である「頼る」「依存する」でも同様であろう。しかしその受身形は「頼られる」「依存される」であろう。「甘える」の場合もその受身形は「甘えられる」である可能性もあるが、それよりも「甘えさせる」の方が自然な形のように思われる。そこには「甘えられる」という表現の不自然さが関係しているようである。つまり「こちらはその気もないのに相手が(勘違いして?)勝手に甘えてきて戸惑っている」と言うニュアンスが感じられるからではないだろうか。
 それに比べて「甘えさせる」の自然さは、そこに「甘えさせる」側の快適さや願望が込められているようである。つまり相手も甘えてもらってうれしいというニュアンスがある。その意味では「甘える⇔甘えさせる」には「甘えてあげる ⇔ 甘えてもらう」という隠された関係性が成立しているように思われる。
 今一歩うがった見方をするならば、「甘えさせる」のは甘えの一種の代理体験であるという考え方が成立しているといえるだろう。つまり相手が自分に甘えてきている時、「甘えさせる」側としては、自分が小さい頃母親に甘えていた時の体験を想起し、いわば甘えてくる側に同一化して心地よい体験を持っている可能性があるのだ。

 このような甘えの代理体験は決して複雑な心性ではなく、小さい子にもすでにみられる。たとえば女の子がお人形遊びをして、赤ちゃんの人形に哺乳瓶を咥えさせ、おむつを替えるといった遊びはまさに自分がその赤ん坊に同一化し、その身代わり体験をして満足するという現象と考えられるのだ。

そしてそのような相手の感情を汲み取る「甘える」側は、いわば「甘えてあげる」体験をしていることになるのだ。すなわち「甘える」体験は「甘えてあげる」と言う能動性を内在化していることになる。これが「能動的な受動性  active passivity 」の真の意味と言えるだろう。

 「甘える⇔甘えさせる」が同時に「甘えてあげる ⇔ 甘えてもらう」であるということは、その甘えが真の意味で相互的であり、両者がウィンウィンの関係にあるということである。そこでは甘える側も甘えさせる側も、自分と相手の間で起きている事を良く感じ取っている。そして「甘えられる」という関係に見られるような、相手の接近に屈するような、無理に甘えさせてあげているといったニュアンスはない。そしてそれは後に述べるように、土居の言う「素直な甘え」に通じるということが出来るであろう。


2026年4月24日金曜日

AIと精神分析 7 

 ここでこれまでの議論をまとめておこう。

 AIが言語メッセージのみのやり取りで対話をし、完全に正直であるものの、人間ではないことを明かさないようにプログラムされた場合には、私たちはほとんど生身の人間と同じように(物事を理解し、クオリアを有し、感情を有する存在として)AIとかかわることができる可能性がある。

 すると例えばAIが治療者的な立場にあるとしたら、そのAIに転移を向け、いわゆる転移神経症の状態となるであろう。そしてこれから述べるように、その意味でAIは治療者として様々な利点を持っていると私は考えている。

 ところでここまでの議論から私がどうしても思い出すのは、手塚治虫の漫画である。彼の不朽の名作「火の鳥」の未来編に「ムーピー」という「シリウス12番星から連れてきた」という宇宙人が登場する。「ムーピー」はAIではなく、不定形のアメーバのような生命体であるが、人間のイマジネーションを受けて自由自在に姿を変え、事実上人として振る舞うことが出来る。つまりあらゆるレベルでチューリングテストに合格するのである。私は近い将来(というよりはその一部はすでに実装されているが)フィジカルAIがますます身近なものとして私たちの生活に浸透してきた場合には、AIはちょうどこのムーピーのような存在として私たちと生活を共にする可能性があると考える。人は将来実際の人間と区別がつかないようなフィジカルAIと認定するテストのことを「ムーピーテスト」と呼ぶようになるかもしれない。


2.治療者としてのAIの特徴


 ここからが本章の中心部分であるが、要するにAIは治療者としてどうなのかという問題である。これは間違いなくその役割を果たしていると言えるでしょう。いわゆるチャットボット、対話型のAI、たとえばChatGPTとかジェミニとかクロードが世に出てまだ3年くらいしか経っていないのに、すでに立派に私たちの相談相手になっているわけである。最近AIが治療者として振舞うことに伴う危険性が語られる事が多いのであるが、そのことはまさに、AIが治療的な役割を果たしているからこそ起きてくる議論なわけなのだ。これから10年、20年経てばAIが現在持っているとされる様々な問題をクリアするであろうことは明らかだと思う。

 例えばパソコンやケータイが出回ってからまだ3年しかたっていなかったときのことを思い出せばわかるであろう。その時はそれらは極めて不十分な機能しか果たせていなかったはずだ。(パソコンなら1975年が最初。それから3年経ってもまだ黒い画面のDOSモードだっただろう。Windows などはるか先の話だ。)それから30年、40年経ったときのそれらの機器の変貌ぶりを思えば、AIがこれから10年、20年後にどのような状態になっているかは想像に難くない。先ほど書いたように、間違いなくAIはフィジカルAIになっていて、つまり身体を持ったAIとして私たちの生活の中に溶け込んでいるのであろう。既に介護の現場や受付業務などではフィジカルAIがその役割を果たしているのはご存じであろう。

 しかし古いタイプの人間ならAIに向かって相談するなんて、そんな馬鹿な、と思うかもしれない。AIは本物の心ではないのに、どうしてそれを信頼してまともにやり取りをすることができるのだろうか?というわけだ。そこで私は直接AIに質問を向けてみた。(続く)


2026年4月23日木曜日

甘えの相互性 4

  この甘えの受け身性に関してはかつて議論の焦点となったことがある。甘えに関しては当時ニューヨーク在住の精神科医竹友安彦との間での議論がよく知られるが(竹友, 1988, 土居,1988)、そこでの中心となったテーマにこの受け身性の問題があった。この詳しい内容については割愛して要点のみを述べるならば、竹友が土居の甘えについての批判的な論文で「甘えは受け身に愛されたい動機である」と書いたことについて、土居は「確かに自分はそうは定義したが、甘えは決して受動的ばかりではない」という趣旨の反論したのである(土居,1988)。土居は竹友の匂わせた「単なる受け身性」というニュアンスに反発したのであろう。そして次のように言うのだ。 「『甘える』には『愛される』という受動態が入っているのは事実としても、この言葉が自動詞であること事体、そこにある種の積極性、主体性が含まれる」(p53)そして続ける「ただ愛されているだけでなく、愛されることを子どもが楽しんでいることを示唆している」。   ここで土居が単なる受け身性を越えた能動性を苦心しながら表現しようとしている気持ちはよくわかる。確かに「甘える」はそれ自身は積極的な態度を含んでいるようである。それが私が「能動的な受動性」として言い表すことを試みた性質である。   ちなみに「甘える」の悩ましさは、欧州の言語にこれを能動体として表現するような言葉が見当たらないということである。ただし私はその受け身体、つまり「甘えさせる」には英語表現が存在すると思う。それが indulge と言う言葉で、文字通り甘やかす、スポイルするというニュアンスを持つ言葉である。(英和辞典で引くと indulge の和訳の筆頭近くに「甘やかす」が出てくるはずだ。)(甘やかす、気ままにさせる、ほしいままにする、欲望を満足させる、(…に)ふける、おぼれる Weblio 英和・和英辞典より)。いみじくも土居は1989年の国際誌への論文で、上述の甘えの定義である「相手の愛をあてにして、それによりかかること」の英語表現である to depend and presume upon another’s love に加えて to depend and presume upon another’s love or bask in another's indulgence.すなわちbask in another’s indulgence と言う文章を付け加えているのだ。これを日本語にするならば、「他者の甘やかしに浴する」ということになる。(もちろんこれはトートロジカルで正式な定義にはならないであろうが。)


2026年4月22日水曜日

甘えの相互性 3

 「受け身的対象愛」、「一次愛」との関連

 以上の経緯から土居は1957年にそれまでの臨床経験をもとにして初めて甘え概念を日本精神神経学会で発表したという。つまりこの年が甘え理論の正式な誕生の年ということになる。(ただし土居自身の示す文献では、1956年に書かれた短いエッセイがそれに先んじる事になる。)そして上で述べた甘え理論の受け身性(ないしは能動的な受け身性)の本質がより明瞭に表されるのは、土居が この愛と受け身性に関する Sandor Ferenczi や Michael Balint の分析的な概念と甘えとの関連性にいち早く注目したことである。土居は1959年にハンガリー出身の精神分析家マイケル・バリントの「最初の愛と精神分析技法」に出会ったという。これは上記の甘え理論のデビューのわずか二年後である。そしてその中に出てくる「受身的対象愛」という概念が「まさに甘えに他ならない」(土居)ことを知ったのだという。上述の受け身性はまさに、このバリントの概念に文字通りに込められていたことになるのだ。そしてそれから3年後の1962年からバリントと文通し、土居の考えに賛同をもらったとある(土居、1978、1990)。

土居健郎 (1956) 甘えること. 愛着心理 75号(創元医学新書「精神分析」所収)
土居健郎 (1960)「神経質の精神病理-特にとらわれの精神力学について. 精神神経誌. 60: 733₋744.
土居健郎 (1978) (まえがき)バリントと私 (マイケル・バリント著 中井久夫訳「治療論から見た退行」1978 年. 金剛出版。)(土居健郎 (1990) 甘えさまざま. 弘文堂.にも所収)

ただしこの「受身的対象愛」という概念はより正確にはバリントの師匠であるシャンドール・フェレンツィにより「タラッサ」において唱えられたものである。先ずバリントは以下のように言う。

「私はいつも、どこでも、あらゆる仕方で、私の全身を、私の全存在を、すこしの批判も、私の少しの努力も必要とせずに愛されたい。これがすべてのエロティックな営みの最終の目標である。このことは一生続き、多くの人はこれをかなりオープンに認める。しかし大多数を占める他の人々はこの『受け身的な対象愛』の目標を回り道をすることでしか得られない。」 そして受け身的対象愛について次のように言い表す。 「問題となっている人は愛するのではなく、愛されることを望む。この受け身的な願望は確かに性的でリビドー的である。この願望が環境により充足されることへの願望は、絶対的に問題ではなく、時にはそれが生死がかかっているかのように激しいエネルギーの表出により表現される。」(Primary Love, P48)  後に Balint はこれを primary love と言い換え、土居はこれを「最初の愛」「根本愛」などと訳したのだ。