2019年2月22日金曜日

解離の心理療法 推敲 19


動けなくなるワカナさん(20代女性)

(中略)

治療構造からの逸脱は、セッションの前後だけでなくセッション中にも生じます。患者さんの内的な葛藤が面接内に持ち込まれるようになると、治療構造そのものを揺るがすような問題が生じます。面接中に患者さんが意識を失うこともあれば、自傷行為に及ぶこともあります。治療者が患者さんの行動をその場で阻止し、時には介抱し、安静になるまで面接を終われないという状況も起こります。行動化や人格交代の激しい患者さんの治療では、安定した面接のペースが定まるまで1回のセッションが規定の時間枠を大きく外れてしまうのは珍しいことではありません。それに備えて手の空いている治療スタッフや付き添いとなる家族がいればよいですが、実際にはそうした人手のない条件で患者さんに対応せざるを得ないことのほうが一般的です。
治療者は患者さんの病状や同伴者の有無など様々な条件を考慮しつつ、治療構造を設定します。例えば頻度および時間枠については、週1回から2回、ないしは隔週1回で時間枠は30分、50分、60分という形を取ります。治療者との信頼関係が形成され治療の流れが安定してくると、構造を大きく逸脱する行動化は次第に減少します。治療環境の事情から難しい場合もありますが、患者さんが安定するまではゆとりある構造を準備しておけるのが理想です。条件の許す限り、治療開始当初から治療の枠組みを患者さんの状態に合わせて柔軟に変化させる柔構造(岡野, 2008)を確保できるのが望ましいといえます。

4.面接外に持ち出される問題

DIDの治療において交代人格が出現すると、当初は想定できなかったような様々な「事件」が起こります。面接時間の前後に患者さんの別人格がトラブルを起こし、大きな病院などでは他科のスタッフを巻き込む騒動に発展することもあります。治療者にとっては頭の痛い問題ですが、面接の前後に起きる「事件」は患者さん自身も自覚できない別人格の情動が、面接内で表現しきれず表れたものと理解し、取り上げて話し合えることが大切です。
患者さんとの関わりが面接内に留まらない場合には、その診療所、ないしは病院の他の部門との連携も極めて重要になってきます。あるいはそれらの協力があることで初めて解離の治療が可能になるというところがあります。患者さんとの応対を行う受付のスタッフの理解や協力、主治医が同じフロアにいる場合は主治医との連携をもつことで、まず解離の治療を行うスタッフや治療構造自体が受け入れられ、理解されることが必要となります。

意識を失うジョンさん(20代男性、無職)

(中略)
  
5.構造が揺さぶられる事態への対処
 
治療構造というものは決して不動なものではなく、治療者や患者の都合により動かしたり、患者さんの事情で揺さぶられたりするものです。そしてそれは治療の初期に限ったことではありません。治療が進んでいく中で、患者さんの心の様々な部分に潜在していた記憶が活性化されると、様々な感情が湧き、そのたびに治療構造が揺り動かされることがあります。
 患者さんによる治療構造の揺さぶりの一つの典型は、治療者への依存心の高まりです。最初は遠慮や警戒心もあり、主人格が節度を保ち時間枠を守ろうとしているにもかかわらず、そのうち様々な感情を出すことが出来るようになった結果として、治療者に近づきたい、甘えたい、もっと一緒にいたいという気持ちが高まることがあります。すると面接の終わり近くになると子供の人格になり、退室することをしぶる傾向が見られたりします。また治療の半ば近くになりようやく表現でき始めた過去の外傷的な体験が、終了時間に近づいてもおさめられないこともあります。特に面接時間を一回50分に設定することが出来ず、30分で終了しなくてはならない治療構造では、このような問題は半ば必然的に起きる可能性もあります。さらには治療者のふとした不用意な言葉がきっかけとなり、攻撃的な人格や退行的な人格が表れて暴走し、面接が時間までに終われなくなることもあります。そうした事態への対処として、言葉によって表現されない欲求や感情について取り上げることも有効です。交代人格の行動を通して、主人格が自覚できないでいた情緒への気づきを促す方法です。しかしそれを治療構造内で行う余裕がなくなってしまう場合も、少なくありません。

2019年2月21日木曜日

解離の精神療法 推敲 18


すでに数人の交代人格の存在を自覚している患者さんでは、治療を通して自分が変化することに不安を覚えている場合もあります。交代人格の働きに助けられている患者さんの多くは、その存在が消されるのではないかという恐れを抱きます。交代人格の活動性が高まった結果として、主人格は「自分が消えてしまう」ように感じたり、むしろ「自分がいなくなればいいのだ」と考えてしまうこともあります。主人格が治療を求めていても交代人格がそれに賛同していないと、面接中に別人格が現れて治療を妨害したり、治療者の真意を探ろうとしたりします。このような場合も、誰と契約を結ぶのかという問題が起きます。
解離性同一性障害の治療では、それが正式に始まってしばらくしてから、それまで全く出合ったことのない人格がセッションに訪れることもあります。その人格にはおそらくこれまでの治療の経緯を説明したうえで、新たにラポールを形成する必要が生じます。その人格と新たな治療契約を結ぼうと考えるよりは、別の人格が以前契約を結んだことを伝えたり、それを示すことに意味があるでしょう。
この様に考えると、治療契約を最初の面接の際に、急いで取り交わすことにも是非があることが分かります。時にはこの種の契約は治療者の側が早く正式に治療を始めたいという焦りの表れであったりします。解離性障害はそのケースとしての興味深さから、治療者が治療を始めることを強く望み、それが患者さん側に警戒の念を抱かせる原因にもなります。場合によってはそのような事情も考えたうえで、治療の構造を大まかに説明したうえで、大体の点での了解を口頭で得て、それを記録に残すという形にとどめる必要もあるでしょう。正式な治療契約の文書を交わすのは、もう少し治療関係(ラポール)が定まってからであってもいいでしょう。

3.  治療構造の柔軟性を保つこと
治療の基本的な設定としては、さまざまなものが含まれます。面接を行う場所、椅子やカウチの空間的な配置、曜日や時間帯といった枠組みとその頻度、料金などです。座る椅子の心地よさ一つをとっても、そこでの治療に非常に大きなインパクトを与えます。多くの患者さんにとって、治療者がいつも同じ場所で、同じような笑顔で導き入れてくれることが何より大事なのです。人には、いつもと同じことを繰り返すことに心地よさを感じるところがあります。予想外のことが起きない、という安心感もそこに重要な役割を演じます。治療構造を設定することにはそのような私たちの持つ傾向が背景にあります。
ただしこれまでも述べたとおり、解離性障害の患者さんの治療においては、場所や時間枠などの基本構造が不安定になることもまれではありません。患者さんの多くは時間感覚の混乱や喪失の症状を抱え、DIDでは人格交代の間の記憶がないことも多く、そもそも予定通りの行動を取ることが難しいからです。通常の心理療法では同じ曜日や時間帯に一定の頻度で面接を行う構造が望ましいとされていますが、解離の患者さんの面接ではそこに収まらない事態が多発します。
次の例のように、治療構造からの逸脱はセッションが始まる前から生じることもあります。面接を行う場所を決めていても、それが守られないという状況も生まれたりします。


2019年2月20日水曜日

解離の心理療法 推敲 17、 心因論 推敲 1


第3章 治療構造の在り方とその工夫
1.はじめに
いかなる心理療法においても、その舞台となる枠組みが必要です。それを治療構造と呼びます。そこには治療を行う場の施設や部屋の環境、面接頻度、時間枠などの現実的な条件のみならず、治療者の態度や方針といった無形の条件も含まれています。
治療構造の考え方は、精神分析では非常に重視されます。いかに治療構造が守られるかは、治療が安全かつ確実に進んでいくために非常に重要であると考えられます。治療がいつも予定通り行われ、そこに大きな変化や曖昧さが伴わないことが患者さんにとっても非常に重要なファクターであると考えられています。
一般に心理療法は精神分析の考えを多く受けついでいますので、治療構造を重視する立場は多くの治療者が支持しています。実際に治療構造が守られることは、治療者側にとってもとても大切であり、またありがたいことでもあります。患者さんが来たり来なかったり、料金が支払われずに滞ってしまったり、治療時間が患者さんの都合で遅れて始まったり、長引いてしまうことは、治療者にとっても、またほかの患者さんたちにとっても大きなめいわくとなりストレスとなるのです。
率直に言えば、治療構造が守られる必要性は、ある程度は「治療者側の都合」とも言えます。治療者は一日何人もの患者さんとスケジュール通りに会い、治療記録を書き、気持ちを持ちなおして次の面接に備えるという分刻みの予定をこなし、それで生計を立てています。患者さんの側からはもう少し余裕を持って、時には時間を超えてあって欲しいという気持ちを持っても不思議はありません。でも治療者は様々な理由から治療構造に余裕を持たせることがなかなかできないのです。
ところで治療構造をきちんと守ることは、患者さんの苦しみが比較的軽く、また生活に余裕がある場合には、さほど難しくないかもしれません。実際に社会適応のレベルが高く、また治療に意欲を持っている患者さんたちは、この治療構造を非常によく守る傾向にあります。時間に遅れることもほとんどなく、時間が来たら退出し、無断キャンセルもなく、支払いも滞りないような治療関係では、治療構造を話題にすること自体にあまり必要性が生じません。そしてその構造化された時間の中で扱われる内容に集中することが出来ます。
これらを前提としたうえで考えるならば、解離性障害の患者さんの場合には、この治療構造をいかに守るかは比較的大きなテーマとなることがあります。解離性の患者さんとの治療がしばしば面接外に持ち出され、一旦定まったかのようにみえた構造が揺るがされる傾向があるからです。前回と異なる人格部分が受診する場合などは、たとえ開始時間が守られているとしても、ある意味では構造上非常に特殊な事態といえるでしょう。ただしすでに述べたように、治療構造を守ることは、ある程度は「治療者側の都合」であり、患者さんの側に治療構造を維持すること以上に緊急な事情が生じている可能性があります。治療構造がその時々で揺らぐことは、治療が進んでいくうえである種必然的に生じるものなのです。その意味では、構造は患者さん個人個人により異なり、個別に成立するものだというスタンスが必要です。特に治療の初期ではそれぞれの患者さんのペースを尊重し、面接頻度やセッションの時間も本人の希望を取り入れつつ話し合いながら構造をカスタマイズしつつ設定していくとよいでしょう。安心感を育むためには、早急な構造化を強いない方針が有効なこともあるのです。

1. 治療契約を結ぶ

解離性障害に限らず、心理療法を始める患者さんは治療の目的を患者さんと共有し構造を設定し、協力関係を築いていくために、いわゆる治療契約を結ぶことが奨められます。と言っても法的な拘束力を持つ契約書を取り交わす、というよりは治療におけるルールや約束事を共有するという形を取ります。具体的には、それぞれのクリニックで最初から用意されたものについて治療者の側が説明し、患者さんに読んでいただき、サインをしていただくという形を取ります。その個々の患者さんで変更が加えられたものはその旨も書き加える(空欄が埋められる)ということになります。そして心理療法の記録の最初のページに、この契約書(患者さん側にも一通コピーをお渡しします)が綴じられます。
解離性障害の患者さんの場合にもこのような治療契約を結ぶことが奨められますが、この時に注意すべきなのは、誰と契約するのかという点です。というのも治療を有意義なものとするために、契約を結ぶのに最も適切な人格を知る必要があるからです。大抵は複数の人格の中の誰かが、主人格にとって必要であると判断し、情報を集めたうえで治療を受けるための行動を取ろうとするものです。ただし治療を望むその人格が、最初の出会いで治療者の前に表れるとは限りません。


心因論 推敲 1


神経症における心因論

いわゆる神経症における心因論の持つ意味について、現代的な立場から論じるのがこの小論の目的である。「心因」という用語は、いわゆる「心因性の疾患」や「心因反応(体験反応)」などの用語や概念の形で従来精神医学において論じられてきた概念である。筆者が新人の頃は、「心因」という用語は精神医学の教科書にも掲載され、特にドイツ精神医学になじみの深い諸先輩たちには比較的馴染み深い概念として用いられていたという印象がある。しかし最近のDSMやICDでこの用語が用いられることは少なくなってきている。
そもそも「心因」とは何を意味するかについては、その基本的な考えは、いわゆる「心因反応」の中にそのエッセンスがこめられているといっていいだろう。心因反応ついては、シュナイダーが「体験反応」として以下のように書いている。「[体験反応については]そもそも数十年前にヤスパースが言っていたことだが、1.原因となる体験がなかったら、その反応体験は起きなかっただろう。2.その状態の内容、主題は、原因との関連で了解可能である。3.原因が去ればその状態も改善する。

Schneider, K (1962) Klinische Psychopathologie Sechste, verbesserte auflage Georg Thieme Verlag. Stuttgart クルト・シュナイダー (著), 臨床精神病理学 増補第6版平井 静也 鹿子木敏範訳、1977年

この体験反応に書かれた内容は言うならば、「正常な心がストレス因により正常の心理的な反応として理解できるもの」である。しかし私たちは精神障害、精神疾患を扱っている以上、すべて正常範囲のものを扱うわけにはいかない。そこで心因性の障害は、「心因性の、つまり正常範囲として理解できる状態でありながら、障害と呼びうるほどに重症である」という、ある意味では矛盾を抱えた概念にならざるを得ない。
「心因」ないし「心因性」として以上の様な理解を前提とした上で、現代の精神医学的な知見を有する私たちが改めて「心因」ないし「心因性の」という表現を聞いた場合、何を思い浮かべるだろうか? 筆者は非常に大雑把に言って以下の三種類の病態を思い浮かべるであろうと考える。
1.いわゆる神経症と呼ばれる状態。
2.いわゆる適応障害と呼ばれる状態。
3.いわゆる疾病利得の関与が疑われる精神・身体症状(従来のヒステリー、ないしは虚偽性障害)
これらについて以下に簡単に述べよう。

2019年2月19日火曜日

解離の心理療法 推敲 16


タツヤさんの例では、フェレンツイのいう「攻撃者への同一化」のうち、タツヤさん自身の立場を守る側の攻撃者としての交代人格が形成されました。まるで彼の両親と同じような攻撃的態度で、立場を逆転させて両親を攻撃してくる人格です。タツヤさんは強い自己否定と周囲への過剰適応の傾向をもつ一方で、それとは対照的な排他的批判的態度を示す交代人格を持つようになったわけです。前者と後者はいずれも他者との関係において対等ではなく、極端な上下関係や支配―服従の関係にあるという意味で、表裏一体とみることもできます。これら極端な対人関係の在り方は、次に述べるように治療者との関係の中にも展開するようになります。

7.治療関係に起きるトラウマの再現
上に述べたような対人関係の問題に取り組む過程で、治療者と患者の関係も力動的に変化します。治療開始直後は不信と不安でいっぱいだった患者さんも、治療者の肯定的な姿勢や一貫した中立的態度に徐々に心を開き、少しずつ信頼を寄せてくれるようになります。その一方でこれまで親密な対象との間で繰り返されてきた否定的な情緒体験が賦活され、相手の期待に応えられなければ見捨てられるのではないかという不安が高まります。
解離性障害の患者さんは、治療においても過剰適応の様式を無意識に反復し、特に治療の初期においては治療者の方針や治療スタイルに合わせようとすることがほとんどです。その結果次第に無理が生じ、やがて行き詰まると様々な解離症状が悪化し、これまでに述べたような問題行動が現れてくる可能性があります。この段階でも本人(主人格)は不満を自覚していないことのほうが多く、それらの不満や憤りは、別人格の言動を通して治療者に突き付けられます。それらの人格たちと話し合い、信頼関係を形成することができれば、治療の最初の壁を切り崩し、次の段階に進むことができます。
 治療者への陰性感情をもつ交代人格たちは治療に懐疑的、批判的であり、治療者に直接それを向けてきます。以前は治療に協力的だった人格の態度が豹変することもあります。この時には治療者に否定的な感情を向けてくる人格ひとりひとりの言い分を聞き、誠実に対話することが必要です。それらの人格が治療者の前に出てきた時点で、一定の望みがあると考えてよいでしょう。彼らは自らの目で治療者がどんな人間が確かめようとします。治療者と直面する準備が整うと、陰性感情をもった人格が表に出て来るのです。そうでない時には治療者の前には姿を見せず、治療枠の外で治療を妨害しようとします。面接開始直前に主人格と入れ替わったり、セッションの最中に眠ってしまったり、自傷行為に及んだりと、治療に来られない状況を作り出すこともあります。
 彼らのもつ治療への不信は、治療への期待の裏返しでもあります。患者の対人不信は、誰かを信じたいという切実な思いを秘めているものです。その出会いを歓迎し、治療者の側から積極的に交流しようとする姿勢が大切です。患者の中のあらゆる人格とそれぞれ信頼関係を結ぶことができれば、治療の場は患者にとっても安心できる空間となります。その状況が整うに連れて、過去のトラウマが想起されるようになります。

対人緊張の強いユカさん(30代女性、医療職)

(中略)

先ほども述べたように交代人格は主人格のコントロールを越えた領域に存在し、主人格とは異なる意見や考えをもつのが一般的です。だからこそ主人格の記憶していない事実を把握し、主人格が気づけない発想や視点をもつことも多いのです。彼らに備わった力を引き出すことで、人格全体が救われる方向を見出すことが可能となります。そのために治療者は人格たちと表面的に関わるのではなく、できるかぎり深く話し合うべきなのです。治療的な対話を重ねる中でそれぞれの人格が成長し、発展的な変化を遂げていきます。我々治療者が一方的に患者を治すのではなく、人格全体がもつ自然な治癒力を導き出すことで、真の意味での治癒に向かうことができるのです。



2019年2月18日月曜日

解離の心理療法 推敲 15


交代人格を否定するハルナさん(20代女性、アルバイト)

(中略)
 すでに述べたとおり、DIDの治療では、「人の心はひとつである」という固定観念を捨てることが必要です。交代人格の心の働きは主人格が直接関与できないところで生じていると考え、それに基づいた働きかけを工夫するべきなのです。主人格に向けて「交代人格の示す感情のすべては、本来あなた自身が生み出したものである」と説くことは、患者さんを混乱させることもあります。DIDの人の心の中ではそれぞれの人格システムが独立して機能しているという原則を常に念頭に置くべきでしょう。

3.  トラウマの結果として生まれる否定的な自己像

解離性障害の患者さんの多くは、過度に否定的な自己像を抱いています。ありのままの自分には価値がなく、誰かのために役立つことによってのみ、ようやくこの世に存在する資格ができると感じています。過去に起きた辛い出来事は自分の愚かさが招いた結果であり、すべての責任は自分にあると考えがちです。客観的にはその人が被害者であることが明らかな場合でも、本人は不満や怒りを全く感じておらず、治療を通して初めてそれに気づくことも少なくありません。
 こうした自己像を抱く理由のひとつには、彼らが身近な他者の言動をそのまま取り入れてしまい、自分自身を悪い存在と認識してしまう傾向があります。例えば我が子を傷つけた親が自らの罪悪感を抱えきれず、あたかも子どもの側にその原因があるように思い込むと、その誤った理解を取り入れた結果として、「私が悪いのだ」と実感します。こうした関係性から生まれる歪んだ自己像について、精神分析家のシャンドール・フェレンツイという人は「攻撃者への同一化」という心の働きから説明しています。(後の第●●章でもう少し詳しく触れます。)ここでいう同一化は、子ども(すなわち被害者)が攻撃者そのものになると意味ではなく、攻撃を受ける対象イメージに自分自身を当てはめてしまう心の働きのことを示しています。「あなたは悪い子だ」と言われて、「その通り、自分は悪い子なんだ」と信じてしまうのです。
悪い自己像のもうひとつの背景には、自分ではどうすることもできない状況に置かれ続けた患者さんが他者に期待することを諦め、自分自身を変化させることで事態を乗り切ろうとしてきたという事情もあります。自分を取り巻く状況が悪化する中で、周囲に理解者や助けの手を差し伸べる人がいなければ、それを求めることをやめてしまいます。そしてすべては自分の責任と考え、「自分が頑張れば良い」と思うことで救いが生まれるため、その考えに沿って自分を変えようと試みるのです。
こうして彼らは自己犠牲に基づく過剰適応の様式を身に着けます。事態の悪化に自力で対処する方針を究めれば、最終的には自分の在り方そのものをすっかり変えてしまえばいいという結論に至ります。ただしそれでもその努力や試みには限界があり、窮地にたたされてどうすることも出来ない場面に遭遇するでしょう。そしてこのような時にしばしば、他人に対しても物怖じせず自己主張を出来るような交代人格が突然誕生するのです。他者への期待に添えずに絶望した際に意識が遠のいた瞬間を覚えている患者さんもいるようです。

攻撃者の人格をもつタツオさん(30代男性、専門職)

(中略)

解離の心理療法 推敲 14、複雑系 9


3. 交代人格は「抑圧された心」とは異なる

交代人格の行動には患者さんの内部に起きている問題を知る手がかりが含まれていますから、それについて本人と話し合うことは重要です。ただし交代人格の示す様々な情緒は、あくまでもその人格が持っているものであり、それを主人格、ないしは別の交代人格が抑圧している部分とは考えないほうがよいでしょう。この点を理解することはとても大事ですが、同時に難しいことでもあります。多くの治療者や援助者が「あなたはAさん(別の人格)が言えないでいることを代わって言ってあげているのですね。」と言って理解を示したつもりでも、当人は「どうして私自身の気持ちとして理解してくれないのだろうか?」と感じている可能性があります。それは治療者や援助者にとって、人が複数の別々の心を持つという事態がうまく飲み込めないからです。「心は一つ」ということは多くの私たちにとって疑う余地のない常識となっているからです。
「心は一人に一つ」は、ある意味では錯覚で、ある意味ではその通りである

私たちは人の心は一つしかない、と考えがちです。そしてある意味ではその通りです。私は私であり、昨日の私も、明日の私も、一時間前の私も、そして一時間後の私も同じ私です。心は一つであり、DIDの患者さんの心もまたひとつのまとまりと考えれば、交代人格の情緒はあくまでも主たる人格の意識下に抑圧されたものとみることもできます。しかし多くの場合DIDの交代人格は主たる人格のコントロールできない領域にある、いわば別人であることを忘れてはなりません。


少し矛盾するかもしれませんが、心が一つ、という感覚はそれぞれの交代人格一人一人については当てはまっている、と言えそうです。交代人格Aさんは自分は一人の自分と考えるのと同じように、交代人格Bさんも、自分は唯一の自分と感じているはずです。自分が唯一、心も一つであるからこそ、AさんはBさんとも異なる独自の存在という確信を持てます。すると、Aさんがしばらく外に出ていて、それからBさんが出てきてその間はAさんは眠っていて(あるいは後ろから観察していて)、また再びBさんに代わってAさんが出てくる、という一連の流れを考えた場合、Aさんにとっての体験は、「私は一つの心であり、先ほどBさんが出ている時は、その間は寝ていた(あるいは後ろで観察していた)」という体験になります。これは事実上「心は一つ」という体験と同じです。その意味ではDIDの状態は「心が一つとは感じていない状態」というよりは「心は一つと感じている人格が複数存在する状態」と表現することが、より正確ということになります。
 さてここまでお読みになって、「では抑圧とはなんだろう?」 とお考えになった人はそれだけで大正解です。精神分析で言う抑圧とは、フロイトが考え出した考えものです。私たちが意識レベルで考えたくないことに対して行う心の働き、という意味です。つまりこの抑圧と無意識という考えはセットになっています。なぜなら抑圧されたものは、無意識という意識できない心の部分に押し込められる、というのがフロイトの説だからです。ということはAさんの心にとって意識できない別人格Bさんの心は、フロイトの説では、Aさんの無意識にあることになります。フロイトの説では、そこにしか行き場所がないのです。なぜなら、フロイトは心は一つである、という前提を決して変えなかったからです。
AさんとBさんという二つの心の話をしようにも、結局一つの心の話になってしまう・・・・。これは矛盾しているし、不都合ですね。しかしフロイトの作り上げた精神分析の世界ではそのように理解するしかありません。でもこれは解離という現象を扱うには不都合なのです。
もちろん別人格の中には、主たる人格が扱えなかったり意識したくなかったりする部分が反映されていることもあります。たとえばAさんが人に対してノーと言えない傾向があるとしたら、はっきりとした意見を持ち主張できるBさんは、Aさんが抑えている部分という風にも考えられます。この様に交代人格の意識や感情が患者さんの抑圧が反映されたものであるという見方は、患者さんの全体状況を理解する上で役に立つこともあります。しかしそれがすべての状況に当てはまるとは限りません。たとえば別の交代人格CさんはBさんと同じく自己主張が出来るものの少し異なった性格を有するという場合、Bさん以外にCさんが形成された理由はこのような分析的な理解では説明できなくなってしまいます。結局それぞれの交代人格が異なる考えや感情をもつ可能性があるという実態に目を向けることが、症状をより深く理解する上での助けとなります。

複雑系 9

このように、心因という言葉は使われなくなってきたわけだが、それはいつからだろうか?ちょっと1980年のDSM-IIIに行ってみた。すると転換性障害についてこう書いてある。「身体的な障害に一見見えるが、心理的な葛藤なニードの表現のように思われるもの。」The essential feature is a clinical picture in which the predominant disturbance is a loss of or alteration in physical functioning that suggests physical disorder but which instead is apparently an expression of a psychological conflict or need. ほら、DSM-IIIにはまだ心因=ワザと、というニュアンスが残っている。疾病利得的なにおいをかぎ取っているのだ。そしてよく読むと、「疾病利得が特徴」とも書いてある。ところがDSM-5では、「転換性障害には疾病利得は特徴的でない」、と正反対のことが明記してある。これは大発見だ!(自分で言っているだけである。)
そこでこの表現が変わったのはいつかを調べる。1994年のDSM-IVを読むと、ちょうど過渡期であるということがわかる。記載は長く、言い訳がましい。ひとことで言えば、疾病利得ということが言われてきているが、気を付けて使いましょうね。患者さんがわざと症状を示していると思っていると誤解されますよ、というわけだ。Traditionally, the term conversion derived from the hypothesis that the individual's somatic symptom represents a symbolic resolution of an unconscious psychological conflict, reducing anxiety and serving to keep the conflict out of awareness ("primary gain"). The individual might also derive "secondary gain" from the conversion symptom- that is, external benefits are obtained or noxious duties or responsibilities are evaded. Although the DSM-IV criteria set for Conversion Disorder does not necessarily imply that the symptoms involve such constructs, it does require that psychological factors be associated with their onset or exacerbation. Because psychological factors are so ubiquitously present in relation to general medical conditions, it can be difficult to establish whether a specific psychological factor is etiologically related to the symptom or deficit. However, a close temporal relationship between a conflict or stressor and the initiation or exacerbation of a symptom may be helpful in this determination, especially if the person has developed conversion symptoms under similar circumstances in the past. Although the individual may derive secondary gain from the conversion symptom, unlike in Malingering or Factitious Disorder the symptoms are not intentionally produced to obtain the benefits. The determination that a symptom is not intentionally produced or feigned can also be difficult. Generally, it must be inferred from a careful evaluation of the context in which the symptom develops, especially relative to potential external rewards or the assumption of the sick role. Supplementing the person's self-report with additional sources of information (e.g., from associates or records) may be helpful.
 つまり心因に関する考え方は、アメリカの精神医学では1980年→1994年→2013年の間に大幅に変化していたのである!!





2019年2月17日日曜日

複雑系 8


そこで今度は最新のDSM-5 を紐解くと・・・・、なんと「心因性」という言葉はもう出てこない。この用語は使わないと言う申し合わせがあったかのようだ。何しろ英語の索引にもpsychogenic は姿を表さないのだ。ただし900ページもある分厚いDSM-5に二箇所だけ出てくるのを発見した。403ページに「心因性てんかん」という表現、715ページに「睡眠関連心因性解離症」というわけのわからない表現がでてくる。おそらく紛れ込んだのだろう。
おそらく心因という言葉をもう使わないような流れが起きている。それを思わせる記述が、305ページにあった。「これまでの診断では、いわゆる身体表現性障害において、症状が医学的に説明でいない」ことを強調しすぎていた。でも問題は症状に比べてこだわりが強いことなのだ。何しろ医学的に症状が説明できるかどうか、というのはとても難しい議論なのだから。」つまり医学的に症状が説明できるかどうかはもはや誰も自信を持って主張することができない、ということを認めているわけである。ここで面白いのは、身体症状症は、まず症状があって、それが誇張されて体験されると言うことだ。だからこれは心因性、というのと逆と言うことになる。むしろ心因性と昔呼ばれていたものの最たるものは、いわゆる「転換性障害」である。これについては、多くの臨床家が心因性、機能性という言葉を使っている、と認めている。そしてこの転換性、という言葉を残しておくが、正式な言い方も付け加えている。それが機能性神経症状症 functional neurological symptom disorder 言い換えれば、神経症状を呈しているが機能的なものであるような障害。ここで機能的functional という言葉を使っているのがニクイ。うまい言い方をしたものだ。これはつまり「器質的でないよ」とやんわり言っているのだ。コンピューターの用語では、ハードウェアじゃなくてソフトの問題だよ、と言っているのである。でもこれはよく考えれば「心因性」ということとあまり代わらない。ただ違うとすれば、「心のせい」と言っていないことだ。もうちょっと言い換えると、意図的、ワザと、というわけではないよ、ということを言いたくてこのように書いているわけである。そう、これが現在のDSMの心因論なのだ。
こんな風に言い換えよう。医学が進むとともに、これまでの神経症症状の多くに脳科学的な異常が見つかっている。何しろMRIなどに現れてしまうのだ。強迫症状だって尾状核を含むサーキットのオーバーヒーティングが確認されて、SSRIが有効だとすると、やはり脳の異常と言うしかない。パニック発作しかり。ということは本当に心因性の、と呼ばれうるものは、転換性障害くらいしか残っていない。あとは虚偽性障害(いわゆるミュンヒハウゼン病)だが、こちらはあからさまにワザと症状が形成されているので、むしろ心因性、とすら呼べないのかもしれない。そして転換性はフロイトが考えたように、無意識的な葛藤が症状に表れたという考えに基づく命名だが、これも詐病を疑っているようなところがありよろしくない。そこでもっと客観的な呼び名を考えた。それが症状は神経障害的(つまり末梢神経の障害により起きるような症状)なのに、器質的な問題が見当たらないもの、という言い方をしているわけだ。でもこれは実はむかしからある「内因性」の定義そっくりではないか。つまり現代の精神医学は、内因性の概念をこの「機能的な神経症状症」に残したまま消えていくプロセスにあると言うことか? 何しろ他の神経症はMRIで「見えて」しまっているから、古い定義の「内因性」とは言えず、むしろ「器質性」に近くなってしまうからだ。あー、わからなくなってきた。でもこうやって考えていくとアタリマエだと思っていたことがわからなくなっていくのが面白いのである。