2026年10月28日水曜日

成田先生のこと 推敲 24 

 (承前) 私はここに二つの意味があると考える。一つにはそうすることで患者が治療者の弱気で怯えている部分を初めて垣間見ることになり、それが治療関係を大きく変える可能性があるからだ。患者が治療者に不満をぶつける時、大抵は治療者の側はびくともせず、むしろいくら言っても聞く耳を持たないのではないかという思いがあることが多い。権威的な相手に容赦なく不満や怒りをぶつける時、相手に一矢くらいは報いるという感覚はあっても、それ以上の衝撃を与えているという実感はないものだ。ちょうど幼児が母親をボカボカ殴りつける時 、幼児は母親をあたかもそのくらいではビクともしない存在であるととらえているであろう。つまりは相手を生身の人間とは見ていないことになる。そしてその意味で治療者と患者の関係は対等であるには程遠いのだ。

 すると治療者が弱気で動揺している部分を「白状」することで、患者は治療者を自分と同じ弱さを持つ対象として、つまりは等身大の人間として見ることにつながるかもしれない。つまり現実に一歩近づくわけだ。そして治療者に詰問する中で表現していた怒りによる相手のダメージのことを思い至り、後ろめたさや後悔の念に駆られるかもしれない。
 ただし私はこの理由が問題の本質にかかわっているようにはあまり思えない。もう少し別の理由が、それも精神療法の在り方そのものに関係した事情がそこにあるのではないかと考えるのだ。

 このもう一つの意味は、以前述べた精神療法の持つ曖昧さと関係してくる。精神療法はある種のサービス業だと私は考えているが、実はその実態は極めて漠然としたものである。患者と治療者は対話により患者が持ち込む問題の解決を模索するが、その内容も、その解決のされ方も漠然として言語化しがたい。そして患者も治療者もそれをどこかで意識している。患者の方は自分が治療に望むことが多くの場合不明であり、また治療者とのかかわりがどのように作用してそれが改善ないし悪化しているのかもよくわからない。患者が比較的明確に感じるのは、毎回のセッションでの治療者とのかかわりが心地よく感じられるか、それとも無意味に感じられたり腹が立ったりするか、といった自分の中の情緒的な反応であろう。そして時々は治療者の言葉が強く印象に残ったり、自分の気持ちを分かってもらえたという満ち足りた感覚を抱くであろう。しかしそれにより傷つき、不信感を抱く結果となることもある。そしてそのような時、多くの患者は治療者は治療関係の中で何が起き、どのような方向に進んでいくかについて、自分よりは明瞭な意図や考えを持ち、それをもとに自分を導いてくれていると思うだろう。つまりは治療に通うということを積み重ねることにどのような意味があるかを、少なくとも治療者の側は理解し説明できることを期待しているのである。


2026年10月27日火曜日

成田先生のこと 推敲 23 

  さてこのような状況での治療者の本音を考えよう。例えば「確かに自分はこの患者のことをよくわかっているとは言えない。少なくとも簡潔に今起きていることを言葉に言い表すことはできない。その意味では確かにこの患者の言うとおりだ。」と考えているかもしれない。  そこで正直にその気持ちを「白状」したとしよう。たとえば「おっしゃるとおり、私はここでは治療者として十分なことはできていませんね」と言う。もちろんそれを開き直ったように堂々と言うのではなく、「大変残念なことではあるが」というニュアンスを込める必要はあるだろう。  ところが普通治療者はこのような「白状」をすることには抵抗を感じる。何よりもそうすることが自分にとって不利になると感じるからだ。それは治療者自身が持っている矜持、プライド、ないしは権威を損なう可能性があるからであろう。  しかしこのような時、治療者は別の気持ちも持っているはずである。「自分は一生懸命この人の話を聞いている。しかしそれでも『わかってもらえていない』と思われるとしたら、いったい自分はどうしたらいいのだろう?」という当惑の気持ちである。さらには「精一杯頑張っている自分が患者にどうしてここまで責められなくてはならないのか?」という怒りも感じるかもしれない。

        <以下略>


2026年10月26日月曜日

成田先生のこと 推敲 22 

「正直に言う」ことの臨床的な意義

 この成田の正直さの持つ臨床的な意義についてもう一歩踏み込んで考えよう。先ず前提として言えることは、成田はこの「正直に言う」や「白状」をやみくもに行うのではないということだ。それは特に治療者が治療場面で窮地に立った時に意味を持つ可能性がある。そのような時、たいてい治療者は防衛的になっている。それは治療者としての能力を正面から問われるような事態だ。「先生はどう思っているのか?」「先生は何をしてくれるのか?」「全然状態は改善しないではないか?」「今の私の問題をどのように捉えているのか?」「先生の見立ては何なのか?」等であろう。そして治療者はそれに明確に応えられない状況に立つ。それらの患者からの問いかけはいずれも正当なものであると一方では認識する。しかし他方では明確にそれに対して答えられない。患者の中で何が起きているのか、治療者患者間で何が起きているのか、患者さんの問題をどのように見立てているのか、いずれもあまりに複雑で、不明瞭で、時には不可知的である。分析家であれば、それを理屈で説明しようとするかもしれない。分析理論を用いて、例えば「あなたは父親への感情を私に移し替えて(転移して)いるのでしょう」など。しかしそれが妥当でないとしたら、それは治療者が言っている傍から、あるいは患者が聞いている傍から嘘くさく感じられてしまう。

 結局こういうことだ。患者の心で正確に起きていることも、自分と患者の間で起きていることも雲を掴むようで理屈で説明は出来ない。しかしあたかもそう出来ているようにふるまっている。それは精神療法家、あるいは精神科医として看板を掲げて、患者が相談に訪れ、治療者が時間を取り、その分の料金を受け取っている以上当然期待されることである。しかし心理療法の世界では確かなことは何一つ存在しないと言っても差し支えない。例を挙げよう。

患者「最近気分がふさぐんです」

治療者「どのようなことがあったんですか?」

患者「よくわかりません。でもこの九月の長雨が関係しているのかもしれません。」

治療者「いつも季節の変わり目や天候の崩れが気分に影響していますか?」

患者「そんな気もしないでもないですが。あと最近仕事でストレスを抱えているというのも関係しているのかもしれません。よくわかりませんが。」

治療者「なるほど・・・・」

 とこんな感じで会話が重ねられていく。どこでも聞かれそうな会話の断片である。しかしこのような調子で話が続いた場合、治療者は患者の気持ちの塞ぎをどの程度理解し、どの程度確証をもってそれを説明するのか。精神科医だったら「そういえば五苓散という漢方が効くことが多いので、お出ししましょうか?」「お願いします」でお茶を濁すこともできるだろうが、心理療法ではそうもいかない。患者の気持ちの塞ぎはそれがある明確な出来事に関連して起きているのではない限り、治療者にとっても、患者自身にもその理由や対処法がわからないことが多い。

このような会話が終わった後、普通患者は「ではまた次回もお願いします」と料金を支払って帰ってくるかもしれない。そしてその患者が「結局30分お話を聞いてもらっても、ただのお喋りみたいだし、何の解決にもなりません。お金を返してください」とはならない。ところが時にはそれが起きてしまう。半年も一年もこのようなやり取りが続いた挙句、その日に特に気分がすぐれない患者がある日治療者にその不満をぶつけるかもしれない。「ここにきて一体なのが変わったのか分かりません。先生は何をしてくださったのですか?」それまで毎回一生懸命傾聴を続けつつ、出口を見出せない気持ちになっていた治療者は、たちまち患者の詰問の矢面に立たされるだろう。


2026年10月25日日曜日

成田先生のこと 推敲 21 

 成田の精神療法の「二大原則」

 このような成田の正直さや率直さは、その臨床観に深く関係している。彼は「精神療法の二大原則」として、「困ったときは正直に言う」、「わからないことは患者に聞く」を掲げている。これらは成田が精神分析的な原則に縛られることなく、自らの臨床経験から導いたものであるが、少し補足説明が必要であろう。

 「自分の精神療法の二大原則は、『困ったときは正直に言う』、『わからないことは患者に聞く』です。」((成田(2023) 講演「質問に応えて」2023年6月17日 倭木(すぎ、わぼく)の会)同 p.3)
 成田は「セッション内の治療者の主観的体験(患者の言動に対する反応)は出来るだけ開示する方向で考えるべきだと思っていて、これを『白状する』と称している」(ひとりごとp.93)と述べる。

 成田はその例としてある「重荷になる患者」に対する対応を挙げている(精神療法の経験 210)。患者は治療者に極めて依存的でありながら、「先生は私がこんなことを言うから重荷に思っているんでしょう」と言い、そういわれた治療者はそれを肯定するわけにもいかずに困っている。そして「あなたは私にしがみついている。母にしがみついていたように。」というたぐいの転移解釈に対して「世にこの手の解釈は沢山ある。こういう解釈が有効なことはめったにない。」と切り捨てた上で、「本当は重荷なの。でもそういうとあなたが見捨てられたと感じて治療を中断するのではないかと思うと、それが心配で、今まで言えなくて困っていたの。」と表現することをすすめる。成田善弘著新版 精神療法家の仕事 面接と面接者 成田善弘 金剛出版、2014年より

 ところでこのように患者に「白状する」という治療方針について、それをもろ手を挙げて賛成する療法家は少ないのではないだろうか。私も最初にこれを聞いたときは、「ちょっと自分には出来ないな」と思ったことは確かだ。しかし成田程の人がこの誤解を生みかねない表現を用いるのにはそれなりの理由があるとも考える。「白状する」には、治療者が普段は患者にそれを伝えないことで保っている「何か」の存在を示している。それは患者に対する素の気持ちであり、感情であろう。

 成田のこの「白状する」という方針からわかる通り、彼は治療場面における自分の姿をさらすことにはむしろ積極的という印象を受けるが、もちろん彼自身はこれが精神分析の世界で治療者の「自己開示」という問題で議論され、それがいかにタブー視されて来たかについて十分熟知している。しかし彼はまたフロイト自身が詩人HDとの治療で自己開示をしていることが伺われる点を指摘し、(ひとりごとp90)「自己開示をいちがいにタブーとするのは必ずしも治療的ではない」とする(同95)。

 成田が掲げているこの二つの原則は、彼の考える精神療法の在り方が、従来の分析的な中立性や受け身性、ないしは匿名性の原則とは極めて異質なものであることを示す。それは極めてアクティブで相互交流的 interactive なものである。もちろん成田はいかに患者に共感するかを第一に考えているのであろう。しかし彼は同時に精神療法がどのように患者にとって役に立つかを常に考えているようである。それがこれらの二つの原則の意味するところであり、要するに受け身的に話を聞くことは、いかに治療者の思いを患者に伝え、また問うかを前提としたものであることがわかる。

2026年10月24日土曜日

成田先生のこと 推敲 20

  成田の著作の読みやすさは、彼の思考が借り物ではなく、自らの体験から説き起こされたものであることを意味する。しかし成田が他の療法家や理論家を参照しないというわけでは決してない。幼いころから読書好きであったというだけあり、むしろ広く文献を渉猟している。さらには臨床経験を積み重ねる途上で手掛かりを求めて行き当たったさまざまな理論を、場合によっては取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田の治療論なのだ。そしてそれを彩るのが「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」など、いずれも優しい和語で語られる概念である。  成田の著作の読みやすさはまた、学問的な高尚さや衒学趣味をことさら回避する傾向の表れとも言えようが、それに関連して彼には肩書や名誉などへの拘りがかなり薄いように見受けられる。通俗的な意味での自己愛を感じることがほとんどない。それよりはむしろ自らの至らなさや自信のなさを率直に開示する傾向がある。  成田はたとえば自分は「孤独で人と交われなかった」こと、運動が苦手だったこと、分析学会誌に原著論文を掲載していないのに学会の会長になったこと、教育分析は受けていないこと、患者の前で何度か眠ったことがある、などなど、その例は枚挙にいとまがない。  ただしこれは自身がある種のカリスマとして扱われている事への備えのように思える。臨床に関して自身が語る言葉が余計な権威をまとうことを回避するための工夫ではないか。成田の言葉は確かに自分の経験から生まれたものであるが、それは常に正解と主張するつもりもないことを、自らの失敗体験をさらけ出すことで示している。正直であることは、治療者が陥りやすい自己愛に対する常なる戒めの意味を持っているのである。  余計な想像かもしれないが、成田のこの一種の丸腰戦法は、彼が対人関係を築くうえである重要な意味を持っていたのではなかっただろうか。人とのつきあい方に悩んだという若き日の成田が至ったのが、社会を渡り歩くうえで、この率直さ、正直さを貫く生き方だったのではないか。

2026年10月23日金曜日

成田先生のこと 推敲 19

 成田の著作に見られる正直さや率直さ

 成田は精神療法とはいかにあるべきかについて常に考え続けていた人である。それが精神療法そのものを主題とした数多くの論文や著作に表されている。それはほとんど「成田療法」と名付けてもいいような独自性や一貫性を有するのだが、その全体を通して流れているのが、上述の自由さと表裏をなす正直さや率直さである。これは成田の最後の著作のタイトル(「まっすぐに」患者と向き合う)にある「まっすぐ」であることとほぼ同義であるそれは彼の人柄を表すと同時に、精神療法家の在り方として追及した姿でもある。これはロジャース的な「自己一致」の見事な例と言える。

成田 善弘 (2024) 成田善弘 心理療法を語る: 「まっすぐに」患者と向きあう. 金剛出版社

 成田の率直さは彼の数多い著作に見られる筆致に表れている。成田の語りはいかにそれが奥深くても不思議と難解さは感じられない。それらは時にはエッセイ風に、どちらかと言えば軽いタッチで語られているからである。時には何らかの引用の後に典拠を示す代わりに「誰の言葉かは忘れた」などと書かれていると、読む側の肩の力もスッと抜ける。


2026年10月22日木曜日

成田先生のこと 推敲 18

 成田先生の自由さ

 以上述べた見地から成田先生について考えると、彼はとても自由であり、分析的療法家としては他に類を見ないほどであると言える。彼は精神分析学会での活動が長く、学会長まで務めた人物であるが「精神分析的であれ」という縛りは極めて薄いどころか、時にはそれに相反するような独自の考え方を持っていたことがわかる。しかしそれを表明するのは、分析学会の中での立ち位置を考えれば極めて難しいことであり、かなり勇気がいることなのだ。

 そのような成田の立場を特に際立たせているのが、成田の「深い精神療法と浅い精神療法」の議論であり、そこに見られる一種の「精神分析批判」である。
(成田(1982)精神療法の深さ—精神科医の立場から 精神療法 8巻4号、1982)(成田(2012)精神療法の深さー成田善弘セレクション 金剛出版、P70~71)

 この1982年の論文は、成田が40代の初めに書いたものということになるが、かなり旗幟鮮明に自分の考えを主張している。彼はまず、精神療法には深いものと浅いものがあると言い、両者を対比的に表示しているが、これはまさに精神分析ないしは表出的精神療法と支持的療法の対比と言える。その上でこう述べる。


<以下略>