まだまったく形を成していない次著の序文を書いた。
「思えばトラウマのことばかり考えながら臨床を続けてきた。」
前著「脳から見えるトラウマ」(2025年3月、岩崎学術出版社)の前書きを、私はこのような一文から始めた。そして同じようなことを今も感じている。
もちろんわずか2年前に書いたものであるから、それから私の思考の方向性は大きく変わったわけではない。しかし私の中に同時に起きているのは、トラウマの問題が様々な方向に枝を伸ばし、全体として一つの構造体をなしているということである。それは愛着の問題であり、精神分析であり、脳科学であり、AIである。さすがにAIというのは極端と思われるかもしれない。しかしAIについて考えることは、同時に(AIではない)人間を逆照射し、理解することである。そうして明らかになる人間の心の問題はこれらと結局は複雑に絡み合っていることになるのだ。ただし愛着も脳科学もAIも、私の関心が自由に向かった先というよりは、それについて論述し、講義をするという必然性に迫られたことがそれらの分野に親しむ最初のきっかけであった。つまり順番としては、それらの一見無関係に思われる分野について考えているうちに、それらが全体として繋がっていることを知ったという経緯があったのである。
それでは私が最終的に「トラウマのことばかり考える」ことになったのはなぜか。それは毎日患者と会っているからということになる。来る人来る人、皆苦しみを抱えている。それが遠路はるばる、精神科医との短い面談を求めて彼らが通院を続ける最大の動機だ。
私自身は非常に怠惰で、おまけに高齢者の仲間入りをして外出がますます億劫になっている。すると診療所を訪れる方々に「よくぞいらしてくれた」ということを思わざるを得ない。そして私は彼らの話に耳を傾ける。大抵はそれらの苦しみにほとんど何も手を差し伸べることが出来ていない自分を意識する。それはある種の後ろめたさを常に感じさせる。
一体何がこの人を苦しめているのか…。何らかの「トラウマ」としてその犯人を同定することは私にとってはごく自然なことだ。「トラウマのことばかり考える」のはその意味では当然のことである。
ただしこう私が言う時の「トラウマ」は実はかなり普通の意味での「トラウマ」とは異なるといっていいだろう。例えば統合失調症という病がある。それ自体はまだ原因がわからない精神疾患だ。それに侵された人はトラウマの犠牲者とは言えないだろう。しかし何らかの理由で運悪くその疾病を患っている人にとっては、大いなる被害である。彼らは統合失調症に罹患している人たちというよりは、そのような不幸に襲われた人たちである。その意味で精神の病を抱えた人たちは一般的な意味でのトラウマの犠牲者同様不運に見舞われた人たちという意味では私の眼には同様に映る。その意味で私の言うトラウマは「加害者なき」それを広く含んでいるのである。
さてそのようなトラウマの犠牲者の中でも特に深刻な状態にあり、毎日苦しみつつ過ごす人たちの非常に多くに、私は幼少時の、愛着形成の時期における問題をますます考えるようになってきている。私が本書で愛着について特に主要なテーマとして取り上げるのはそのような理由なのである。