2025年2月28日金曜日

関係論とサイコセラピー 13

 あのカンバーグ先生肝いりのTFT(transference focused therapy) は患者と治療者の転移関係に焦点を当て、それを扱うことによりBPDの患者さんの治療を行う手法である。この治療においては、患者は治療者と週に二回会い治療を進める。最初に両者は信頼に基づく関係を構築し、同時にしっかりとした境界を設定する。行動パターンや感情や自己感を探索し、それらがその人の対人関係の持ち方にどのような影響を与えているかを検討するのだ。このTFTはBPDの治療を目的として始まったが、他の問題を扱うようになってきている。

このTFTが興味深いのは治療構造が週2回という、週一回を基本とする治療者によっても「手の届く範囲」の構造であり、また治療の前提を転移を扱うこととしているために、その効果も限界もそれだけ意識されやすいということだ。患者は治療者への気持ちに関して積極的に語ることを求められるであろうし、それについて扱うことで、治療外の there and then の人物に関する言及を、治療者への気持ちの置き換えや象徴化として扱うという傾向はそれだけ意識化されやすく、その意味ではあまりに「見え見え」なものはかえって制限されるであろう。いわゆる「間違った」「治療者の前のめりな」解釈も少なくなるはずだ。良くも悪くも here and now しか扱わないというわけだから。もし患者が上司との間で問題を抱えていたとしても、それよりは治療者との関係が優先されることになろう。それが不満であるとしても、その患者は最初からTFTの趣旨にそぐわないという意味では適応にはならないと言えるかもしれない。 


Doering, S., Horz, S., Rentrop, M., Fishcer-Kern, M. et al. (2010). Transference-focused psychotherapy v. treatment by community psychotherapists for borderline personality disorder: randomised controlled trial. British Journal of Psychiatry, 196, 389-395. Clarkin, J.F., Levy, K.N., Lenzenweger, M.F., and Kenberg, O.F. (2007). Evaluating Three Treatments for Borderline Personality Disorder: A Multiwave Study. The American Journal of Psychiatry, 164, 922-928.


2025年2月27日木曜日

関係論とサイコセラピー 12

 鈴木智美氏の論文「無意識の思考をたどること」(週一回(2014)第14章)は週4でも週1でも無意識に焦点付けるのは変わらないという主張である。ただし週1回はより慎重に、という警句も見られる。私は信条としてはやはりこの路線で行くことになる。鈴木氏は週一回は分析的であることをあきらめていないからだ。

「週一回」の特徴と限界

 さてこれまで見た新しい潮流と限界について論じよう。これまでの我が国の議論は、ある一定のレベルに至っているものの、その前提は比較的限定された考えに基づくものということが出来る。そこでは基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈を最重要とみなす。これはその文脈としては正確で緻密な議論と言えるが、そこで転移を扱うことが週4回でなければ十分でないという議論はどの程度妥当性があるのだろうか。

一つ言えるのは、週4回は供給が十分であり、週1回ではむしろ剥奪が大きいという議論には問題がある可能性があるということだ。藤山は「抱えは乏しく、患者は剥き出しのはく奪にさらされている可能性」(2023, p.67)があり「週に一度のセッションでは患者は情緒的に揺さぶられたまま残りの6日間を過ごすことになる」という。しかしこれはあくまでも相対的なものと言えるだろう。もちろん一般的には、週に4,5回会っている治療者のことを患者はより多く考えるであろう。そこにはより大きな親密さが生まれるかもしれず、それは週一回の比ではないかもしれない。
 しかしだからと言って週4回では容易に転移の収集が出来、週一では不可能とは言い切れない。週4回でも漫然と行われる治療過程は十分あり得、週1回でも非常に大きな思い入れや意味づけが生まれることもある。これは論文には載せられない例だが、熱烈に愛し合う恋人の週一回の逢瀬と、毎日顔を合わせているが倦怠期に差し掛かったカップルと比べた場合は、どちらがより大きな「転移」が生まれるかは想像に難くないだろう。週4回なら転移が扱え、週1では無理、という問題ではないのである。ただ前者ではより多くのチャンスが生まれる(それを生かすかどうかは別として)という議論なのである。
 その意味で週4回と週1回の差は、質的、ではなく量的、と考えるのが妥当であるというのが私の立場である。(むしろカウチを用いるか否か、ということで質的な差が生まれる、という方がよりピンとくるのだ。)だから「週4は転移を扱え、週1は転移を観察するのみ」をプロトコールのように唱えることは非常に危うい問題を生む可能性がある。それよりも、転移という問題に集中してそれを扱う、という前提の治療であれば、むしろ週一回でもそれなりに意味を持つ可能性がある。それがTFT(転移に焦点づけた治療)である。 


2025年2月26日水曜日

関係論とサイコセラピー 11

 私は山崎氏の「週一回は分析的にするのは(転移を集結、収集することが)難しい」が概ね賛同を得られており、そのうえで「週一回が分析的にではなく有益であるためには、平行移動仮説の成否ではなく、近似仮説の詳細である」という提言は若手の間で至っているコンセンサスであるとみなし、話を進めてみようと思うが、それでいいのだろうか?それを確かめたい。

例えば週一回(2024)の最終章に当たる山口貴史氏の論文「POSTを通じて考える週一回における『精神分析的』」を読む。この内容は、以前このブログでもまとめた。彼は「分析的」週一回精神分析的心理療法(PAT)(つまり私の言う「分析的」)と週一回POST(つまり私の言う「心理療法」)の一番の違いは、前者は転移を集めるが後者は拡散するということであるという。というのもPOSTはなるべく転移を扱わないというのが一つの方針としてあげられるからだという。そしてPOSTでも転移は起きるが、扱わずに「心に留め置く」という。週一回PATは要するに精神分析だから、無意識も転移も扱うということになる。

 この内容は概ね上記の山崎氏がまとめたコンセンサスに一致している。ではそのほかの先生方はどうか。

 岡田氏を読んでみる。同書の第2章「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」。これは岡田先生らしい緻密な論理展開とともに、週一回の転移解釈が難しいのはなぜかについて明らかにする。彼はMerton Gill について詳細に調べ、その理論に乗っ取って次の様にに言う。治療は表層から深層へ、という方向に進むのが原則だ。そのうえで生じるのは先ずは there and then に基づく転移でありその解釈である。つまりは治療室の外側で起きていることに注意が及ぶというわけだが、それは「週一回」の「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のせいだという。そこで無理に here and now の解釈を行うと「結果的に間違った解釈になる  」という。転移は here and now だけでないとすれば、there and then をまずしっかり扱い、here and now への道筋をつけるべきであり、here and now を行うとしても非常に慎重になるべきだという。

 これはより慎重に、上述の山崎氏のまとめたコンセンサスにそいつつ、より生産的に「週一回」について論じたものだと言える。この論文はとても重要な点について論じているが、こんな風にも読める。「精神分析でないと、Strachey が最も効果のあると言った here and now は扱えない。ただそれより一段階効果が弱い there and then なら十分に扱えるのだ。」

 この議論も悩ましいのは、結局「週一回」は結局「金」である here and now の解釈を行う精神分析に勝てないということを受け入れよ、「銅」で我慢せよ、分をわきまえよ、と言っているようなところだ。そうか、結局は週一回は二番手なのか・・・・と寂しい気持ちになる点は変わらないのである。

しかしどうも私には少し違うように思える。「週一回」だって大きな展開を見せることがあれば、週4回で何も動かないこともある。つまり量というより質の問題なのだ‥‥。

2025年2月25日火曜日

関係論とサイコセラピー 10

 続いて山崎氏は藤山先生の業績について触れ、藤山先生が「週一回が有用であることは前提である」と述べていることを強調する。しかしこの藤山先生の言葉はある種のリップサービスにも聞こえる。そこには「「週一回」は役に立つよ。でも分析ではないね」というメッセージが聞こえるようだが、藤山先生の気持ちもわかるが、それは「週一回」の臨床家にはあまりうれしくない言葉だ。

 山崎氏は岩倉氏の業績を語る上で【分析的】心理療法と、分析的【心理療法】との違いについて論じる。とても便利な使い分けの仕方だが少しややこしいので、私はここで前者を「分析的」後者を「心理療法」としよう。この後者はあえて分析的なやり方をしない(無意識、転移を扱わない)という意味で、支持療法的であり、これがいわゆるPOSTというわけだ。しかし支持療法は歴史的にみて「あえて分析的なやり方を外す」というようなところがあり、最初から敗北宣言をしているようなところがある。それに比べて「分析的」は分析的であることをと捨てない週1ということになり、これがどの程度可能か、ということがこの「週一回」の議論の中で一番の問題となる。

 山崎氏が自分の仕事をまとめている部分では、自分自身の言葉であることもあり、とてもわかりやすい議論を展開している。平たく言えば、「私たちは『週一回』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきたのだ」と指摘したのである。

 この主張が興味深いのは、「週一回」はほとんど精神分析的ではないと認める点で藤山の立場を受け入れつつ、でもそれでも・・・・というアンビバレンスがよく出ているところだ。そのうえで山崎氏は自らの立場を明確にする。それをわかりやすく表現するならば、「週一回は精神分析的ではない。それは分かった。もう精神分析と比べるのはやめよう。「週一回」それ自身が持つ治療効果について考えよう。」とでもいうべきか。ただしここは私自身の言葉である。

この主張自体はよくわかるが、一つの疑問が浮かぶ。「週一回」が独り立ちするためには、精神分析的であること以外の根拠を見つけるということだろうか?もしそうだとしたら、本当にそれでいいのか。そうではないのではないか。しかしやはり分析的であることにこだわるとしたら、結局は「精神分析と比べる」ことになってしまうのではないか。

これらの疑問を持ちつつ山崎氏の論文のⅢの結論に向かう。

 この結論で述べられていることは少し驚く。「週一回は分析的にするのは難しい」はもうコンセンサスであるというのだ。そしてそのうえで週一回が分析的にではなく有益であるためには、平行移動仮説の成否ではなく、近似仮説の詳細であるという。しかし私はあきらめないぞ。


2025年2月24日月曜日

関係論とサイコセラピー 9

 この「週一回」の議論については、「週一回(2024)」(週一回精神分析的サイコセラピー. 高野晶、山崎孝明編 遠見書房 2024年)における山崎氏のまとめが現在の cutting edge のように思える。そこで彼の第1章「週一回とはなにか」を少し念入りに読んでみる。こうすることで私自身のまとめにもなるのだ。 山崎氏の論述に従って、歴史的な経緯を振り返ってみる。これは少しだけノスタルジックな気分に浸らせてくれる。精神分析の伝統の中で我ながら興味深いのは、日本では「ある時点まで週一回が精神分析であった」ということだ。山崎氏より30歳も年上の私は、1993年のいわゆる「アムステルダムショック」前に精神分析学会に入会している。1983年のことだ。何しろ千駄ヶ谷の野口記念館で大会を行うことが出来るほど小規模だった。しかしそのころから教育研修セミナーみたいな企画があり、私は小此木先生のそれに出席したことを覚えている。そして肝心のアムステルダムショックのころはすでにアメリカにいて、直接この事件に接していない。 「週一回」をめぐる議論としては、アムステルダムショック後の1998年に鈴木龍氏が週一回と週4回で転移解釈の有効性の違いについて「精神分析研究」誌で論じていたという点は興味深い。そしてここで氏が週一回は「現実生活の現実性」を正しく評価することの重要性を説いていることも注目に値する。これらは現在の「週一回」の議論においても論じられているからだ。それはそうであろう、週一回となると、セッションでは「この一週間に(現実生活で)起きたこと」の報告が大きな部分を占めることになるからだ。  その後2010年ごろから藤山氏らにより学会の教育研修セミナーでこの頻度についてのディスカッションがなされていたことも重要だ。この頻度の問題はおそらくアムステルダムショックを経た治療者にとってはこだわらざるを得ないテーマであったのだろう。何しろそれまでの週一回の常識が急に否定されることとなったからだ。戦時中にお国のために命をささげる覚悟をしていた若者が、終戦を期にいきなりデモクラシーや個人の権利について吹き込まれた時の戸惑いや、一時的なアイデンティティの喪失や「自分は何を信じていたのだろう?」という疑念に少しだけ似ていると言えるだろう。そしてそれはおそらく「週一回」に対する過剰な反省や自己否定にもつながるのではないか? それは藤山氏や高野氏や、そのほかの当時トレーニングを受けていた人々にも少なかれ起きていたのではないか?

2025年2月23日日曜日

関係論とサイコセラピー 8

山崎氏の論文にはMeltzer や飛谷氏らの論文を参考に、「転移の集結」(転移がおのずと集まること)と「転移の収集」(転移を能動的に集めること)という概念を使い分ける。そして結局は両者とも週4回で成立するのであり週一回では難しいとする。Meltzerが主張するような、分離を体験するための密着な体験が週4回以上に比べて得られないからだ。しかし転移を扱うほかのプロセスは週一回でも見られると主張する。

そしてその説明のために山崎氏は転移のプロセスを以下の6つに分ける。①精神分析設定に患者が参入する。②転移が治療者に向けられる。③分離が適切に扱われる ④転移が醸成され切迫した当面性のあるものになる。⑤転移を解釈する。⑥転移が解消して変容がもたらされる。そして週一回でも④⑤⑥は成立しているのではないかという。
山崎氏はそれを論証する上で提示されたケースにおいて「転移の収集は転移解釈によりなされる」という考えを週一回に「平行移動」させたがそれが失敗に終わったというプロセスを描く。そこで与えた解釈は、Strachey のいう「当面性のある切迫点」においてなされたわけではなかったというのだ。(ここら辺は日本語は分かりにくいが、Strachey は、point of urgency とか emotionally immediate として表現している。転移の解釈は、その体験が見に差し迫った時になされるべきだという意味であり、患者の治療者に対する転移感情が非常に差し迫って生々しく感じられるときに解釈されることで変容性mutative であるということだ。)

結局彼が至るのは「形ばかりの転移解釈を投与すること」の弊害である(山崎、2024,p.21)そして「転移を能動的に考え、しかし転移解釈というアクションはしない」という姿勢である(同、p.24)。

ここで私の感想をさしはさむなら、転移が生じるか否かはかなり偶発的で、週4回でも起きないものは起きず、週1回でも起きるときは起きる、というものだ。だから週1回だからと言って転移解釈の可能性を捨てる必要はないと思うのだ。ただし転移解釈が最強、という考えは私にはあまりないのだが。


2025年2月22日土曜日

ミリガンを振り返って 1

 しばらくビリーミリガンについて考察した内容を振り返る。最終的に私が至った考えだ。解離は一つの能力であるし、おそらく誰でも潜在的に持っているということだ。しかしそれは解き放たれるためにはある種の秘密のカギが必要であり、それがトラウマということである。これはどういうことだろうか?

ミリガンは極めて多彩な面を持ち、数多くの人格はそれぞれがきわめて詳細に出来上がっていた。しかし彼は継父チャーマーによる激しい虐待によってしかそれを発揮できなかっただろうか。どうして健全な形で、より生産的な発揮の仕方が出来なかったのか?私たちは系譜による激しい虐待を受けることのなかったミリガンを想像することを禁じ得ない。しかしそれはおそらく不可能なことなのだ。彼は後に発揮する反社会的な、サイコパス的な振る舞いを一切見せることはなかったのであろうか? これが分からないのである。ミリガンの例についてある米国の高名な精神科医が言っていたことがある。ビリーミリガンの難しさは、彼が多重人格と反社会性の二つを併せ持っていたことであり、治療の過程で後者が手つかずであったとのことだ。そして当然ながら後者には遺伝的、ないしは生得的な要素がかなり大きい。ということは生まれながらにして彼にはそのような性質が備わっていたのであろうか。するとそれは虐待とは無関係に起きていたことなのか。私はこの疑問に答えを出すことに性急であるべきではないと思う。