ここで改めて問おう。「資質」を伴わない分析家がヒエラルキーの上に立ち、権威を持つことには問題が伴わないだろうか? そして分析家になった後にその「資質」がかえって損なわれる可能性があるとすればどうだろう?それを考える上である精神分析系のケースカンファレンスを思い浮かべよう。
発表者のA先生はまだ経験年数が浅く、また精神分析のトレーニングが殆どないとしよう。そして助言者は名の知れた精神分析家B先生である。ここでA先生が報告した治療的な介入のある部分に対して、B先生が批判めいたコメントをするとしよう。A先生は自分のケースとの関りにある程度の根拠や自信があったとしても、B先生に反論したり議論を持ち掛けたりすることは恐らく起きないであろう。というのはその決着が見えているからだ。それはA先生の力量不足、経験不足ということで終わる可能性が高い。たとえA先生の側に一理あったとしても、そしてA先生自身が実は「資質」を備えつつある治療者でも、やはり最後にものを言うのは分析家としての権威を伴ったB先生の主張であろう。特にA先生の治療的な介入が伝統的な分析的態度からやや外れていると見なされる場合には、この傾向が著しいだろう。
さてここで問題となっている「資質」についてもうすこし明らかにする必要があろう。もちろんそれについての臨床家のコンセンサスはあってないに等しいが、私にとって「資質」を有するのがどの様な人かはかなり明確である。それは自分の身内の誰かが治療を必要とした時に、安心して委ねることが出来ると思える人だ。もっと言えば私自身が必要な時には安心して話を聞いてもらいたいと感じられる人である。私というどうしようもない部分を持つ人間を、自分と同じひとりの人間として受け止めてくれる人だ。もう少しわかりやすい言葉でいえば「謙虚」な人だ。欲を言えば、確かな臨床経験に裏付けられた謙虚さを備えた治療者である。自分の価値観を持ちつつもそれを絶対視せず、他者のそれを認めるような治療者である。
この様に私が考える「資質」とは、その人が生まれ持ったものとは言えない部分がある。それは人生において経験により獲得されていくものかもしれないし、逆に失われていくものかもしれないのである。その意味では先ほどのB先生も、分析家になる前は、それなりの「資質」を有していた可能性がある。B先生は自分なりの考え方を持つ一方では、異なる考え方を持つ他者をも尊重するという立場を取っていたかもしれない。そもそも人間はあまり自信がない時は、「謙虚」であらざるを得ないのだ。
しかし分析家になるための階段を上り詰める中で自分の経験にもとづいた、あるいは誰かから借り受けた考え方にも少しずつ自信を持ち、それが唯一の正解であると考え始めるかもしれない。そしてB先生が分析家の資格を得るころには、「これはあくまでも私個人の考えですよ」と前置きをし、その他の考えを容認する姿勢を保とうとしても、周囲が「いや先生のおっしゃる通りです」というメッセージを送ってくるだろう。B先生が分析家になり、その権威をいつの間にか背負うことで治療者の「資質」を失って行ったとしたら、これほど皮肉なことはないだろう。
私がここで述べる「資質」はある種のトレーニングで獲得できるものだろうか?それにはあまり期待は持てないかも知れない。いったんトレーニングがシステム化されることでヒエラルキーや権威の問題は必然的に生じるからである。しかし確かに言えることは、その「資質」は患者とのやり取りの中で各瞬間に問われていることなのである。
2023年2月10日金曜日
ある巻頭言 推敲 下
2023年2月9日木曜日
ある巻頭言 推敲 上
栄えある学術誌「●●療法」の巻頭言を書かせていただく光栄を得た。そこで改めて精神療法家とは何かを考える上で、私のこれまでの経験を振り返りたい。
精神療法は私の専門分野の一つであると自認しているが、自分が精神分析家の資格を有することはその支えのひとつとなっている。私が米国で精神分析家の資格を得たのは2003年である。2004年に帰国して日本精神分析協会でもその資格を認められたのが2005年。訓練分析家になったのはそれから13年後の2018年のことである。ちなみに訓練分析家とは、精神分析家になるためのトレーニングを受けている方々(候補生という)の精神分析(いわゆる「教育分析」)を委託される立場である。現在日本の精神分析協会では13名がその資格を有し、私はその一人というわけである。
精神分析家の訓練の最終段階であるこの資格を持っているということについては、私にもどこかに満足感がある。そして私をこれまで導いてくださった先生方や仲間、そして協力を惜しまなかった家族に感謝の念がある。しかし私は同時に若干の後ろめたさを感じる。「こんな私が訓練分析家でいいのだろうか?」「私にそれだけの資質があるのだろうか?」という疑いは常に頭をかすめる。それはなぜだろうか?
そもそも私は日本で分析家の資格を認められた後も、その上の訓練分析家を目指すということは頭にはなかった。精神科医としての外来の仕事と大学院での教育のかけもちで、とてもそれどころではなかったというのが正直なところであった。しかし「キミも訓練分析家の資格にチャレンジしてみたらいいじゃないか?」と、大先輩の分析家A先生からの思いがけない励ましがあり、もうひと踏ん張りしようという気持ちになった。そして新たな覚悟で週4回の精神分析のケースを再び持ち始めた。それは大学院や病院勤務、そして家庭生活などに様々な影響を及ぼすこととなったが、気が付くと数年後に私は訓練分析家になるための関門をクリアー出来て、晴れて教育分析家になったのである。そしてそこから振り返って何が見えるのか、ということがこの「巻頭言」で語ってみたいテーマなのだ。
私が改めて思うのは、精神分析協会というのは一種のヒエラルキーの支配する世界であるということだ。そして分析家や訓練分析家はある種の権威を不可避的に伴うのである。そのヒエラルキーを上り詰めることにはある種の手続きが必要となる。それには相当の時間と労力が必要となり、それをクリアーする事のできた人間が分析家や訓練分析家となるのだ。では彼らは優れた資質を備えた精神療法家であったからこそそれを達成できたのだろうか? 必ずしもそうとは言えないであろう。
もちろん「手続きを踏むことの出来た人」と「療法家として優れた資質を持つ人」が全然別物ということはないだろう。しかしやはり両者は異なる。「優れた資質を持つ人」とは極めて漠然とした言い方だが、その様なものがあることにしてここでは話を進める。するとそれをあまり持たない人が程よい知性を備え、強い目的意識を維持しつつ所定の「手続き」を踏めば、その人が精神分析家や訓練分析家になる可能性はかなり高いであろうというのが、私の経験から言えることだ。もちろんそれを支える時間と資力と家族の支えが得られ、そしてある程度の運があるならば、の話であるが。
2023年2月8日水曜日
私の共感論 推敲 3
共感に関する議論の面白いところ(別の意味ではつまらないところ?)は、共感が治療において極めて重要な位置を占めるということは、直感的に誰でもが分かっているということだ。「あなたは~思っていたんだね」とか「~と感じていたんだね」と人から声をかけられることは、もしそれが自分の体験に合致していると感じられるのであれば、極めてポジティブな体験となりうる。勿論「そうですよ。それがどうしましたか?」という反応もあり得るだろう。あるいは「そんなこと改めて言われる必要はありませんよ」「あなたにそんなこと言われたくありませんね」も可能性としてはある。私たちには、人に自分の心に土足で踏み込んでもらいたくはないということもあるだろう。でも通常はそれはネガティブな体験にはならないものだ。
私たちにとってつらい体験がさらにつらくなるのは、その体験で味わったつらさを人から理解されないことによる孤独を味わう時である。だから心の問題を抱えている人が治療者にそれをわかってもらったと感じることは、そもそもその治療が成立するかどうかにとって極めて重要な問題であることは論を待たない。
「共感してもらえること」に比べると、他に論じられる治療機序、例えば「自分の問題についての洞察を得ること」とか「自分の無意識を明らかにすること」「無条件で愛されること」などはその価値を直感的に理解することは、その価値は認めるとしても、決して容易ではないだろう。無意識が明らかになることは、決して心地よいことばかりではない。そこにはある種の恐れや危険が伴うことは容易に想像がつく。また「無条件に愛されること」はそもそもそれがどれほど実現が可能なのかという点も含めて即座に肯定することはできないのではないか。「あらゆる疾病を逃れること」はそれがたとえ望ましくても実現不可能であるのと同じだ。
だから精神分析療法、あるいはそれ以外の治療手段がそれに特異的な治療技法を用いることで心の問題を解決できるという可能性を除けば、治療者が共感的であることの重要性は論を待たないことと言える。しかしここで悩ましいのは、精神分析的な手法はしばしば共感を与えるということと対極的なあり方をしかねないという点である。さもなければ「表出的か支持的か?」問いが立てられるはずはないからだ。表出的な手法と支持的な手法が独立変数的であれば、「表出的でかつ支持的であれ」で済むわけだ。
表出的であることと支持的であることがしばしば綱引きをするということに関しては、次のような例を考えればいいだろう。患者に表出をうながすという目的で治療者が受け身性を発揮するとする。その様な沈黙が支配する空間で患者が「共感されていない」という体験を持つ可能性は大きいだろう。そしてこのことはしばしば分析的な治療において昔も今も生じているのである。しかし分析的な手法を重んじる立場の治療者はそうやすやすと「共感も大事ですよ」とは言えなくなる。なぜなら先ほど紹介した金言が頭に鳴り響くからだ。
「be as
expressive as possible and be as supportive as much as you needできうる限り表出的であれ、そして必要な分だけ支持的であれ。」 こうして支持的な手法は常に出し惜しみされる運命にある。でも支持的な介入を必要としていない人などいるだろうか?
.
共感の脳科学 4
共感は色々に定義されているが、一応「reactions of the individual to the observed experiences of another 他者の体験を目にした際に人が示す反応」(Davis,MH (1994) Empathy. Madison, WI:Brown and Bebchmark)ということらしい。
共感 empathy は独語 Einfühlung ("feeling into" something)の直接の訳語だと言われる。いくつかの類義語があるが、sympathy, empathic
concern, compassion は、必ずしも同じ気持ちを持つというわけではない。これらの気持ちは、ある感情を持つ他者に対する気持ちである。Feeling for つまり悲しい人に対して悲しくなるのは sympathy だけということになる。
ここでToM(心の理論)に関する論文を少し念入りに読んでみる。
Dvash,J,
Shamay-Tsoory, S. (2014) theory of Mind and Empathy as Multidimensional
Construct. Topics in Language
Disorder, 34.4 pp.282-295.
どうやら empathy について、情動的、認知的と分けることはToMの論者でも常識なのだが、こんなことになっている。
▰ 認知的共感(メンタライジング)
▽ 認知的 ToM ネットワークmPFC(内側前頭前皮質), STS(上側頭溝), TPJ側頭頭頂接合部、temporal pole(頭頂極)
▽ 情動的 ToMネットワーク(vmPFC)
▰情動的共感(扁桃核、島)
この「身にまとう」という訳には苦労した。appropriate には着服する、などの意味がある。では痛みを感じている人の痛みを appropriate するとはどういうことか。もちろんその痛みの質感などは、当人になってみないとわからないが、少なくとも一緒にある種の苦痛を味わう、ということだろう。これが先ほどの gross level での体験ということになる。
さて認知的ToMについてはすでに述べたとおり、mPFC, STS, TPJ,temporal pole が関係している。ここで論文はmPFCとTPJの機能の違いについて詳細に書いているが、難しいので省略(p.286)。
情動的ToMについては、vmPFCがもっぱらつかさどることになるが、面白いことに内側前頭皮質 mPFCが二つに機能分化していると書いてある。
dmPFC 背内側前頭前野 認知的、対人的 interpersonal
vmPFC 副内側前頭前野 情動的、個人内的 intrapersonal
ということらしい。
2023年2月7日火曜日
現代における心身相関の問題 3
ところでPTSDについてのG×E研究(遺伝×環境研究)というものがある。つまりPTSDはどの程度遺伝が影響し、どの程度環境因が関係しているかという研究だ。そこではHPA(視床下部-下垂体-副腎)軸をコントロールする遺伝子が小児期の虐待と関係して、PTSDを発症しやすくなるそうである。つまりそれが高いとわずかなトラウマでもPTSDを発症し、低いと大きなトラウマが発症に必要となる。つまり解離症状についても、きっかけが明白でなかったり、ごく些細に思われる事象であったとしても、それなりの準備段階があれば起きてしまうということだ。このことが一見心因の見あたらないCDの患者を説明するということだろうか? しかしどうにも私には、幼少時の問題が見当たらないのに発症する人がどうしても一定数いるように思えるのだ。
つまり症状として起きていることが脳の活動と対応しているということはわかった。でももちろんそれは根本的な問題の解決にはならない。その問題とは、そもそもストレスでなぜ特定の運動症状が出るかということであるが、その答えは得られていないのだ。ただ症状は詐病ではないという事、そしてそれは一生懸命忘れようとしているある記憶に関連しているということである。
2023年2月6日月曜日
現代における心身相関の問題 2
変換症の脳科学
転換性障害、ないし変換症(以下、CD)は極めて難しい問題だが、心身相関について論じる際には出発点となるような重要なテーマである。従来の考え方はフロイトの疾病利得の考えに沿ったものであった。そしてそれを行うのが抑圧という機制であるという考えだった。ただこれらにはエビデンスはないのではないか、ということからICD-11もDSM-5も心因を問わないという方向に向かっている。私もこれからその路線で行くのかと思っていた。しかし最近の研究はここら辺が少し曖昧になりつつあるという印象がある。
いくつかの研究が示しているのは、ある種のストレスとCDの発症とが関係するという傾向にあるということだ。しかし10パーセントほどの患者にはそのストレスが見当たらず、この存在を診断に必須とするわけにはいかないという研究結果がある。また症状によりある種のストレスを回避できているという問題もある。53パーセントには「逃避現象escape events」が見られ、うつ病の14%よりはるかに多かったという。これについては疾病利得という概念の代わりに、逃避事象escape events という概念を用いるのが最近の傾向である。それは現在のICD-11の一つ前のICD₋10の以下のような表現がこの概念の根拠になっているかのようである。ICDに見られる表現は、Assessment of the patient’s mental state
and social situation usually suggests that the disability resulting from the loss
of functions is helping the patient to escape from unpleasant conflict.
この文章に出てくるescape が意味するところは、要するに症状により不快な葛藤を回避できるという意味だが、 概ね一次ないし二次疾病利得の概念のことである。そしてそれもCDでうつ病より顕著にみられたという。そして以前の性的虐待の既往は高く、その多くがCDの発症に関わっていたという。またCDの患者が記憶の抑制、抑圧を高いレベルで行っているという証拠はなかったという。要するに心因を問わない、というICD-11 のレベルから、一つ前に戻ったということか。
実はこれは私にとっては悩ましい問題である。私の知っているCDの多くのケースが、症状によって困惑し、困らされているという場合が多いのだ。歌手が失声症になり、コンサート活動が出来なくなる、イップスなどにより音楽家が器楽演奏が出来なくなるという例を考えればとてもそれが疾病利得のためとは思えない。ところがこれらの研究は、患者さんの半数は、結果的に病に逃げているということを示している。ただし同時に、半数はそうではないということになる。つまり疾病利得の概念は半分だけ有効、とみるべきだろうか。
2023年2月5日日曜日
脳科学とトラウマ 1
フラッシュバックが起きる仕組み
いわゆるトラウマ記憶が通常の記憶とどのように異なるかについての研究は1970年代以降に行われるようになった。この世界でトラウマと脳科学との関連についての研究をけん引したのがオランダ出身の精神科医ヴァンデアコークであった。私がアメリカにいた1980~1990年代に彼のグループが発信した様々な情報に私は大分触発された。ヴァンデアコークは臨床医であり、彼は様々な研究のアイデアを出して実際の臨床研究を行うと同時に当時行われていた脳科学的な研究による知見を私たち臨床に携わる人々に分かりやすい言葉でそれを伝えるという役割を担った。
彼は記憶一般に関わる脳の部位として扁桃核と海馬について論じた。記憶とはその時系列的、エピソード的な部分(いつ、どこで、何が起きたかについての情報)と情動的な部分(何を感じ、印象付けられたかについての情報)がそれぞれ異なる部位により担当される。前者は海馬が、後者は扁桃核が担う。そして強烈な情動を伴うトラウマ経験などの場合は、扁桃核が強烈に刺激される一方では海馬の働きが抑制されるという事態が生じる。その様にして形成されるのがいわゆるトラウマ記憶(恐怖記憶)である。それはエピソード的な部分を失い、情動部分のみが刻印された記憶である。トラウマ記憶は通常の形では回想されることなく、突然フラッシュバックの形で、情動部分のみが襲ってくるようになる。
ここで重要なのは記憶をつかさどる海馬の働きである。記憶の時系列的な整理を行う海馬のおかげで、何かを回想する場合にも脳が能動的にそれを思い起こすという作業が可能となる。例えば私たちが小学生の頃の夏休みについて思い出そうとしたら、海馬によっていわば個人誌の年表がめくられ、「ああ、あの時あそこでこんなことがあったなあ」という形で秩序だって想起される。ところがトラウマ記憶はある意識的ないしは無意識的なトリガーにより、いきなり昔の生々しい情景が目の前に展開されるのである。