2017年10月8日日曜日

精神療法と倫理 推敲 ②

米国心理学会の動向

精神療法における倫理を考える上で一つの参考になるのが、米国心理学会の動きである。米国においては精神分析に先駆けて1950年代にはethics code 倫理原則を作成する動きが生じていた。
これは第二次大戦で臨床に多く携わった結果として生じたことである。その結果であった倫理上のジレンマがその動因となった。現在では9回改訂されているという。
最近の倫理原則の設定には、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば米国心理協会の倫理則のIntroduction and Applicability には、 (1) allow professional judgment on the part of psychologists,専門家としての判断を許容する。(2) eliminate injustice or inequality that would occur without the modifier, 起きうるべき不正、不平等を制限する(3) ensure applicability across the broad range of activities conducted by psychologists, or 広く応用可能なものとする。(4) すぐに時代遅れになってしまうような頑なな規則に警戒する guard against a set of rigid rules that might be quickly outdatedとある。

国際精神分析学会ではここまで述べていない。この既定で一番近いものは、PartIII,5(a) の

a)         A psychoanalyst must be committed to Continuous Professional Development and must maintain appropriate levels of contact with professional colleagues. This is to ensure that an adequate standard of professional practise and current knowledge of relevant professional and scientific developments are maintained.
精神分析家は継続的な職業的訓練にコミットし、職業的な同僚と適切なレベルの接触を持たなくてはならない。これは職業的な活動や、適切な職業的かつ科学的な知識の十分なレベルを担保するためである。

「倫理的転回」の動き
精神分析における技法の問題に、従来とは異なる視点が与えられることになったことは、精神分析における新しい動きにも反映されている。富樫は関係精神分析の流れにおけるいわゆる「倫理的転回」という概念を紹介する。倫理的転回 ethical turn とは、いわゆる「関係論的転回 relational turn」という概念と対になる形で提唱されている。関係論的転回においては、従来の精神分析的な理論が前提としていたような心の明確な構造体や組織がもはや存在せず、心を扱う上での共通した理論やそれに基づく治療技法が存在しないという理解に基づく、新しい心の理解であった。しかしそれに基づき治療者が具体的にどのように行動すべきかという指針は与えられていなかった。そして倫理的転回は、「精神分析の行動規範や価値観の展開として言い表すことが出来るという。
勿論この倫理的転回が直ちに治療者にいかに振る舞うかという指針を提供するわけではない。しかしこれは確かにある種の視点の「転換」を意味するのであり、それは先に見た規範的な倫理から道徳的な倫理への視点の転換とほぼ重ね合わすことが出来るであろう。
このことは幾つかの倫理綱領が異口同音に示している項目、すなわち理論に左右され過ぎてはならないという項目とも一致するのである。
富樫公一 (2016) 精神分析の倫理的転回 -間主観性理論の発展 臨床場面での自己開示と倫理 関係精神分析の展開 岩崎学術出版社




2017年10月7日土曜日

日本における対人ストレス 推敲 ①

日本文化や日本社会における人々の関係のあり方は、これまで様々に形容されてきた。それは恥の文化と称されたり(ベネディクト)、甘えの社会(土居)と理解されたりする。また一般的に人々は和を好み、争いごとを避ける傾向にあるという指摘も多い。私はこのような特徴を対人間の敏感さと受け身性という観点からかつて捉えたことがある(岡野、19942017)。しかしそこであまり強調しなかったのは、そのような日本社会において、人は同時に特異なストレスにさらされているということであろう。
たとえば日本においては集団の利益が個人のそれに優先されるという傾向は欧米社会の人々にとっては奇異に映るかもしれない。私が長期間の滞米生活を終えて帰国して驚いたことは、自分に残っている有給休暇の日数を同僚は誰も知らず、また気にもしていなかったということである。アメリカでは労働者は与えられた有給休暇は使い切ることが常識だが、日本ではそんなことをする人は極めて少ないようである。あるいは日本人の長時間労働はどうだろう? 就業時間が来ても帰る人がいない、というよりはそんなことをすると周囲から変な目で見られるのだ。また日本の会社員はひげを蓄えている人が非常に少ない。上司に対して偉そうに見えてしまうからだということを聞いた。確かに自由業や企業主には多いという傾向がありそうだ。

対人関係における敏感さが生む対人ストレスが及ぶもう一つの場面はある意味ではより深刻かもしれない。それは幼少時における親子関係である。日本の子供は親からの過干渉に苦しむが、一つには黙ってその気持ちを汲み、知らないうちに親の支配におかれた挙句にその事実を知り、親からの独立や解放を望む。しかしそこに一つの試練が待っている。そこでは親が子供の意を読み取り、子供が親の意を読み取るという交流が生じる。そこに繊細さや敏感さはあるのであろうが、同時にストレスフルな関係でもある。日本で非常に話題になることの多い「母親が重い」というテーマがある。母親は娘との情緒的な交流において過剰な期待をし、娘に自分を受け入れ、すべてを察してもらうことを望む。それは他方にある夫との関係の希薄さにより、増強されるだろう。これは虐待でもネグレクトでもない別の種類の対人ストレスなのだ。米国の場合は親からのストレスを人はどのように逃れるのか? まず母親がそこまで子供に干渉しない。というのも彼女たちは自分たちの人生での楽しみを追及することの方に忙しいのである。また子供の方はパートナーを見つけて家を出てしまうことが多いのである。

これらの問題と依存や甘えとの関連はどうだろうか? 日本では甘えあう人間関係が注目され、ある意味で重視される。しかし甘えあう関係は互いをストレス下におく関係でもあるのだ。甘えの裏側には相互の支配の病理がある。対人関係における敏感さ、そして受身性。これは前年の発表において強調されたことなので、このことをキーワードにして進めてみよう。

2017年10月6日金曜日

学びほぐす 追加分 3

学びほぐしが必要な決定的な理由
この点は特に強調したいと思います。どの理論を学ぶにしても、その理論はその論者が隠したいこと、防衛したいことを反映している可能性があります。(そういう私も実はそうしているかもしれません。)フロイト自身の理論にもクラインの理論にも、盲点があり、防衛としての側面があるからです。こう考えると理論には必ず脱学習すべき点が隠されているといっていいでしょう。
では理論は何を隠ぺいするのでしょうか? それが一番隠蔽している可能性が高いのが、理論を唱える人自身の自己愛の問題です。もう少し詳しく見てみましょう。フロイトは精神病理の根幹に抑圧された性愛性を考えた。それが人を衝き動かしたり、症状を形成したりしていると考えた。これ自体は仮説としては十分あり得ます。当時の時代性を考えると、画期的、というよりものすごく革新的だったと言えます。でもそれと同時にフロイトがある種の真実を発見し、世界をあっと驚かせてやろうと考えた、野心的で自己愛的な部分はどこに絡んでくるでしょうか? それは精神(病理)の根幹とは言えないでしょうか? しかしフロイトはそのようなあまりに人間的で世俗的なことは表立って論じる気にもならなかったのです。それは彼のプライドが許さなかったと言ってもいいでしょう。
あるいはクライン理論。メラニー・クラインの中にはかなり激しい怒りがあったことがうかがえます。怒りはしばしば自分の弱さや小ささを自覚させられたり、人に指摘されたりすることで誘発されます。これはコフートの言葉では自己愛憤怒です。しかしクラインにとっては怒りをプライマリーなものにすることで、自分の恥の部分の存在を認める必要はなくなります。

以上の二つは思い付きで、最近どこかで行った自己愛の講演の影響がまだ頭になるから出てきた言葉です。もっといい論じ方があるかもしれません。

2017年10月5日木曜日

学びほぐす 追加分 2

脱学習とは

ここで脱学習という概念に触れておかなくてはなりません。ヘレンケラーは、私は大学で沢山学んだが、そのあと沢山unlearn 学びほぐさなくてはならなかった。さてこの脱学習の難しさは何か。誰も教えてくれない。教えられたならば、その教えてくれた人をlearn するだけになってしまう。結局学びほぐす時は全くの一人なわけです。でもそれをやらないと自分になれない。その意味では最も楽しく、また最も難しいのが、この精神分析の脱学習ということだと思います。
そこで学びほぐしについて。この絶妙な表現は鶴見俊輔のものであるという。鶴見氏はこんな体験を持ったという。戦前、彼はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。彼が大学生であることを知ると、「私は大学でたくさんのことをまなんだ(ラーン)が、そのあとたくさん、まなびほぐさ(アンラーン)なければならなかった」と彼女は言ったという。彼の頭には、型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像されたという。実は2006年12月27日(水曜日) 朝日新聞(朝刊)13面「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」という記事があったらしい。実はこれをネットで手に入れたが、ヘレンケラーの話は直接は出てこなかったからこれをソースにするわけにはいかない。でもともかくもほぐす、という彼の訳語はこの毛糸のイメージから来ていると思えばわかりやすいわけだ。

2017年10月4日水曜日

精神療法と倫理 推敲 ①

それに呼応するように、米国精神分析協会の倫理綱領には以下の項目がある。
分析家としての能力
●自分が訓練を受けた範囲内でのみ治療行為を行う。
●理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
●分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。(以下略。)
正直であること
●キャンディデート(候補生)は、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる。
●分析の利点とそれによる負担について話さなくてはならない。
● 嘘をついてはならない。(以下略。)











学びほぐす 追加分 1

考えてみれば、精神療法という広い世界の中で唱えられていることは、その療法ごとに極めて異なるということはむしろ当たり前と言えるのではないでしょうか? 一方では無意識の意義を重んじ(精神分析)、他方では意識レベルでの認知を重んじる(認知療法)といった具合です。この間はある家族療法の大家が、「家族療法では自己開示は当たり前である。みんな破れ身なのだ。」とおっしゃり、精神分析の隠れ身の姿勢と対比されていました。
ちなみにどうして夢の解釈にしても精神療法のやり方にしてもいろいろなものが提唱されているかについて、皆さんはどのようにお考えになるでしょう?それは心の問題が私たちの理解を超えているからです。心がはるかに複雑だから、心はAである、という考えと心はBであるという考えがいつまでも両立し、拮抗してしまうからです。宇宙の成り立ちを知らない頃の私たちは、天動説と地動説の両方を唱えていたでしょう。もし天文学が中世からまったく発達しなかったら、おそらく今でも天動説はと地動説派は対立し、拮抗していた可能性があるわけでえす。認知療法と精神分析が共存して、どちらもお互いに相手を説得しえない状況は、結局複雑な心をどちらも捉えきっていないということです。まあ、それはともかく…・



2017年10月3日火曜日

日本における対人ストレス (6)

「甘える amaeru-ing」―「甘やかす spoiling」の研究

このテーマに関連して、上記のテーマの研究が存在する。甘えさせるとは似て非なる「甘やかす」が「甘やかすー甘やかされる」の関係は、通常の「甘えるー甘えさせる」と違い、「親の側の都合で甘えさせる」という事が起きる。こちらは親が子供の甘えたい願望に働きかけてことさらに甘えさせる態度で、基本的にその親は「甘え」を体験していないというところがあるという。その結果として甘やかす親からは子供は本当の甘えを体験することが出来ず、この問題は「世代間伝達」されていくという。これは甘えのメンタリティーがはらむ問題である。甘える関係の基本は「人の心を読む」であるが、そこには一種の強制力が生まれる。甘やかしの例は、たとえば子供が欲しいものをすぐに買い与え、まだ子供の自律性を阻む行動をするだろう。子供が不安を感じるような事態は、先回りをして回避させてしまう。その際に決め手となるのは、親の側が実は体験している不安なのだ。親は自分の不安を回避することを主目的として、結果的に子供が自分で不安を処理する機会を奪ってしまう。もちろんこのような親の、ある種自己中心的な態度に対してそれを敏感に察知してそれを「ウザがる」子供はある意味では健全である。この研究を進める先生方の意見に相違して、甘やかす親からは、子供は大抵は甘えさせ部分のみを吸収して、それ以外の親の態度を棄却する。ところが時々不安の強い子供が現れ、「甘やかし」に「甘ったれ」ることで反応する。このような子供にとっては「甘やかす」親は渡りに船であろうが、実は子供にないことまで甘やかし親に「読まれ」てしまう。「あなたは一人でお買い物に行くのが、本当は不安なんでしょう? ママの助けが必要なんだよね。」そういわれた子供は「そうだったんだ、僕は不安で、ママの助けが必要なんだ」と「分かって」しまう。日本社会におけるマインドリーディングは、マインドインプランティング(心の植え付け)にもなってしまうのだ。