2019年7月14日日曜日

関係論セミナー (関係精神分析とフェミニズム)の告知

臨床家を対象にしたものですが、ぜひご参加ください。
日時は2019年7月28日(日曜日)午前10時~午後3時
(進行具合により多少の延長も考えられます)
◆と こ ろ::TKP市ヶ谷カンファレンスセンター
申し込み方法は文末にあります。


関係性精神療法セミナー

   関係精神分析と女性論者たち

このセミナー・シリーズは、2011年に第1回が開かれ、今年で第9回目を迎える。関係精神分析(関係論、関係性理論、関係性精神療法)は、対象関係論、サリバン派、コフート派、間主観性理論、自我心理学、フェミニズム精神分析などを包括的に含み、現代のアメリカ精神分析の新しい流れを総括するものである。これまで本セミナーでは、エナクトメント、動機づけシステム、共感と解釈、転移など、精神分析の根幹に関わるテーマを取り上げ、基本に立ち戻りつつ、関係論的な視点からの再検討を試みてきた。当セミナーや日本精神分析学会の教育研修セミナーにおける企画を通して、その理解は徐々に広がりつつある。
今年は、「関係精神分析と女性論者たち」と題して開催する。関係精神分析は、ミッチェルらによる精神分析再検証の流れに、フェミニズム精神分析の考えが合流してその源流を作ったという歴史もあって、女性論者たちの考えを抜きに論じることはできない。しかし、私たちのこれまでのさまざまな議論でも、女性論者という切り口から行ったものは多くはない。今年私たちがとり上げる論者は、ジェシカ・ベンジャミン、ドナ・オレンジ、ジェーン・ギャロップらである。関係精神分析における二つのintersubjectivity(間主観性)の理解や、 フェミニズム精神分析の感性の理解を深め、関係精神分析とは一体何なのかについて、初学者にも分かり易く、また最新の知見も交えて解説する。さらに、参加者と積極的に対話を行いたい。
参考文献:Jessica Benjamin (2017)『Beyond Doer and Done to』(Routledge )
ジェシカ・ベンジャミン(2018)『他者の影』(みすず書房)
Donna Orange(1995)『Emotional Understanding 』(Guilford)
Donna Orange(2011)『The Suffering Stranger』(Routledge 2011)
ジェーン・ギャロップ(2000)『娘の誘惑―フェミニズムと精神分析』(勁草書房)
吾妻 壮 著(2018)『精神分析的アプローチの理解と実践』(岩崎学術出版社)
富樫 公一 著(2018)『精神分析が生まれるところ』(岩崎学術出版社)
岡野憲一郎著(2018)『精神分析新時代』(岩崎学術出版社)
◆日 時:2019年7月28日(日曜日) 午前10時~午後3時
(進行具合により多少の延長も考えられます)
◆と こ ろ::TKP市ヶ谷カンファレンスセンター
162-0844 東京都新宿区市谷八幡町 8 番地
◆ 発 表 者:吾妻壮(神戸女学院大学)・富樫公一(甲南大学)・岡野憲一郎(京都大学)
◆ 司 会:岡野憲一郎、富樫公一
◆ 受 講 料: 6,000円
◆ 定 員: 60名
◆申込方法:参加申込書にご記入の上、郵送または FAX・E メールでお申し込みください。
受講の可否をはがき及び申込書に記載の E メールにてご連絡いたしますので、振込み先を ご確認の上、受講料をお振込みください。
◆申 込 先:〒160-0004 東京都新宿区四谷 3-4 SC ビル 6 階
小寺記念精神分析研究財団セミナー事務局 FAX 03-3350-9749
E-mail:kodera.kt@nifty.com
◆申込期限:7月22日(月)
主催:小寺記念精神分析研究財団 

精神分析における揺らぎ 1

精神分析における「揺らぎスト」、アーウィン・ホフマン

精神分析学は、心を知る上で最もパワフルな理論であることは間違いないだろう。現在の精神分析は、20世紀のはじめにフロイトにより作り出されたものとはずいぶん異なっては来ているが、それでも非常に強力な理論体系であることは間違いない。なぜならそれはいわば古典的な分析理論を絶えず更新する形で発展しているからである。つまりそれ自体が常に新しいものに変貌しつつあるということだ。
精神分析とは、たとえば天文学という学問分野に似ている。天文学はおそらく自然科学としてはもっとも古い学問であり、それこそ古代エジプトにはすでに天文学にまつわる遺産がいくつも見出される。古代人は星空を見上げ、その星たちのならびに意味を見出し、また星の運行を基にして暦を作り、未来を予言しようとした。それ以来星の動きに関する理論は常に発展をし続けてきている。もちろん当時の天文の知識と現在のそれとは雲泥の差があるだろうが、それでも天文学自体は決して廃れることはない。
精神分析も一点を除いて同じである。それはある時代にフロイトにより定義付けられたかたちで成立したという点だ。そしてそのフロイトが打ち立てた内容と現代的なそれとの間には大きな開きがあるかもしれないが、そもそも精神分析学を「精神を分析する」学問と考えた場合は、天文学と同じように発展し続けるものなのだ。
さて精神分析の歴史の中で、様々な理論が提出され、精神を理解するうえでの有力な手がかりと考えられてきた理論は、残念ながらある病理を的確に表現するものではあっても、それを個別の治療関係に応用することには難しさが伴うという問題があった。そしてそれは実は精神分析学が天文学と異なっていたことと関係している。
天文学は、非常に素直かつ単純に、星の動きを解明することに向けられるといっていいだろう。おそらくそこに偉大な創始者とその表したテキストなどは存在しなかった。たとえば「地球の周りを集会する天体について研究すること」などと定義されていたら、地動説を唱える人たちは学会から追い出されていただろう。しかしその発展の方向にその種の制限はなかった。(もちろん宗教的な意味での制限はいたるところにあり、偉大な天文学者、たとえば地動説を唱えたコペルニクスなどが罪人として扱われたという歴史はよく知られる。)ところが精神分析学は偉大な創始者フロイトがいて、そのテキストが存在していたため、精神分析学の進む方向は最初からある程度の制限を受けていた。もし精神分析学が天文学と同じように、「人の心を理解する」くらいのゆるい定義のされ方をされていたら問題ではなかったが、フロイトは精神分析学を、人の無意識を探求することにより精神を理解する学問と定義づけた。そしてそこで無意識の存在を否定したり、それと関係ない議論を行う理論は、精神分析とは言えずに、排斥されることになったのだ。これはちょうど、天文学が「地球の周りを回っている星の学問」と定義されたようなものである。すると実は地球自身が運動しているという前提の学問は天文学から排斥されることになってしまい、その健全な発展は期待できなかったことになる。天文学会は天動説に従った理論ばかりが提出されることになり、およそ現実とはかけ離れた議論が続くことになっていたはずだ。そして精神分析学においても、そこで主流の理論は、人間の心の無意識の探求という方向性にそぐわないものを排斥する形で展開してきたことになる。
何か非常に難しい議論を始めたという印象を与えるかもしれないが、要するに従来の精神分析理論に、揺らぎの議論が入る余地はほとんどなかったということを言いたいのである。

2019年7月13日土曜日

フロイトと揺らぎ 2


  フロイトが1916年に発表した「儚さについて」という短いエッセイがある。フロイト全集ではわずか数ページを占めるにすぎない。しかしフロイトらしくない気楽な筆致で書かれ、いろいろ刺激を与えてくれるエッセイである。その中にフロイトと美しい田舎町を散歩をしているある友人の詩人(リルケ、ルー・アンドリアス・ザロメ)が出てくる。そのうちの一人がこう嘆くのだ。「この美しい景色もやがて消えていてしまうのがつらい」。それに対してフロイトはこう言う。「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」またこうも言う。「それを楽しむことに制限が加わるから、それが希少だからこそなおのこと美しいのだ。」フロイトはこれをこともなげに、悟りきった感じで言っているように私には感じられる。
フロイトのすごいところは、ある種の境目、この場合存在から非存在に移行する時、ないしは両方が共存している体験の持つ微妙さに向けられている点だ。そして彼はそれを「Transience (儚さ、移ろいやすさ、移行) について」というタイトルのエッセイとして発表しているのだ。この移行とは一つの安定した状態からもう一つの状態に移るプロセスだ。私はこのエッセイが基本的にフロイトが「揺らぎ」について書いた文章だと思うのは、おそらくフロイトの心の中では、この移行はしょっちゅう起きていることとして理解しているからだ。常に移行が生じている状態、それが「揺らぎ」なのである。
フロイトはこのエッセイの中で、一つ問題発言をしている。それは「失われるものを嘆く人は、ちゃんと心の中で供養を済ませていないからだ」という様な主張だ。この言葉の意味は決して容易ではないが、より正確にはフロイトはこれをリルケに対して「それはあなたの喪の作業に対する抵抗のせいだ revolt against mourning」という言い方をしている。喪の作業とは、あるものを失った時に、それを十分に受け入れ、外で失ったものを心の中のイメージにして(内在化して)ずっととっておくという意味だ。その作業をきちんとすれば問題ないよ、と言うのがフロイトの立場である。
もう少しわかりやすく言おう。「桜の花を愛でるのは嬉しい。でもやがて散ってしまうことを知っている。しかしそれを嘆くのはなんと愚かな事だ。散ってしまう事への覚悟を持ち、心の中に桜の花をおけばよいではないか。」そして同時にフロイトの嘆息まじりのつぶやきは聞こえないだろうか? 「それに …。いつもそこにいると思うと逆に愛でることが出来ないではないか。」
まさにしかり、である。一年中桜が満開であるとしよう。人はおそらく目が慣れてしまって桜の木を見ようともしなくなるだろう。桜はそこにあっても、それは常にそこに立っている建物や街路樹と同じようにすぐに背景化してしまう。時々出てくるからこそ新鮮さが保たれる。美にはそこに新鮮さ、斬新さ、驚きが不可欠なのである。そしてそれはおそらく人間、あるいは動物の感覚器が持っている宿命と関わっている。
感覚器と言えば、皆さんはこんな実験をご存知だろうか。眼球を完全に固定して、あるものを眺めてみる。するとその輪郭はすぐに消えてしまうのだ。そこで眼球は常に「固視微動」という運動を行っている。つまり目は何かを凝視している際に、実は細かく揺らいでいて、それで初めて輪郭を捉え続けることが出来るのだ。もし仮に私たちの目の網膜にある映像を投影して一切それを動かさずにいると、目は早ければ数秒でその輪郭をすぐに失ってしまう。この固視微動はこれまた「1/f揺らぎ」であり,振幅の回転角は約 0.25度であるという。(NTT技術ジャーナル 2004.10 、P60~ 61)。
触覚を司る手のひらを、この目の網膜と同様に考えてみよう。そして紙の上に打たれた点字を触ってみる。その意味を分からないとしても、その字をなぞることで、幾つかの点の配置を知るだろう。しかしその指を点字の上から一切動かさないでいると、たちまち何を触っているのか分からなくなる。つまり字の輪郭を触って知るときも、実際にはその点の上をなぞる指が動いていることで感覚を受け続けることが出来る。(もちろん一瞬触ってすぐに分かったのであれば、それでも構わないであろうが。)
あるいはふわふわの触り心地のいいタオルの感触を確かめる時を考えてもいい。ふわふわの感覚は、絶えず手のひらを動かすことで得られるのであり、タオルの上の手を静止させてしまえば、もうフワフワの感覚はもう得られない。つまり網膜の視神経細胞と全く同じなのだ。
このことからわかることは、私たちの得る感覚とは、それが目の前で固定されてしまえば、つまり揺らぎを失ってしまえばもう感覚情報として取り入れることが出来なくなる。ただし現実の物事は自在にゆらゆら揺れてはくれないであろうから、私たちは視覚や触覚などを得る、眼球や指などの感覚器の方に揺らぎを与えることで、ようやく感覚情報を取り込むことが出来る。
桜の話をしていて突然人間の感覚の話に移ってしまったが、もう私の意図は伝わっているだろう。桜はずっとそこにあれば私たちはそれが見えなくなってしまう運命にある。桜を愛でようにも、その桜が見えなくなってしまってはどうしようもないではないか。私たちは何かを感じる時、この様な感覚器の揺らぎを利用してその意味をより充実した形で味わうことが出来る。そして目の前で咲いている桜についても同様のことを行うことで初めてその存在を味わうことが出来る。「明日はもう散ってしまうかもしれない」と思うことは、心の中でそれを散らしてみることである。すると現に目の前に存在しているものが新たな新鮮さを持って感じ取られるのである。


2019年7月12日金曜日

フロイトと揺らぎ 1


ところでフロイトは「揺らいで」いたのだろうか? 大いに揺らいでいたとは思うが、あまりそれらしい印象がない。少なくとも彼は「揺らぎスト」とは言えなかった。私がフロイトの人生を振り返って思うのは、ある種のダブルスタンダード、使い分けに臆面がなく、それが徹底していたという事である。このダブルスタンダードとはやさしく言えば、理論と実践の不一致という事だ。
カール・ロジャースの概念に「自己一致」というものがある。ひとことで言えば、自己矛盾がないという事だが、フロイトに「あれ、フロイト先生、本にお書きになっていることおやりになっていることが違いますね」と言ったら、彼は肩をすくめて「それがどうしたの?」という顔をすると思う。もちろん内心「しまった!」とは思っていただろう。そして彼の示した揺らぎが、自分自身の方針が定まっていないことへの後ろめたさを多少なりとも感じさせていたに違いない。しかしフロイトはそれに対して悪びれた様子を見せなかったようだ。
フロイトは私生活が人に知られるのを非常に嫌がったことでも知られる。彼は後の伝記作者を困らせるつもりだ、などと言って書きかけの草稿をどんどん焼き捨ててしまった。フロイトの書簡はそれを受け取ったフリースやフェレンチやユングがそれを残していたことでようやく私たちの目に触れることになったのである。
という事はフロイトは揺らぎに気が付き、それを明らかにしようとせず、またそのゆらぎ自体を心地よいと思っていなかったと推定することが出来る。
ちなみに映画「危険なメソッド A Dangerous Method」に描かれていたシーンがやはり思い出される。フロイトはアメリカにわたる船旅の途中で、同伴したユングやフェレンチと夢を語り合ったが、ある時自分の語った内容についてユングに鋭くその内容の詳細を語ることを求められると、「それをやったら私の権威がそこなわれるだろう」と応じなかった。どの程度史実に基づいているかはわからないが、フロイトにはありそうなことだと思う。フロイトは自分の秘密の存在をほのめかしながら、実に堂々と「そんなことカンケ―ないだろ」と言えた。こころの揺らぎに本質部分を見出さないからこそ、切り捨てても平気だったという事だろうか。フロイトには無意識にしっかりとしまわれている思考や欲動が大切なのであり、表面でフラフラ揺れているものには関心を示さなかった、というのが私の理解である。
このフロイトの揺らぎ軽視は、当時の時代背景を抜きには語れない。皆がそうだったのだし、それがヘルムホルツ学派の持つ「実体主義 positivism」の真骨頂だったのだ。実体のあるもの、明確に存在して分節化され得るもの以外にはあまり価値はなかったのだ。
「揺らぎ」という概念や現象について多少なりとも肯定的な見方をするようになったのは、おそらく複雑系の理論が注目を浴びるようになった1970~1980年代だろう。それまでは揺らぎはそれこそ「ノイズ」や観察の非徹底性を表すことであり、そもそも表に出すべきことではなかった。科学は圧倒的に決定論的な考え方に支配されていたのだ。
さてそれでもフロイトは揺らぎについての重要な示唆を行っていたとも私は考える。それが彼の1916年の論文「儚さについて」である。

2019年7月11日木曜日

カオス 0

カオス。実に不思議な響きを持った言葉だ。複雑系理論に親しみを持たない人にとってのカオスとは「混沌」という事と一緒だろう。何もかもゴチャゴチャになっていて、秩序もなく、そこに呑み込まれたらもう決して出ることが出来ない…。一種の地獄のような状況を想定する人がいてもおかしくない。カオス=混沌という訳語に慣れていた私たちにとってはカオス自体が学問の対象になるという意味そのものが分からない、それこそカオス的な議論という風に映るだろう。
カオスとはギリシャ文字で Χάος, 英語では Chaos である。紀元前700年ごろの哲学者ヘシオドスはこれを、大きな口を開けた空虚であり,地と空別れた時にできたものとされる。ヘシオドスは神統記 Theogony という書物で、これを最初にできた存在、と記している。実はこの私たちの浴する近代文明の生まれるはるか前を生きたヘシオドスの概念は、宇宙の始まりの理論であるビックバン仮説を思い起こさせるほどに時代を先取りしたものだった。137億年前にビックバンが起きる前の状態を誰が言い当てることが出来るだろうか。あえていちばん近い状態は、やはりこのヘシオドスの意味でのカオスではないだろうか。
しかし現在用いられているカオスにはもう一つの顔がある。それはいわば科学的な意味でのカオス、数学的なカオス、ともいうべきものであり、そこには魅力がいっぱい詰まっている。

2019年7月10日水曜日

脳細胞は揺らいでいる 2


ではこの揺らぎにより脳は何を行っているのか。それは脳が「活動依存的」(自分の活動に影響されること)であることであり、いわば自分で自分を書き換える作業を行っているという事だ。具体的にはシナプスの重みを強くしたり弱くしたりしているのだ。各神経細胞は他の沢山の神経細胞と手をつないでいるわけであるが、シナプスとは別の細胞との信号の伝達の連絡路である。シナプスが増えれば連絡しやすくなり、それが減少すればしにくくなるわけである。
この活動依存性というのをたとえ話で説明しよう。子供が元気にはしゃぎまわる。そして知らぬ間に筋肉を動かし、視覚、聴覚活動を行う。するとたとえば筋肉はそれにより使った分だけタンパク質を合成することで筋繊維が太くなっていくし、聴覚的な情報が蓄積されていく。これらが「活動依存的」な例としてわかりやすいだろう。逆に老人が起き上がれなくなり、筋肉を使わなくなると、自然と筋繊維は痩せていくことになる。使わなければそのまま、というわけにはいかない。使わないという意味でのマイナスの活動が、やはり筋繊維の太さに影響してくる。
神経細胞はほっておいても自発的に信号を生み出しているが、それにより他の神経細胞との連絡を行い、それにより連絡路のシナプスの強度を強めたり弱めたりする。神経細胞には、別の神経細胞と同時に興奮した時にはその細胞との間のシナプスを強くするという働き(いわゆるHebb 則)というのがある一方では、使わないシナプスはだんだん痩せていく運命にある。寝たきり老人と同じだ。こうして神経細胞はほっておいても活動を続けるわけだ。
これを書いている間に、大阪で先日あったG20のことが思い出される。19か国の首脳とEUの代表が一堂に会すると、お互いに行き来をして公式に、非公式に話し合いが行われていく。そこには思わぬ出会いや計画されなかった会話が成立するだろう。そして予想しなかった動き、たとえばトランプさんが急に北朝鮮に飛ぶ、という事まで起きてしまう。神経の活動も、個々の細胞が決して休まることはないわけだ。そしてこの個々の細胞の活動を少し強引に二次元平面に落とし込むと、揺らぎ、という形で表現されるというわけだ。
この脳細胞の揺らぎの説を唱えた池谷氏は、脳とは何か、心とは何か、というテーマに関して、並々ならぬ洞察を示している。その中でも最も特徴的と言えるのが、彼の非再現性の理論である。彼は自発活動は永久的な安定性や平衡性はないのではないかと考えたという。つまり自発活動は安定な状態ではあっても一回だけのものなのだ。彼はこれを「非エルゴート的」と表現する。エルゴート的、ないしエルゴート理論というのはかなり込み入っていて、科学の専門でない人間にはかなり難解である。私も少し調べてチンプンカンプンであった。そこでここでは一回性という事だけを考えよう。
さてこれが科学者の中では非常に人気がないという。ある現象を研究し、そこに何らかの普遍性を見出さない限り、科学には意味がないだろうと凡人は考える。ところが池谷先生は堂々とこれを主張し、それを科学の研究対象にしようという。これは何を意味するのだろうか?
話を揺らぎに戻す。脳細胞は揺らいでいる。つまり細かい揺らぎを持った電気信号が観測される。表面上はギザギザで規則性があるような内容な、しかしまったくデタラメではない、まさに揺らいだ状態としか表現できないような動きを示す。
ちなみにこの一回性という現象、カオスについての項目をお読みになった方にはむしろ当然のように思えるだろう。難しい例を出すまでもない。風にはためく日の丸の旗を思い浮かべよう。その動きを何十時間ビデオにとっても、決してまったく動きを繰り返すことはない。どの瞬間をとっても一回性が見られる。たとえ全く同じ画像が取れても、次の瞬間に生じる旗の動きは微妙に、あるいは明らかに異なるわけだ。しかし皆さんはこう指摘されるまではおそらく「未来永劫、旗が同じはためき方を繰り返さない」という事をまともに信じようとするだろうか。この様に一回性は私たちの日常感覚には受け入れがたいところがある。ましてや心の専門である私たちがこれを受け入れることは、心の示す典型的な病理や、夢や、あるいは各個人のパーソナリティはすべて幻想だ、という事になりかねないので顔を背けたくなるのだ。しかしすべての人間が他と全く異なり、各個人が人と会い、そこで考えたり発言したりする仕方は毎回全く異なり、そこには常に再現性がないと知ったなら、もう臨床など辞めたくなってしまってもおかしくないだろう。


2019年7月9日火曜日

脳細胞は揺らいでいる 1


脳細胞は揺らいでいる (揺らぎストの脳科学者 池谷裕二先生の頭を拝借する)
池谷先生はかつて弱冠34歳でかの有名な「サイエンス」に論文の掲載を果たした最前線の脳科学者である。歳は私よりはるかに若いが、尊敬をして止まない先生だ。特に海馬に関する研究は高く評価され、私の海馬に関する知識のかなりの部分は先生の本からの受け売りと言ったところがある。しかし何と言っても本書で彼について論じたいのは、彼はまさに「揺らぎスト」の脳科学者だからだ。そしてそれはジャーナリスト木村俊介氏との対談の形を取った「ゆらぐ脳」(文芸春秋、2008年)という著書のタイトルに最も明白に表されている。池谷先生のゆらぎぶりは半端なく、私はひそかに彼のことを宇宙人ではないかとさえ思っている。
池谷氏(先生を一回ごとにつけるわけにもいかないので、以下はこの様に呼ばせていただこう)は、何しろサイエンスの再現性ではとらえられない「揺らぎ」こそ脳の活動の本質があるのではないかと考えるという。これはいったいどういう事か。以下はかなり池谷氏の言葉を借りた私の説明である。
まず脳の神経細胞は、何もしていないように見える時でも、自発活動を行っている。それにエネルギーの7,8割を使っているという。たとえるならば神経細胞は一つ一つがエンジンのようなものだとすると、それらは常にアイドリングの状態で動き続けているのだ。ギアが入ると、活動的に発火し、他の神経細胞との信号のやり取りをするが、そうしない時でもエンジンは「かかって」いる。だから神経細胞に極小の電極を刺したならば、常にそこから電気信号が拾えることになる。ただし大きな信号ではなく、まるでノイズのように低く、小さく活動をしている。そう、これは○○章で示したように、最初は単なる「雑音」として扱われていたのだ。しかし研究が進むにつれて、それは全くのデタラメではなく、一定のパターンを持っているかのようだ。つまりこれも「揺らぎ」である。これが「揺らぎ」なのは、脳神経細胞は、こうすることで死と爆発の間をさまよっているというわけだ。死、とは脳波がフラットになり、神経細胞からは何も動きが見られない状態であり、爆発とはそれが大音量で、周りの細胞を巻き込んでその活動をマックスにした状態で、癲癇大発作という形で見られる。そのどちらにも偏ることなく神経細胞はその両極端のあいだをフラフラゆらぎつつ、本来の活動である「時々発火する」をする準備状態を常に整えているという事だ。
ところでこのアイドリング状態の脳の活動は、一時はいわゆる「デフォルトモード」(○○章で解説した)と関連付けられていたという。つまり何か特定のことを考えていない時、ボーっと物思いにふけっている時の脳の状態に特徴的だと思われていのだ。しかし麻酔をかけて意識を無くしたチンパンジーの脳にも同じ揺らぎが見られるという事が分かり(池谷 p.199)これは内省という高次の脳の活動というよりももっと基本的な神経細胞の本質に根差しているものではないかという事が分かったという。