2025年12月7日日曜日

WD推敲 6

 さいごに 日本型WD(?)にむけて

色々書きたいことを書いたが、この辺でまとめに入りたい。私は多少WDについて齧っただけだが、それが臨床実習をより実り豊かなものをするためには何が必要かを考える際には、英国産のWDの意義を十分に尊重しつつ、日本の文化にあった形で活用することが求められるのではないか、と考えるのである。

 WDが実習における事後学習に相当するものをいかに意義深いものとするかについての議論であることはいいであろう。ただしその時に必須となるグループディスカッションのあり方は、欧米と日本とでかなり異なる可能性があることは、私自身が体験から学んできた。そして日本においては自由なディスカッションが一つの壁となって立ちはだかる可能性がより高いことを指摘した。WDの主たる目的である、自分の見解と他の参加者の見解の比較検討が重要なのは共通している。しかし日本人の場合は(私自身も含めて!)「皆の前で勇気をもって発言する練習」「人前で自説を披露するための訓練」が求められることになる。しかしそれらはとても重要な要素ではあっても実習の事後学習にとって本質的とは言えないであろうと思う。それはまた別の種類の学習や訓練であることは間違いがないのであるが。 そこで私が示した「輪番制フォーマット」のような工夫も意味がないわけではないと考えるのだ。
 私は海外生活が長い割に日本びいきであるし反米、反欧感情も少なからずある。否、欧米由来の思想や学説がそのまま後生大事に輸入されることに対する違和感と言った方がいいかもしれない。WDもそのまま輸入する形では使いにくいのであれば、それを日本流にアレンジすることもまた意味がある事のように思うのだ。


2025年12月6日土曜日

PDの精神療法 2

  まず最近盛んに論じられているCPTSDについての心理療法的アプローチについて論じる。CPTSDは独特のパーソナリティ傾向(複雑な対人関係の歪み、アイデンティティの揺らぎ、自己価値の低下、情動不安定性 )があり、この治療も一種のパーソナリティ障害の治療というニュアンスがある。そして重要なのは、これらのDSOの項目に組み込まれるような問題は、しばしばBPDやNPDにもみられることが多いということだ。

 CPTSDに対する治療はもっぱらトラウマに焦点づけられたものが多い。そのいくつかの例を挙げよう。以下はAI情報を使ったまとめ。

トラウマ焦点型セラピー(Trauma‑focused therapy)(トラウマ焦点 CBT, EMDR, プロロングド・エクスポージャー(PE) など)過去のトラウマ記憶を処理・統合することを中心に据える。EMDR や PE など、身体的・知覚的側面を伴う場合も多い。 CPTSD の PTSD 症状および関連不適応 (過覚醒・フラッシュバックなど) に対するエビデンスあり。特にある研究では、8日間の集中的トラウマ焦点治療で、CPTSD 診断を喪失した例も報告されている。ただし、CPTSD 特有の「自己組織化の障害 (disturbances in self-organization, DSO)」 — 自己感の混乱、対人関係の困難、情動調整障害など — に対する治療は限られている、という系統的レビューもある。

統合的・エクレクティックなアプローチ (integrative / multimodal therapy)

トラウマ焦点療法、身体志向セラピー (somatic therapy)、ナラティヴ療法、スキルトレーニングなどを柔軟に組み合わせる。コンディションや患者の状態に応じて適宜構成を変える。 CPTSD のような複雑かつ多面的な心的傷害には、単一モデルでは不十分。柔軟性・適応性が高く、個別化された治療が可能。

身体志向・マインドボディ療法 / 身体感覚の再統合 / マインドフルネスなど

心理的トラウマが身体に刻まれるという観点から、身体感覚・自律神経・内受容 (interoception) に働きかける。マインドフルネス、身体ワーク、感覚統合などを含む。心と身体の分離 (心身二元論) を超えて、トラウマの「身体的記憶」を扱う点で、特にトラウマの深刻なケースや解離傾向が強いケースに有効。最近はこうしたアプローチの重要性がますます注目されている。 

全体として言えることは、多くの研究では “PTSD と CPTSD の混合サンプル” や “トラウマ全般” が対象で、「CPTSD 特有の DSO (自己組織化障害) に特化した治療効果」のデータはまだ十分とは言えない。 ということである。また、エビデンスの質、追跡期間、効果の持続性、再発防止などについてはまだ課題がある。特に解離や対人関係の根深いゆらぎ、アイデンティティの問題などに関しては、長期的な観察・検証が必要であろう。

2025年12月5日金曜日

WD推敲 5

  さてここからは私が授業などで行っている試みについてである。私がやっているのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に一人一人順番に何かを言ってもらうという構造を最初に設けてしまうのである。そのように進行することをあらかじめ伝え、ただし実際に行う際は最大限の柔軟性を発揮するの出る。それをここでは「輪番制フォーマット」となづけよう。  例えばある課題論文や課題図書を指定して、あらかじめ参加者に目を通してもらい、気になった点、よくわかったりそれに感銘を受けたり、疑問に思ったりしたところをいくつかチェックしておいて、そこに付箋を貼っておいていただく。(このチェック項目は数個は用意しておいてもらう。)  実際の事業では、私なりにその論文のエッセンスのようなものについて10~20分かけてレクチャーを行う。そしてその後に参加者に順番に彼らのチェックした部分を一つずつ発表してもらう。そしてそれについて小ディスカッションを皆で行い、私の方からもコメントする。これを時間の許す限り何周も行うのだ。だいたいは3~5周くらいで修了時間 (90分の授業の場合)となる。   私はこれを一つのフォーマットとして行うので、皆の自発的な発言を待つまでの無駄な時間(というわけでもないかもしれないが)はない。もちろん彼らに自発的に質問やディスカッションをしてもらえばいいのだが、効率としてはこちらの方がいいと思える場合が多い。また誰かの発言に関しての小ディスカッションはだれでも意見を言っていい事になっているので、いくらでも彼らは「自発的」に振舞うことが出来るのだ。  さらにこの「輪番制フォーマット」では参加者に「パス」の権限を与える。「私が言いたかったことを今ちょうどAさんに言われてしまいました。ちょっと待ってください。」等という時は「じゃ、もう一周するまでに考えておいてください。」と柔軟さを示す。つまり参加者は発言を「強制」されているわけではないのだ。さらには参加者には「この論文のことに限らないでも、このテーマに関する事なら、どんな質問でもいいですよ。先ほどのBさんの挙げたテーマについて考えることがあれば、それでもかまいません。というよりはその方が議論が深まっていいかもしれません」と伝える。

 このフォーマットのいいところは、平等に意見を言う機会を与えることが出来ること、そして出席者は課題となった論文を隅から隅まで読まなくても参加できるということだ。あまり恥ずかしくないような質問をすることが出来る程度にその論文を読む必要はあるであろうし、何と言っても質問をすることでディスカッションに参加するモティベーションになる。さらには全く読んでこなかった人でも、前の質問者に触発されて意見や質問を述べることが出来る。
 一つの疑問としては「では多数の聴衆を対象にした講義ではどうするのですか?」が挙げられるかもしれない。実は大学の教養学部で、学生が100人を超える大講堂での授業で、ディスカッションの段になり、沈黙に晒されたことがある。そこで一計を案じて、ワイヤレスマイクを使い、一番授業に身が入りにくそうな奥の方の席に歩み寄り、マイク回しをお願いした。もちろん「パス」ありで、好きな人にマイクを渡すという方式にしたところ、結構学生たちも興味を持ち、学期末のフィードバックでは斬新な試みと高評価をくれる学生もいた。


2025年12月4日木曜日

WD推敲 4

 一つだけ「断り書き」

 ここから、私が授業で採用している私なりのWDの変法について書いてみたいが、その前に一つの disclaimer (断り書き)が必要だと思った。というのも先ほど「日本人はグループでは沈黙がちだ」などと偉そうなことを書いているが、私自身ははグループで真っ先に沈黙するタイプであることを告白しなくてはならない。だから私の講義がひと段落したところで「では質問のある方?」と呼びかけて、シーンとされても、少しがっかりはするが、その気持ちはとてもよくわかるのだ。
 私がグループでの発言が苦手なのは生来の引っ込み思案が関係していると思う。思春期以降の私はかなりの恥ずかしがり屋で気弱である。パリ時代も、アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかくグループ状況では喋れなかった。もともと日本でもそうだったのに、外国で下手なフランス語や英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(そもそもディスカッションの理解がついていけないということもあったが。)
 しかし他方では私は毎回授業のたびに「何とか発言が出来ないものか」ともがいていたことも確かである。言いたいことを紙に書いて用意していたりもしていた。しかし手を挙げる勇気がない事に常に不甲斐なさを感じていた。実はクラスからの帰りに「あー、また発言できなかった!悔しい!」と空を見上げることを何度も体験していたのである。このような思いがあるからこそ、私はこのWDの議論にことさら興味を覚えるのかもしれない。
 ところでこのグループでしゃべれない、という問題に関しては、ひとつ面白い体験があった。それは留学先のメニンガー・クリニックでもったグループでの体験だった。グループ療法にも力を入れるメニンガーでは、一般市民にも開かれたさまざまなワークショップが企画され、年に何度か体験グループのセッションが持たれた。それもかなり本格的なもので、二日、ないしは三日連続で朝から力動的なグループの体験学習が何セッションも行われたりしたのである。私もおっかなびっくりでそのような体験グループに出てみたのであるが、そこでとても不思議な体験をした。20人、30人というそれこそほとんどが米国人で占められるグループに参加しても、発言することに不思議と抵抗がなかったのだ。
 今から考えると、私は体験グループの状況を、精神分析の自由連想と同じにとらえていたからではないかと思う。私は当時個人セラピーや週4回の精神分析を受けていたが、そのような状況ではただ一人の相手に対して喋れないということはほとんどなかった。聴衆がたった一人なら緊張のしようがないではないか。私にとっての喋れない苦しさはグループ状況に限られていたのである。
ところが基本的には「何を言ってもいい」という力動的なグループ状況でも、私は分析の自由連想を行う時と同じ心持になったのである。何か言葉に詰まったら、そのことを言えばいいのである。「ええと、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困った!」ということも含めてすべてを実況中継すればいい、と思えば、発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに体験グループは私が素(す)であることを許される場と感じられたのである。このことはWDを考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるのかもしれない。

2025年12月3日水曜日

男性の性加害性 6

 3.インセンティブ感作理論

 男性性のもう一つの問題は、その性的な欲求は、それが楽しさや心地よさを得ることで充足されるとは必ずしも言えないということである。むしろそれが今この瞬間にまだ満たされていないことの苦痛(すなわち一種の飢餓感)が、男性を性行動に駆り立てるという性質を有する。そこに相手に対する配慮や、その行為を一緒に楽しむという余裕などが失われてしまう。身も蓋もない言い方であるが、男性の性愛欲求の達成は「排泄」に似た性質を有するのだ。これも実に不幸な話だ。そのような行動に付き合わされるパートナーにとってはえらい迷惑な話である。
 このような男性の性愛性の不幸な性質を説明するのが、いわゆるインセンティブ感作理論 incentive sensitization model (ISM), Berridge & Robinson, 2011)であるが、それを少し学問的に表現するならば、男性の性的満足の機序は、CBDSのような頻回の行動には結びつかないとしても、嗜癖のような性質を有するということになる。なぜならそれはある種の刺激 cueにより突然その行動を起こしたいという極めて強い衝動が起きるからである。普段は普通の理性的な行動が出来ていても、その刺激に出会うと豹変してしまうという問題の原因はここにある可能性がある。

 このISMは次のように言い表される。

 嗜癖行動においては、人は liking (心地よく感じること)よりも wanting (渇望すること)に突き動かされる。つまりそれが満たされることで得られる心地よさは僅かでありながら、現在満たされていないことの苦痛ばかりが増す。これが渇望の正体であり、これは一種の強迫に近くなる。
 男性の性愛性もこの嗜癖に近く、ある種の性的な刺激が与えられると、性的ファンタジーが湧き、このwanting だけが過剰に増大する。しかし通常はそれを即座に満たす手段がないために、それを抑制するための甚大なエネルギーを注がなくてはならないのだ。

さて慧眼な読者だったらこう考えるのではないか。「これってむしろ強迫神経症に近くはないか?だってそれ自体は楽しくなくても、それをしないことが苦痛なんでしょう?」 これはある意味でその通りなのだ。そこで嗜癖と強迫との違いを考えよう。スロットが楽しい人は、週末に2,3時間パチンコ屋に行き、2000~3000円ほどのお小遣いを費やして「楽しむ」。パチンコは賭博ではないと言い張る政府は、これを遊戯と言い張る。パチンコやスロットを管轄しているのは「全日本遊戯事業協同組合連合会」というのだ。そしてこれが楽しいうちは確かに「遊戯」だろう。しかしギャンブル依存になると、手にキャッシュを持つと、楽しくもないスロットをしパチンコ屋に向かうのだ。やっていても楽しくないが、やらないと苦しい。

だから私はこのISMモデルは強迫のことを言っているのではないかというのはもっともな考えであり、事実ISMモデルは強迫をも説明するものとして進化しているという。

さいごに ― 男のどうしようもなさとハニトラ問題

 以上男性のどうしようもなさ、すなわち「普通の男性の性加害性」について出来るだけ脳科学的に論じてみた。もちろんこれは性加害性をはらむ男性たちを「免責」することが目的ではない。むしろこの種の余り男性の側が論じてこなかった問題を明らかにすることで、女性がその犠牲になることや、男性が実際の加害行為に及ぶことを少しでも抑止できることを願っている。
 そしてその上で最後に付け加えたいのは、このような男性のどうしようもなさは、政治の世界では十分熟知され、利用されているという事実である。こうなると犠牲者は女性だけにとどまらない。国家そのものが多大な損失を負うことになる。ここまで述べれば想像がつくであろうが、いわゆるハニートラップの問題である。
「ハニートラップ」に関する歴史的背景を調べるとかなり歴史は古い。何しろ古代インドの国家戦略書にも出てくるという。そして冷戦期以降の諜報活動で本格化していることは、具体的な国名を挙げるまでもなく明らかである。そして国家戦略としてこれが本格的に用いられているということは、逆に言えばその罠にかかってしまう、社会的には信頼を集めているはずの政治家や政府高官がいかにこの問題に関して脆弱かを物語っているのである。
 男性の有する性加害性の記述の最後にこのハニトラの問題に触れることで、その深刻さを強調する形でいったん筆をおきたい。


2025年12月2日火曜日

日本理論心理学会のワークショップに参加して

11月30日(日)に筑波大学で「日本理論心理学会」の甘え再考に関するシンポジウムに参加した。京大のもと同僚の楠見孝先生がオーガナイズされ、私以外には山口勧先生(東京大学名誉教授)遠藤利彦先生(東京大学教授)と楠見教授がシンポジスト、そして北山修先生が討論者であった。甘えに関する各方面からの有意義なご発表を聞くことが出来た。北山先生は相変わらずキレキレで、まったくお年を感じさせなかった。筑波大学キャンパスを訪れるのは初めてであったが、まるで米国の大学のような、広大な敷地に建物が点在する自然豊かな環境を味わうことが出来た。

2025年12月1日月曜日

男性の性加害性 4

 2.男性の性の自己強化ループの仕組み

 トーツの説によれば、男性の脳で起きている二つのシステムのうち、システム2の制御的抑制的システムが、自動的、衝動的なシステム1に負けることで「普通の男性の性加害性」が生じる可能性があるわけだが、いったんこの動きが始めるとなかなか抑えが効かなくなってしまうという問題がある。いわば加速度がついてしまい、途中でやめることが難しくなる。これは飲酒やギャンブルと少し違う部分だ。
 例えば酒なら、それまで我慢していても、一口飲めば止まらなくなるということはある。しかし飲めば飲むほど「もっと!もっと!」というわけではない。私は下戸なのでこの体験をしたことがないが、いい加減に酔えば「まあ、このくらいにしよう」となるのが普通ではないか。最後までいかないと止まらないということはない。かなり深刻な飲酒癖を有する人も、大体飲む量は決まっている。もちろん生理的な限界ということもあり、そもそも血中濃度が増してアルコール中毒状態になり意識を失なえば、もうそれ以上酒を飲み続けることはできなくなる。でもそうなる前に酔いつぶれて寝てしまうのが普通なのだ。
 ではギャンブルはどうか。これもちょっとやりだすと止まらないということはあるだろう。しかし最後にオーガズムに達するまで続けるということはない。ではだんだん使用量が増えていくコカインなどはどうか。これは同じ量の満足を与えてくれるコカインの量が増えていくといういわゆる耐性という現象だが、最終的に絶頂に達するまで止められない、というわけではない。むしろ一定の使用量を超えると失神や呼吸困難に至り、その先には死が待っている。

 ところが普通の男性の性加害性は、いったんオーガスムに向かって突き進み出すと、抑えが効かなくなるということと関係しているようである。一体どうなっているのだろうか。それが後に述べるポジティブフィードバックとしての性質である。

 例えば通常の男女の性的な身体接触について考えよう。最初は髪を触り、そして指先で触れ合い、徐々に手を深く絡め合い、それから腕を組み合い、肩を抱く、・・・・という風にエスカレートする。それはあたかも髪をなで続ける、あるいは指を絡ませ合う、というだけではすぐに慣れてしまって満足度が得られなくなり、さらに敏感な部分への接触へと徐々に進んでいくことでその快感や興奮を維持できるのである。
 性的サディズムを例にとる。最初は相手を叩く,軽く引っ搔くというだけで満足するかもしれない。しかしさらにそれに飽きてしまい、相手にかみつく、跡が付くほど引っ掻く、という風に加害性がエスカレートする。しかしそれでも徐々に興奮が薄れ、さらに深刻な加害行為、さらに深刻な加害行為、例えば強くかみ、皮膚が切れ、出血するという傷害行為に至らないと気が済まないであろう。そこでようやくオーガスムに達するのだ。
 男性の性愛性のはらむこの問題は、大きな加害性を秘めていることはお分かりだろうか。一番最初の刺激、例えば肩をポンポンたたく、頭をなでる、軽くハグする、というだけでは、相手はその性的な意図に気が付かず、特に拒否をしないかもしれない。しかし男性はそこで得られる軽い興奮を維持できなくなる。興奮を維持するためには、性的な侵入を続けなくてはならないのである。そこで「言葉の混乱」はすでに生じており、それに気が付いた時には両者には身体接触が始まり、進行しているのである。
 そこで私がここに提示するのが、二つのモデルである。これらはある意味では重複しているため、まとめて「自己強化ループモデル」と呼ぶことが出来るが、一応別個のものとして論じることから始める。ちなみにことわるまでもないが、これらは性依存や強迫的性行動とはいちおう別の議論である。すなわち性依存でもなく、強迫的性行動でなくても、問題となるモデルであるが、それらとも深く関係している可能性があることが、次第にわかってくるだろう。

この自己強化ループモデルの特徴を一言でいえば、性行動はいったん始動すると、途中で止めることが難しい、という現象を説明するモデルであるということだ。

ここで改めて、この自己強化ループモデルを構成するのが以下の二つの理論である。

  1. ポジティブフィードバック理論

     B. インセンティブ感作理論 incentive sensitization theory (IST)