そしてギャバ―ドさんの真骨頂。突然脳科学の話にスイッチする。そしてセロトニントランスポーター遺伝子(5-HTTLPR)の話になる。 彼はこの遺伝子が短い人が不安や神経症的な気質となる傾向があるという Lesch ら(1996) の研究に言及する。そうそう、そして日本人は特に短い遺伝子(SS)を持ちやすいのだ、ということも話題になったな。それらの人々は恐怖刺激に対して扁桃核がより大きな反応を示すとされる(Hariri,et al,2002)。そしてこのような遺伝子が残っているということは、不安を感じやすい人がより生存する確率が高いということらしい、とも書いてある。フムフム。 DSM-5で不安障害の分類のされ方がこれまでと違っていることについて。これも実は気になっていた。これまで不安障害の中にカテゴライズされてきた障害、例えばOCD(強迫性障害)とかPTSDがこのカテゴリーから外れるということが実際に起きていることには私もDSM-5が出された2013年から気が付いていた。結果としてOCDは抜毛症や醜形恐怖と一緒に、PTSDは外傷関連障害に分類され、今は不安カテゴリーには恐怖症、全般性不安障害、パニック障害、場面緘黙、分離不安障害ということになっている。要するに不安性障害の中身が様変わりしたのだ。それまでは神経症=不安を主訴としたもの、という常識があったが、それが大きく変わったのだ。 ギャバードさんは次にパニック障害についての記述に移る。パニックも不安性障害の一つとして従来考えられてきたものだ。これが精神力動的治療の対象となることは多いという。パニック発作がどのようなストレスにより惹起されるかについては、精神科医は常に注意してなくてはならない。パニックの患者の多くはその発症に先立ってストレスフルな人生上の出来事や死別、早期の母子分離が関係しているという。ジェロ―ム・ケーガンによる研究では、彼らは子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(p264あたり)。ここらへんに記述されているメカニズムは実はかなり深い意味を持っている気がする。親の側の養育の問題ばかりを重視するわけにはいかず、そもそもマッチングが問題なのである。後で立ち戻って考えよう。
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist
精神科医が日常的な思いつきを綴ってみる
2025年3月28日金曜日
2025年3月27日木曜日
不安とパニックと精神分析 3
実は精神分析における不安の議論は、これまたギャバ―ド先生の労作がある。これが決定版ともいえる資料なので、最初はこれをまとめる作業から入るしかない。少し億劫だがこれを機会にしっかり不安について学ばせていただくつもりだ。
GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. 5th edition. CBS Publishers & Distributions.
まずはフロイトから入る。フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。① マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるものと、② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるもの、いわゆる現実神経症 actual neurosis である。前者は原則的には分析により治療が可能であるとした。後者は単に性的活動を高めればよいことになる。ここら辺は精神分析の最初のころに学ぶことだが、フロイトの初期の説は相変わらず大胆で多分に性欲論的だ。しかし当時の精神医学界ではなんでも性に結び付けていたのだ。
1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。有名な不安信号説である。それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号と考えたのだ。(p.258)
ギャバ―ド先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠す、それ自身は受け入れられるものであるという。その抑圧がうまく行かないと、OCD(強迫神経症)やヒステリーや恐怖症になる、とした。(これを初めて読んだ新人のころは、「そうなのか!」と単純に信じた。)
ギャバ―ドさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。
超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。
しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。
Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985.
しかしギャバ―ドさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。この古いモデルをいったん示して、でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎない、と伝えているが、これがギャバ―ドさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。
2025年3月26日水曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 6
ところで山崎氏は岩倉氏の業績を語る上で【分析的】心理療法と、分析的【心理療法】との違いについて論じる。とても便利な使い分けの仕方だが少しややこしいので、私はここで前者を「分析的」後者を「心理療法」としよう。(余計分かりにくいか?まあいいや。)
この後者はあえて分析的なやり方をしない(無意識、転移を扱わない)という意味で、支持療法的であり、これがいわゆるPOSTというわけだ。しかし支持療法は歴史的にみて「あえて分析的なやり方を抑制する」というようなところがあり、最初から敗北宣言をしているようなところがある。それに比べて「分析的」の方は分析的であることを捨てない週1回ということになり、これがどの程度可能か、ということがこの「週1回」の議論の中で一番の問題となる。
山崎氏が自分の仕事をまとめている部分では、自分自身の言葉であることもあり、とてもわかりやすい議論を展開してくれている。「平たく言えば、私たちは『週一回』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきたのだ、と指摘したのである。」何と正直な。 この主張が興味深いのは、「週一回」はほとんど精神分析的ではないと認める点で藤山の立場を受け入れつつ、でもそれでも・・・・というアンビバレンスがよく出ているところだ。そのうえで山崎氏は自らの立場を明確にする。それをわかりやすく表現するならば、「週一回は精神分析的ではない。それは分かった。もう精神分析と比べるのはやめよう。『週一回』それ自身が持つ治療効果について考えよう。」とでもいうべきか。ただしここは私自身の言葉で言い直したものであり、正確ではないかもしれない。 (ところでこの主張自体はよくわかるが、一つの疑問が浮かぶ。「週一回」が独り立ちするためには、精神分析的であること以外の根拠を見つけるということだろうか?もしそうだとしたら、本当にそれでいいのか。そうではないのではないか。しかしやはり分析的であることにこだわるとしたら、結局は「精神分析と比べる」ことになってしまうのではないか。まあ私見はさておき。) 山崎氏の論文は以下の結論に向かう。「週一回は分析的にするのは難しい」はもうコンセンサスであるというのだ。そしてそのうえで週一回が分析的にではなく有益であるためには、平行移動仮説の成否ではなく、近似仮説の詳細であるという。この提言はもはや若手の間で至っているコンセンサスらしいので、それを前提として話を進めてみよう。(しかし私はまだあきらめていないぞ。) この近似の一つのあり方がPOSTということだろうか。そしてそのあり方については、山口氏が以下にまとめている。それによると分析においては「分析的」では転移を集めるが「心理療法」(POST)では転移を拡散するということであるという。というのもPOSTはなるべく転移を扱わないというのが一つの方針としてあげられるからだ。そしてPOSTでも転移は起きるが、扱わずに「心に留め置く」という。他方では「分析的」は要するに準精神分析だから、無意識も転移も扱うということになる。こんなまとめで正しいのかな。まだ自信ないぞ。
2025年3月25日火曜日
不安とパニックと精神分析 2
精神分析と不安に関して著書「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」の記述の一部をまとめてみる。 精神分析においては、不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、「それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。この意味で不安の存在、もしくは発現は、葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた。」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2) 何と「精神分析的」な考え方であろうか。このように考えると不安をやらわげるような薬、デパス、ソラナックスなどの使用はとんでもないということになる。さらには精神分析は抗うつ剤を使うことにもとても否定的だった。鬱はその人の心の同定であり、抑圧された怒りの表れであるとしたら、その問題について扱わずに症状だけ解消するという考え方はおろかであるということになるだろう。 フロイトが自らを冒している癌に立ち向かう際に、鎮痛剤を使用することを拒否したと言われるが、このようなストイックな姿勢はいかにもフロイトらしい。彼は自らの精神の清明さを侵すような化学物質の使用には断固反対したのだ。しかしそのフロイトは精神分析を創出する前にはコカインの精神作用にいち早く注目し、また自らも使用したうえで、それがあらゆる心の病にとっての万能薬であることを示唆したこともまた有名である。ここら辺の矛盾も極めて興味深い。フロイトは化学物質の精神に与える作用の限界を感じて、精神分析に上記のような風土を醸成させたのか。
2025年3月24日月曜日
関係性とサイコセラピー 推敲 5
「週一回」をめぐる議論としては、アムステルダムショック後の1998年に鈴木龍氏が週一回と週4回で転移解釈の有効性の違いについて「精神分析研究」誌で論じていたという点は興味深い。そしてここで週一回は「現実生活の現実性」を正しく評価することの重要性を説いていることも注目に値する。これらは現在の「週一回」の議論においても引き続き論じられているからだ。 しかし週一回が週4,5回よりも「現実的」というのはパラドキシカルな面があり、なぜなら週4,5回の方がよほど現実の出来事をピックアップしてもおかしくないからだ。もちろん週一回だとセッションが現実的な報告事項に費やされて、内側に入っていけないという点は確かにある。しかしそれ以外にも分析家が現実的な話をなるべく回避するという、治療者自身の態度にも関係しているのではないだろうか。
山崎氏の論文(2024、p73)にはMeltzer や飛谷氏らの論文を参考に、「転移の集結」(転移がおのずと集まること、Meltzer, Caper により用いられた用語)と「転移の収集」(転移を能動的に集めること、飛谷氏により用いられた用語)という概念を使い分ける。そして結局は両者とも週4回で成立するのであり、週一回では難しいとする。Meltzer が主張するように、分離を体験するための密着な体験が週4回以上に比べて得られないからだ。しかし転移を扱う①~⑥のほかのプロセスは週一回でも見られると主張する。
そしてその説明のために山崎氏は転移のプロセスを以下の6つに分ける。①精神分析設定に患者が参入する。②転移が治療者に向けられる。③分離が適切に扱われる ④転移が醸成され切迫した当面性のあるものとなる。⑤転移を解釈する。⑥転移が解消して変容がもたらされる。そして週一回でも④⑤⑥は成立しているのではないかという。(p.76)(実は私はこの記述がいまひとつ理解できていない。この④~⑥は転移の解釈にまつわる部分であり、これはむしろ分析でないとおきない、という主張の方が趣旨に合っているのではないかと思うのだ。ただしこれは私の誤読かもしれないが。もう少し考えてみよう。)
山崎氏はそれを論証する上で提示されたケースにおいて「転移の収集は転移解釈によりなされる」という考えを週一回に「平行移動」させたがそれが失敗に終わったというプロセスを描く。そこで与えた解釈は、Strachey のいう「当面性のある切迫点」においてなされたわけではなかったというのだ。(ここら辺は日本語は分かりにくいが、Strachey は、point of urgency とか emotionally immediate として表現している。転移の解釈は、その体験が身に差し迫った時になされるべきだという意味であり、患者の治療者に対する転移感情が非常に差し迫って生々しく感じられるときに解釈されることで変容性 mutative であるということだ。)
そして結局山崎氏が至るのは「形ばかりの転移解釈を投与すること」の弊害である(山崎、2024,p.21)そして週一回で必要なのは、「転移を能動的に考え、しかし転移解釈というアクションはしない」という姿勢である(同、p.24)。ウーン、そうなるとやはり⑤は週一回では入れない、ということになるのではないか?まだ私の理解が追い付いていないようだが、先に行こう。
2025年3月23日日曜日
不安とパニックと精神分析 1
不安と言えば神経症の症状の代表的なものである。そしてその神経症は精神分析的治療の対象とされる。では現代的な精神分析はこの不安の問題にどのように対処しているのであろうか? これから「大人の事情で」不安の論文に取り掛かるが、このとば口になるのがギャバ―ドさんのある論文だ。Gabbard GO, Bartlett AB (1998). Selective serotonin reuptake inhibitors in the context of an ongoing analysis. Psychoanal Inq 18: 657–72. この論文は要するに精神分析と薬物療法の接点について扱ったものだが、いきなりこんなことを言っている。米国で最初に認可されたSSRIであるプロザック(fluoxetine)を使用することで、BPDの症状が改善したことは当時は大いに話題を呼んだが、それについて。「多くの患者が自分の症状がいかに苦痛に満ちたものであるとしても、それに無意識的に抵抗している。しかし精神分析にSSRIを併用することで、彼らの無意識的な抵抗を扱うというユニークな機会が訪れる。」 ギャバ―ド先生は次のようにも言う。「フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がないということだ」(2003,p835)。 つまりこういうことだ。「精神分析では意識的な問題をあまり扱わないという不文律があることが、それにより表面的な不安や恐怖症の症状を扱わないことになっていることで、治療の効果が上げられないのではないか?」
なんか今日は短いな。忙しかったのだ。
2025年3月22日土曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 4
高野氏と類似の立場を主張する岡田暁宜氏の論文についても取り上げたい。フロイトは純金としてたとえられる精神分析に、示唆 suggestion 等の(銅のような)余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏はその比喩を受けて、「フロイトは純金に銅を混ぜるな、と言ってゐるが、銅に純金を混ぜるなと言ってはいない」と言う。そして「週一回とは『日常生活や現実に基づく』ということに利点があるのであり、そこでは日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業であり、それが『週一回』の意義である」とする。こうして岡田氏は少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。 「序説」では平井正三氏の論文も参考になった。彼は一方ではストラッキーの変容惹起性解釈についてそれを精神分析の治癒機序として挙げているが、同時に米国では「週一回」は合金でも、英国では週一と週4以上は本質的には変わらないという考えの方が優勢であると指摘している(Tayllor, 2015)。 「序説」の中で私が一番注目したいのは村岡倫子氏の「治療経過とターニングポイント」である。彼女はBohmの論文(1992)での記述「ターニングポイント(「新たな予期せぬ部屋の新しい扉が開く瞬間」)」を「治療者・患者の双方に予期せぬ驚きをもった出会いが生じる局面」と言い換える。そして村岡氏が用いている小此木の引用は貴重だ。少し長いがここに示そう。「治療者の意図を超えて与えられるか、治療者・患者間に気づかれないまま形成されている治療構造を認識し、その意味を吟味したり、治療者が意図的に守ろうとしている治療構造が偶発的ないし一時的に破綻したり、あるいは意図しない要因がそこに介入したりする場合に、そこにどんなあたらな治療関係が展開するかを理解し対応する技法などを含んでいる」(小此木の「治療構造論」からの引用。p20) 小此木先生がおっしゃっていることは(お師匠さんなので呼び方が変わる)構造は実はそれが破綻することを通じて実感されるということだ。そして村岡氏のターニングポイントも同様の契機を指している。構造が破綻しかかる時に出会いが生じる、とはある意味ではそれを活用するというところにも治療構造の存在意義があるということだろう。相撲を見ていると、まさに土俵際での攻防という感じがするが、あれはまさに土俵という境界が存在することにより生じるのだ。(土俵の真ん中で勝負がつく、ということはほとんどない、ということは考えてみれば興味深いことだ。) ところで彼女の理論は「治療構造にまつわる現実的要因」(128)に根差したものだという。その意味では上述の岡田氏の考えに近い。そしてそれがある種の治療者―患者間の出会いの契機のようなものを生むと考えている。これについては村岡氏は以下の様に記述する。 「週一回の治療を複数回のそれと比較したとき、治療外の現実の要素が大きく作用し、転移・無意識的幻想といった内的力動を生き生きと扱うのが困難であるという難点がある。だからこそ、その困難をいかにクリアしていくかが、週一回の治療のだいご味ともなるのだと私は考えている。そこで私が注目したいのが、「生きた転移」が宿る場としての、治療構造にまつわる現実的要因である。」 ただしこの種の現実は精神分析で起きてもおかしくないのではないか。週に複数回だと内的な作業が優勢となり、週1回だと外的現実がいわばその障害物として現れる、という考え方がそこにはあるが、週4回だって山あり谷ありで、偶発的なことばかりだ。ようするにそれを取り上げるかどうかという治療者の姿勢が問われるのであり、それはエナクトメントをいかに治療手段として重視するかということだ。それは週4回以上でも週1回でも変わらないのではないか。