2025年11月25日火曜日

特別寄稿 8

日本型のWDについて

ここで日本型のWDについて論じる資格は私にはないのかもしれない。私は具体的な実践を行っていないからだ。しかしこのWDの概念は一般に私たちが行うあらゆるグループディスカッションに深く関連している可能性があり、グループでの体験について、米国、フランスでの体験を比較的豊富に有する私にもある程度その資格があると考える。またこのWDが日本社会において行われる際にどのような点が問題かについては、またそれが本格的には論じられていないという点もある。WDが日本に導入されてからかなりの年数がたっていることを考えると、そろそろそのような議論が出てきてもいいのではないかと考える次第である。

ちなみに日本でのディスカッションそのものの特徴については金子智香・君塚淳一 (2007) の論文が参考になる。彼らはWDとは直接関りがないながらも、大学英語教育を行う上でのグループディスカッションが持つ様々な問題について論じている。彼らは英語によるディスカッションにおいて、「ディスカッションどころか会話も成立しない」という問題にしばしば遭遇し、日本において学生のディスカッションへの抵抗感を取り除いたり緩和したりすることの重要さを説く。そしてその背後には、西欧文化と日本文化の違いがあり、「意見を戦わせて議論で解決して行く文化と、個は出来る限り抑制し集団で動く文化の違い」(p.77)について指摘する。

金子智香・君塚淳一 (2007) 日本の大学英語教育におけるディスカッションの指導法とは[1] ―授業における効果的方法を考える― 茨城大学教育実践研究 26, 75-87. 


2025年11月24日月曜日

特別寄稿 7

 先ずは私なりにWDの起源と発展について簡単にまとめたい。WDは、英国のタビストック・クリニックにおける乳幼児観察(Infant Observation)が源流であり、主として精神分析的視点に立った対人援助職の教育訓練のために開発された。この創始者はイギリスの分析家エスタービックであり、彼女は乳幼児観察と個人精神分析を統合したとされる。ちなみにこの乳幼児観察については英国に留学した先生方が日本に伝えているので聞いてはいたが、その詳しい内容を私は知らなかった。 WDは、観察者が自らの体験(感情、身体感覚、反応)を通して無意識的な対人関係の力動を見出すことを目的とする。 具体的なプロセスとしては、参加者が臨床現場(保育所、病院、学校など)で観察したことを記録し、それをグループで読み合わせ、そのあとディスカッションを行うが、それが「自由連想的』であるところがいかにも精神分析的である。そしてその際指導者(facilitator)はあくまで分析的な視点での促し手であり、指導・教示は最小限に抑えられるということだ。 そこでは「観察者が感じたこと」「関係性の中で何が起きているか」に焦点が置かれ、背景にに対象関係論(オグデン、ビオン、ビックなど)や投影同一視、コンテイニングなどの概念があるとされる。そして「何が起きていたか?」よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?」に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す。 ところでこの文章、Chat君に手伝ってもらって書いているが、最後の部分、つまり「何が起きていたか?よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す」という部分。「何が起きたのか」を事実として検討する、という意味ではない(つまり真理を追究するのではない)ということなのだろうか。


2025年11月23日日曜日

PDの精神療法 1

これも依頼論文である。もう書くものが多すぎて訳が分からなくなってきた。  

本章は 「Ⅲ さまざまな精神疾患に対する精神療法」の第13番目として位置づけられる。扱う対象はパーソナリティ障害(personality disorder, 以下PD)ただ他章の統合失調症やパニック症などに比べ、本章ではDSM-5のカテゴリカルモデルに従っただけでも10という大所帯である。従ってPDの治療に関する議論も多岐にわたるため、ここではBPD, NPD, ASPおよびCPTSDの4項目に限定して論じることにしたい。(最後のCPTSDはもちろんPDの一つとは数えられないが、CPTSDの有するパーソナリティへの表れについて考えると本章で特筆する価値はあるものと思われる。

PDの治療論として特にBPDが筆頭に挙げられるのにはそれなりの経緯がある。歴史的には主として神経症の治療として出発した精神分析がその対象を広げ、またその方法論を変更する必要に迫られたのは、1960年代にはじまるBPDの概念への注目やその治療についての模索が始まったからである。その過程でカンバーグやマスタ-ソン等により唱えられたBPDの治療論はNPD等により応用される一方ではDSM-ⅢによるカテゴリカルなPD論の整備がなされたのである。その意味ではPDの精神療法に関する議論はPDに関する理論から派生したものと考えられよう。


2025年11月22日土曜日

特別寄稿 6

ここから、私が授業で採用している方法(私なりのWDの変法?)について書くつもりだったが、その前に一つの disclaimer (但し書き)が必要だと思った。というのも「日本人はグループでは話そうとしない」などと偉そうなことを書いているが、私自身ははぜったいにグループで積極的に喋らないタイプだったことを告白しなくてはならない。おそらく生来の引っ込み思案が関係していると思うが、私は極度の恥ずかしがり屋で気弱である。(このブログの題の通りだ。)アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかく無口だった。下手な英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(もともとディスカッションについていけないということもあったが。)だから「では質問のある方?」と講義の後で呼びかけて、シーンとされていても、自分が向こう側に至らシーンとする一人なので、その気持ちはとてもよくわかる。しかし他方では言いたいことを用意していたりもするのだ。しかし手を挙げる勇気がない。実はパリとトピーカで過ごした長い時間、「あー、またクラスで手を挙げて話すことが出来なかった。悔しい!」という思いを毎日のようにしていたのだ。クラスで思い切って発言したかどうかで、その日の後の時間の気分が大きく変わるから結構これは重大な問題なのだ。
しかしひとつ面白い体験があり、それはメニンガーでの体験グループでの体験だった。外国人留学生も交じって、力動的な体験グループに何度も出たが、20人、30人という人数のグループでも発言に不思議と抵抗がなかった。「ええと、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困った!」ということも含めて言っていいのが力動的なグループだと思い込んでいたから、すべてを実況中継すればいい、と思えば発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに素(す)であることを許される場なのである。そしてもちろん同じことは分析を受けている時も起きた。分析家の前では何を言ってもいい、ということになっているから「素」のままでいい。

このことはWDを考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるのかもしれない。


2025年11月21日金曜日

特別寄稿 5

私はよくある論文を課題としてあらかじめ出し、それについて感銘を受けたり、疑問に思ったりしたところをいくつかチェックしておいて、付箋でも張っておいていただく。(このチェック項目は数個は用意しておいてもらう。)そして実際のセッションでは私なりにその論文のまとめみたいなものについて話した後は、1番から順にチェック項目を一回にひとつずつ発表してもらう。そしてそれについてディスカッションを皆で行い、私の方からもコメントする。これを時間の許す限り何週も行うが、だいたいは5週くらいで修了時間(90分程度)となる。これを一つの形式として行うので、皆の自発的な発言を待つまでの無駄な時間はない。勿論彼らに自発的に質問やディスカッションをしてもらえばいいのだが、効率としてはこちらの方がいいと思うし、また誰かの質問に関して、だれでも意見を言っていい事になっているので、いくらでも彼らは「自発的」に振舞うことが出来るのだ。そして彼らには「パス」の権限を与える。「私が言いたかったことをさっきAさんに言われてしまいました。ちょっと待ってください。」等という時は「じゃ、もう一周するまでに考えておいてください。」と寛容さと柔軟さを示す。さらには「この論文のことじゃなくても、このテーマに関する事なら、どんな質問でもいいですよ。先ほどのBさんの挙げたテーマについて考えることがあれば、それでもかまいません。というよりはその方が議論が深まっていいかもしれません」となる。

この方式のいいところは、平等に意見を言う機会を与えることが出来ること、そして出席者は課題となった論文を隅から隅まで読まなくても参加できるということだ。あまり恥ずかしくないような質問をすることが出来る程度にその論文を読む必要はあるであろうし、何と言っても質問をすることでディスカッションに参加するモティベーションになる。さらには全く読んでこなかった人でも、前の質問者に触発されて意見や質問を述べることが出来る。


2025年11月20日木曜日

特別寄稿 4

 一つ確かなことは次のことだ。日本のグループの場で沈黙を守る参加者たちは、実はたくさんのことを思っている。先日も私がある講演をした時、その質問の「なさ」にヤキモキしたことがある。こちらが力を注いで話をした時、私たちはたいてい聴衆からの反応を予想ないし期待しているものだ。そしてそこで何も質問が出ないと拍子抜けするし、がっかりもする。ところがそこで誰かを指名して質問をしてもらったり、アンケートなどで感想を募ると、実に様々な、実り多い返事が返ってくる。つまりメンバーたちは何も考えていないわけでは決してない。そして私の感想では、アンケートが特に匿名であるほど、より自由な意見や感想が戻ってくる。そしてこれはおそらくWDを日本で考える場合にかなり大きな問題を提示している気がする。何かの触媒catalyser のような装置ないしは工夫が必要なのだ。と言っても大げさなものを私が考えているわけではない。たとえば極端な話、グラスに一杯のワインでもいい。アルコールで少しほろ酔い気分になった日本人は程よく抑制がほどけて饒舌になったりするものだ。それは何だろうか?

私が授業などでやっているのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に順番をつけて、次々と質問や感想を述べるようにすることだ。


2025年11月19日水曜日

特別寄稿 3

  その後私が考えるようになったのは、これが彼らが自由に発想するための訓練になっているのであろうということである。 欧米社会では自分がどのような独自の考えを持っているかということは事更重視され、また期待される。あるトピックについてとりあえずは自分がどのように考えているかを表明することは、おそらく自分が周囲とどの程度同調しているか、逆に言えばどの程度とんちんかんではないかということとは全く異なる懸念である。そしてこの後者が恐らく日本における同様の状況で人の心の中に起きているのだろう。  日本社会では自分が正しいか(正解ではなくても、少なくともその場でそれを言って恥ずかしくないか)が一番問題となるため、人はまず発言する前にグループを見わたし、そこでの「温度」を計ろうとする。そして誰かが口火を切るのを待つのだ。欧米ではまず自分か口火を切り旗幟を鮮明にするのである。  ちなみにこれを日本の恥の文化と結びつけて考える向きもあるだろう。しかし私はそれともすこし違うような気がする。「何が恥ずかしいか」が日本と欧米で違うのだ。そしてかの地では自発的な見解を持たないことが恥かしいのだ。  この様な違いがこれほど明らかである以上,英国原産のWDの理論をすくなくともそのままでは用いることは出来ないであろうとさえ思えるのだ。