ところでDSM-5には次のような注目すべき記載がある。「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。・・・所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.339) ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、以下に述べる、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。 このうち 「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。 また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。 さらには従来CDと呼ばれる状態について見られるとされていた「美しい無関心 la bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。 ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。
以上をまとめるとFNDでは、心因の存在を必須としないこと、症状形成が作為的でないこと、疾病利得の存在を問わないこと、という点で変換症から大きく変化したが、そこに共通するのは次のことだ。
①心身二元論を排すること。
②倫理性を重んじること。
つまりヒステリーは体の病ではなく心の病である、という従来の考え方は、心身二元論的に立てば体の症状を偽っているという偏見に直結し易く、それを防ぐ方策だということだ。
でもなんだかわからなくなってくる。そもそも身体科と精神科に分かれていること、あるいは精神科という科が存在すること自体が心身二元論に基づいているのではないか。しかし精神科が「医学」に含まれることで心身二元論を廃しているということになるのか。だんだんわからなくなってきた。
こう考えてはどうか。心の悩みやストレスが、身体科で診断の付くような身体の症状につながるということは確かにある。でも「身体科の診断がつくようなすべての症状には心因が必ずある」という考えが誤りであることは確かである。問題は「身体科の診断がつかない症状に必ず心因がある」が誤りであるということで、これがFNDの概念の成立とともに認められたというわけである。これは実はとても新しい、重大な一歩なのだ。そしてそこには「そのような診断のつかない症状にも「何らかの脳の変化ないしは働き」は起きているであろう」という理解が背景にある。そしてこれを推し進めると、「あらゆる身体症状は脳の変化や働きを伴う」という理解になる。そしてその「脳の変化や働き」は、当人の意図とは独立しているということが重要だ。そしてこのことの理解は、おそらく精神医学にとっても大きなパラダイムシフトなのだ。