2026年1月24日土曜日

ショア書評 ③

 第2章 関係外傷と発達途上の右脳 精神分析的自己心理学と神経科学の接面

 この章も驚きだ。ショアはなんとコフート理論も自分の体系に引き付けようとしている。フロイトと同時にコフートにもエールを送るわけだ。まさに全方位外交である。そしてコフートのもっとも独創的で傑出した知的貢献は、自己対象という発達的構成概念であるとする。この自己対象の概念も当時の精神分析のエスタブシッシュメント達には非常に受けが悪かったが、ショアはこちらにも理があるとする。そしてまさにショアの言うとおりである。子供と親、患者と治療者、あるいはいかなる二者に関してそれが相互に自己対象として機能し合う関係とは、まさに右脳同士の交流に置き換えることが出来るではないか!! (78)ショアはコフートの理論を次のようにまとめる。「成熟した心理的組織を持つ親は、未熟で不完全な心理的組織を持つ乳児にとって重要な調整機能を実行する自己対象として機能する。」(強調岡野)。親の調整機能、という考えはフロイトにはなかった。コフートの治療論の出発点が幼少時の幼児と養育者の関係性に注がれている点を改めて認識する。87では、右脳の興奮が神経細胞のアポトーシス(自然死)を生むために、それに対するブレーキが作動するというメカニズムについて言及されているのが興味深い。つまり交感神経系の興奮が高じるといずれは背側迷走神経優位の状態に取って代わるのは、神経系の自衛手段としておそらく系統発達の早期に備わったはずなのだ。(迷走神経系によりクールダウンできなかった神経系は生き延びれなかっただろう。)


第3章 右脳の感情調整 発達、外傷、解離、精神療法の本質的メカニズム


この章でショアは改めて全盛期から今世紀初めにかけて生じたパラダイムシフトについて論じる。その最新のものは、認知的アプローチの次に来た動機付けと情動であるという。(100)そして無意識の感情は抑圧ではなく解離された感情として最もよく理解できること、またその後に形成される抑圧は、右脳によって生成された感情の左半球による抑制なのだ、という。ここは重要である。つまりショアは無意識を重視しているが、それは解離が働く領域であるというわけである。ショアは彼の言う無意識がフロイトの無意識とはかなり異なっているという事を、あまり強調していないが、もちろん彼はそれをわかっていて、敢えて反フロイト的なスタンスをとることを避けているのであろう。

ところで(99)のリヒテンバーグの引用内容が面白い。要するに精神療法においては、治療目標が意識の外にある、という事だ。すなわち言語的なコミュニケーションにより目標や動機を明らかにしていくプロセスには限界があることを、早くから動機付けに注目していたリヒテンバーグは述べているのである。

 

2026年1月23日金曜日

ジャネ書評 ②

 はじめに

先ずは1970年のエランベルジェの「無意識の発見」が極めて大きな意味を持っていたこと、そして本書が半世紀を記念するものであるということが述べられる。そしてその影響を受けた多くの論者による本書の各章のモチーフが簡単に紹介されている。


1章 PJ入門

この章を読むと、実は私たちは今やジャネ(以下、PJ)という、フロイトとの双璧をなす人物と対峙していることがわかる。PJはシャルコーの早い死の後、サルペトリエールで催眠を用いる唯一の研究者となったが、やがて催眠を毛嫌いするデジュリーヌがサルペトリエールの院長になるとともに、そこを去らなければならなかったのだ。そしてその後コレージュ・ド・フランスの心理学教授に就任した。

PJの心的自動症の基本概念は、①過去の活動の自動的な再現 ②綜合 synthesis と創造による統合integration. の二つの組み合わせが私たちの活動であるとする。そして解離は②がうまくいかなくなっている状態であるとした。そして①においても意識は介在しているが、下意識であるとした(35).


PJはある意味ではフロイトにより日陰者の存在になったが、実は時代を先取りしていたということが提案されている。そしてフロイトはジャネを否定しつつも、随所に影響を受けていたという主張もなされる。これを単なるジャネびいきの妄言と取るか真実と取るかは別として、最近の解離にまつわる議論はPJ,そしてフェレンツィの主張の信憑性を示しているともいえる。


第2章 意識から下意識へ


(61)解離で起きているのはしてこれは意識の不在(=無意識)ではなく、意識の分割であるとした)。(61)ジャネは例によって次のように説明する。現象を絶えず統合へと集める活動、創造活動。もう一つは過去に存在理由があった古い総合を再活性化させる反復運動。この両方のバランスの破綻が自動症となるとした。(62)「解離は自動症活動と総合の活動の平衡の喪失」。これは心的緊張の低下によりもたらされ、それを引き起こすのが情動であり,トラウマであるというのだ。これはよくわかる。

(69)ジャネは古くから研究のある無意識を意識とは異なる知性の可能性であり、形而上学的な研究である一方、下意識は極めて臨床的であるとした。それは通常の意識とは独立して存在し、「意識野の狭窄」「人格の解離」と同等であるとした(70)。


2026年1月22日木曜日

ショア書評 ②

 私にとってのショアの理論の有用性

①フロイトの立場に立ち、Freud-friendly な議論であり、安心である。(右脳による)無意識的な関係が(左脳による)意識的な関係に先立つという考え方がフロイトの正しさの表れであるという主張。この脳科学の立場に立ち、かつフロイト寄りの発言をする立場としては、神経精神分析 neuropsychoanalysis のスタンスに近い。ただしこのショアの全方位外交的な立場ははフロイトに対してにとどまらない。彼は精神分析のエスタブリッシュメントたちから敬遠されたボウルビイにもコフートにも向けられている。さらには関係精神分析のブロンバーグなどに熱烈なエールを送っている。しかしこれらの人物たちはいずれもフロイトとはかなり異なる主張をしている。それらの理論が含んでいた先駆性を積極的に取り入れつつ、フロイトをも立てるという姿勢がショアの持ち味なのである。というかなんでも取り入れるショアの姿勢が一種のパラダイムシフトを可能にしているのである。そしてそれは認知的アプローチの次に来た動機付けと情動であるという。

②ショアのパッションが直接的に伝わってくる。もう19年も前、2007年のことだが、ショアをシカゴで生で見たことがある。ISSTD(トラウマと解離国際学会)に、自分の発表がないのでジーパンで参加していた。小柄な好々爺と言った感じだが、全身からエネルギーがほとばしっていた(記憶の中で多少盛っているかもしれない)。とにかく書く量が尋常ではない。

以下に各章について少しまとめてみる。こうなると書評のためではなくて、自分の勉強のためだ。


改題

ショアが情動調節の議論から始めてそれを治療に応用し、それをaffect regulation therapy (ART) (後に「右脳精神療法」となる)とした経緯が語られる(9)。


序文

序文だけで22ページ、しかも文献が4ページ。もうこれだけでお腹がいっぱいだ。

でも大事なメッセージが盛られている。(18)いかなる発達論も、心理学と生物学を統合しなくてはならない。序文でショアはパラダイムシフトについて訴えているが、この「左脳の意識的認知から右脳の無意識的感情へ」は2009年のAPA(アメリカ心理学会)の基調講演「パラダイムシフトー右脳と関係的無意識」として発表されている。という事はお墨付きと言えるのだ。



第1章 現代アタッチメント理論


本章は改めてショアのアメリカのボウルビィたる所以を物語っている。メラニー・クラインの時代にロンドンでボウルビイが試みたように、ショアはデカルト的な心身二元論を廃し、母子間で行われていることは、双方向的な調整であり、そこではCNS(中枢神経系)とANS(自律神経系)の両方が共同で調整されると主張する。これをショアは「双方向的精神生物学的調整」と呼ぶ。これは言葉を交わすことで意識的な省察を介した交流よりは、かなり迅速な交流となる(57)。これはASD者であるかどうかを知る上で一番の決め手となるやりとりの自然さ、流暢さに関係しているのだろう。そしてショアは、治療場面でも「経験に近い主観的なレベルで、意識的に気が付かないところで瞬間瞬間の社会情動的情報を暗黙の裡に処理している。」(58)とする。結局は一次過程も、無意識のコミュニケーションも右脳を中心に行っているのだ。


2026年1月21日水曜日

レマ書評 ②

 引き続きキャンベルのまとめから。ちなみに( )内は私の考え。

美容整形願望の動機となる三つの空想

レマは分析家であり、当然のことながらその考察も緻密でかつ「分析的」である。美容整形願望の動機となる三つの空想として、レマは「自己製-空想」「再生空想」「完全一致空想」をあげ、それらが母親とのかかわりの中でいかに醸成され、彼女たちに美容整形に向かわせたかの緻密な記述がある。(これらの空想が美容整形を求める人たちにどの程度偏在するのかは分からないが、少なくとも精神分析的な作業を行うことでこれらの空想が扱われ、その結果として美容整形とは別の手段を選ぶことになる人たちもいるのであろう。)


向けられたまなざしの反転

レマの身体への関心は、まなざしというテーマにも向けられる。他者の視線も、自己の視線もその向けられる先は身体を含む。他者の視線が自分を飲み込む性質のものならば、それは去勢してくる存在とも形容されるだろう。提示されているBさんという男性のクライエントは、屍姦幻想により、つまり他者を死者とみなすことで女性に入っていくことが出来たという。(確かに他者の視線と、その目に映る私とはセットになっている。だからたとえば仮装をしたり、着ぐるみに入ったりすると、他者の視線は全く違ったものになるだろう。)

無力感から万能感へ

この章のテーマは最近のSNSの世界に生きる若者へと視線が向けられる。そこで登場する二人の思春期の患者のテーマは「いかにサイバースペースが身体や心から逃避する手段を提供するか」である。彼らは分析の作業により、仮想現実に没頭する彼らがいかに自らの身体に宿る恐るべき他者性をコントロールできるようになったかを語る。(このテーマは「まなざし問題」と対になっているとみていいだろう)。


「正しい」身体を探して


トランスセクシュアルについての章。トランスセクシュアルの人たちは、「受容的な心を与えてもらえなかったから」という事である。(これにはちょっと異議ありである。この解釈は余りに分析的すぎ、責任を養育者に帰することになってしまうのではないか。そして治療によりそれがあたかも治癒する可能性を示唆しているようである。)


2026年1月20日火曜日

「甘え」の関係の双方向性について ― 精神分析的視点から ― 一応完成

     「甘え」の関係の双方向性について

             ― 精神分析的視点から ―           本発表では、土居健郎による「甘え」理論について、再考を加える。

 土居の甘え理論と相互性

甘え理論は、土居健郎が1950年代に確立したものであり、日本文化を説明する鍵概念であると同時に、精神分析の文脈において早期の対象関係を論じるうえでも高い学問的価値を持つ。土居は「甘えの心理は人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである」と抽象的に表現したが、また本来は誰もが甘えの意味を体験的に知っているとした。そしてそれを「相手の愛をあてにして、それによりかかる」とわかり易く定義し、その「甘えの構造」(1971)で、その発想のきっかけとして自身の米国での異文化体験を具体的にあげている。ただし後の報告によると、土居の甘えに対する関心は、実は自身の幼児体験に関わる根本的な疑問に根差していたこともまた推察される。
 甘えの概念に関して特に土居が注意を払ったのが、それがもっぱら「受け身的」であるとの竹友安彦からの批判への対応であった。そして「甘える」という言葉は愛されたいという受動性を含むが、それが本来自動詞であることから、そこに積極性や主体性が含まれると指摘する。そして土居はそれが「甘えることで子どもがそれを楽しんでいる」ことに表れるとした。
 私はこの甘えの性質に注目して「能動的な受動性」と表現し、甘える側が同時に相手の「甘えてほしい」という願望を満たしていることを重視する。すなわち本来の甘えの関係は決して一方向的なものではなく、二人の人間が互いに「甘え、甘えてあげる」⇔「甘えさせ、甘えてもらう」という双方向性の関係を築く心理現象として捉えることが出来る。そしてこの双方向性が成立している際は、そこに相互の愛他性を含む「素直な甘え」が成立しているものとしてとらえることができると考える。

ちなみにこの甘えの双方向性を知る上で私が参考にしたのが、土居の論じる夏目漱石の「坊っちゃん」における「清の甘え願望」についての考察である。

 M.バリントの primary love との関連

土居は甘えの理論を考案して後に、自らの理論が、ロンドンの分析家M.バリントが提示した早期の対象関係を表す ‘primary love’ の概念に極めて近いことを発見した。バリントのこの概念は、S.Ferenczi の「受け身的対象愛」を継承し、言い換えたものであった。土居はこの ‘primary love’ を「最初の愛」ないし「根本愛」と訳し、甘えがそれと同等のものであり、ともに「対象関係を作る原動力」であるとした。これは、英国の対象関係論による捉え方、例えば「人間は出生直後からすでに対象を希求している」とする R.Fairbairn の理論と符合する一方では、S. Freud の一次ナルシシズムやM. Mahler の「正常な自閉期」など、初期の対象不在を前提とする立場とは対照的であった。その意味で土居の甘えの理論は図らずも精神分析における一つの大きな流れ(対象関係論)の源流と軌を一にしていたと言える。

ところで母子関係においてどの段階で甘えが兆し始めるかは単純な問題ではない。乳児は対象表象を持たない段階から、生理的なケアを求めて泣き声をあげ、母親は本能的にそれに応じる。私はこの時期を「甘え前駆期」と呼ぶが、この時期には、乳児に「愛されたい」という明確な願望はまだ存在せず、母親の側からの「甘えさせる」という一方向的な関係(上下関係、北山)が中心となる。土居も「甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎内の延長であり、母子未分化の状態にある。・・・次第に乳児は自分と母親が別々の存在であることを知覚し・・・母親に密着することを求めることが甘えである」(1971、p.81 )としている。
 私は、母子関係において本来の甘えの関係が成立するのは、乳児が初めて母親に微笑みかけ、母親がそこに子供からの能動的な愛情表現を感じ取ってからではないかと考える。つまり母親の本能的な母性愛は子供の微笑みを受けて具体的な慈しみや「甘えさせ」の感情という形をとり、ようやく「甘える」「甘えさせる」の相互性の形成が開始されるのである。そしてもしこの乳児からの微笑みの母子との授受に何らかの原因で遅延や齟齬が生じた場合、それは相互性に基づく「素直な甘え」の成立が阻害される。そしてこれは後のいわゆる「屈折した甘え」につながる可能性があろうと考える。

 甘え理論と精神療法の行方

土居は、アメリカでの異文化体験から、甘えの概念のヒントを得たが、「甘えの構造」(1971)におけるその表現は直接的でかつ批判的であった。彼はアメリカ社会において「分析的教育を受けた者でさえも、相手の甘えの願望を汲み取れない」ことに驚いたという体験を記述している。そしてこの甘えの願望は実は文化を超えて人々にあまねく見られ、精神分析においても深く関与しそこでは患者と治療者の間の転移関係が常に甘えを基盤に含むという独自の理論を展開した。このように土居の視点は、性的・攻撃的欲動を重視したS.Freudよりも、「対象関係論的」であり、またDW.Winnicott や H. Kohut らによる愛着や共感に基づく理論と強い親和性を持ち、さらには J.Bowlby の示した愛着の視点と深い概念的なつながりがあったとみることが出来る

 ちなみにこの愛着の問題は現在の精神分析においても非常に注目されているトピックと言える。近年、P.Fonagy, A.Schore, J.Holms によって提唱されている「愛着に基づく精神療法」では、治療者と患者との間の心の同期化(synchronization)の重要性が強調されている。特に Schore は妊娠後期から生後1,2年の間の母子の間の愛着関係が、のちの精神の健康やストレスの対処の仕方に関して大きな影響を及ぼすことを示した。そしてその時期の愛着不全がのちの深刻な精神病理を生むとしたのである。そしてこの流れは米国における関係精神分析とも深いつながりを持つことになる。なぜなら関係精神分析においては、治療者と患者の人間同士の情緒的なつながりと、そこで生じる意図されざる行動(エナクトメント)への注目が重んじられ、その治療論には愛着理論や脳科学的な知見などが学際的に関与しているからである。
 このような前提を踏まえた場合は、精神療法における治療関係はある種の愛着関係の再構築としてのニュアンスを持つことが示唆される。これは従来の精神分析における解釈を中心とした認知的なプロセスをその治癒機序として考える流れとは大きく異なることになるが、土居の甘えに基づく治療論は、その流れに先駆する理論であったことが改めて理解される。

 

甘え理論と北山修の上下関係の理論に触れて

以上の考察を踏まえ、北山修(1999)が提起した「甘えの上下関係」について触れておきたい。このシンポジウムの討論者である北山は、甘えに関するモノグラフの中で、土居の甘え理論においては、甘えは「子どもからの愛の求め」に対する「親から与える愛」という形をとるが、それは愛は目上から与えられるという「愛の上下関係」の観察・解釈に陥りやすいと指摘した。これに対し土居は、北山の議論は「甘え」よりもキリスト教的な平等の愛を重視していると批判した。

私の発表の立場からは、「甘え前駆期」には北山のいうような一方向性が存在すると考えられるが、本格的な甘え期に入れば、甘えは双方向的に展開されるのではないかと考える。しかしそこで十分な甘えの関係が醸成されない場合は、その甘えは「屈折した甘え」の形をとる事になるであろう。この「屈折した甘え」においては、そこでの感情は甘えに類似してはいるものの、真の相互性や愛他性の裏付けを持たないものであり、甘えの一方向性もその一つの表れではないかと考える。


2026年1月19日月曜日

ジャネ書評 ①

今溜まっている書評の3つ目がこれである。

本書「トラウマと解離の文脈 ピエール・ジャネの再発見」は、原題が Rediscovering Pierre Janet であり、訳書の副題に対応している。表紙カバーではこちらの部分は小さく書かれていて、一見解離とトラウマに関する専門書と見間違いやすいが、まさしくジャネについての解説書である。邦訳書の題としてこちらを選ばなかった理由は分からないが、おそらくジャネの名が日本人の読者にはまだなじみが深くないという懸念かもしれない。  しかしそれはともかく、本書は日本の精神医学において極めて大きな意味を持っている。それは解離やトラウマについての専門書という以外にも、特に精神分析とかかわりを持つ読者にとってもそうである。筆頭訳者である若山氏が序文で雄弁に述べているように、精神分析の隆盛は、現実のトラウマの存在の軽視と表裏一体の関係にあった。実はフロイト自身が幼少時の性的トラウマをヒステリーの病因として特定し、「ナイル川の水源の発見」になぞらえたことがその証左である。いったいフロイトがなぜそれを途中で断念したかは謎であるが、今はそこに関わってはいられない。  本書の驚くべきところは、ジャネが最近のショアやポージス、ブロンバーグの議論にまでつながって論じられていることで、いわばジャネの理論が刷新されていることだ。ジャネのいわゆる現実機能 fonction du reel とメンタライゼーションは近いといい(129)、それは結局は最近言われる解離における右脳の機能低下、ショアによれば右脳の高位と低位の統合の失敗を反映しているという。


2026年1月18日日曜日

ショア書評 ①

 アラン・ショア著小林隆児訳「精神療法という技法の科学」(遠見書房、2025年)

依頼文にはこうあった。「本書は,神経科学の飛躍的な進化から生まれた対人関係神経生物学をもとに,精神療法(サイコセラピー)のアート(治療技術)の科学性を解き明かし,古典的な心理理論を捉え直し,より科学的な精神療法のあり様を考えたアラン・N・ショアの大作です。」まさしくその通りである。

ただネットや店頭でこの大著を目にした読者はこう考えるであろう。「確かにアランショアという名前は最近よく聞く気がする。確か小林先生という方が入門書を書いただろう。それに「右脳精神療法」とあともう一冊、薄い本が翻訳されている。まずそちらを読もうか。」確かに小林先生の労作以外にもう一冊が翻訳されていて、それらを置いて本書を購入するのは屋上屋を架すという印象を与えるかもしれない。しかし本書は極めて充実した内容で、入門書を読みもう少し内容を詳しく知りたい人間にはうってつけである。そしてそれは私自身の体験でもあった。


本書「精神療法という技法の科学」The sciene of the Art of Psychotherapy (2012)はショアがこれまで出した6冊の著作のうち4番目に相当し、彼が考える精神療法(感情調整療法、のちに右脳精神療法という呼び名に改められる)について詳細に論じたものであり、そこで鍵を握る右脳の機能について特に詳しく論述されている。同じ小林隆児氏の手による「右脳精神療法」(2022年に発刊)と共にショアの臨床理論を知るためには非常に重要な書である。

翻訳者の小林隆児氏は、2022年にショアの最新作「右脳精神療法」を訳出した後、その理解を深めるためにも、ショアの「感情調整三部作」の次の第4作目である本書を日本の読者に提供することが必要であると感じたとのことである。

本書は574ページとかなり分厚いが、英語の原書で458ページというボリュームである。それだけに本訳書の出版先を探すことにも小林氏は難渋したというが(訳者あとがき)、本書は内容も極めて緻密でショアの驚くべき生産性(それは本書を訳した小林氏にも通じることかもしれないが)を感じさせる。本書を通読した読者はそこに盛られている情報量に嘆息するのではないか。(少なくとも私はそうであった。)最終章のマッキントッシュとの対話にも表れている通り、ショアの頭には、莫大な情報量に元ずく体系が渦巻いているようだ。それは最新の脳科学が示す生後一年の驚くべき脳の感受性とその脆弱性への理解を基盤とした愛着理論に根差した養育や臨床の在り方についての知識や思考である。この驚くべき頭脳が生み出し続ける著作は各方面に大きな影響力を及ぼしつつ、現代的な人間理解や精神病理に関する一つのパラダイムシフトを提案しつつある。私たちはこの「アメリカのボウルビイ」の異名を持つという(503)ショアの偉大な精神に非常に多くを負っているのである。