2025年12月3日水曜日

男性の性加害性 6

 3.インセンティブ感作理論

 男性性のもう一つの問題は、その性的な欲求は、それが楽しさや心地よさを得ることで充足されるとは必ずしも言えないということである。むしろそれが今この瞬間にまだ満たされていないことの苦痛(すなわち一種の飢餓感)が、男性を性行動に駆り立てるという性質を有する。そこに相手に対する配慮や、その行為を一緒に楽しむという余裕などが失われてしまう。身も蓋もない言い方であるが、男性の性愛欲求の達成は「排泄」に似た性質を有するのだ。これも実に不幸な話だ。そのような行動に付き合わされるパートナーにとってはえらい迷惑な話である。
 このような男性の性愛性の不幸な性質を説明するのが、いわゆるインセンティブ感作理論 incentive sensitization model (ISM), Berridge & Robinson, 2011)であるが、それを少し学問的に表現するならば、男性の性的満足の機序は、CBDSのような頻回の行動には結びつかないとしても、嗜癖のような性質を有するということになる。なぜならそれはある種の刺激 cueにより突然その行動を起こしたいという極めて強い衝動が起きるからである。普段は普通の理性的な行動が出来ていても、その刺激に出会うと豹変してしまうという問題の原因はここにある可能性がある。

 このISMは次のように言い表される。

 嗜癖行動においては、人は liking (心地よく感じること)よりも wanting (渇望すること)に突き動かされる。つまりそれが満たされることで得られる心地よさは僅かでありながら、現在満たされていないことの苦痛ばかりが増す。これが渇望の正体であり、これは一種の強迫に近くなる。
 男性の性愛性もこの嗜癖に近く、ある種の性的な刺激が与えられると、性的ファンタジーが湧き、このwanting だけが過剰に増大する。しかし通常はそれを即座に満たす手段がないために、それを抑制するための甚大なエネルギーを注がなくてはならないのだ。

さて慧眼な読者だったらこう考えるのではないか。「これってむしろ強迫神経症に近くはないか?だってそれ自体は楽しくなくても、それをしないことが苦痛なんでしょう?」 これはある意味でその通りなのだ。そこで嗜癖と強迫との違いを考えよう。スロットが楽しい人は、週末に2,3時間パチンコ屋に行き、2000~3000円ほどのお小遣いを費やして「楽しむ」。パチンコは賭博ではないと言い張る政府は、これを遊戯と言い張る。パチンコやスロットを管轄しているのは「全日本遊戯事業協同組合連合会」というのだ。そしてこれが楽しいうちは確かに「遊戯」だろう。しかしギャンブル依存になると、手にキャッシュを持つと、楽しくもないスロットをしパチンコ屋に向かうのだ。やっていても楽しくないが、やらないと苦しい。

だから私はこのISMモデルは強迫のことを言っているのではないかというのはもっともな考えであり、事実ISMモデルは強迫をも説明するものとして進化しているという。

さいごに ― 男のどうしようもなさとハニトラ問題

 以上男性のどうしようもなさ、すなわち「普通の男性の性加害性」について出来るだけ脳科学的に論じてみた。もちろんこれは性加害性をはらむ男性たちを「免責」することが目的ではない。むしろこの種の余り男性の側が論じてこなかった問題を明らかにすることで、女性がその犠牲になることや、男性が実際の加害行為に及ぶことを少しでも抑止できることを願っている。
 そしてその上で最後に付け加えたいのは、このような男性のどうしようもなさは、政治の世界では十分熟知され、利用されているという事実である。こうなると犠牲者は女性だけにとどまらない。国家そのものが多大な損失を負うことになる。ここまで述べれば想像がつくであろうが、いわゆるハニートラップの問題である。
「ハニートラップ」に関する歴史的背景を調べるとかなり歴史は古い。何しろ古代インドの国家戦略書にも出てくるという。そして冷戦期以降の諜報活動で本格化していることは、具体的な国名を挙げるまでもなく明らかである。そして国家戦略としてこれが本格的に用いられているということは、逆に言えばその罠にかかってしまう、社会的には信頼を集めているはずの政治家や政府高官がいかにこの問題に関して脆弱かを物語っているのである。
 男性の有する性加害性の記述の最後にこのハニトラの問題に触れることで、その深刻さを強調する形でいったん筆をおきたい。


2025年12月2日火曜日

日本理論心理学会のワークショップに参加して

11月30日(日)に筑波大学で「日本理論心理学会」の甘え再考に関するシンポジウムに参加した。京大のもと同僚の楠見孝先生がオーガナイズされ、私以外には山口勧先生(東京大学名誉教授)遠藤利彦先生(東京大学教授)と楠見教授がシンポジスト、そして北山修先生が討論者であった。甘えに関する各方面からの有意義なご発表を聞くことが出来た。北山先生は相変わらずキレキレで、まったくお年を感じさせなかった。筑波大学キャンパスを訪れるのは初めてであったが、まるで米国の大学のような、広大な敷地に建物が点在する自然豊かな環境を味わうことが出来た。

2025年12月1日月曜日

男性の性加害性 4

 2.男性の性の自己強化ループの仕組み

 トーツの説によれば、男性の脳で起きている二つのシステムのうち、システム2の制御的抑制的システムが、自動的、衝動的なシステム1に負けることで「普通の男性の性加害性」が生じる可能性があるわけだが、いったんこの動きが始めるとなかなか抑えが効かなくなってしまうという問題がある。いわば加速度がついてしまい、途中でやめることが難しくなる。これは飲酒やギャンブルと少し違う部分だ。
 例えば酒なら、それまで我慢していても、一口飲めば止まらなくなるということはある。しかし飲めば飲むほど「もっと!もっと!」というわけではない。私は下戸なのでこの体験をしたことがないが、いい加減に酔えば「まあ、このくらいにしよう」となるのが普通ではないか。最後までいかないと止まらないということはない。かなり深刻な飲酒癖を有する人も、大体飲む量は決まっている。もちろん生理的な限界ということもあり、そもそも血中濃度が増してアルコール中毒状態になり意識を失なえば、もうそれ以上酒を飲み続けることはできなくなる。でもそうなる前に酔いつぶれて寝てしまうのが普通なのだ。
 ではギャンブルはどうか。これもちょっとやりだすと止まらないということはあるだろう。しかし最後にオーガズムに達するまで続けるということはない。ではだんだん使用量が増えていくコカインなどはどうか。これは同じ量の満足を与えてくれるコカインの量が増えていくといういわゆる耐性という現象だが、最終的に絶頂に達するまで止められない、というわけではない。むしろ一定の使用量を超えると失神や呼吸困難に至り、その先には死が待っている。

 ところが普通の男性の性加害性は、いったんオーガスムに向かって突き進み出すと、抑えが効かなくなるということと関係しているようである。一体どうなっているのだろうか。それが後に述べるポジティブフィードバックとしての性質である。

 例えば通常の男女の性的な身体接触について考えよう。最初は髪を触り、そして指先で触れ合い、徐々に手を深く絡め合い、それから腕を組み合い、肩を抱く、・・・・という風にエスカレートする。それはあたかも髪をなで続ける、あるいは指を絡ませ合う、というだけではすぐに慣れてしまって満足度が得られなくなり、さらに敏感な部分への接触へと徐々に進んでいくことでその快感や興奮を維持できるのである。
 性的サディズムを例にとる。最初は相手を叩く,軽く引っ搔くというだけで満足するかもしれない。しかしさらにそれに飽きてしまい、相手にかみつく、跡が付くほど引っ掻く、という風に加害性がエスカレートする。しかしそれでも徐々に興奮が薄れ、さらに深刻な加害行為、さらに深刻な加害行為、例えば強くかみ、皮膚が切れ、出血するという傷害行為に至らないと気が済まないであろう。そこでようやくオーガスムに達するのだ。
 男性の性愛性のはらむこの問題は、大きな加害性を秘めていることはお分かりだろうか。一番最初の刺激、例えば肩をポンポンたたく、頭をなでる、軽くハグする、というだけでは、相手はその性的な意図に気が付かず、特に拒否をしないかもしれない。しかし男性はそこで得られる軽い興奮を維持できなくなる。興奮を維持するためには、性的な侵入を続けなくてはならないのである。そこで「言葉の混乱」はすでに生じており、それに気が付いた時には両者には身体接触が始まり、進行しているのである。
 そこで私がここに提示するのが、二つのモデルである。これらはある意味では重複しているため、まとめて「自己強化ループモデル」と呼ぶことが出来るが、一応別個のものとして論じることから始める。ちなみにことわるまでもないが、これらは性依存や強迫的性行動とはいちおう別の議論である。すなわち性依存でもなく、強迫的性行動でなくても、問題となるモデルであるが、それらとも深く関係している可能性があることが、次第にわかってくるだろう。

この自己強化ループモデルの特徴を一言でいえば、性行動はいったん始動すると、途中で止めることが難しい、という現象を説明するモデルであるということだ。

ここで改めて、この自己強化ループモデルを構成するのが以下の二つの理論である。

  1. ポジティブフィードバック理論

     B. インセンティブ感作理論 incentive sensitization theory (IST)


2025年11月30日日曜日

男性の性加害性 3

 一見普通の男性の性加害性」の脳科学

 以上の二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である一見普通の男性の性加害性(以降「普通の男性の性加害性」の問題と略記しよう)は①,②に関連はしているが、基本的に別の問題であるということであり、新たに論じなくてはならないのである。
 この「普通の男性の性加害性」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「男性の性加害性」を回避するのに同じロジックは成り立たない。何しろそれは職場の上司や同僚として、あるいは指導教官や部活の先輩として、さらには夫や父親として、つまり身の回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。ここにこの問題の深刻な特徴があるのだ。

 「普通の男性の性加害性」の問題の特徴を一言でいうと、通常は理性的に振る舞う男性が、それを一時的に失わう形で、性加害的な行動を起こすということである。しかし私たちが時折理性を失う行動に出てしまうことは、他にもたくさんある。酩酊して普段なら決してしないような暴行を働いたりする例はいくらでもある。しかしこれはそれが予測出来たらふつうは回避できるはずだ。
 ところが酒がやめられないアルコール中毒症の人だったり、ギャンブル依存の人なら、ちょっと酒の匂いをかいだり、ポケットに思いがけず何枚かの千円札を見つけたりしただけでも、すぐにでも酒を買いに、あるいは近くのパチンコ屋に走るだろう。彼らはごく些細な刺激により簡単に理性を失いかねないのだ。ただしこれらの場合は、彼らがアルコール依存症やギャンブル依存という病気を持っている場合だ。つまりは上で述べた②に相当する。そして一見健康な男性の豹変問題はそれとは異なる、と私はこれまで述べてきたのだ。

 実はこの「普通の男性の性加害性」についての学問的な研究がある。ここで一人の学者を紹介したい。それがフレデリック・トーツ  Frederick Toates である。これまでにも多くの研究者が男性の性愛性の論文を発表しているが、その中でも男性の性の問題について徹底して学問的に深堀利をしていると私が考えるのが、トーツである。


Toates F. (2022) A motivation model of sex addiction - Relevance to the controversy over the concept. Neurosci Biobehav Rev. 142:104872. 

1.男の脳に起きている理性と衝動のせめぎあい

 トーツは「二重過程モデル(Dual Process Model」を提唱する。彼は「快楽」や「行動衝動」がどのようにして生じるかを、「二つのプロセス」で説明する。 


● システム 1(自動的・感覚的・衝動的) → たとえば、魅力的な女性を見て無意識的に身体が反応してしまうシステム。
●  システム 2(制御的・理性的・抑制的) →  その衝動を抑えようとするシステム。


 そして性嗜癖の本質は、この二つのシステムの失調、ないしはギャップから生じるという。

 これを言い換えれば、「男性はデフォルトが性的満足を得ることを常に我慢している存在」ということになる。つまりは酒に酔ったり、交通事故などで前頭葉が破壊された場合には、簡単に system 1 に支配されてしまうことになる。これは男性の「どうしようもなさ」を、見事に示していることになる。1の暴走に関しては、いったん引き金が引かれるとドーパミン系とグルタミン酸系が発動し,「鮭の遡上」(後述)反応が始まる。これ自体は自動的、生理的なプロセスの発動であり、身もふたもない言い方をすればファンタジー先行、対象不在なのである。いやファンタジーすら不在かもしれない。何しろグルタミン系は、「過学習された性的衝動の再活性化(=トリガー)→ 外部刺激によって自動的に活性化される神経回路の強化」だから壊れたレコードのように再生を繰り返すだけなのである。男性のどうしようもなさとはつまり、この二重過程モデルがまさしく言い当てているということになる。


2025年11月29日土曜日

男性の性加害性 2

 これまで何が分かっているのか?

 この「普通の男性の性加害性」についてさらに論じる前に、これまで男性の性加害性についてわかっていることを少し整理しておきたい。男性の性の問題は精神医学の世界でももちろん議論の対象となっていることは確かである。それは一種の精神障害としてとらえられ、概ね二つに分類される。それらは①パラフィリア(性嗜好異常)、②性依存の二つである。
 先ず①パラフィリアに関しては以前は性倒錯 perversion という呼び方が一般的であったが、1980年のDSM-III以降 paraphilia パラフィリア」という呼び方に統一されている。Para とは 偏り deviation であり philia とは好み、親和性という意味である。つまり paraphillia とは通常とは異なる人ないし物に惹かれるという意味だ。性倒錯という呼び方にはかなり差別的な含みがあったが、パラフィリアはそうではないという理由でこの呼び方が一般になされるという事情もある。
パラフィリアは具体的には露出症、フェティシズム、窃触症、小児愛、性的マゾヒズム、性的サディズム、服装倒錯的フェティシズム、窃視症などが挙げられる。パラフィリアは極端に男性に偏る傾向にあり、おそらく男性の性愛性の持つ何らかの特徴に関係していると思われる。

このパラフィリアが性加害と関係してくるかはケースバイケースといえよう。パラフィリアの中には「対物性愛」というジャンルもある。その際は例えばエッフェル塔の写真を見て性的興奮を覚えたりすることになるが、その人がエッフェル塔を損壊でもしない限りは加害性は考えにくい。
 しかしパラフィリアは通常とは異なった対象に関連しているものの、非常に多くの場合、結局は特定の人(多くは異性)を対象としたものである。たとえばフェティシズムの一例として、好きな異性の靴下や下着に関心を示すとしよう。するとそれを手に入れる際には結局相手の了解を得ない場合が多いであろうし、そこには加害的な要素が加わる事になる。あるいは盗撮、露出、覗きなども特定の相手があって生じるのであり、同様に侵襲的で加害的である場合が多い。
 実際昨今は盗撮の幼児や児童への加害性が重要な社会問題になってきている。犯人の多くは一見普通の小学校、中学校の教員なのである。そこでこの①のテーマは後に「一見普通の男性の性加害性」を論じる際に立ち戻って考えたい。

 次に②の性依存についてである。こちらは「一見普通の男性の性加害性」に関係するだろうか? こちらも①と同様にケースバイケースと言えようが、性依存の状態にある当人を満足させるようなパートナーは事実上不在である場合がほとんどだろう。一日中オーガスムを追い求めることを止められない男性の相手を務められるパートナーなどは普通は存在しない。したがって性依存はそのままポルノ依存などの形をとる事になり、他人を巻き添えにするというよりは、自分で苦しみ、その結果として家族なども巻き込むことになる。
 性依存に関しては、ギャンブル依存などと違い、金銭的な問題が発生しにくいことも不幸中の幸いと言えなくはない。(
ただし毎日の風俗通いを止められないという場合には別であろうし、その状態に陥ったケースも知っている。)

 ちなみにこの②について、それが一つの疾患としてどの程度認定されているかについてはいろいろ議論がある。WHO発行のICD-11(2022年)には、精神疾患のジャンルにCSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)という状態が記載されている。ところがもう一つの世界的な精神科の診断基準であるDSM-5にはそのような病名の記載はない。巷で言われる性依存の状態は、通常の依存症、すなわち薬物やギャンブルや買い物などの依存症と同類に扱うことが出来ないというのがDSM-5の立場なのである。

さてこの②性依存の問題は実は「一見普通の男性の性加害性」の問題と絡む可能性がある。そこで改めてCSBDの定義(ICD-11)を読むと

(1)繰り返し制御できない性的衝動 (性的な思考や衝動がコントロールできず、頻繁に性的   行動を繰り返す)
(2)個人の生活や社会的機能に悪影響を与える (仕事や人間関係に支障をきたすほどの性的   行動を続ける。)
(3)性的行動を抑えようとしてもできない (自分でやめようとしても制御できない。)

これらの問題が少なくとも半年続いているとこれに該当するというのだ。

さて「一見普通の男性の性加害性」の場合、かなりこれとは異なる印象がある。一見普通の男性が性加害者となる場合、その男性は「繰り返し制御できない衝動」に駆られるのだろうか。その頻度は通常はさほど高くない点が、痴漢行為やポルノ依存とは異なるところだ。
 もう一点、「一見普通の男性の性加害性」が性依存と異なる面がある。それは一般に依存症の場合には繰り返すことでその依存度が深まり、抜けられなくなるという傾向があるのだ。しかし「一見普通の男性の性加害性」の場合にはそのような切迫感の増大はあまり見られないという印象がある。
 またさらに言えば、「一見普通の男性の性加害性」にはかなり意図的、作為的な部分がある。その欲望を制御できないというわけではなく、どこか計画的でその機会を狙い、その行為に及ぶというニュアンスさえもある。しかしそればかりだとまさに計画性を持つ性犯罪者ということになってしまうが、そこに自制が効かなくなるという要素が混在した状態と言えるかもしれない。最初は性被害を与える意図はさほどなくても、途中から抑制が外れるというところがある。
 私がそれらの事例を見聞きして思うのは、彼らの起こす性加害がどこまで意図的で、どこまで不可抗力的なのかが区別しがたいところがあることだ。それは最初は相手とのじゃれ合いやいちゃ付きのニュアンスを伴っているものの、それが次第にエスカレートして相手の拒絶にも拘らず突き進むというパターンが多いのだ。するとやはりこの②の性依存とは基本的に区別するとしても、途中から歯止めが効かなくなるという点に関しては②の要素を併せ持っていると考えていいだろう。


2025年11月28日金曜日

WD推敲 2

  WDの起源は古いが、1970,1980年代に多種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。そして臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ(野村)。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。

私にとってのワークディスカッション


 さて日本におけるWDの取り組みについて述べることが本稿の目的ではない。ここからは私が知り得たWDについて現時点で思いめぐらすことを書いてみよう。

 私自身にとってのWDはと言えば、極めて身近にしかも数多く体験した、あのプロセスのことである。たとえば複数の人の前である事例が報告される。そしてそれについて様々なディスカッションが行なわれ、時にはさまざまなドラマか展開していく。精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会におけるケース検討の場でこれまで数限りなく経験してきた。時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされるあのプロセス。場合によっては年若い発表者が助言者、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに火だるま状態になるのを見たこともある。かなり昔の話ではあるが、私自身がその発表者の立場となったこともある。

 発表者が火だるまになった場合、聴衆の一人としての反応は複雑である。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不条理に感じる事もある。思わず発表者に援護射撃をしようと思っていても、その場の雰囲気に押されて何も言えず、歯がゆい思いをしたこともある。

少し極端な場合には発表者はその経験を一種のトラウマのように感じ、またその時に特に歯に衣着せぬ意見を述べられた先生に対して恨みに近い思いを抱くこともある。しかし一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランのコメントも聞こえて来たりして「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるがわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方についと考えることはペンデイングにしていたが、この問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのだ。


2025年11月27日木曜日

男性の性加害性 1

まだ引き摺っている原稿である。

 改めて‥‥「どうしようもない存在としての男性」とその性加害性

 今回の対談と同時並行的に様々な文献に当たりつつ思ったのは、男性の性の問題は複雑多岐でかなり込み入った問題であり、その多くは解明されず、また語られることは少ないということである。その中でも特に問題なのが、一見普通の男性が時に見せる性加害性である。
 性加害者は多くの場合、一見健康で普通の社会生活を送っており、特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっている。昨年、一昨年に世間を大きく騒がせた元アイドルのN氏やY氏やM氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると考える方々にとっては、私のこの主張はあまり意味をなさないかもしれない。しかし私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。
 そこで彼らの起こす問題をとりあえず、「普通の男性の性加害性」として捉えることが出来よう。これは当然ながら病気としては扱われないという事情がある。御存じの通り、この問題は社会に大きな影響を及ぼし、数多くの犠牲者を生み出している問題であるが、これまで十分に光が当てられてこなかったのである。つまり「普通の男性の性加害性」は私たちの社会において一種の盲点になっていたのだろう。
 臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけにそれによる心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
 しかしこの問題は自分たちのことを「一見普通である」と自ら思い込んでいる男性の恐らく大部分にとっても決して他人事ではないはずだ。どんなに社会的な地位があり、日頃から品行方正とみなされていても当事者である可能性を免れることはないかもしれない。昨今のニュース報道を見ればわかる通り、女子生徒の盗撮などの行為を行っている人たちは学校の当の教師たちなのである。それも日頃は信頼され、父兄からも安心して子供を任せられると思い込んでいた人たちの行為なのである。そこにこの問題の複雑さ、闇の深さが存在するのだ。私が男性のその様な性質を「どうしようもない存在」と呼ぶとき、これはある意味では男性という性を負った私たちが多かれ少なかれ運命づけられ、そのこと自分のこととして考え、反省しなくてはならないという自戒の念を込めているのである。