2026年2月11日水曜日

開業精神療法におけるAIの意義について

  ある学会の抄録を書いている。

 開業精神療法を行う私たちにとって、AIがどのような意義を持つのかという問題は、この二、三年になって急速に大きなテーマとなりつつある。これは精神療法のオンライン化の可能性と共に私たちの臨床に直結する問題となりうる。私はこの問題について、以下の三つのテーマに沿って論じたい。それらは、1. AIは心を交わすに値する存在なのであろうか? 2. AIは治療者としてどのような役割を演じる可能性があるのか? 3. AIから治療者は何を学べるか?である。

1. AIは心を交わすに値する存在なのか?

 ほんの数年前まで、私たちは「人工頭脳」とまともな会話を交わすことなどおよそ不可能と考えていた。ところが202211月の対話型AI (ChatGPT)の公開以来、わずか3年あまりのうちに私たちの考えは大きく変わりつつある。多くの患者が日常的にAIを用いて様々な相談を行っていることを耳にする。そして私たち治療者の多くも同じような体験を持っているであろう。しかし同時に私たちが持つのは、AIを一人前の心を持つ存在として関わっている自分たちに対する違和感ではないか? そもそもAIは「心を持たない」存在のはずである。それは構造上ものごとの真の「理解」が出来ず、主観性やクオリアの体験を持つことが出来ない。そのような存在と心を通わせ、共感をし合えることなど可能なのであろうか?この問題についての私の考えは、AIは間違いなく「知性」であり、「心を持つかのごとくふるまう」何かであり、それをかりそめの心(【心】)として扱わざるをえないという現実である。


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2026年2月10日火曜日

バウンダリーについて 3

  さてなぜ柔構造の概念が面白いかと言えば、構造が規定する境界線上で様々な駆け引きやダイナミクスが起きるからである。アーウィン・ホフマンは「儀式と自発性」の中で liminal space (境界空間)、すなわち患者がオフィスに入ってくる瞬間から、カウチに身を横たえて自由連想が始まるまでの短い時空間に様々なことが起きる様子を書いてある。(もちろんカウチから起き上がり、最後にドアを閉めて退出する間も、やはり境界空間である。)最初の一瞬は二人の社会人としての出会い(町で偶然出会った時のように)であり、普通にあいさつを交わすであろう。お互い愛想笑いを浮かべるかもしれない。そしてカウチに横になりアナリストとアナリザントの関係に入る。ところがその間の移行期に、実に様々な人間的なやり取りことが起きる可能性があるのだ。例えば治療の終了時に境界空間が始まるが、患者がそれまで話しかけていたことをいかに収めるか、いかに話し終えるまでの時間を(それでも話し続けることで)治療者に要求するのか、という人間的な駆け引きが起きるのだ。あるいは「今日は緊張してあまり話せなくてすみません」等の本音もこの空間で聞かれるかもしれない。 この問題と、「臨界状況」をめぐる議論とは繋がっている。臨界状況とは複雑系においてある種の部分的、ないしは総合的な相転移が生じかけている状況であり、そこでも様々なことが起きる。人間の脳の活動で考えれば、ある行動を起こす、ある言葉を発する、という現象自体が臨界状況から析出してくる。(これを書きながら、アマゾンで「ALT236著 佐野ゆか訳 リミナルスペース ー新しい恐怖の美学 2025年」をさっそく注文した。)

 臨界状況の面白さをどう表現したらいいのだろうか。そこでは何が起きるか分からない、いろいろなものがギリギリのバランスをとっていて、どれかが一気に結晶化するような不可知性、偶発性が関係していることは間違いない。


2026年2月9日月曜日

バウンダリーについて 2

 ところで境界についてこれまで書いてきたこととしては二つある。一つはいわゆる「治療的柔構造」の議論、もう一つは臨界状況の多産性、という事だ。結局自分が書いてきたことを頼りに書き進めるのが無難だろう。

 柔構造については、こんな議論をした。「治療構造を厳守せよ、という事が叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボだ」。こう書いてみると非常に乱暴、というか「何言ってんの?」と自分自身に突っ込みを入れたくなる。よくこんなことを書いたものだ。でもこんなことを書きたかったのだ。
 境界は実は何かに刻印されて動かないのではなく、その時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを治療者の側が「一回50分ですから」と言って一分も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているだけであることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性であり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。

 こう考えてみよう。コンビニで菓子パンを200円で売っている。客はレジのところで190円にと値引き交渉をするだろうか?客から見れば、「ちょっと高いんじゃない?」とか「値上げ前は190円だったじゃない」と言いたくても、そんなことをレジでいちいちやっていたら回らない。それこそそのたびに店長に聞きに行く、などのことをしていたらレジでお客さんの列が出来てしまう。だからコンビニで値引き交渉をするなんておかしな人だと思われてしまうと思うだろう。ところがお肉の量り売りをするときはちょっと心持多めにしてあげるなどのことは普通に行われるだろう。もともと物の売り買いは売り手と買い手が交渉して値段を決めていたのだ。せり売りやオークションなどを見れば、それが原型だと分かるだろう。定価での売り買いは、どちらか、あるいは両者の利便性のためにそれが選択されただけである。

 その意味で私は構造は「柔構造的」であると言ったが、それが原型であることを言ったまでで、構造は自由に破られてもいい、と言っているのではなく、原型としての柔構造の理念(すなわち原則的に両者の合意で境界が決まるもの)を忘れない方がいいであろうと主張したのだ。
 そして治療構造はまさにそのような性質のものである。柔構造的な部分はいくらでもあると言っていい。患者は治療費を翌月の第一月曜日に振り込むという契約だったとしよう。患者はその日に忘れて火曜日に振り込む場合は、すでに構造は壊されている。それを許容するかどうかは、結局治療者と患者の話し合い(がもし必要であれば)で決まるだろう。あるいはセッションがきっちり50分で終わるのではなく、10秒ないし20秒超過しても許容範囲としている場合には、すでにそれが柔構造であることを示している。

 私がこの柔構造について論じるのは、精神分析的な構造などで、患者がそれを少しでも破ると鬼の首を取ったようになる治療者が散見されたからである。構造を破ろうとすること=治療抵抗という見方である。これでは患者の方から構造を変えるイニシャチブを起こすことが出来なくなってしまうからだ。


2026年2月8日日曜日

バウンダリーについて 7

 ギャバードさんは精神分析の草創期におけるフロイトの弟子たちの過ちに対してその火消しに躍起となっているとし、その例を山ほど挙げているが、最後にフロイトも成人では決してなかったことを強調している。フロイトは性的な意味での境界侵犯こそなかったが、それ以外の境界侵犯についてはそれをいくつか行っていたということが知られる。一つよく知られるのは娘のアンナに対する分析を行ったことであるが、アンナも自分のことをケースとして報告して分析家となったという意味では決して単なる犠牲者であったわけでもない。事実彼女は自分が父親に報告した夢が無断で使用されたことについて不満であったと言われる。しかし最近(と言っても35年も前のことになるが)になって明らかになったスキャンダルの方が強烈だ。私がこのブログでちょうど10年前に書いたもの(2015年12月31日)を再録しよう。

[このいわば「フロイトスキャンダル」とでもいうべき問題は]私がメニンガー・クリニックで精神分析のトレーニングを受けている頃に明らかになったものであり、1990年の3月にそれが公表された新聞(New York Times, 1990316日付) のコピーをスタッフは競って読んでいたのを思い出す。
これはフロイトがある患者に対して行った治療に関する新たな史料が発見されたことに起因しているが、そのあらましを記してみよう(Edmunds, 1988)1920年代にホレイス・フリンクというアメリカの精神科医が、自分の精神の病の治療をかねてウィーンでフロイトの分析を受けた。フリンクは当時自分の患者である既婚女性アンジェリカ・ビジューと関係を持ってしまっていた。(実は精神分析の草創期は、そしてそれ以後も、分析家が患者と関係を持ってしまうことは、ありふれた出来事であり、それをしなかったフロイトがむしろ例外的に見えてしまうという事情がある。)

この分析治療が問題だったのは、こともあろうにフロイトはフリンクに、彼自身も妻と離婚して、アンジェリカも夫と別れさせた上で二人が結婚するように勧めたということだからだ。つまり患者と関係を持ってしまっている自分の患者に、それを制止するどころか、それをさらに教唆したということだが、そこにはある金銭的な事情がからんでいたらしいというのが、この一連の話のポイントである。そこにはアンジェリカが銀行の跡取りである大資産家であったということが関係していた。フロイトはフリンクに、「あなたは潜在的な同性愛者であり、しかもそれが顕在する恐れがあり、それを防ぐためにはアンジェリカと結婚する」必要があると説いたという。そしてフロイトは、「あなたが自分の潜在的な同性愛に気がつかないということは、私を金持ちにしたいという願望に気がつかないことと同じだ。」と言い、アンジェリカとの結婚による資産を精神分析に寄付することを迫ったというのだ。しかし二人の結婚はそれぞれのもとの配偶者の人生を狂わせ、フリンク自身も精神病を顕在化させ、それほど犠牲を払った結婚はすぐに破局を迎え、フリンクはその後非業の死を遂げることになる。アンジェリカの夫はフロイトを告発する文章を新聞に出そうとするが、結局はその機会のないままに病死をしてしまう。経緯から見てフロイトが彼らの人生を破壊してしまったといっても過言ではなさそうである。

以上の事実は、フリンクの娘の調査により明らかになったという。そこで見つかったフロイトからフリンクへの手紙が何よりもの証拠になったのである。非常に筆まめなフロイトがみずから招いた不幸とも取れようが、もちろんフリンクをはじめとしてこの一連の悲劇に巻き込まれた人々が最大の被害者であることは言うまでもない。

このような経緯を見る限り、いわゆる「フロイト神話」は崩れる一方にあるとしても無理ないであろう。1980年以降、公にされる資料や行われる研究はほとんどが、フロイトが理想的な治療者とはいかに異なっていたかについて明らかにする。なぜこのようなことが生じるのだろう? 私たちはそれでもフロイトを「信じる」べきだろうか?

ただしこの種の疑問は的外れなのであろう。なぜならその背景にあるのは、私たちの持つ、過度の理想化に走りやすい傾向だからだ。もとよりフロイトは高潔で公平無私の人間などではなかった。特別高い倫理観を備えていたとも言い難いところがある。冒頭で述べたとおり、フロイトを理想化し、その人間としての偉大さを強調しようとする限りは、それを否定するような材料はこれからでも続々と出てくる可能性もある。またこれは後に述べることだが、フロイトの人間性についてその完璧さを願いつつ資料に当たっても、結局はその倫理性に関してはむしろ俗人に近い印象を受ける。ではフロイトの何がすごかったのか?彼の真価はどこら辺にあったのだろう?


バウンダリーについて 1

  「大人の事情」は続く。突然「バウンダリー(境界)の歴史」についての論文を書くことになった。せっかく書評5本が終わったのになあ。しかし悪くないテーマである。

 私はバウンダリーについての専門家では全くないが(というか、そういう人はいるのだろうか。「境界評論家」とか、聞いたことないなあ)、最近この件が問題になっているのはよくわかる。私たちの周りで常に起きている境界侵犯の問題である。これはトラウマの文脈でも顕著であり、重要なテーマであることは言うまでもない。ではその歴史とは何か。一言でいえば、昔はバウンダリーは今よりはるかにあいまいだったのだ。あってなきがごとし。特に我が国はそうか。何しろ日本家屋は障子と襖で仕切られ、しばしばそれは開け放たれていたのだ。プライバシーはあってなきがごとし。

 それでも昔から境界の問題が確実に存在したのは、たとえば土地の境い目だろう。人は自分のテリトリーを必要とする。いわゆる「縄張り」というわけだが、これは動物のレベルでももちろん存在する。私はネーチャー系の番組が好きだが、コブダイが自分のテリトリーである岩礁を見回り、侵入者を厳しくチェックするのを見た。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。自分の利益に関わる境界は意識されやすく、個体(個人)が成立した時からすぐに線が引かれるのだ。

 そのように考えたら境界の基本はオリジンはパーソナルスペースという事になるだろうか。新幹線で京大に通っていた頃のことを思い出す。自由席の隣の人の間のひじ掛けは、そこにどちらが肘を掛けるかをめぐって結構ナーバスになった。

 いわばパーソナルスペースとしての境界は侵害されたらすぐわかるが、それに比べて、身分、人種、関係性に関わる境界はかなりあいまいな部分を含む。それは場合によっては交差していることで複雑な問題を醸す。

 例えば精神科の職場で職場の上司が、少し遅れて精神分析のトレーニングを開始すると、職場の部下が自分のスーパーバイザーになったりする。その場合二人がそれらの役割による縛りを押し切って異性関係に入ろうとすると、かなりややこしいことが生じる。
 将棋の世界などどうなるのか?藤井六冠はどんなに年上の先輩棋士との対局でも上座に座るだろう。でも忘年会などでの席順はどうなっているのだろうか?敬語の使い方は?

 というわけでバウンダリーについての論文はこのようにまったくまとまりのない書き散らしから始まるが、私は実はこの段階が結構好きである。一人でブレインストーミングをしている感じである。


2026年2月7日土曜日

レマ「体は語る」書評 ②

 レマの書評の後半部分

 以下に本書のいくつかの章についての私なりの理解や考えを述べておきたい。

序章 身体が語るときでは、 著者レマの精神分析家としてのスタンスが語られる。そして私たちの身体の在り方が、さかのぼって両親との体験に根差している、というのがレマの主張の主要部分である。それはフロイトの「自我は真っ先に身体自我である」という言葉に反映されているというわけだ。ただしレマはガレーゼやイヤコボーニの研究によるミラーニューロンの研究やメンタライゼーションの概念をも広く援用している。



<以下略>

2026年2月6日金曜日

レマ「体は語る」書評 ①

 こちらもなんとか完成にこぎつけた。実に苦労した書評である。

 美しい装丁の施された本書を手に取り、しばらくページをめくっていくうちに、私はこれは新たなるヒステリー論ではないかと思った。それにしては本書にヒステリーという言葉が一向に出てこないのはなぜだろうと思いつつ、本書を読み進めることとなった。しかし本書はかなり難解である。内容がなかなか入ってこないのは私に原因があるのではないかと思いつつ読み直すうちに、私はようやく本書の持つ意義や重みを実感できるようになった。
 私の文章は「書評」という形をとるものの、そもそも本書の内容に評価を下すような力は私にはない。それに本書の冒頭には、ドナルド・キャンベルによる秀逸な紹介文があり、本書の内容の要約を知る上ではそれで十分である。以下は本書により触発された考えをいくつか述べさせてもらうことにする。

(以下略)