2026年8月28日金曜日

AIと精神療法 1

 あたかも人の心のようにふるまうAIの【心】

 AIが私たちの生活に浸透するスピードには目をみはるばかりである。治療者として患者と対面する私たちが知っているのは、多くの患者が日常的にAIを用いて様々な相談を行っているということである。そして時を経るごとにそれは顕著となっている。おそらく順番としては患者を含む一般の人々の中でAIとの対話をする人たちが増え、最初は少し距離を置いていた治療者の間に徐々に浸透していったのではないであろうか。少なくとも私の場合はそうであった。
 私がAIと対話をするようになったきっかけは、患者の体験談を聞くことであった。それは概ねとても好評で、AIはよく話を聞いてくれて、とても助けになるというものがほとんどだった。私は通常は食わず嫌いの反応をするので、それを自分で体験する気にはなれなかった。しかし令和7年の年明けに、ある機関から、「AIと精神療法」というテーマで話をして欲しいという依頼があり、それでようやく重い腰を上げてChatGPTと初めて言葉を交わしたという経緯がある。だから私とAIとの関係はまだ一年半しか経っていないが、最初のちょっとした衝撃に近いものは、それ以降裏切られることなく残っている。その衝撃とは「AIがいつの間にか、あたかも人の心のように私自身が扱っている」ということについてである。この「あたかも人の心のように扱う」とはより正確に言えば、相手が人間ではないということを明かさないならば、私は相手を人間と信じ込んでやり取りをしたであろう、という程度のことだ。


 しかしこれは実はとても不思議なことではないだろうか。そもそもAIは「心を持たない」(=主観を持たない)存在のはずだ。なぜならそれはどう考えても機械の延長だからである。もうかなり前の話になるが、世の中に電子辞書なるものが出回り始めた。単語を打ち込んで、その日本語訳が出て来るのを見て、ずいぶん便利なものが出てきたと思ったが、その電子辞書がまさか心を持つとは到底考えなかった。
 それと同じような意味で、数年前ならアイパッドのSIRIに話しかけて、それなりに会話が通じたような答えが返ってきても、おそらく私たちはSIRIが本気で心を持っているとは思わなかったはずである。
 しかし今や私たちは使っているOpen AI の ChatGPTやGoogle のジェミニなどとは、あたかも心を持っている存在であるかのように私たちはやりとりをしているのだ。しかしどう考えてもそれらは機械の延長のはずである。でもこれはいったいどういうことだろうか?

 そこで機械としてのAIと心との違いについて最初に明確にしておこう。その質的な違いは明らかである。これはAI自身が真っ先に自認することだ。私がいつも対話しているChat GPTは、自らを「物事を感じることは出来ないし理解することも出来ない」「感情を持たない」と言う。大雑把な言い方をすれば、それは「(人間のような)心を持たない」と言ってもいい。しかし問題は、このようなAIを前にして、私たちはそこに「かりそめの心」を想定するしかないという段階に来ているのではないかと思う。つまりあたかも「心を持つ」存在として扱い始めているということだ。


 (以下略)




2026年8月27日木曜日

支持療法と精神分析における「不都合な真実」 3

  また以下の「さらに不都合な真実」も示唆された。それは一部の患者にとっては転移解釈は侵入的であり、したがって非治療的である可能性があるということだった。つまりは表出的療法よりは、支持的療法の方がよりベターであるケースもあるということである。これは表出的介入と支持的介入はどちらかと言えば 対立的 antithetical なところがあるからやむを得ないことでもある。表出的治療は「蓋を取る」治療、支持的治療は「蓋をする」治療と形容されるが、「蓋をする」ことが必要な患者がいきなり解釈により「蓋を取られる」ことは有害となる可能性がある。

 私は米国留学中に G.Gabbard という精神分析の大家から「(BPDの患者にとって)分析的な転移解釈はハイリスク・ハイリターンだ」と聞いたが、このうちの「ハイリスク」とはまさにこの非治療的な部分という事が出来る。

 ところで逆に表出的なかかわりを行っている患者にとっての支持的なかかわりは、同様の意味での危険性を帯びる可能性はあるだろうか? おそらく否であろう。支持的な関りはあくまでも大事をとった安全策であり、それは患者の内的理解の進行速度を緩めることはあったとしても、それを有害とまでは呼べないであろう。そして何よりも重要なのは、いま日本で行われている精神療法は週に一度、ないしはそれ以下の頻度がスタンダードなのである。つまり大多数の精神療法は支持的療法をベースに行われるしかないのである。

 以上の点を踏まえた場合、一般の精神療法家に出来ることは何だろうか? これまでの予想に反してどうやら支持的介入が思いのほか有効であるらしいことが示された以上、それに基づく治療の方法論を整えることであろう。ただし老婆心ながら一つ注意すべきことをお伝えしたい。その方法論は従来の精神分析のそれとは独立したものと考え、あくまでも「週4回の精神分析は有効である」という可能性は温存すべきであるという事だ。PRPは時間と労力を費やした一つの大掛かりな研究であり、今後同様のスケールの研究は難しいかもしれない。しかし支持的療法の有効性を示したPRPの結果が必ずしも正解であるという保証はない。将来別の、さらにスケールの大きい研究がおこなわれて「支持的療法はPRPで得られた結果ほどには有効ではなく、やはり表出的療法が優れていた」という研究報告がなされるかもしれないからである。そしてもちろん、それが最終的に得られる結論であるとも限らない。
 そしてそのような研究結果にいたずらに翻弄されないためには洞察的なアプローチと支持的なアプローチの違いをよく吟味し、後者の持ち味や弱点などを十分検討しておく必要がある。




2026年8月26日水曜日

支持療法と精神分析における「不都合な真実」2

  ただしこのような支持療法へのやや否定的な見方に変化が見られたのがここ数十年である。その間様々な実証研究が行われ、その結果として「表出的な精神療法が支持的療法と比較して特別効果を上げるわけではない」ということが明らかになってきたからだ。  ここで改めて表出的精神療法について解説するならば、それはかつて James Strachey が提唱したような、いわゆる「転移解釈」が決定的な治療作用 therapeutic action であるという考えに沿ったものである。そして精神分析が週4回以上であるのに対し、表出的精神療法はそれ以下の頻度、例えば週1回、2回で行われるが、基本的にはこの転移解釈を治療の根幹として維持するという立場に立ったものである。そして支持的精神療法はこれを必ずしも目指さないという点で、表出的精神療法に比べて効果が劣ったものという見方がされていたのである。

 この半世紀ほどの間に行われた実証研究、例えば1970年代の米国メニンガークリニックの大規模な研究(いわゆる「PRP」)などは、あまり精神分析家にとって認めたくないような、いわば「不都合な真実」がいくつか浮き彫りになったことになる。それは支持的な関わりが治癒的な場合が多いらしいことであった。しかし一部の精神分析家にとっては長年掲げられてきた「モーセの十戒」、つまり解釈こそが分析の本質であるという掟は依然として健在であることも見て取れるのだ。
 しかし考えても見よう。そもそも援助を求める多くの患者にとっては、治療が「いかに分析的か」は重要な関心事ではなかったはずである。彼らは生活において体験する何らかの苦痛や不全感から解放されることを第一にもとめて私たちのもとを訪れるのが一般的だからである。だからこれらの結論は決して患者たちにとっては「不都合」なことではなく、むしろ彼らが積極的に知らされるべき内容だったと言えるだろう。


2026年8月25日火曜日

支持療法と精神分析における「不都合な真実」1

  先ずAIがもっぱら関わることになる支持的精神療法についての話から始める。支持的精神療法の対になるのが表出的精神療法であるが、これらは両方とも「精神療法」なるものの二つの種類ということになるが、その精神療法とはどのような意味か?

 精神療法 psychotherapy は文字通り心を治療する手段という意味だが、それは精神分析以前に存在していた。Ellenberger によれば、1890年頃にこの精神療法という言葉が欧州で一種の流行を見せたという(viii)。そこにFreud が登場し、精神療法の一種でとしての精神分析を作り出したのである。

 精神療法の一つとしての精神分析はその後非常に大きな成功を収めた。しかしそれは週に5回も6回も治療に通い、月単位、あるいは年単位という時間がかかることもあり、次第に精神分析を十分に応用できない人たちをどのように治療するかという問題が生じ、改めて精神療法の在り方が問われることになった。そして精神分析的な手法を維持しつつ、回数だけを減らす「表出的精神療法」と、それ以外の「支持的精神療法」とに分かれたのである。

 このように考えると、支持的精神療法は「あまり分析的ではない精神療法」ということになり、精神分析こそが最高の精神療法だと考えらえてきた伝統の中ではあまり有効ではない、次善策としての精神療法というニュアンスを負っていた。そしてそこには精神分析こそが唯一最高の治療法であるという考え方が背景にあったからである。


2026年8月24日月曜日

Bowlby の出発点

 「プレイセラピーと精神分析」の中に入る部分。

 John Bowlby (1907-1990) は前世紀の初めにロンドンでM. Klein とかAnna Freud のもとで学んだ分析家であった。しかしロンドンという当時の精神分析の中枢の一つにいて、彼は彼女たちとは違う考えを持つようになった。愛着理論の提唱者でもある Bowlby は、治療者の役割は、子どもに安全基地を提供している母親のそれと類似していると感じ、治療状況というのは母子間のいわば愛着のやり直しであるという非常に大胆な、しかしある意味ではかなり自然な発想に基づく理論を提唱したが、当時の Freud およびその直系の弟子たちとはかなり異なる主張を行ったために、精神分析の世界ではかなり異端扱いをされたのである。同時代でおそらく同じような考え方を持っていたのがWinnicott であるが、彼は愛嬌があり、理論上のあからさまな対立を好まなかった。しかしBowlby はかなりはっきり自己主張をする人であったことも関係していた。

 実はBowlby はその生い立ちにおいて幼少時に寄宿舎に入れられて、母親からの愛情を十分に受けることができなかったという事情があった。そのために実際の養育環境っていうのはいかに大事か、ということを唱え続けたのである。今でこそ精神分析の世界でも愛着の問題が盛んに論じられるようになっているが、Bowlby はあまりに時代を先取りしていたために当時の精神分析の世界では、それこそあのD.Winnicott からでさえ煙たく見られていたといわれる。(Phyllis Grosskirth(1986)Melanie Klein Her World and Her Work, Harvard University Press, p405.

Daniel Stern(Daniel Stern:1934-2012)は『乳児の対人世界』(1985)を著した乳幼児精神医学の第一人者である。私が精神科医になった1980年代に彼の理論は非常にもてはやされていた。彼は実証的な研究、ミクロ的な分析を通して乳児の心的世界の解明を試みたのである。そしてそのやり方も当然ながら、伝統的な精神分析とはかなり違っていたわけである。

Stern の概念に「観察された乳児」と「臨床的な乳児」との区別というものがある。前者は実際にありのままを観察された乳児であり、後者は精神分析的な理論の中で再構築された乳児である。後者はFreudとかAnna Freud とかM.Klein の頭の中で描かれた。それと、発達心理学者が実際の観察をもとにして描く乳児とを統合しようということを試みた。すなわち Stern はあくまでも精神分析の立場からそれをおこなったのである。


2026年8月23日日曜日

序文 書き換え

 この前書いたばかりの序文をもう書き変えている。軸がブレているからこうなるのである。

 「思えばトラウマのことばかり考えながら臨床を続けてきた。」

 前著「脳から見えるトラウマ」(2025年3月、岩崎学術出版社)の前書きを、私はこのような一文から始めた。そして昨今も同じようなことを感じている。

 もちろん前著はわずか2年前に書いたものであるから、それから私の思考の方向性は大きく変わるはずもない。しかし私の中で同時に起きているのは、トラウマの問題が様々な方向に枝を伸ばし、全体として一つの思考のまとまりをなしているという感覚である。さまざまな方向とは愛着の問題であり、脳科学であり、AI(人工知能)である。そしてそれらをどのように捉え、理解し、治療に役立てるかということを考える上での新たな精神分析的な視点である。それが本書のタイトルである「愛着とAIの時代の精神分析」に表されているのだ。

 とはいえさすがにAIと愛着や精神分析とを結びつけるのは極端と思われるかもしれない。しかしAIについて考えることは、同時にAIではない存在としての人間の在り方を逆照射し、理解することである。そこで光を当てられる心の問題は、これらと結局は複雑に絡み合っていることになるのだ。

 ところで愛着も脳科学もAIも、私の関心が自由に向かった先というわけではない。それについて論述し、講義をするという必然性に迫られたことが、それらの分野に親しむ最初のきっかけであった。つまり順番としては、それらの一見無関係に思われる分野について考えているうちに、それらが全体として繋がっていることを知ったという経緯があったのである。

 
以下略

2026年8月22日土曜日

CPTSD概念のインパクト 3

  ではCPTSDという概念で焦点を結びやすい精神障害とは何か? それはおそらく幼少時、それも出生直後から2,3年の間における養育の不十分さや欠如、あるいはその時期のあからさまな虐待に由来する精神障害である。しかしその存在はこれまで一部の臨床家によってしか十分に理解され、提唱されてこなかったものである。そしてそれは様々な臨床形態をとり、それを全体としてまとめ上げるような概念としては抽出されなかったのである。そしてそれにはそれなりの理由もあった。

 確かに養育時に母親と乳児との間で現実にどのようなことが起きていたかは実証することは非常に難しい。子供が成長し、成人になった時点で幼少時について当人や親に話を聞いても、「育てにくい子でした。」「母親にしょっちゅう怒鳴りつけられていました」「両親は私の目の前でいつも喧嘩をしていたように思います」「親に愛されていると感じませんでした」などの断片的な情報から、実際の愛着環境を推し量るのは難しい。またそこには両者の記憶の食い違いや過誤記憶、子供の側の発達障害の問題が絡み、それが親にとって「育てにくい子」となっていた可能性もある。

 しかしそこで愛着形成期に何らかの重大な問題が存在した可能性を想定することでこの病理がよりよく説明できることも多く、結果としてCPTSDという概念は、それがないよりはあった方がはるかに患者の病理を理解しやすい。(このような消極的な書き方しかできないが、ラベリングである診断名の有用性とは概してそのようなものである。)

ICD-11でCPTSDの病像として抽出された要素、いわゆるDSOという概念も有用である。これは Disturbance of Self-Organization(障害された自己組織)の頭文字であり感情のコントロールの困難さ、否定的な自己概念、対人関係の困難さが挙げられている。