ここでこの図を見ていただきたい。これは野間先生がDBSの説明をなさっている論文からお借りして、私が少し変えたものである。この図にあるように、人間の心の状態は、いくつかの代表的なプロトタイプに分かれているというのがDBSの趣旨である。ここで「いい子の自分」「父親に甘える時分」、「父親におびえる自分」あるいは「父親と性的なかかわりを持つ自分」などを例として挙げているが、これは父親からの性的虐待を受けた娘の場合に相当し、それらの間を流動的に変わることが出来ず、甘える自分からおびえる自分にポンポンと飛ぶ傾向を示す。このあり方がDBSの「離散的 discrete 」という意味である。そしてそれは父親が豹変することに対応を迫られた子供が作り出した複数の自己状態ということになる。通常は甘えている時の自分の状態とおびえている自分の状態は、それらがさほど極端でない場合は連続しているはずであり、それをまとめているのがForrest 先生の説によるとOFCということになる。しかし解離となるとOFCの力も及ばず、それぞれが切り離され、思い出せないことになる。
ところでおそらくハウエル先生の本で読んだと思うのだが、いくら探しても出てこない。それは治療とは虹色の他者に対してこちらも虹色で出会うことが出来るようになることだという内容であった。そこで私の言葉でこのことを書いてみよう。要するに普通の人が様々な感情状態を示すのに対して(つまり天然色で生きているのに対し)、解離を持つ人はそれに自分も天然色を出しながら対応するのではなく、例えば光の三原色のように、赤、青、緑の飛び飛びの反応しかできないということが起きている。それが基本的にはDBSが述べていることである。ではどうするのか。それは3つの色を12色に、さらには24色にしていくということだろう。これがハウエルさんの言った、文脈的な相互依存性 contextual interdependence というのはわかりやすく言えばそういうことだ。しかしその3つを無理に統合すると、白の一色になってしまう。(色の三原色で言えばクロになる)。それではいけないだろう。天然色同士の人間関係が彼らの言う意味での健全な生活というわけだ。