2025年11月30日日曜日

男性の性加害性 3

 一見普通の男性の性加害性」の脳科学

 以上の二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である一見普通の男性の性加害性(以降「普通の男性の性加害性」の問題と略記しよう)は①,②に関連はしているが、基本的に別の問題であるということであり、新たに論じなくてはならないのである。
 この「普通の男性の性加害性」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「男性の性加害性」を回避するのに同じロジックは成り立たない。何しろそれは職場の上司や同僚として、あるいは指導教官や部活の先輩として、さらには夫や父親として、つまり身の回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。ここにこの問題の深刻な特徴があるのだ。

 「普通の男性の性加害性」の問題の特徴を一言でいうと、通常は理性的に振る舞う男性が、それを一時的に失わう形で、性加害的な行動を起こすということである。しかし私たちが時折理性を失う行動に出てしまうことは、他にもたくさんある。酩酊して普段なら決してしないような暴行を働いたりする例はいくらでもある。しかしこれはそれが予測出来たらふつうは回避できるはずだ。
 ところが酒がやめられないアルコール中毒症の人だったり、ギャンブル依存の人なら、ちょっと酒の匂いをかいだり、ポケットに思いがけず何枚かの千円札を見つけたりしただけでも、すぐにでも酒を買いに、あるいは近くのパチンコ屋に走るだろう。彼らはごく些細な刺激により簡単に理性を失いかねないのだ。ただしこれらの場合は、彼らがアルコール依存症やギャンブル依存という病気を持っている場合だ。つまりは上で述べた②に相当する。そして一見健康な男性の豹変問題はそれとは異なる、と私はこれまで述べてきたのだ。

 実はこの「普通の男性の性加害性」についての学問的な研究がある。ここで一人の学者を紹介したい。それがフレデリック・トーツ  Frederick Toates である。これまでにも多くの研究者が男性の性愛性の論文を発表しているが、その中でも男性の性の問題について徹底して学問的に深堀利をしていると私が考えるのが、トーツである。


Toates F. (2022) A motivation model of sex addiction - Relevance to the controversy over the concept. Neurosci Biobehav Rev. 142:104872. 

1.男の脳に起きている理性と衝動のせめぎあい

 トーツは「二重過程モデル(Dual Process Model」を提唱する。彼は「快楽」や「行動衝動」がどのようにして生じるかを、「二つのプロセス」で説明する。 


● システム 1(自動的・感覚的・衝動的) → たとえば、魅力的な女性を見て無意識的に身体が反応してしまうシステム。
●  システム 2(制御的・理性的・抑制的) →  その衝動を抑えようとするシステム。


 そして性嗜癖の本質は、この二つのシステムの失調、ないしはギャップから生じるという。

 これを言い換えれば、「男性はデフォルトが性的満足を得ることを常に我慢している存在」ということになる。つまりは酒に酔ったり、交通事故などで前頭葉が破壊された場合には、簡単に system 1 に支配されてしまうことになる。これは男性の「どうしようもなさ」を、見事に示していることになる。1の暴走に関しては、いったん引き金が引かれるとドーパミン系とグルタミン酸系が発動し,「鮭の遡上」(後述)反応が始まる。これ自体は自動的、生理的なプロセスの発動であり、身もふたもない言い方をすればファンタジー先行、対象不在なのである。いやファンタジーすら不在かもしれない。何しろグルタミン系は、「過学習された性的衝動の再活性化(=トリガー)→ 外部刺激によって自動的に活性化される神経回路の強化」だから壊れたレコードのように再生を繰り返すだけなのである。男性のどうしようもなさとはつまり、この二重過程モデルがまさしく言い当てているということになる。


2025年11月29日土曜日

男性の性加害性 2

 これまで何が分かっているのか?

 この「普通の男性の性加害性」についてさらに論じる前に、これまで男性の性加害性についてわかっていることを少し整理しておきたい。男性の性の問題は精神医学の世界でももちろん議論の対象となっていることは確かである。それは一種の精神障害としてとらえられ、概ね二つに分類される。それらは①パラフィリア(性嗜好異常)、②性依存の二つである。
 先ず①パラフィリアに関しては以前は性倒錯 perversion という呼び方が一般的であったが、1980年のDSM-III以降 paraphilia パラフィリア」という呼び方に統一されている。Para とは 偏り deviation であり philia とは好み、親和性という意味である。つまり paraphillia とは通常とは異なる人ないし物に惹かれるという意味だ。性倒錯という呼び方にはかなり差別的な含みがあったが、パラフィリアはそうではないという理由でこの呼び方が一般になされるという事情もある。
パラフィリアは具体的には露出症、フェティシズム、窃触症、小児愛、性的マゾヒズム、性的サディズム、服装倒錯的フェティシズム、窃視症などが挙げられる。パラフィリアは極端に男性に偏る傾向にあり、おそらく男性の性愛性の持つ何らかの特徴に関係していると思われる。

このパラフィリアが性加害と関係してくるかはケースバイケースといえよう。パラフィリアの中には「対物性愛」というジャンルもある。その際は例えばエッフェル塔の写真を見て性的興奮を覚えたりすることになるが、その人がエッフェル塔を損壊でもしない限りは加害性は考えにくい。
 しかしパラフィリアは通常とは異なった対象に関連しているものの、非常に多くの場合、結局は特定の人(多くは異性)を対象としたものである。たとえばフェティシズムの一例として、好きな異性の靴下や下着に関心を示すとしよう。するとそれを手に入れる際には結局相手の了解を得ない場合が多いであろうし、そこには加害的な要素が加わる事になる。あるいは盗撮、露出、覗きなども特定の相手があって生じるのであり、同様に侵襲的で加害的である場合が多い。
 実際昨今は盗撮の幼児や児童への加害性が重要な社会問題になってきている。犯人の多くは一見普通の小学校、中学校の教員なのである。そこでこの①のテーマは後に「一見普通の男性の性加害性」を論じる際に立ち戻って考えたい。

 次に②の性依存についてである。こちらは「一見普通の男性の性加害性」に関係するだろうか? こちらも①と同様にケースバイケースと言えようが、性依存の状態にある当人を満足させるようなパートナーは事実上不在である場合がほとんどだろう。一日中オーガスムを追い求めることを止められない男性の相手を務められるパートナーなどは普通は存在しない。したがって性依存はそのままポルノ依存などの形をとる事になり、他人を巻き添えにするというよりは、自分で苦しみ、その結果として家族なども巻き込むことになる。
 性依存に関しては、ギャンブル依存などと違い、金銭的な問題が発生しにくいことも不幸中の幸いと言えなくはない。(
ただし毎日の風俗通いを止められないという場合には別であろうし、その状態に陥ったケースも知っている。)

 ちなみにこの②について、それが一つの疾患としてどの程度認定されているかについてはいろいろ議論がある。WHO発行のICD-11(2022年)には、精神疾患のジャンルにCSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)という状態が記載されている。ところがもう一つの世界的な精神科の診断基準であるDSM-5にはそのような病名の記載はない。巷で言われる性依存の状態は、通常の依存症、すなわち薬物やギャンブルや買い物などの依存症と同類に扱うことが出来ないというのがDSM-5の立場なのである。

さてこの②性依存の問題は実は「一見普通の男性の性加害性」の問題と絡む可能性がある。そこで改めてCSBDの定義(ICD-11)を読むと

(1)繰り返し制御できない性的衝動 (性的な思考や衝動がコントロールできず、頻繁に性的   行動を繰り返す)
(2)個人の生活や社会的機能に悪影響を与える (仕事や人間関係に支障をきたすほどの性的   行動を続ける。)
(3)性的行動を抑えようとしてもできない (自分でやめようとしても制御できない。)

これらの問題が少なくとも半年続いているとこれに該当するというのだ。

さて「一見普通の男性の性加害性」の場合、かなりこれとは異なる印象がある。一見普通の男性が性加害者となる場合、その男性は「繰り返し制御できない衝動」に駆られるのだろうか。その頻度は通常はさほど高くない点が、痴漢行為やポルノ依存とは異なるところだ。
 もう一点、「一見普通の男性の性加害性」が性依存と異なる面がある。それは一般に依存症の場合には繰り返すことでその依存度が深まり、抜けられなくなるという傾向があるのだ。しかし「一見普通の男性の性加害性」の場合にはそのような切迫感の増大はあまり見られないという印象がある。
 またさらに言えば、「一見普通の男性の性加害性」にはかなり意図的、作為的な部分がある。その欲望を制御できないというわけではなく、どこか計画的でその機会を狙い、その行為に及ぶというニュアンスさえもある。しかしそればかりだとまさに計画性を持つ性犯罪者ということになってしまうが、そこに自制が効かなくなるという要素が混在した状態と言えるかもしれない。最初は性被害を与える意図はさほどなくても、途中から抑制が外れるというところがある。
 私がそれらの事例を見聞きして思うのは、彼らの起こす性加害がどこまで意図的で、どこまで不可抗力的なのかが区別しがたいところがあることだ。それは最初は相手とのじゃれ合いやいちゃ付きのニュアンスを伴っているものの、それが次第にエスカレートして相手の拒絶にも拘らず突き進むというパターンが多いのだ。するとやはりこの②の性依存とは基本的に区別するとしても、途中から歯止めが効かなくなるという点に関しては②の要素を併せ持っていると考えていいだろう。


2025年11月28日金曜日

WD推敲 2

  WDの起源は古いが、1970,1980年代に多種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。そして臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ(野村)。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。

私にとってのワークディスカッション


 さて日本におけるWDの取り組みについて述べることが本稿の目的ではない。ここからは私が知り得たWDについて現時点で思いめぐらすことを書いてみよう。

 私自身にとってのWDはと言えば、極めて身近にしかも数多く体験した、あのプロセスのことである。たとえば複数の人の前である事例が報告される。そしてそれについて様々なディスカッションが行なわれ、時にはさまざまなドラマか展開していく。精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会におけるケース検討の場でこれまで数限りなく経験してきた。時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされるあのプロセス。場合によっては年若い発表者が助言者、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに火だるま状態になるのを見たこともある。かなり昔の話ではあるが、私自身がその発表者の立場となったこともある。

 発表者が火だるまになった場合、聴衆の一人としての反応は複雑である。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不条理に感じる事もある。思わず発表者に援護射撃をしようと思っていても、その場の雰囲気に押されて何も言えず、歯がゆい思いをしたこともある。

少し極端な場合には発表者はその経験を一種のトラウマのように感じ、またその時に特に歯に衣着せぬ意見を述べられた先生に対して恨みに近い思いを抱くこともある。しかし一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランのコメントも聞こえて来たりして「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるがわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方についと考えることはペンデイングにしていたが、この問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのだ。


2025年11月27日木曜日

男性の性加害性 1

まだ引き摺っている原稿である。

 改めて‥‥「どうしようもない存在としての男性」とその性加害性

 今回の対談と同時並行的に様々な文献に当たりつつ思ったのは、男性の性の問題は複雑多岐でかなり込み入った問題であり、その多くは解明されず、また語られることは少ないということである。その中でも特に問題なのが、一見普通の男性が時に見せる性加害性である。
 性加害者は多くの場合、一見健康で普通の社会生活を送っており、特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっている。昨年、一昨年に世間を大きく騒がせた元アイドルのN氏やY氏やM氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると考える方々にとっては、私のこの主張はあまり意味をなさないかもしれない。しかし私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。
 そこで彼らの起こす問題をとりあえず、「普通の男性の性加害性」として捉えることが出来よう。これは当然ながら病気としては扱われないという事情がある。御存じの通り、この問題は社会に大きな影響を及ぼし、数多くの犠牲者を生み出している問題であるが、これまで十分に光が当てられてこなかったのである。つまり「普通の男性の性加害性」は私たちの社会において一種の盲点になっていたのだろう。
 臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけにそれによる心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
 しかしこの問題は自分たちのことを「一見普通である」と自ら思い込んでいる男性の恐らく大部分にとっても決して他人事ではないはずだ。どんなに社会的な地位があり、日頃から品行方正とみなされていても当事者である可能性を免れることはないかもしれない。昨今のニュース報道を見ればわかる通り、女子生徒の盗撮などの行為を行っている人たちは学校の当の教師たちなのである。それも日頃は信頼され、父兄からも安心して子供を任せられると思い込んでいた人たちの行為なのである。そこにこの問題の複雑さ、闇の深さが存在するのだ。私が男性のその様な性質を「どうしようもない存在」と呼ぶとき、これはある意味では男性という性を負った私たちが多かれ少なかれ運命づけられ、そのこと自分のこととして考え、反省しなくてはならないという自戒の念を込めているのである。

2025年11月26日水曜日

WD推敲 1

 ワークディスカッションの話。始まったと思ったらもう推敲だ。

 この度「●●●」という著書に特別寄稿を書かせていただくことになった。大変光栄なことである。ちなみに「特別寄稿」は私の好きなジャンルである。なぜなら自由なことを書いても比較的許されるからだ。ということで私はこのディスカッションに突然引き込まれ、おかげでずいぶん刺激を戴いた事を感謝しつつこの稿を起こしつつある。まず私なりにこのwork discussion (ここからは”WD”と書くことにする)についての私の乏しいながらの理解を書いてみる。
  WDは精神分析をルーツとし、グループの環境で学びを高めるためのプログラムである。そしてこの動きは日本の心理臨床においてかなり前からあり「日本ワークディスカッション研究会」まで存在している。ただし広く一般に知られているとはいえず、まだこれからの領域という印象を受ける。かくいう私も今回長谷綾子先生、若狭美奈子先生、橋本貴裕先生の企画による同テーマの自主シンポにコメント役として参加させていただき、その存在を遅ればせながら知ったということを告白しておこう。

 WDは、英国のタビストック・クリニックにおける乳幼児観察(Infant Observation)が源流であり、主として精神分析的視点に立った対人援助職の教育訓練のために開発された。この創始者は精神分析の世界ではよく知られるイギリスの分析家エスター・ビックであり、彼女は乳幼児観察と個人精神分析を統合したとされる。ちなみにこの乳幼児観察については英国に留学した先生方が日本に伝えているので分析家の間ではなじみになっている。
WDは、観察者が自らの体験(感情、身体感覚、反応)を通して無意識的な対人関係の力動を見出すことを目的とする。
具体的なプロセスとしては、参加者が臨床現場(保育所、病院、学校など)で観察したことを記録し、それをグループで読み合わせ、そのあとディスカッションを行うが、それが「自由連想的』であるところがいかにも精神分析的である。そしてその際指導者(facilitator)はあくまで分析的な視点での促し手であり、指導・教示は最小限に抑えられるということだ。
そこでは「観察者が感じたこと」「関係性の中で何が起きているか」に焦点が置かれ、背景にに対象関係論(オグデン、ビオン、ビックなど)や投影同一視、コンテイニングなどの概念があるとされる。そして「何が起きていたか?」よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?」に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す。つまりそこで起きたことを事実として検討する、という意味ではないという点が特徴なのだ。


2025年11月25日火曜日

特別寄稿 8

日本型のWDについて

ここで日本型のWDについて論じる資格は私にはないのかもしれない。私は具体的な実践を行っていないからだ。しかしこのWDの概念は一般に私たちが行うあらゆるグループディスカッションに深く関連している可能性があり、グループでの体験について、米国、フランスでの体験を比較的豊富に有する私にもある程度その資格があると考える。またこのWDが日本社会において行われる際にどのような点が問題かについては、またそれが本格的には論じられていないという点もある。WDが日本に導入されてからかなりの年数がたっていることを考えると、そろそろそのような議論が出てきてもいいのではないかと考える次第である。

ちなみに日本でのディスカッションそのものの特徴については金子智香・君塚淳一 (2007) の論文が参考になる。彼らはWDとは直接関りがないながらも、大学英語教育を行う上でのグループディスカッションが持つ様々な問題について論じている。彼らは英語によるディスカッションにおいて、「ディスカッションどころか会話も成立しない」という問題にしばしば遭遇し、日本において学生のディスカッションへの抵抗感を取り除いたり緩和したりすることの重要さを説く。そしてその背後には、西欧文化と日本文化の違いがあり、「意見を戦わせて議論で解決して行く文化と、個は出来る限り抑制し集団で動く文化の違い」(p.77)について指摘する。

金子智香・君塚淳一 (2007) 日本の大学英語教育におけるディスカッションの指導法とは[1] ―授業における効果的方法を考える― 茨城大学教育実践研究 26, 75-87. 


2025年11月24日月曜日

特別寄稿 7

 先ずは私なりにWDの起源と発展について簡単にまとめたい。WDは、英国のタビストック・クリニックにおける乳幼児観察(Infant Observation)が源流であり、主として精神分析的視点に立った対人援助職の教育訓練のために開発された。この創始者はイギリスの分析家エスタービックであり、彼女は乳幼児観察と個人精神分析を統合したとされる。ちなみにこの乳幼児観察については英国に留学した先生方が日本に伝えているので聞いてはいたが、その詳しい内容を私は知らなかった。 WDは、観察者が自らの体験(感情、身体感覚、反応)を通して無意識的な対人関係の力動を見出すことを目的とする。 具体的なプロセスとしては、参加者が臨床現場(保育所、病院、学校など)で観察したことを記録し、それをグループで読み合わせ、そのあとディスカッションを行うが、それが「自由連想的』であるところがいかにも精神分析的である。そしてその際指導者(facilitator)はあくまで分析的な視点での促し手であり、指導・教示は最小限に抑えられるということだ。 そこでは「観察者が感じたこと」「関係性の中で何が起きているか」に焦点が置かれ、背景にに対象関係論(オグデン、ビオン、ビックなど)や投影同一視、コンテイニングなどの概念があるとされる。そして「何が起きていたか?」よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?」に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す。 ところでこの文章、Chat君に手伝ってもらって書いているが、最後の部分、つまり「何が起きていたか?よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す」という部分。「何が起きたのか」を事実として検討する、という意味ではない(つまり真理を追究するのではない)ということなのだろうか。