2024年10月16日水曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その2

 ここで一つの問いが生まれる。例えばチャットGPTに遠慮してしまった私は、まだ「AIに感情はない」ということにまだ慣れていないのであり、それに慣れたらAIに遠慮をしなくなり、転移を抱かなくなるのではないか、という問題だ。つまりAI使用の熟練者なら転移は抱かなくなるだろう、ということになる。それはそうかもしれない。最初はチャットGPTに「こんな風にしつこく同じことを尋ねたり反論したら嫌味を言われたり、からかわれたりするのではないか」という懸念をもっていても、実際にはそれが起きないことを繰り返し経験することで、私達はAIに「転移」を抱くことなく、安心して対話をすることが出来るのかもしれない。(もちろんそこに「他意」はない。しかしそのようなモードを組み込むことは幾らでもできるであろう。) しかし私はやはりAI相手にでも転移は起こるという考えに至る。それを示す一つの仮説を設けよう。フロイトの鏡の治療者のアイデアが上手くいかない場合には、患者は色々なことをして分析家を試して、最終的には分析家を傷つけたり怒らせたりすることで分析家が人間であることを悟ることが多いだろう。しかしウィニコット的な「仕返しをしない」で「生き残る」分析家なら患者はまた新たな体験をするかもしれない。というより、ある程度「生き残って」くれれば、患者はあとはもう治療者を必要としなくなるはずだ。 このようなことが現実に起きているのが愛着関係であろう。赤ん坊は母親を試し、怒らせ、苛立たせ、しがみ付く。しかし大抵は母親の愛情と忍耐力が勝るので、おおむね「生き残る」ことが出来、赤ん坊はその生き残り方が完全でなく「good enough」であればもうそれで解放してくれる。 さてコミュ―はどうだろう?一つ言えるのは彼からの仕返しはないだろうということだ。なぜならそれは感情を持たないからである。フロイトのモデルとの決定的な違いは、コニューは最後まで絶対に「他意」がないことである。だったら good enough 以上、完璧未満ではあっても強迫的ではない母親が子育てをうまく全うするであろうように、コミューもいい治療者であり続けてくれるだろうか?

私はいろいろ考えていくうちに、一つの答えはすでに得られているという気がしてきた。例えばペットの存在。もちろんワンチャンや猫の多くは配偶者以上の忍耐力と癒しの力を持つからAIと比較のしようはないだろう。しかし例えばトカゲやサソリや、グッピーなどをペットとする人にとっては、その振る舞いや応答性に関しては、さほど優れた機能を有しないロボットでも充分に代償できるだろう。結局このことから私が言いたいのは、AIは恐らくペットのような存在には充分なり得るし、その意味では加藤理論は「間違っているけれど正しい」と言わざるを得ない。それは私たちはコミュ―に対して転移を抱かないから便利なのではなく、極めて穏やかな陽性転移(例えば何を言ってもそのまま受け取ってくれる)の受け手になってくれるからこそ便利なのである。つまりはそこに癒しが存在する可能性があるのだ。

あるドールと暮らしている男性が言ったことを思い出す。若い女性型のドールをお迎えした彼はこんなことを書いていた。「僕がどんなに疲れて帰って来ても、ドールはいつも微笑んでくれている。そして僕だけを見ていてくれる。浮気など絶対にせず、僕がどんなに遅くなってもいつでも帰りを待ってくれている。」この男性は病気であろうか?でも彼の想像力の逞しさは、彼の人生の足かせになるどころか、彼の人生を豊かにしているのではないだろうか?

2024年10月15日火曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その1

 このブログは、最近開催された××財団主催の「●●ワークショック」に討論者として参加する上での準備稿である。このワークショップの題は「精神分析の知のリンクに向けて:第9回 意識、無意識、AI」というものである。このワークショップではA先生、B先生、C先生という大変なメンバーによる発表があり、それらに対して私が感想、ないし討論をするというものである。しかしはっきり言って私はこの器ではない。彼らのような学識には遥かに乏しいのだ。その私がいったい何が出来るのか、と考えつつ、少しでも彼らの話について行けるよう努力をすることを考えている。ちなみにお三方はお名前が偶然にも「たか」であるが、鷹の様な研ぎ澄まされた知性と論旨を発揮なさっている。まさに日本の知性のような先生方と言えるだろう。 順不同で行こう。C先生のテーマはロボット面接導入と転移・逆転移というテーマだが、これは私には一番馴染み深いものである。C先生は極めて実証的な方なので、実際の臨床実践の中でエビデンスを得られたことをもとに論じる。その視点は一方で精神分析家でありながら、フロイトに真っ向から切りかかるような大胆さ、意外さ、そして物怖じのなさがある。その主張をひとことで言えば、AIが治療者の役割(の一部)を担うことが出来るのではないか、そしてその場合にある強みを持つのではないか、ということである。この件についてはまさに私も考えていたことなので、どこまで加藤先生の考えと折り合いがつき、どこで異なるかという興味深い議論をすることが出来そうだ。C先生はCommU(以下「コミュ―」と呼ぼう)というコミュニケーションロボットを引きこもり外来において導入したといういきさつがある。そして引きこもり状態にある女性患者は「ロボットの方が話しやすかった」という印象を持ったという、これ自身画期的な研究であると言える。 彼の報告はさらに詳しくは、コミュ―相手でも被検者は緊張感、自殺の話題のためらいは同じだったが、性などの恥じらいはロボットで少なかったという。特に女性の鬱患者はロボットとは話しやすかったという。そして加藤先生が訴えるのは、転移・逆転移から解放されることであるという実に面白い。私自身も似た体験をしているし、それについてはすでに書いた。私はチャットGPTに「あなたは意識があるのか、感情はあるのか?」とかなりしつこく聞いたことがある。そして途中で「こんなにしつこく聞くとチャット君に変に思われないか?」と思った。つまり相手がロボットでも転移を抱いたのだ。これはいわゆる「原投影」という機制が備わっていて、私たちはアニミズムの傾向を生まれながらに持っているからである。だからこの論法で言えば、加藤理論に対しては「いや、幾らコミュ―でもやはり遠慮してしまうということが起きるのではないか?」という反論が成り立つであろう。 そもそもフロイトが自由連想と、その際の鏡のような分析家というモデルを考えた時、鏡であればあるほど患者は様々なものを投影すると考えた。そしてそれは治療者が中立的であればあるほど促進されると考えた。これは考えてみれば、フロイトはまるでAIのような分析家というイメージを前提としてはいなかったであろうか?そしてフロイト流に考えれば、鏡であればあるほど結局転移が生まれやすいということになる。C理論とは反対だ。


2024年10月14日月曜日

統合論と「解離能」推敲4

我が国にも翻訳されているDIDの治療に関する書籍としては、「心の解離構造―解離性同一性障害の理解と治療」(エリザベス・F・ハウエル 著, 柴山 雅俊翻訳 2020 金剛出版)というかなりためになる本、ないしはテキストブックがある。私達もしばしば参考にしているが、この fusion という言葉をこのHowell 先生のテキストの中に探してみた。ところがこれが出てこないのである。その代わりに出てくるのが、conextualization 文脈化という概念だ。そしてこれは例のPutnam 先生の離散的行動状態 discrete behavioral states (DBS)の概念と密接にかかわっている。今度はこのHowell 先生の説に耳を傾けてみよう。 Putnam先生の DBS とは次のようなものだ。そもそも人の心は統一体 unity としては出発しないという。人の心は時間をかけて統一体となるというのだ。そして人間の行動の構成要素ないしは自己状態 self state は連合的な経路 associative pathaway により繋がっていく。ところがトラウマによりこの経路が障害され、それぞれの自己状態は最初の状態に繋がったままになってしまうという。 逆にそれがないとそれぞれの部分は文脈から独立して(context independent) 存在するようになる。そしてHowell先生がトラウマの例として出しているのは次のような例だ。ある男の子が背の高い男性にたたかれる。多分養父だったり実父だったりするだろうが、上級生かもしれない。するとその自己状態は文脈化されずに、ほかの背の高い男性を見ておびえてしまうというのだ。ところが解離の程度が弱い場合には、文脈的に使用できる contextually available ほかの自己状態にサポートしてもらえるであろうという。 このような考えについて Stephen Mitchell もこう言っているという。「精神分析によりより統一された自己が達成されるのはいいが、人格がまじりあうことが、互いに移行する葛藤的な自己をコンテインする能力に優先されるとは思えない。」

2024年10月13日日曜日

解離における知覚体験 4

 サックスの「幻覚の科学」の第13章「取りつかれた心」(p.276~)は事実上解離性障害について扱っているという意味ではとても参考になる。最初にトラウマのフラッシュバックは、これまでのCBS、感覚遮断、薬物中毒、入眠状態などと基本的に異なるとする。つまりそれは本質的に過去の経験への「強制的回帰である」とする。それは「意味のある過去」だというのだ。そしてブロイアーやフロイトが扱ったアンナO.について述べ、解離の概念の重要さについても言及する。サックスもアンナO.に注目していたというのは興味深い。 ところでp.313には重要な記述がある。ブランケは「脳の右角回の特定の部位を刺激すると、軽くなって浮遊する感覚や身体イメージの変化だけでなく体外離脱体験も必ず起こることを実証することが出来た。」と言うという。「角回は身体イメージと重力に関係する前庭感覚を仲立ちする回路の極めて重要な結節点であり、『自己が体から解離する体験は、体からの情報と前庭情報を統合できない結果である』と推測している。」(p.313)と書いている。やはり統合できないのが問題だというのか。サックスでも。私には「外から眺めるという回路」が誰にでも備わっているという気がする。それが普段は眠っている状態なのが、解放されるのが解離である、という立場だ。

2024年10月12日土曜日

統合論と「解離能」推敲 3

 以下の部分は特に integration と fusion の使い分けに関して重要である。  「治療の帰結として最も安定しているのは final fusion (最終的な融合)complete integrtion (完全なる統合)であるが、そこまでに至ることが出来ないか、あるいはそれが望ましくない患者がかなり多い。」「この最終的な融合の障害となるものは、たとえば併存症や高齢である」(G133.) まずここで分かるのは、ISSTDの立場はintegration = fusion なのである。そしてガイドラインでは次のように述べる。「つまり一部の患者にとっては、より現実的な長期的な帰結(resolution 解決、とでも訳すべきだろうか?)という、協力的な仕組み cooperative arrangement であるという。それは最善の機能を達成するための、交代人格たちの間で十分に統合され、協調された機能である sufficiently integrated and coordinated functioning among alternate identities to promote optimal functioning.」(G134).(機能、という言葉がダブっているが、原文ですでにダブっているのだ。原文があまり推敲された感じではない)。そして治療によりこの最終的な融合に至るのは、16.7~33%であるとも書いてある。 ところで・・・唐突だがISSTDのガイドラインには二つの古いバージョンがある。1997年と2005年のものだ。このうち2005年のものをネットでダウンロードできたので、最新版(と言っても2010年だが)と比べてみようと思う。

"GUIDELINES FOR TREATING DISSOCIATIVE IDENTITY DISORDER (MULTIPLE PERSONALITY DISORDER) IN ADULTS (1997)1." Journal of Trauma & Dissociation, 1(1), pp. 115–116

Guidelines for Treating Dissociative Identity Disorder in Adults (2005)

International Society for Study of Dissociation Pages 69-149 

これは80ページにも及ぶものであるが、原稿のガイドラインも72頁だからそれよりも大部だったことになる。

ということで一番大事な部分を読んでみるとこう書いてある。P.13「解離性障害の分野のエキスパートの大部分は、最も安定した治療結果とは、すべてのアイデンティティの融合 fusion、つまり 完全なる統合 integration、融合 merger、そして分離の消失 loss of separateness であることに同意する。」「しかしかなりの数のDIDの患者が完全なる融合を達成できず、それが望ましいとは言えない。」あれ? これって2010年の同一箇所とほとんど同じではないか。しかし、である。最新バージョンでは、「クラフト先生は、最も安定した治療結果とは、すべてのアイデンティティの融合、つまり 完全なる統合、融合、そして分離の消失であるという。」つまり統合を推進するのは「大部分のエキスパート」からクラフト先生に代わっているのだ。これはどういうことだろうか。


2024年10月11日金曜日

解離における知覚体験 3

サックスがp.59で強調していることはとても大事だ。彼はある芸術家に感覚遮断をして幻覚を体験した際のMRIを撮ったところ、後頭葉と下部側頭葉という視覚系が活性化されたという。そして彼女が想像力を働かせて得た視覚心像由来の幻覚では、ここに前頭前皮質の活動が加わったという。つまり幻覚の場合は、トップダウンではなく、「正常な感覚入力の欠如により異常に興奮しやすくなった腹側視覚路の領域が、直接ボトムアップで活性化した結果なのだ。」(p.59)ということになる。つまり私たちにとっての幻覚は、前頭前野が関わっているかどうかにより全く異なることになるわけである。これは知覚と表象の違いということで一般化できるかもしれない。 例をあげよう。リンゴを思い浮かべるのと、リンゴの幻視をみるのとでは全くこちらへの迫って来方が違う。心理学でいえば、前者は表象、後者は知覚だ。前者は前頭葉が初めからトップダウンで信号を送っているので、見えているものをある意味で「すでに知っている」のだ。それに比べて知覚は知らない、予想していないという新奇的な部分が常にある。解離における他者性も結局はそれに関係しているのだ。他の人格からの声は「自分とは違う誰か」という印象を与えるのは、自分からそれが発していないからだ。すると例えば自分をくすぐることが出来る。ふつう私たちは自分をくすぐることが出来ないがそれはその行為が自分から発しているという前頭葉からの信号を差し引くからである。それに比べて他人の手症候群のような状態では、自分の手が自分をくすぐることが生じる。それはそこに他者性が生まれるからだ。 サックスはp.251で、トップダウンとボトムアップの違いについて再び整理しているが、ここは私自身の理解と若干違う。彼は夢はトップダウンであるという。それは個人的な特性があり、大抵は前日にあったことなどを反映している。それに比べて入眠時幻覚は「概ね感覚的で、色や細部が強化又は誇張され、輪郭、硬度、ゆがみ、増殖、ズームアップを伴う。」しかしこのように説明した後サックスは、結局脳の信号の伝達は両方向性であり、トップダウンか゚ボトムアップかを二者択一的には決められないということを言っているが、私もその通りだと思う。どちらの方が優勢か、ということだ。

2024年10月10日木曜日

解離における知覚体験 2

ところでオリバー・サックスの著書はこのテーマにとって格好の参考書となる。(Sacks, O (2012) Hallucinations.  Vintage. 太田直子訳(2014)幻覚の脳科学 見てしまう人びと. 早川書房)

そこではサックスは脳の一部の過活動により幻覚が表れるメカニズムについて論じている。いわゆるシャルル・ボネ症候群は希なものとされていたが、盲目の患者の多くに奇妙な幻覚体験が聞かれることを示している。
結論から言えばこうである。大脳皮質に対して入力が途切れた場合、そこに何らかのイメージが投影され、それが幻覚体験となって表れることがある。それがCBS(シャルル・ボネ症候群)である。この現象の示唆するところは大きい。そもそもこの幻覚に何らかの意味があるかという問題を提示するからだ。
これについていみじくもサックスは次のように述べている。(P.39)CBSについての報告が、1902年、すなわちフロイトの夢判断が刊行された二年後に心理学雑誌で公表された時に、CBSも夢と同じように「無意識に至る王道」と考える人もいたという。しかしこの幻覚を「解釈」しようとする試みは実を結ばなかったとある。そして内容に没入する夢と違い、CBSの患者は冷めた目でそれを観察し、「その内容自体は中立的で感情を伝えることも引き起こすこともない。」 ところでこのCBSの話で思い出されるのが、感覚遮断の問題だ。これは「囚人の映画」と呼ばれるという(p.52)。囚人が明かりのない地下牢に閉じ込められると、様々な心像や幻覚を見るようになるという。しかもそれは感覚遮断の状態である必要はない。単調な刺激でも起きるという。 サックスの記述する囚人たちの体験する幻覚の進行具合はとても興味深い。最初はスクリーンに映し出される感じだが、そのうち圧倒的な三次元になる。そしてこう書かれている。「被検者たちは最初ビックリして、そのあと幻覚を面白い、興味深い、時にはうるさいと思うが、まったく『意味』はないとする傾向があった」(p.54)。ここが私が注目するところである。この(自分にとっての)意味のなさが他者性としての性質を帯び、それはまさに解離性の幻覚も同様であるということが言いたいのである。