2025年11月7日金曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 7

 この心因の問題とともに、DSM-IVにあった「症状が神経学的に説明できないこと」についても、DSM-5やICD-11では変更が加えられている。具体的には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)。  ここでDSM-5ICD-11では、FNSにおいて神経学的な所見が見られないことを特に否定しているわけではない点が重要である。しかしそれは陰性所見(医学的な診断が存在しないこと)ではなく、陽性所見(症状が医学的な診断と適合しないこと)を強調する形になっている。この違いは微妙だが大切である。さらにFNSに関して「このような『陽性』検査所見の例は何十例もある」p.351)とし、その例として○○テストを挙げている。 ちなみにこの陽性所見という言葉の説明として、DSM-TRでは次のような説明もなされている。「むしろ陽性の症状及び兆候(苦痛を伴う身体症状に加えて、そうした症状に対する反応としての異常な思考、感情、および行動)に基づく診断が強調される。」(p.339) 


2025年11月6日木曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 6

  変換症のFNSへの最終的な移行にはDSM-5(2013)およびDSM-5-TR(2022)を待たねばならなかった。まずDSM-5では変換症が「変換症(機能性神経学的症状症)」となった。すなわち( )付きで機能性神経学的症状症(FND)と言い換えられたのである。さらにDSM-5-TRでは「機能性神経学的症状症(変換症)」へと変更になった。すなわち変換症の方が( )の中に入り、FNSという呼び方がより正式な扱いをされることとなったのである。こうしてDSMでは変換症という用語の使用が回避され、その代わりにFNDが用いられるようになったが、その流れに乗るかのように、ICD-11(2022)でも変換症という表現が消え、代わりに解離性神経学的症状症が用いられるようになっている。これは実質的にFNDに相当する表現と言っていいであろう。  この変換症→FNDの以降について改めて考えたい。言うまでもないことだが、このFNDの”F”は機能性 functional であり、器質性 organic という表現の対立概念であり、神経学的な検査所見に異常がなく、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。したがってFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。  それに比べて変換症という概念には多分にその成立機序に関する憶測が入り込んでいたことになる。FNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone (2010)を参考にするならば、本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。  しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudの仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからであり、この概念の恣意性や偏見を生む可能性を排除するという意味でもDSM-5においてはその診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのであり、それに伴う名称の変更が行われたということになる。

2025年11月5日水曜日

分析学会への出席

 先週末は新潟で分析学会に出席、いくつかの発表を行った。トラウマ、解離に関するものである。
新潟は案外東京から近く(新幹線で2時間)、あいにくの天候だったが旅先の気分を楽しむことも出来た。学会会場の朱鷺メッセの先からは佐渡汽船が出ていることを知らなかった。今度来た時には佐渡にわたってみたい。
分析学会は世代の交代を感じたが、顔なじみの先生方とも交流も楽しむことが出来た。松木邦裕先生とも少しゆっくりお話しが出来た。

2025年11月4日火曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 5

 変換症およびFNDとしての歴史 (DSMの登場)

 ここまではヒステリーについて論じてきたが、1980年代以降は欧米の診断基準ではヒステリーという名称が避けられ、conversion disorder (転換性障害 → 変換症)という表現が用いられるようになった。それが具体的に反映されたのがDSM-Ⅲ(1980)の診断基準である。DSMの旧版、すなわち1968年のDSM-IIにはヒステリー神経症(解離型、変換型)という表現が存在した。しかし1970年代になり、様々なトラウマを体験した人々、例えばベトナム戦争の帰還兵や性被害者や幼児虐待の犠牲者に頻繁に解離及び身体症状が見られて臨床的な関心を集め、それまでの偏見の対象になりがちで、いわば手垢のついたヒステリーという概念や呼称が表舞台から去るきっかけとなったのである。
 しかしDSM‐IIIにおいて定義された変換症は本質的には従来のそれと変わらなかった。すなわちそれは、心理的要因が病因として関与していると判断され、そこに疾病利得が存在すると考えられるものとされた(B項目)。変換症 conversion dirorder という名称自体が無意識領域に抑圧された葛藤が身体領域に象徴的に「変換」されたもの、という Freud の理解をそのまま引き継いでいたのである。

このDSM-Ⅲの診断基準で注目すべきなのは、変換症が解離性障害とは異なる「身体表現性障害」に分類されることになったことである。これはDSM‐IIIが「無理論性」を重んじ、身体症状を示す変換症と精神症状を示す解離症を同じカテゴリーのもとに置くことを回避したためであるが、その後も2013年のDSM‐5に至るまでこの方針は変わらず、もう一つの世界的な疾病の診断基準であるWHOのICDとの間の齟齬が生じたままであることである。
 1994年に発刊のDSM-IVでも上記の分類のされ方は変わらなかった。ただしDSM-IIIでは心因の存在と疾病利得をうたったB項目は心理的要因の存在のみとなり、疾病利得の存在を診断基準として含まなくなったことは注目すべきであろう。その意味で変換症→FNDへの移行はすでにこの時点で起きていたと考えるべきであろう。


2025年11月3日月曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 4

 Charcot とその後

 一世を風靡した Charcot の臨床講義ではあったがではあったが、あらかじめ病棟でいろいろ指導や打ち合わせをして症状を演じていたということも伝えられる(Hellenberger )。彼の客死後はそれまで忠実な部下であった Babinski は師の神経学的な業績を受け継ぐ一方ではヒステリーは暗示により生じて説得により消えるものだとしてそれに代わる'pithiatism' という造語を提案した。彼はこれを詐病とは区別しようとしたものの、半ば詐病者 'semi-malingerers' であると表現した。このBabinski の概念はCharcot のヒステリー概念の否定という意味を持っていたが、他方ではそれとの鑑別でバビンスキー反射を発見したという意味ではその神経学的な功績は大きかったと言える。

 Charcot の影響を受けた Freud と Janet はヒステリーに関して独自の理論を発展させた。Freud は最初は Charcot にならいヒステリー症状は幼児期の性的外傷に基づくものとした。しかしのちに精神分析理論を発展させる中で、症状の背後には無意識に抑圧された葛藤が存在し、それが身体領域に象徴的に「変換 converse」されたものが身体症状であると考えた。後に用いられるようになった精神症状に関する「解離ヒステリー」や身体症状に関する「転換ヒステリー」という言葉にはこのフロイトの考えが背景となっていた。他方 Janet は強い情動やトラウマ体験の際に心的エネルギーが低下し、特定の思考や機能が解離されて独自の自己感を持つに至るものとした。すなわちFrreud は欲動の生み出す葛藤と抑圧の機制を重視したのに対し、Janet はむしろトラウマが心の構造全体に及ぼす影響を重視したことになる。

 それまで偏見の対象となり、詐病扱いされたヒステリーは、Freud や Janet によりそれが精神疾患として位置づけられた。ただしFreud が考えたようにそこには心因や疾病利得が存在するものという理解を出なかったと言える。


2025年11月2日日曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 3

 ヒステリーを学術的に扱った Charcot, Freud, Janet

  ヒステリーに関する偏見を拭い去り、医学の土俵に持ち込んだのが、18世紀後半のパリの J-M. Charcot であり、その影響を受けた S.Freud や P.Janet であった。Charcot は様々な神経疾患に関する業績を残していたが、1862年にパリのサルペトリエール病院の「女性けいれん病棟」を担当したことが大きな転機となった。Charcot はヒステリーは女性特有のものではなく、男性についても起きることを、実際患者を供覧することにより示した。また Charcotは、ヒステリーが心的外傷一般によるものとも考えられ、このこのヒステリーの外傷説が、Freudの理論形成に大きな影響を与えなど、ヒステリーの研究に非常に大きな貢献をしたことも確かである。Charcot はまたヒステリー症状を一律に説明する「ヒステリーの大発作」という概念を提出し、それを詳細に記載した。こうすることでヒステリーのさまざまな症状は、この大発作の部分的な現われや亜系であると説明した。 現在の観点から Charcot のヒステリーに関する臨床研究を振り返った場合、彼がヒステリーを一律に自分の専門である神経疾患と見なそうとしたことには問題があったものの、現在のFNSの概念の見直しの趨勢を見ると、それなりの先見の明があったと考えることもできるだろう。


2025年11月1日土曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 2

 ヒステリーの歴史

 ヒステリーの歴史をたどる際、それがどこから学問的な議論の体裁を整え始めたかを判断するのは難しい。 ヒステリーという言葉は人類の歴史のかなり早期から存在していた可能性があり、その古さはメランコリーなどと肩を並べるといえよう。紀元前5世紀には古代ギリシャの医聖ヒポクラテスがヒステリーを子宮が女性の体内をさまよう病として記載している。またガレノスは、紀元一世紀になりヒステリーについての理論を集大成した。それによるとヒステリーは特に処女、尼、寡婦に顕著に見受けられ、結婚している女性に時折見られることから、情熱的な女性が性的に充足されない場合に引き起こされるものであるとされた。そしてガレノスは治療法としては、既婚女性は性交渉を多く持つこと、そして独身女性は結婚すること、それ以外は性器への「マッサージ」を施すこと(これは今で言う性感マッサージということになるのだろう)と記載されている。驚くことにこの治療法がそれから二十世紀近くまで、すなわちシャルコーの出現まではヒステリーの治療のスタンダードとされるのだ(Lamberty, 2007))が、にわかには信じがたい話である。ちなみに我が国ではヒステリーをかつては「臓躁病」と訳して記載していたが、これも同様の考えに基づくものである。
 このようにヒステリーは女性の性愛性と深く結びついた概念であったとともに、ともすると一種の詐病、得体のしれない病、という差別的なニュアンスを伴っていたのである。 小此木啓吾 ヒステリーの歴史 imago ヒステリー 1996年7号 青土社 18~29  Maines, R.P. (1998). The Technology of Orgasm: "Hysteria", the Vibrator, and Women's Sexual Satisfaction. Baltimore: The Johns Hopkins University Press 岡野憲一郎(2011)続・解離性障害 岩崎学術出版社