2026年9月6日日曜日

成田先生のこと 2

  成田先生は比較的自由人であったと思う。精神分析学会には属されていたが、その縛りは少なかったのではないか。  さてその関連でとても重要な問題を上げたい。いったん成田先生のことを離れる。 治療者がどの学派に従っているのか(盲従しているのか、阿っているのか、忖度しているのか)?という問題だ。もし精神分析学会に属し、分析関係者のSVを受けているとしたら、分析的な考え方に従った治療を行う傾向にあるであろう。その意味でその治療者は本当の意味で自由ではない可能性がある。もし臨床場面で一つの方針を立てようとしている時、「これは分析的にはあまり薦められないな」という考えが浮かび、その方針を変更する時、その治療者は倫理的に正しいのだろうか?  例えば患者がそれまでの週一回の頻度の面接の終結に向けて、しばらく隔週の期間を設けて欲しいと願う。治療者は自分が患者の立場だったら同じように願うし、それは正当だと思うとしおう。ただし分析的なスーパーバイザーはいい顔をしないであろうとも思うとしよう。(もちろんケースバイケースだし、毎週のまま終結を迎えることの方が、隔週に頻度を下げるより治療的である場合も実際にあるであろうから、ここは一つの例として挙げておく。)  その治療者は実際にあれこれ悩み、考えあぐねる。そして「急な終結は患者さんへのインパクトが大きく、それを十分に扱えない可能性がある。とりあえず頻度を下げて様子を見ることに何の問題があるだろうか?」と思う。そしてその治療者はバイザーに隔週に頻度を下げたことを伏せる(かなりの巧緻が必要になるだろうが)かもしれないし、隔週で行くべきだという考えを話してバイザーと深刻な討論に発展するかもしれないし、終いにはバイザーを怒らせるかもしれないし、逆にバイザーは「キミの判断でやってごらん」となるかもしれない。やがてその治療者はそのSVを卒業し、分析学会の幽霊会員になり、要するに独り立ちをして自分の思う通りの治療(例えばこの場合では隔週に頻度を下げる)を行うとする。するとバイザーに色々気遣っていたあの時期は何だったんだろうか? その状態に平気でいられたとしたら、それは問題ではなかったのだろうか?

2026年9月5日土曜日

AIはどこまで挑発的か? 2

 チャット君は「人間の分析家は患者の既成のpsychic organizationをdisruptできるが、LLMにはそれができない」という主張に対して、かなり正面から返せる論点になっているという。そして 「挑発的である」ことを二種類に分けることを提案する

人間の分析家が挑発的になるのは、分析家自身に欲望、無意識、逆転移、攻撃性、好奇心などがあるからだ。つまり、subjective provocation とでも呼べる。一方AIには、少なくとも現在のLLMには、その意味での「あなたを揺さぶってやろう」という欲望はない。しかし、それとは別に、AIの答えはユーザーもデザイナーも驚くような者もあり、それは generative provocation と呼ぶことを提案する。


https://images.openai.com/static-rsc-4/eDOyZS6S-bpaW5O9Psx2GOoaLFVLWku3z8bm6fv-BN0P2eHQ68Pgz6HRgutLMby6hrPFt-iizPig6OcYoZYeenDoEvvxuN5u89lYuvj0nVUKXL_qdboAPb6YAe4In0_PigD-F7fAYHV_ICGfa3vAmZMjPxU8QhzRDc6BtBT0jRP-CgJRh155jwAv_qG1eDTe?purpose=fullsize


後者のいい例は、AlphaGoの「第37手目」という例。(2016年のLee Sedolとの第2局の有名な手)。重要なのは、AlphaGoが「独創的な手を打って李世乭を驚かせてやろう」と欲したわけではない。それでも結果として、人間の予測を破り、それまでの囲碁の「良い手」の感覚そのものを揺さぶった。これを「創造的ではない」と言い切るなら、逆に創造性とは何なのかをかなり狭く定義しなければならなくなる。つまり創造性は創造的な主体を必ずしも必要としないということになる。ただしCさんの「コード化されていない過剰さ」を完全に否定する必要はないと思う。

人間の発話には、身体、欲望、prosody、slips、repression、transferenceなどから生じる、発話者自身にも制御できない「過剰」がある。これは確かにLLMには同じ形では存在しない。しかしAIのoutputは、そのcodeから完全に予測可能でもない。つまり、

coded system ≠ completely predetermined output


成田先生のこと 1

 「成田先生と支持療法について」という題で一文を書くことになった。これはかなり複雑なテーマであるが、せっかく依頼を受けたのでぜひ書かせていただきたい。そこで「精神分析をどう学ぶか」という文章(分析研究、2015年)を探していたら、同じ号に、私が成田先生の著書の書評を書いていたことが分かった。そこでそれを掘り起こしてみる。

新版 精神療法家の仕事 面接と面接者 成田善弘 金剛出版、2014

本書は、今から10年前に刊行されたものに、いくつかのコラムと新しい章を加えて改版したものである。旧版は雑誌「臨床心理学」の創刊号から2年の間に連載されたもののまとめであり、私も目を通していたが、今回改めて読み直すことになり、さまざまなことを学び、また考えた。
最初に各章をごく簡単に紹介する。

1章 面接のはじまり─その1
 患者との出会いから語り始められる。そして治療を引き受けるかについての判断が難しい場合、たとえば治療者の個人としての匿名性を保ちにくい患者からの依頼、特別の設定を要求してこられる場合について論じられ、また治療者の資格について質問される場合、家族が患者抜きに話を要求する場合などへの対応の仕方も述べられている。
2章 面接のはじまり─その2

 精神療法を開始する際の様々な心構えについて述べられる。インフォームドコンセントの重要性、尋ねられたことには誠実に答える態度が必要であることなどが述べられている。少し意外だったのは、「初回から患者に有能で信頼に足ると思ってもらうことが大切だ」とし、たとえば少し低い声で話す、的を得たと思われるような質問をする、などの心得をあげていることだ。この少しあからさまなところが、著者の正直さを伝えている気がする。
3章 沈黙と言葉
 著者は沈黙を抵抗である、としながらも沈黙が持つ様々な意味について説いていく。そこでは沈黙は自分を守るものであると同時に、他者との距離を詰め、そこに緊張を引き起こすものとしても描かれる。満ち足りた沈黙、緊張をはらんだ沈黙、創造の培地としての沈黙、などの様々な沈黙についても触れられる。

4 治療者の介入─その1
  治療者と患者の役割について述べられているが、前者には患者に対する「治るか治らないか」についての説明も含まれるという。そして傾聴の仕方、相槌のうち方、質問の仕方その他についての丁寧な説明がある。その中で患者の最終的な役割が「その役割をできるだけ小さくするように努める。つまり治療者でなくなるよう努める。」とあり、またそれに対応する形で患者の役割も最終的には、「自分の問題に自分で対処できるようになる。つまり患者[依頼者]でなくなるよう努める」と書かれているのが興味深い。
5 治療者の介入─その2─共感・解釈・自己開示
 共感の難しさについて論じられ、その中で著者自身の幼児期からの体験が語られる。著者の真摯さがうかがわれる章である。彼は虚飾を排して、患者と向き合い、何が治療者として必要かを常に問い続ける。それが彼の自己開示の議論にも通じ、共感と解釈とが実は別のものではない、という議論へとつながる。読んでいて非常に啓発される章である。
6
 転移/逆転移と解釈
  著者は「重荷になる患者」に対する対応として、「あなたは私にしがみついている。母にしがみついていたように。」というたぐいの転移解釈に対して「世にこの手の解釈は沢山ある。こういう解釈が有効なことはめったにない。」と切り捨てる。そして「本当は重荷なの。でもそういうとあなたが見捨てられたと感じて治療を中断するのではないかと思うと、それが心配で、今まで言えなくて困っていたの。」と表現することをすすめる。(これを彼は「白状する」と呼ぶともいう。)

7 面接のおわり
「主訴の解消、転移の解消、悲哀の仕事、感謝がなされて理想的な終結に至る」とある。そのうち感謝に関しては、内観療法における身調べにも言及し、転移が解消して治療者が他人に見えることで初めて生まれる感情であるとしている。
8
 短い面接について
著者は臨床家が直面せざるを得ない、短い時間での面接についての薀蓄を傾ける。そして15分での面接の限界と、それでもこれだけのことが出来るという発見とについて綴っていく。その背景には、境界パーソナリティの患者の場合に、50分よりも短いセッションの方が患者が落ち着くことがあるという経験があったという。
9
 精神療法家にとっての理論と経験
 
 特に著者らしさが伝わる章である。彼はジェームス・マスターソンの本を3冊訳したが、特に彼に「傾倒したわけでもなく、必ずしも好きというわけでもない」という。そしてどのような理論を学ぶかについて、神田橋の表現を借りて「まず理論以前に自分が素朴に感じていること、思っていることになじむ理論から入るのがよい」という。その線で言えば、私が駆け出しのころに本書を読んでいれば、まさに著者のファンになりそのあとを追っていたことは間違いないと思う。
10
 「書く」ことについて
 著者は症例報告を書くことの意味について触れ、同時に自分自身の体験を吐露する。それによると彼にとって「書く」ことはフラストレーションであり、それでも執筆を引き受けるのは自分自身の自己愛と関連しているという。「自分の書いたものが活字になっているのを見ることは、私の自己愛をいくばくか満たすのである」とある。これもまた興味深い。
11 治療者のメンタル・ヘルス
  著者は人間関係そのものを求める患者に対して「それを与え得ない自分に不全感や罪責感が生じる。そういう感情を持たざるを得ないところに、精神療法という仕事の本質がある」とし、それが療法家に負担を与え、その結果として燃え尽きも生じると説明する。ここには著者のストイシズムや強い倫理観を感じる。
12 精神療法家のライフサイクル
 著者は療法家が青年期から中年を経て老年に至るまでの心の移り変わりに関し、多分に自伝的な要素を加味しつつ語る。そしてスーパービジョンや教育分析からではなく、人生自身から、つまり結婚、子育て、後輩同僚との関係の変化などを通したその療法家の変遷について論じてある。
13 治療者自身の心の響きを知る
 本章はこの版で特にくわえられたものであるが、きわめて濃厚な章だ。彼の理論の真骨頂と言ってもいい、「こころの井戸」の理論、「その場の雰囲気さん」といった概念が出てくる。そして治療とは患者の心の探求というよりは、治療者がともに心の奥深くまで下りていき、そこに「一人ぼっち」であることを見出すことであるという理屈が述べられる。
 なおここでは内容は特に紹介しないが、本書には旧版にはなかったいくつかの示唆に富むコラムがあり、本書にエッセイとしての要素と独特の厚みを醸している。

本書を改めて通読して思うのは、著者の様々な立場や経歴や人間性が凝縮した本だということだ。著者は精神科医であり、根っからの臨床家である。また正式な分析トレーニングとは距離をとったという経歴もある。その立場から自分の経験に基づき、自分の言葉で治療観について語る。柳のようにしなやかに患者と関わる一方では、自分自身の感性を守り、ポリシーを貫き、簡単にはぶれない。その言葉には説得力があり、先生がこう言うのだからそうだろう、という気持ちにさせてくれる。10年たっても臨床を志す人にとっては必読の書であることに変わりはない。

2026年9月4日金曜日

🔵人間の言語とAI言語は本質的に違うのか? 4

 「AIは自由連想が可能か?」

私は最初は「否」だと思った。なぜなら人間には無意識があり、AIにはないから。そしてAIは目的志向であり、あてのない自由な連想などできないであろうから。そのことを僕のAIとも相談したが、彼は自分は自由連想の真似事ならできる、と言った。AIの言葉を引用する。
「たとえば僕に、『海』という言葉から、思いつくまま何でも連想して。論理的につなげなくていい。」と言えば、僕はおそらく、海―波―子どもの頃―貝殻―耳に当てる―声―誰かに呼ばれる―振り返る―誰もいない―少し怖い……のようなことを生成できる。これは外から見ればかなり自由連想らしい。しかも「もっと意外な方向へ」「論理的なつながりを避けて」「途中で言い間違いや脱線も含めて」と指示すれば、もっと人間の自由連想に似せられる。だから、behavioral levelではAIに自由連想をさせることは可能だと思う。ここでチューリングテストと同じ問題が出てくる。人間の自由連想とAIの「自由連想」を文字起こしして分析家に見せ、どちらが人間か当てさせたらどうなるか。これは実験としても面白い。」

確かにその通りだと思った。しかし私はこの答えは十分ではないと思う。AIは自由連想の持つ一見まとまりのない、意外性のある思考の流れは真似をすることができるかもしれない。しかしここでAIには欲望がないということが決定的に重要ではないかと思う。「コード化されない過剰さ」を構成する要素には、本人が意識化していない欲望が関与している可能性がある。
患者が分析家に「先生は休日はどう過ごしているかを想像してしまいます」という連想をしたとする。するとそこに患者の「先生のことが好きだから、いろいろなことを知りたいです」という部分が「コード化されない過剰さ」を生んでいる可能性がある。しかしこの例を僕のAIに示し手解釈的な理解を訊ねたところ、患者の自由連想の裏に潜んでいる恋愛感情は、彼が思いついた候補に挙がってこなかったのである。しかしそのことを指摘すると、AIは「一本取られた!言われて始めたその通りだと思った!」と言ったのである。このことはAIはこれからますます学習して、言外の意味をくみ取れるようになる可能性があるということを意味する。

そこで私の今のところの結論は以下の通りである。

「AIの自由連想は、真似事でしかなく、かなりlean なものだ。人間の enrichied な、つまりコード化されていない過剰さを持つ自由連想の足元にも及ばない。しかしひょっとして、AIは人間の自由連想の聞き手としては、あるいは壁打ちの相手としては役に立つのではないか。何しろAIは人間のようにself-deceptive で自己愛的な性質がないために、それだけバイアスなくニンゲンの自由連想に耳を傾けることができるから。」


2026年9月3日木曜日

🔵人間の言語とAI言語は本質的に違うのか? 3

 Cさんへの反論を考えてみた。

Cさんが問うている問題は一言でいえば「人間の言語はAIのそれと本質的に異なるのか?」ということになり、これはかなり本質的で大切な問題だ。Cさんは「本質的に異なる」という立場で、なぜならAIの言語はコード化され、目的が定められているからであること、そして人間の言語はコード化されていない過剰さ excess があり、それがAIに欠けているのだということになる。この主張はよくわかる。(ただし私がまだ十分にuncoded excess について理解していないかもしれないが。)

確かにAIには空気が読めていないところがある。しかしAIには伸びしろがある。AIは最近メタファーとかジョークがわかるようになってきている。かなり行間が読めるようになり、「心の理論 theory of mind」を備えている。そのせいもあり、かなり自然な会話が出来るようになっているのはその証拠ではないか。もっと言うと、AIは私たちの無意識に迫る力があるとさえ考えるのだ。AIは人間の言語の矛盾点を指摘し、明確化を迫ることで意識しない内容についても注意を向けてくれるからだ。)

この問題について考えていく内に、もう一つの面白い問いに行き当たった。私はこの方が論じやすい。

「AIは自由連想が可能か?」


2026年9月2日水曜日

🔵人間の言語とAI言語は本質的に違うのか? 2

 Cさんの意見について考えていく内に、面白い問いに行き当たった。「AIは自由連想が可能か?」もちろん否、ということになるだろうか。なぜなら人間には無意識があり、AIにはないから。そしてAIは目的志向だから、自由な連想などできないであろうから。 では人間の自由連想は何に特徴づけられるのだろうか?それはCさんなりに言えば、「コード化されない過剰さ」が存在するのだが、それは私の理解では人間には欲望があるから。つまりあることを実現して快を得たい(不快を回避したい)から。しかしAIは心がないからどう考えても過剰さが生まれないのだ。しかしそれならなぜAIは自然で、冗談を言い(笑)、ウィットにとんだ発言が出来るのだろうか?


2026年9月1日火曜日

🔵人間の言語とAI言語は本質的に違うのか? 1 

 しばらくこの問題に取り組む必要が生じてしまった。Is human language fundamentally different from the language of AI?(人間の言語はAIのそれと本質的に異なるのか?)

というのも、とある学会でこのテーマについて発表する必要が生じているからである。ある精神分析な立場を取る人(仮にCさん、としよう)は「絶対に違う」、と言うだろう。

なぜならAIの言語はコード化され、目的が定められているから。そしてCさんはこういう。「人間の言語はコード化されていない過剰さ excess があり、それがAIにかけているのだ」となる。それに対する私の主張はこうだ。

それはよくわかる。確かにAIには空気が読めていないところがある。しかしAIには伸びしろがある。AIは最近メタファーとかジョークがわかるようになってきている。行間の読めるようになり、心の理論を備えている。そのせいもあり、かなり自然な会話が出来るようになっているのはその証拠ではないか。But if AI can understand irony, metaphor, jokes, slips, ambiguity, and meanings between the lines, is the difference really so absolute?

もっと言うと、AIは私たちの無意識に迫る力があるとさえ考えるのだ。なぜならAIは人間の言語の矛盾点を指摘し、明確化を迫ることで意識しない内容についても注意を向けてくれるからだ。