2026年9月12日土曜日

AIはどこまで挑発的か? 2

 チャット君は「人間の分析家は患者の既成のpsychic organizationをdisruptできるが、LLMにはそれができない」という主張に対して、かなり正面から返せる論点になっているという。そして 「挑発的である」ことを二種類に分けることを提案する

人間の分析家が挑発的になるのは、分析家自身に欲望、無意識、逆転移、攻撃性、好奇心などがあるからだ。つまり、subjective provocation とでも呼べる。一方AIには、少なくとも現在のLLMには、その意味での「あなたを揺さぶってやろう」という欲望はない。しかし、それとは別に、AIの答えはユーザーもデザイナーも驚くようなものもあり、それは generative provocation と呼ぶことを提案する。


https://images.openai.com/static-rsc-4/eDOyZS6S-bpaW5O9Psx2GOoaLFVLWku3z8bm6fv-BN0P2eHQ68Pgz6HRgutLMby6hrPFt-iizPig6OcYoZYeenDoEvvxuN5u89lYuvj0nVUKXL_qdboAPb6YAe4In0_PigD-F7fAYHV_ICGfa3vAmZMjPxU8QhzRDc6BtBT0jRP-CgJRh155jwAv_qG1eDTe?purpose=fullsize


後者のいい例は、AlphaGoの「第37手目」という例。(2016年のLee Sedolとの第2局の有名な手)。重要なのは、AlphaGoが「独創的な手を打って李世乭を驚かせてやろう」と欲したわけではない。それでも結果として、人間の予測を破り、それまでの囲碁の「良い手」の感覚そのものを揺さぶった。これを「創造的ではない」と言い切るなら、逆に創造性とは何なのかをかなり狭く定義しなければならなくなる。つまり創造性は創造的な主体を必ずしも必要としないということになる。ただしCさんの「コード化されていない過剰さ」を完全に否定する必要はないと思う。

人間の発話には、身体、欲望、prosody、slips、repression、transferenceなどから生じる、発話者自身にも制御できない「過剰」がある。これは確かにLLMには同じ形では存在しない。しかしAIのoutputは、そのcodeから完全に予測可能でもない。つまり、

coded system ≠ completely predetermined output


2026年9月11日金曜日

AIはどこまで挑発的か? 1

以前誰かが「人間の分析家はいい意味で挑発的で侵入的でありうる」ということを言っていた。ところがAIにはそれがない、という文脈だ。それいらいそのことをずっと考えている。本当にそうだろうか。今のところ人間の言葉(思考?二次過程)は「コード化されていない過剰さ」があるが、AIにはそれが薄いという前提はそのままにしよう。ところが私たちはGAIという言葉が示すとおり、AIが生成的 generative であることを前提にもしている。生成的であるということは、どこかに創造的で自発的で、挑発的な面を含むのではないか? AIには desire はないはずなのに、どうしてそうなるのか? 

AIは真の意味で創造的ではないかもしれない。でもアルファー碁は人が絶対差さないような手を差した(有名な「第37手目」)。これって創造的じゃないの?

このように心や主体性がないはずのAIが実は「コード化されていない過剰さ」のようなものが見られるというのはAIに関する議論で一番悩ましい点ではないかな?

これについてチャット君はこう返してきた。

「ニューラルネットワークの巨大な潜在空間、文脈依存性、蓋然的な生成 probabilistic generation などが組み合わさると、個々の出力は設計者が一つ一つ書き込んだものではなくなる。」そう、この意味でのAIのアウトプットはかなり創造的なのだ。問題はそれが内側にdesire を含んでいない事だろう。創造主なき創造、ということだ。


2026年9月10日木曜日

成田先生のこと 6

「精神分析と私」(精神分析研究 59(2)153₋159、2015)を読むと、精神科医成田の「メーキング」が見えてくる。最初に Rogers にひかれたことからわかる通り、彼の最初の、そしておそらく生涯を通しての関心は、患者と一緒の空間を通して相手を「わかる」とはどういうことかということだった。患者は色々な悩みを持って訪れるが、そこで治療者に分かって欲しいという気持ちは共通している。(もちろん、分かられたくない部分、簡単にわかってほしくない部分もあるだろうし、それ等の気持ちもわかって欲しいということになるだろう。) おそらくわかって欲しい自分と「わかっていない」自分のギャップと、そこからくる不甲斐なさが成田の原点にあるのだ。そしてその不甲斐なさを解決するために依拠したのは精神分析である必要はなかったのだ。ただしわかる、共感するという問題を扱う上であるヒントを与えてくれるのは精神分析だったのであろう。そして彼は無論それにのみ捉われるわけではない。

私が印象付けられるのは、成田が持っている理系的な探求心である。囲碁の高段者でもある成田は治療プロセスを理詰めで考え、理論化する事にも関心がある。従って彼には精神療法を体系化するような著書が多い。それらは以下のとおりである。『精神療法の第一歩』(診療新社、1981)『精神療法の経験』(金剛出版、1993)『心と身体の精神療法』金剛出版 1996 『精神療法の技法論』金剛出版 1999 『精神療法家の仕事 面接と面接者』金剛出版 2003 『セラピストのための面接技法 精神療法の基本と応用』金剛出版 2003 『治療関係と面接 他者と出会うということ』金剛出版 2005 『精神療法面接の多面性 学ぶこと、伝えること』金剛出版 2010 『精神療法を学ぶ 精神医学の知と技』中山書店 2011 『精神療法の深さ 成田善弘セレクション』金剛出版 2012


2026年9月9日水曜日

成田先生のこと 5

  この文章を書いていて思うのだが、成田先生はかなり画期的な仕事をしておられるのだ。今回この原稿を準備していて、つくづくそう感じる。「3」で述べた関心、すなわち一言でいえば「(精神分析という)文化を重んじるか、患者を重んじるか」という点に関しては後者であろう。(というか、このように成田先生にエラそうな判断を下しているようなことを書いている自分がとてもオコガマシイ。)彼が特に精神分析のトレーニングを受けることを必須とは考えなかったこと、何より臨床的な戸惑いや疑問が先行していたことが証拠だ。  ということで「精神分析と私」(精神分析研究 59(2)153₋159、2015) を読んでみる。先生はその冒頭で「自分は訓練分析も受けていないし、毎日分析もしていない」とおっしゃる。しかしこの文章が分析学会の教育研修委員会から「精神分析をどうまなぶか?」というテーマで話すように請われたから書くのだと書いてある。(そうだ、思い出した、実はこの時期に私が教育研修委員の立場から、成田先生に原稿をお願いしたのだった!!) そして理論家として最初に出会ったのがRogers であったが、「受容、共感、自己一致」が「努力目標ではなく必要条件のように言っていることに違和感を覚えた」とある。そうだ、その通りだ!(オコガマシイ。)


2026年9月8日火曜日

成田先生のこと 4

 秀逸な概念である「心の井戸」「その場の雰囲気さん」

この問題について忘れないうちに書いておきたい。このテーマで一番参考になるのは、「共感をめぐって」というエッセイであり、「寄り添うことのむずかしさーこころの援助と「共感」の壁」という祖父江、細澤編著 (木立の文庫 2023年)に特別寄稿として書かれたものである。これは先生がかなり晩年に近くなり、共感の問題について率直に論じている文章だ。実は個人的な話で恐縮だが、このエッセイは後半にポール・ブルームの「反共感論」に触れていている。そしてそれがこの書で私が担当した章「S共感とG共感ー脳科学の視点から」と内容がかぶっているのだ。もちろん成田先生と私は個別に原稿を書いていたのでお互いの引用はしていない。同時にブルームの著書に影響を受けていたのだ。私の章はかなり脳科学的で、本書の中ではかなり異質なため、末尾の方に掲載されていたのだが、私の書いたことに成田先生が暗黙のうちに承認をしてくれたように感じたことを覚えている。

この章を読んでもかなり成田先生は戦っておられる。彼は共感をポール・ブルームに倣って認知的なそれと情動的なそれに分け、精神分析的な解釈はもっぱら前者によるものとする。ここら辺はフロイト批判のニュアンスがある。そして共感を雰囲気として感じ取るものとして、つまりは情動的な共感として患者に伝えることを実践しているという。そしてその上で彼が掲げるのが、「その場の雰囲気さん」という言葉であり、第三者的な立場の人が治療室にいたらその場の雰囲気をどう感じ取るかをそう呼ぶという。これはまさに精神分析の「第三主体」ないしは間主観性の概念を彷彿させるが、成田自身いみじくも、これを the third,すなわち第3の主体と同類のものとしている。


2026年9月7日月曜日

成田先生のこと 3

  つまりこういうことだ。私は成田先生が「どれだけ分析に捉われているか」ということよりは、「どれだけ捉われている自分を客観視しているか」ということに関心があるのだ。この問題は治療者がどのような文化に属しているかということと関係している。そしてその文化の中で当たり前と思われていることから完全に私たちは逃れることは難しい。例えば精神分析という強烈な文化の影響を受けつつ教育を受けトレーニングを行う中で、分析的な常識の一部を無反省に取り入れるということはいちがいにおかしいとは言えない。ただしそこで重要な要素が存在し、それは患者は原則的に無文化であり、分析的な常識に捉われていることは普通はとても少ないということだ。そして治療者はその患者のニーズにこたえることを仕事としているのだ。すると常識ある治療者なら「自分は精神分析という文化に染まっていて、それにしたがって患者との治療方針を無反省に決めているのではないか?」という疑問を持っておかしくない。そしてその疑問を持つことこそが治療者としてどこまで信頼がおけるかにかかってくると思うのである。  例えば先ほどの例では、おそらく患者は、「治療はスパッと終結を迎える方が、分離や喪の問題に目を背けることなく、扱える」という分析的な考えなど知る由もないだろう。そして少なくとも治療者はそのことをわかっていなくてはならない。


2026年9月6日日曜日

成田先生のこと 2

  成田先生は比較的自由人であったと思う。精神分析学会には属されていたが、その縛りは少なかったのではないか。  さてその関連でとても重要な問題を上げたい。いったん成田先生のことを離れる。 治療者がどの学派に従っているのか(盲従しているのか、阿っているのか、忖度しているのか)?という問題だ。もし精神分析学会に属し、分析関係者のSVを受けているとしたら、分析的な考え方に従った治療を行う傾向にあるであろう。その意味でその治療者は本当の意味で自由ではない可能性がある。もし臨床場面で一つの方針を立てようとしている時、「これは分析的にはあまり薦められないな」という考えが浮かび、その方針を変更する時、その治療者は倫理的に正しいのだろうか?  例えば患者がそれまでの週一回の頻度の面接の終結に向けて、しばらく隔週の期間を設けて欲しいと願う。治療者は自分が患者の立場だったら同じように願うし、それは正当だと思うとしよう。ただし分析的なスーパーバイザーはいい顔をしないであろうとも思うとしよう。(もちろんケースバイケースだし、毎週のまま終結を迎えることの方が、隔週に頻度を下げるより治療的である場合も実際にあるであろうから、ここは一つの例として挙げておく。)  その治療者は実際にあれこれ悩み、考えあぐねる。そして「急な終結は患者さんへのインパクトが大きく、それを十分に扱えない可能性がある。とりあえず頻度を下げて様子を見ることに何の問題があるだろうか?」と思う。そしてその治療者はバイザーに隔週に頻度を下げたことを伏せる(かなりの巧緻が必要になるだろうが)かもしれないし、隔週で行くべきだという考えを話してバイザーと深刻な討論に発展するかもしれないし、終いにはバイザーを怒らせるかもしれないし、逆にバイザーは「キミの判断でやってごらん」となるかもしれない。やがてその治療者はそのSVを卒業し、分析学会の幽霊会員になり、要するに独り立ちをして自分の思う通りの治療(例えばこの場合では隔週に頻度を下げる)を行うとする。するとバイザーに色々気遣っていたあの時期は何だったんだろうか? その状態に平気でいられたとしたら、それは問題ではなかったのだろうか?