2024年12月21日土曜日

サイコセラピーを独学する 2

 ところで山口氏は既存の精神分析理論や心理療法に関する常識的な教えを疑ってかかり、より現場主義的な立場から自らの心理療法を選び取ったということになる。それを「個人モデル」と彼は称するわけであるが、実は精神分析の中においても、それまでの常識からより現場主義的な立場に向かった流れがあり、それが関係精神分析であると理解している。

すでに述べたが、山口氏の姿勢は自然科学者のそれであり、歴史的にみれば分析家の中にも当然そのような考えを持つ人が居た。それがより自由な気風を重んじる米国で生まれたわけである。すると彼が主張するようなこと、例えば自己開示は本当に良くないのか、患者の質問に答えてはいけないのか、などの疑いや、初期の治療関係におけるラポールや治療同盟を重視するという立場はこの関係論の流れに当然入ってくる。また例えばセラピストの「揺れる」姿勢(p.269)などもいわゆる二者心理学的な立場と大きく重なるのである。

だから実は私は次のように問いたくなる。もし山口氏が一番最初に故スティーブン・ミッチェルのようなスーパーバイザーに出会ったとしたら、大方の疑問に対する良い導き手になったであろうし、彼は関係論の流れに身を任せることで大きな迷いもなく臨床家としての経験と自信を深めることが出来たのではないか。

勿論こうは言っても関係精神分析も一つの学派であり、そこには大きな理論的な縛りも存在するであろうし、そこでもまた山口氏は窮屈な思いをするであろう。勿論それはそれでいいわけで、またそうでなくてはならない。関係論に沿っても結局はそれぞれが「個人モデル」を作り上げることには変わりない。ただそれは関係論の示すもののかなりの部分を吸収した先に生じることであろう。つまりミッチェルとのSVはかなりの間違和感なく進むであろうということだ。「守破離」の守の賞味期限が長くなるのである。というのも最終的に彼が提示している個人モデルはそれほどに関係論的な姿勢と齟齬がないからである。それもそのはずなのは、関係論はある意味では極めて常識で現場主義的なリアリティを盛り込んだものだからである。(もう少し言えば、我が国の精神分析で関係論的な文脈があまりに軽視ないし無視されているために、山口氏の思考の中に十分な影を落としていないようであることが残念なのだ。)

このような意見を述べることで何かつまらない書評になってしまった気がするが…


2024年12月20日金曜日

メンタライゼーションと遊ぼう 書評 2

こちらも遅々として進まず・・・・。 

本書は池田氏のメンタライゼーションに関する二冊目の書である。第一冊目は2021年に出版された「メンタライゼーションを学ぼう」で、「こころの科学」に連載されたいわば入門編としての解説書である。その姉妹書として2024年に出版された本書「メンタライゼーションと遊ぼう」はそのタイトルとは裏腹により専門家向けに書かれた学術書というも言える重厚な内容となっている。(~と遊ぶ、という意味については本書の中で解説されている。)

本書の内容をざっと紹介するならば、第一部はメンタライゼーションの基盤ないし由来についての概説であり、それがいかに境界例概念や愛着理論や脳科学を基盤にしているかが語られる。第2部ではメンタライゼーションの臨床について、特にトラウマ臨床、感情への焦点付け、精神力動論としての同論が展開される。第3部では、メンタライゼーションと現代の精神分析との関連と、それが将来に向けてどのようなベクトルを有しているかについて語られる。いずれも現在の心理学や精神分析についての深い知識と洞察なしにはまとめられない内容で、私も本書で改めてメンタライゼーションの理論的な立ち位置について多くを学んだ。


2024年12月19日木曜日

男性の性加害性 推敲 7

このように考えると、従来は当たり前のように思われていたこと、すなわち若い女性(一応男性についても当てはまるものとしよう)は美しいという概念、「美人」「美女」などの表現もPC(politically correct) ではなくなってくる可能性がある。それもあってか美人コンテストなるものは増々行われなくなっている。以下はネットの記事から(「斎藤薫のBody Concierge」 から、キーワードには下線を施した。https://www.diana.co.jp/column/bodyconcierge/vol10/

ミスコン廃止論は一体どこから生まれたのか
日本における美人コンテストの始まりは、1907年に開催された「全国美人写真審査」、別名“良家の淑女写真コンクール”であったという。文字通りの肖像画のような写真から、“ミス” =麗しき独身女性を選ぶものだったわけで、入賞者はみな10代であった。やがてアメリカのコンテストで初めて水着による審査が行われて以来、ミスコンは水着審査が常識となる。顔立ちから、体型までへと審査の基準が広がっていったのだ。
今、ルッキズム(外見至上主義)やセクシズム(性差別)への批判から、美人コンテストが槍玉にあげられ、廃止論が本気で語られるようになってきたが、じつは始まった当初から、ミスコンにはずっと反対論が付きまとってきた。容姿だけで人を選ぶことはもちろん、特に批判を浴びてきたのは”若い女性だけ” 、 “水着姿を男性が選ぶ”、”そもそもなぜ独身女性だけ?“という、その3点だったと言う。
そうしたものを受けて、もっと内面の魅力や才能に焦点を当てるという流れが生まれ、スピーチが重視されるようになったりもしたけれど、アンチの考え方がなくなることはなかったのだ。
そう、決め手はやはりルッキズム (外見至上主義) やセクシズム (性差別) ということになる。さすがに水着審査となると私も違和感があるが、それにしてもも少し変だ。ルッキズムがいけないことになれば、例えば男性のボディビルディング(しかもかなり全裸に近い状態で行われる)だって駄目だということにならないだろうか。しかしこちらの方はおとがめなしだ。
結局言いたいのは以下のことだ。妙齢の女性の持つ「美」は事実上明らかに存在し、それは社会のあらゆる場面において前提とされているようであり、これをことさら認めないことは逆に問題になる可能性がある。週刊誌の表紙も、ニュースキャスターも、映画俳優もそれを前提にして成り立っている。それは身も蓋もない言い方になるが「商品価値」があるために、それらに効果的に採用されて売り上げを伸ばすことに貢献する。それにもっとシンプルな例を出せば、化粧をすることをおそらく女性は(最近は男性も?)おそらくやめないからだ。女性自らが自分の持つ「美」的な価値を高めようとする。こうなると男性が女性を興味本位に眺めることは、ある意味ではごく自然なことといえる。そして同時に悩ましいのは、それがしばしば加害性をはらんでいるということなのだ。

2024年12月18日水曜日

サイコセラピーを独学する 1

 サイコセラピーを独学する 山口貴史著 金剛出版 2024年

 本書はわが国で出版された臨床心理関係の書籍の中では極めて異色である。そして私がまだ30代の臨床心理士で、とくに精神分析に傾倒しておらず、彼ほどの文才があったら、書いてみたかったであろう本でもある。だから最初から引き込まれるように読んだ。臨床を始めた当初の氏の戸惑いにはリアリティがある。そして何よりもそれを自分の頭で解決しようと全力を振り絞った跡がある。それでいてその問題を解決する過程で氏が渉猟した文献の豊富さはどうだろう?それが本書を単なる体験記やエッセイにとどまらない学術書に仕上げているのである。

 この本を読んでいて、ふと「現場主義」という言葉が思いついた。デジタル大辞林によれば「実際に業務の行われている場所にあって業務の実行の中から生じる問題点を捉え、それを改善し、能率と業務の質の向上を計ること」とある。氏の持つ思考をある程度は反映しているであろう。つまり体験第一主義ということだ。

 人はある技量を身に着ける際に、ある程度座学で予備知識を得てから実地に臨んでいく。その際に座学で学んだことと実体験の矛盾や齟齬を体験することになる。しかし多くの場合この両者の共存にあまり問題を感じない。「フーン、理論と実践はちがうんだ」とあまり気にしなかったり、あくまでも理論を実践に当てはめることに頑なになったりする。ところがそのどちらにも飽き足らず、その齟齬の生まれる原因についてとことん追求しようとする。私は山口氏にその様な姿勢を見るのだが、これは自然科学者の姿勢でもある。

ところで一つ興味深いのはこのような営みを氏は「独学する」と表現していることだ。これは独学は独学でもとても孤独な独学だ。例えば精神分析を独学する、というのとは意味が違う。どのような学派の理論にも頼れず、自分で自分の理論を作り上げていく。究極の独学といっていいし、この独学についての書を参考にした心理臨床の初学者はある意味ではもう「独学」ではなく、氏のテキストから学ぶということになろう。だからこの書は「いかに独学するか」、という書ではもはやなく「いかに独学したか」についての記録、ということになるだろうか。


2024年12月17日火曜日

解離と知覚 推敲の推敲の推敲 4

 今回ずいぶん書き換えた



解離性障害

統合失調症

幻聴の内容

罵倒や非難といったネガティブな内容だったり、命令、教示、励ましや勇気づけ、赤ん坊の泣き声、動物の鳴き声など、様々なものを含む。内容は比較的明瞭で、男性の声か否か、年齢はどのくらいかを識別できることが多い。

主として自分に関する非難や噂話などのネガティブな内容であり、時にはある行動を指示ないし命令の形をとるが、あいまいないし不明瞭で患者はそれを言葉で繰り返すことが難しいことが多い。

幻聴の主がどの程度特定か

患者は声の主を「小さいころから聞いているあの人の声だ」などと特定出来ることが多い。DIDの場合には特定の交代人格である場合が多い。フラッシュバックにおいては、かつての加害者の声である可能性がある。

多くの場合、特定不可能であり、神や悪魔などの「超越的」な存在の声として感じられることが多い。

どの程度声に影響されやすいか?

声に驚いたり、おびえたり、場合によっては励まされるなど様々な影響を受ける可能性がある。しかしあくまでも声の主は自分とは異なる主体の声としてとらえられる。(ただし交代人格の声である場合は、時には自分がその声の主にスイッチし、「本人の声」になることもある。)

幻聴の内容はしばしば、自分自身の意志や考えと区別がつかない。幻聴の内容がそのまま妄想内容となることも多い。(たとえば「あいつがお前を狙っている」という幻聴を聞くと、それがそのまま確信となる、など。)

面接者との対話

患者は幻聴の主との対話が可能である場合が多い。また面接者は患者の仲介により幻聴の主との意思疎通ができることがある。

通常は考えられない。

関係念慮としての性質

自分に話しかけている場合を除いては、通常は他人事である。

通常は伴う。内容が聞き取れなくても、自分についての噂だ、などと直感的に感じ取られることが多い。幻聴の主は時には時空を超え、テレビやインターネットを介して自分に語りかけていると感じることもある。

現実の体験との関連

現実の他者の声とは異なる性質のものであることを直感的に理解し、識別している。

現実の他者の声との識別や、自分の考えとの区別も難しいことが多い。

いつから体験されるか ?

幼少時から「想像上の友」などの形で聞こえていることが多く、しばしば鑑別上重要な手掛かりとなる。

思春期ないし青年期の発症時に先だつ数ヶ月程度前から聞こえ出すことが多い。

他の体験との関係

ほかの解離性の知覚異常や身体症状を伴うことが多い。

幻視や身体症状を伴うことは少ない。

精神科の薬がどの程度有効か?

一般的に幻聴そのものにはあまり効果がないが、一応試みる価値はある。

比較的効果がある。(場合によっては劇的に奏功する。)


2024年12月16日月曜日

解離と知覚 推敲の推敲の推敲 3

解離性同一性障害(DID)における知覚異常

    -統合失調症との鑑別において

 先の自験例では幻聴については記述しなかったが、解離性障害、特にDIDにおいては幻聴は極めて頻繁に報告される。それを統合失調症の幻聴と比較しながら論じたい。幻聴はDIDで特に多く、100%に見られ、その多くは交代人格の間の会話であるとする。(Steinberg 1994, Middleton 1998)

 解離性障害における幻聴に関しては、諸家が様々にその特徴について論じている。Putnam (1989) は解離性幻聴の特徴として以下をあげている。それは患者をけなす、自己破壊的な行動を起こすよう命令する、あるいは患者を第三者的に語り、思考や行動にコメントしたり、自分たちの間で論争をしたりする、あるいは小さい子供や幼児の泣き声を聞くが、時には指示やアドバイスを与える、頭の内部ではっきり聞こえる、などである。

このような解離性の幻聴を論じる際、統合失調症のそれとの相違が問題となることは言うまでもない。従来の精神医学は幻聴はまず統合失調症の症状としてとらえられるという風潮があったからである。そのような傾向が一変したのは、「シュナイダーの一級症状」DIDでも多く当てはまってしまう、という事実がRichard Kluft や Colin Ross などにより示されたからである (Kluft, 1987, Ross, 1997)。解離性障害にむしろ特徴的であるという理解がなされるようになった。そしてDIDにおける幻聴の特徴も統合失調症のそれとの違いという観点から論じられることが多い。
 上述のPutnamもDIDの幻聴が頭の中で明瞭に聞こえるという特徴に関し、それがその意味で「二次過程」的であり、統合失調症に特有のあいまいで「一次過程」的な幻聴と区別されると述べる。また松本は解離性の幻聴と統合失調症のそれとの違いをまとめる中で、Putnam が論じている項目に加えて解離性の幻聴が断続的であること、人格的な声によるもの、幼少時より持続している点を挙げ、また抗精神病薬に対する反応は弱いとする。
 柴山はすでに述べたようなDIDの幻聴の特徴について述べた後、統合失調症における他者の先行性という特徴を強調し、以下のように述べる。「[統合失調症において]幻聴の意図するところは、常に把握できない部分を含んでいる。従ってその体験はある種の驚きと困惑を伴っている。それに対して解離性障害では、他者の対象化の可能性は原理的に保たれており、不意打ち、驚き、当惑といった要素は少ない。」
 あるDIDと統合失調症との鑑別が難しかった30代の女性は、(中略)それがなぜか耳元で聞こえるのであり、その意味で幻聴ではないと主張した。
 この例にみられるように、解離の場合には声の主が現実の他者の声との識別が出来るのに対し、統合失調症の場合はそれが曖昧である。これは統合失調症性の幻聴が関係念慮としての性質を帯びているからである。この例のように遠隔にいる他者が声を送ってくるという体験はテレビやSNSで自分のことが話されているという体験に近いのである。

2024年12月15日日曜日

解離と知覚 推敲の推敲の推敲 2

 解離症状としての知覚異常と幻覚

 このように幻覚を含む知覚異常は多岐に及び、その機序を解明することは難しいが、それらのうち器質的な原因が明らかでないものを解離の文脈でとらえる傾向が近年みられる(Longden, et al. 2012)。そこで改めて解離性障害の症状としての知覚異常は精神医学的にはどのように位置づけられているかについて確認しよう。
 DSM‐5‐TR(2022)においては知覚異常などを含む転換性障害は「8.解離症群」とは別の「9.身体症状症および関連症群」の中に「機能性神経症状症(変換症/転換性障害)」として分類されている。またICD-11(2022)では同障害は解離症のカテゴリーのもとに「解離性神経学的症状症」として記載されており、筆者はこちらの分類の方が理にかなっていると考えている。
 DSM-5における機能性神経症状症の感覚症状については、「皮膚感覚、視覚、又は聴覚の変化、減弱、又は欠如が含まれる」とあり、症状の形態としてはあらゆるものを取ることを想定している。また診断基準としては「認められる神経学的、ないし医学的障害と症状の間に不一致があること」が挙げられ、またストレス因は関係している場合もそうでない場合もあるとされる。DSM-5日本語版、p.314‐315)すなわち解離性の知覚異常は、場合によってはある心理的な要因を伴って生じ、またその表れ方が状況により変動するという性質を有するものと理解されているのだ。
 ここで解離性の知覚の異常には、解離の陰性症状としての、知覚脱失も生じうることに注意すべきであろう(構造的解離)。また解離性の知覚異常を捉える際に重要なのは、それがその他のあらゆる精神性、運動性、感覚性の解離症状を随伴し得る可能性があることにも注目したい。ここではそのようなあり方をする古典的な例を示しておくことが有用であろう。

症例アンナO.(ブロイアー)に見られる知覚異常

ここで紹介する症例(アンナO) は J.Breuer と S.Freud による「ヒステリー研究」(1895)で直接治療に当たったBreuer によりきわめて詳細に紹介されている。このケースは解離性障害が示しうる症状群を一挙に紹介してくれるという意味ではとても参考になる。その中で彼女がどの様な文脈の中で幻覚ないし知覚異常を示したかを知る意味でも簡単にまとめてみよう。

フロイト全集 2 1895年 ヒステリー研究 芝伸太郎 (編集, 翻訳)岩波書店、2008年

 アンナO.の発症は彼女が敬愛する父親の発病(1880年7月)をきっかけに始まった。そしてそれは多くの症状が複合したものであった。つまり「特有の精神病、錯語、内斜視、重篤な視覚障害、手足や首の完全な、ないし部分的な拘縮性麻痺」である(フロイト全集、p.25)。そして父親の容態と共に彼女も徐々に憔悴し、激しい咳と吐き気のために父の看病から外される。
 ここでBreuerが呼ばれたが、彼はアンナが二つの異なる意識状態を示すことに気が付く。一つは正常な彼女だが、もう一つは気性が荒く、又常に幻覚を見たり、周囲の人をののしったり枕を投げつけたりしたという。これがいわゆる意識のスプリッティングという現象であったが、それは多彩な幻覚を伴っていた。その一つは黒い蛇であったが、それは彼女の髪やひもが変容したものであったという。それと共に最初は午後の傾眠状態で現れた解離症状に錯語(言語の解体)や手足の拘縮が伴うようになった。
 また特有の色覚異常も伴い、特定の色だけ、例えば自分の服の色だけ、それが茶色であることはわかっているのに青に見える、などの体験を持った(p.39)。そしてそれは父親が来ていたガウンの青色が関係していることが分かったということだ。
Breuer はまたアンナO.に見られた聴覚異常についても丹念に記録している。それは誰かが入ってきても、それが聞こえない、人の話が理解できない、直接話しかけられても聞こえない、物事に驚愕すると急に聞こえなくなる、などである。(p.43)

  ここで興味深いのはアンナO. の幻覚はそれ自身が単独で生じているのではなく、実に様々な解離症状(意識の混濁や言語の解体や手足の拘縮など)を伴っていたということである。さらに彼女の知覚異常についていえば、それが時に応じて様々な形を取り、いわば浮動性を有していたことも特徴的である。
このようにアンナO.の体験した幻覚はその陰性のものも含めて様々な身体症状の出現の一つとして現われていたということがわかる。そしてそれは固定した病状を取ることはなく、時間とともに変遷し、また心理的な働きかけにより消長を見せたのである。

トラウマとの関連性

上述のアンナO.の例のように、解離性の知覚異常は心的なトラウマが引き金になることが多い。その中でもPTSDで見られるフラッシュバックはその代表と言える。これは過去のトラウマ体験が突然知覚、感覚、情緒体験と共に蘇る現象である。
 このフラッシュバックを解離の文脈でどのように位置づけるかは議論が多かったが、DSM-5(2013)はそれを解離性症状としてとらえるという新たな方針を示した形になる。
 DSM-5のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の診断基準にはDSM-IVに加えて「フラッシュバックなどの解離体験」という表現が加えられた。つまりフラッシュバックを改めて解離性のものとして理解する方針が示されたのだ。(DSM-5の記載はより正確には、「トラウマ的な出来事が再現されているかのように感じたり行動したりする解離反応(例えばフラッシュバック) となっている。)
 DSM-5においてPTSDの症状を解離の文脈からとらえるという傾向は、いわゆるPTSDの「解離タイプ」が記載されたことにも表されている。つまりPTSDの症状に「離人体験かまたは非現実体験」の形での解離症状がある場合には、それが「解離を伴うPTSD」と特定することとなったのである。
 近年の疫学的研究も、解離傾向と幻覚体験及びトラウマについての相関性を示している。特に小児期の性的虐待は統合失調症や双極性障害や一般人において幻覚との関連が報告されている(Varese F, 2012).直近ではJones et al (2023) によれば、主観的なトラウマの深刻さは幻覚傾性hallucination-proneness との相関があり、また幻覚形成と解離体験にも顕著な相関があると報告している。そして解離体験は主観的なトラウマの深刻さと幻覚傾性、特に幻聴との仲介をしているとされる。

Jones, O., Hughes-Ruiz, L., & Vass, V. (2023). Investigating hallucination-proneness, dissociative experiences and trauma in the general population. Psychosis, 16(3), 233–242.