11月9日(日曜日)はあいにくの雨だったが、大阪出張であった。V製薬会社の抗うつ剤Eの日本での発売10周年記念の学術会議なるものに呼ばれて、「AIと精神療法」というテーマで講演した。司会は京都大学精神科教授の村井先生という私には勿体ないお方である。しかも私の前の演者が、かの松本俊彦先生で、相変わらずの熱のこもった薬物濫用の話が刺激的で聞き惚れてしまった。内容は詳しくは語れないが徹底して患者さん目線で,市販薬のODを過剰ににとりしまる傾向に対する苦言を含んでいた。彼の話はいつ開いてもほぼl00%正論のように思えるが.私も彼の持つ「過激さ」をシエアしているからなのだろうか?心から声援を送りたい精神科医である。
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist
精神科医が日常的な思いつきを綴ってみる
2025年11月11日火曜日
2025年11月10日月曜日
ヒステリーの歴史 改めて推敲 10
このMUSという疾患群は最近になって精神医学の世界でも耳にするようになったが、取り立てて新しい疾患とは言えない。むしろ「医学的に説明できない障害」の意味する通り、そこに属するべき疾患群は、医学と呼ばれるものが生まれた時から存在したはずである。そして身体医学の側からはMUSはそれをいかに扱うべきかについて、常に悩ましい存在であり、それは現在においても同様であるといえよう。結局MUSに分類される患者は「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として精神医学で扱われる運命にあったのだ。そしてそれは昔のヒステリーとほぼ同義だと考えられる。しかしこのカテゴリーに属する疾患を身体科で扱うという兆しが見られたことは精神科医にとっても朗報と言える。そしてもちろんFNSもこのMUSに含まれることになる。
ここでMUSに属するものについて比較的わかりやすく図に示したものを、ある学術書(Creed, Henningsen, Fink eds, 2011)から引用する。なおこの図には発表された時期 (2011) に合わせて筆者が日本語で診断名を書き入れてある。ここにはMUSという大きな楕円の中に身体表現性障害と転換性障害の集合が含み込まれ、また器質性疾患の集合はMUSと一部交わっているという関係が示される(図の斜線部分)。
さらにはこのMUSの概念と並んで脳神経内科の分野で最近提出された、いわゆる「第3の痛み」と言われる「痛覚変調性疼痛 nociplastic pain 」の概念にも注目するべきであろう。これは侵害受容器性疼痛(体の部分の組織の損傷が見られるもの)と②神経障害性疼痛(その部分と中枢を連絡する神経の病変のあるもの)以外の痛みであるとされる。そしてそれに関連して中枢性感作というメカニズムが想定されているが、この種の痛みを主症状とするものとしては、線維筋痛症、顎関節症、偏頭痛、過敏性腸症候群、非特異的腰痛、慢性骨盤痛などが含まれるという。
安野広三 (2024) 痛覚変調性疼痛の背景にあるメカニズムとその臨床的特徴についての検討
心身医学 64巻 5号 415-419
この痛覚変調性疼痛の認定もまた、精神科医にとっては朗報と言える。なぜならこの種の痛みこそ、精神科で患者の口から聞かれるものの多くをカバーしているからであり、少なくともその一部は脳神経内科その他の身体科の治療者にゆだねることが出来るようになるからだ。
2025年11月9日日曜日
ヒステリーの歴史 改めて推敲 9
FNSの概念と身体科からの歩み寄り ― 「MUS」との関連において
上述の通りFNSの登場は精神医学にとっても大きな動きをもたらしたが、その具体的な表れは、脳神経内科やリューマチ科、その他の「身体科」からの歩み寄りとして体験されているという印象を筆者は持つ。これまで精神科医は患者の身体症状の扱いに苦慮することが多かったが、それらの一部が身体疾患として概念化されて病名が与えられ、それぞれの科でも扱われるようになったのである。それらはたとえば慢性疲労症候群や線維筋痛症、PNES (psychogenic nonepileptic siezures 心因性非癲癇性発作)、片頭痛などである。これらに該当する症状を訴える患者は精神科外来でも少なからずみられたが、その多くは身体科でも引受先がなく、精神科医が痛みその他の身体症状に対する薬物的な対処の必要に迫られることが多かった。その際精神科医としては疼痛その他の症状に対して専門性を備えていないことを半ば自覚しながら、不本意な投薬を求められることのジレンマを抱えることも少なくなかった。そしてそれらの患者が精神科と並行して身体科を受診して専門的な視点から治療を受けることで援軍を得て孤独感や不条理な気持ちが和らぐ思いをしている精神科医も少なくないであろう。
この問題と関連して、最近いわゆる「MUS」、すなわち「医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」の概念の持つ重要性が増しているように思われる(岡野(2025)脳から見えるトラウマ.岩崎学術出版社)。
2025年11月8日土曜日
ヒステリーの歴史 改めて推敲 8
ところでDSM-5には次のような注目すべき記載がある。「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。・・・所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.339) ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、以下に述べる、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。 このうち 「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。 また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。 さらには従来CDと呼ばれる状態について見られるとされていた「美しい無関心 la bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。 ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。
以上をまとめるとFNDでは、心因の存在を必須としないこと、症状形成が作為的でないこと、疾病利得の存在を問わないこと、という点で変換症から大きく変化したが、そこに共通するのは次のことだ。
①心身二元論を排すること。
②倫理性を重んじること。
つまりヒステリーは体の病ではなく心の病である、という従来の考え方は、心身二元論的に立てば体の症状を偽っているという偏見に直結し易く、それを防ぐ方策だということだ。
でもなんだかわからなくなってくる。そもそも身体科と精神科に分かれていること、あるいは精神科という科が存在すること自体が心身二元論に基づいているのではないか。しかし精神科が「医学」に含まれることで心身二元論を廃しているということになるのか。だんだんわからなくなってきた。
こう考えてはどうか。心の悩みやストレスが、身体科で診断の付くような身体の症状につながるということは確かにある。でも「身体科の診断がつくようなすべての症状には心因が必ずある」という考えが誤りであることは確かである。問題は「身体科の診断がつかない症状に必ず心因がある」が誤りであるということで、これがFNDの概念の成立とともに認められたというわけである。これは実はとても新しい、重大な一歩なのだ。そしてそこには「そのような診断のつかない症状にも「何らかの脳の変化ないしは働き」は起きているであろう」という理解が背景にある。そしてこれを推し進めると、「あらゆる身体症状は脳の変化や働きを伴う」という理解になる。そしてその「脳の変化や働き」は、当人の意図とは独立しているということが重要だ。そしてこのことの理解は、おそらく精神医学にとっても大きなパラダイムシフトなのだ。
2025年11月7日金曜日
ヒステリーの歴史 改めて推敲 7
この心因の問題とともに、DSM-IVにあった「症状が神経学的に説明できないこと」についても、DSM-5やICD-11では変更が加えられている。具体的には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)。 ここでDSM-5やICD-11では、FNSにおいて神経学的な所見が見られないことを特に否定しているわけではない点が重要である。しかしそれは陰性所見(医学的な診断が存在しないこと)ではなく、陽性所見(症状が医学的な診断と適合しないこと)を強調する形になっている。この違いは微妙だが大切である。さらにFNSに関して「このような『陽性』検査所見の例は何十例もある」p.351)とし、その例として○○テストを挙げている。 ちなみにこの陽性所見という言葉の説明として、DSM-TRでは次のような説明もなされている。「むしろ陽性の症状及び兆候(苦痛を伴う身体症状に加えて、そうした症状に対する反応としての異常な思考、感情、および行動)に基づく診断が強調される。」(p.339)
2025年11月6日木曜日
ヒステリーの歴史 改めて推敲 6
変換症のFNSへの最終的な移行にはDSM-5(2013)およびDSM-5-TR(2022)を待たねばならなかった。まずDSM-5では変換症が「変換症(機能性神経学的症状症)」となった。すなわち( )付きで機能性神経学的症状症(FND)と言い換えられたのである。さらにDSM-5-TRでは「機能性神経学的症状症(変換症)」へと変更になった。すなわち変換症の方が( )の中に入り、FNSという呼び方がより正式な扱いをされることとなったのである。こうしてDSMでは変換症という用語の使用が回避され、その代わりにFNDが用いられるようになったが、その流れに乗るかのように、ICD-11(2022)でも変換症という表現が消え、代わりに解離性神経学的症状症が用いられるようになっている。これは実質的にFNDに相当する表現と言っていいであろう。 この変換症→FNDの以降について改めて考えたい。言うまでもないことだが、このFNDの”F”は機能性 functional であり、器質性 organic という表現の対立概念であり、神経学的な検査所見に異常がなく、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。したがってFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。 それに比べて変換症という概念には多分にその成立機序に関する憶測が入り込んでいたことになる。FNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone (2010)を参考にするならば、本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。 しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudの仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからであり、この概念の恣意性や偏見を生む可能性を排除するという意味でもDSM-5においてはその診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのであり、それに伴う名称の変更が行われたということになる。
2025年11月5日水曜日
分析学会への出席
先週末は新潟で分析学会に出席、いくつかの発表を行った。トラウマ、解離に関するものである。
新潟は案外東京から近く(新幹線で2時間)、あいにくの天候だったが旅先の気分を楽しむことも出来た。学会会場の朱鷺メッセの先からは佐渡汽船が出ていることを知らなかった。今度来た時には佐渡にわたってみたい。
分析学会は世代の交代を感じたが、顔なじみの先生方とも交流も楽しむことが出来た。松木邦裕先生とも少しゆっくりお話しが出来た。