2016年8月22日月曜日

推敲 11

第11章 報酬系と集団での不正の問題

ここで応用問題である。たびたびニュースで話題となる、企業や団体の不正の問題。これをどのように考えるべきか。これは嘘か自己欺瞞とはどこが違うのだろうか?
人間社会はよほど不正が好きと見える。最近もM自動車が会社ぐるみで20年以上にもわたり燃費に関するデータの不正な操作を行っていたという。この不正の問題はこれまで私たちが考えて来た自己欺瞞や「小さな嘘」とは問題の性質が違う。それは組織全体がそれを共有し、かつ維持していたという点においてである。
このような問題に対する私たちの反応は極めて画一的でパターン化しているといわざるを得ない。「このような不正は許されることではない。」「その企業に自浄作用がないことが問題だ。」
もちろんその通りである。でもどのテレビのキャスターもそれしか言わない。
他方個人のレベルの反応には少し違いがあるだろう。テレビのキャスターに同一化して、「とんでもない話だ」という反応の一方では、「これ、起きちゃうんだよねえ」という反応もあろう。集団での不正の問題は、おそらく大部分の組織において、ある程度はおきるというのが私の見方である。私たちの多くが何らかの組織に属している以上、その不正を起こすメンタリティにも親和性があるのだ。組織での不正は決して人事ではない。いつでも起こりうる。それは端的に言って、不正を行うことが快楽原則に従うからである。私たちはこの報酬系からのささやきかけに抗うことは出来ない。
私たちは自分とは無関係な組織が起こした不正については、それを聞いただけで「とんでもないことだ」という反応をする。私たちの多くが何らかの組織に属し、そこですでに不正が行われていて、場合によっては自分もある程度関わっているのに、どうしてその私たちが他人の不正についてはそれを許せないと思うのだろうか?それは自分たちの不正に関しては、それが特別な事情があり、やむをえないことであり、罪悪感をさほど持たないから、である。そう、この罪悪感の麻痺があるからこそ、組織の不正はなくならないのである。
具体例を示さなくてはならない。M自動車と限定をすることなく、ある自動車会社で起きたと想像される次の様な社員同士の会話について考える。
上司:「また政府が厳しい燃費の水準である、『リットルあたりXキロ』を示してきた。わが社はどうがんばってもX-2キロが精一杯だ。」
部下:「困りましたね。A社が、その基準をクリアする車を開発したと発表しましたよ。リットル当たりX+1キロを達成したといいます。」
上司:「何?それは困った。どうにかならないのか?」
部下:「どうにか、といわれても・・・・。」
上司:「もしA社がその車を発売したら、わが社の車は、まったく競争力がなくなるぞ。売り上げゼロだ。わが社が生き残るためには、X+3キロを達成しなければならない。」
部下:「しなければならない、と言ってもこれ以上車の性能を改善をすることは、今のペースでは容易ではありません。」
上司:「とにかく燃費データをリットルあたりX+2キロ達成したことにするのだ。」
部下:「えっ、そんなことをしていいんですか・・・・。それじゃ不正データを使用したことで、罪を問われてしまいますよ。」
上司:「君はわかっていないな。そもそもA社のデータの発表、そのまま信じるのか?」
部下:「A社も不正データというわけですか?」
上司:「もちろん確証はない。でもA社の2年前の発表は、リットルあたりX-3キロだった。こんな短期間に、政府の基準を満たせるようになると思うか?」
部下:「確かに、そうですね・・・・・」
上司:「企業間の競争とはそんなものだ。みんな実際のデータを出しているかは怪しい。そんなものだ。」
部下:「でも、誰が不正に手を染めるのですか?・・・・・」
上司:「いいか、不正は起きないのだ。誰も『リットルあたりX+2キロ』というデータがどこから来たかはわからないことにするのだ。君も知らない。俺も知らない。この会話も起きていなかったのだ・・・」
部下:「本当に大丈夫なのでしょうか・・・・」
上司:「いいか、この会話はここまでだ。『リットルX+2キロ達成』という発表をしなければ、わが社は車がとたんに売れなくなる。すると会社は事実上倒産だ。たくさんの社員やその家族が路頭に迷う。その意味ではこのデータを示すかが多くの人々の生活を左右するのだ。キミにそれだけの人々を犠牲にするだけの勇気はあるのか?」
部下:」「・・・・・・・。」
上司:「まだわかっていないようだな。いいか、これは企業間の申し合わせのようなものだ。もっと言えば政府もそこに加わっていると考えていい。彼らも実は燃費が実際にそこまで高くなることなど無理だということを、どこかで知っているのだ。でも彼らにも、この燃費の達成目標を提示する、それなりの事情があるのだ・・・・・・。俺も10年前にこの業界に入ったときは信じられなかった。でも今では開き直っている。そういうものだと思っている。それに考えてみろ。『わが社はリットルあたりX+2キロを達成』、ということで、誰か人が死んだり犠牲になったりするのか?実際に誰が実害をこうむるのだ?乗る側も『やった!こんな高燃費の車を買うことが出来て、節約になった』と大喜びだろう。誰も犠牲にはならないのだ。人を殺したり、物を盗んだり、という類の犯罪とはまったく別の話だ。」

書いているうちに、私も勇気が出てきた。この上司の言うことはもっともな話だ。もちろん私は、不正の行われたM社以外のA社が不正をしているとは決して思わない。本当は政府が不正をしているとは絶対に思っていない。ただこの種の不正が起き、それが後ろめたさを起こさないとしたら、そしてそれをごく普通の善良な市民でさえ起こすとしたら、この種の考え方が必然となる、それだけだ。
ここに書いたシナリオはすべて私の想像だが、不正を働く可能性のある人々(すなわち私たちすべて)の間で行われている会話はこんなもんだと考えて間違いないだろう。その際、「他のところもみなやっている」、「これまでそうしてきた」というロジックは強烈に働く。いかに善良な人でも、入職したばかりの会社で、先輩から手取り足取り教わった仕事の内容が、どこまで不正に関与しているかは判断のしようがない。「ここの数値を、こちらに記載するように」といわれたら、その通りに書類を作成するだろう。実はそれが不正な文書として決定的な役割を果たすかもしれないが、あなたはそれを知らない。しかしある程度仕事を始めて、徐々に「あれ?」と気がつく。最初は漠然とした疑問だ。そのうち徐々に心の中で明らかになっていく。しかしそれでも確信が持てずに、恐る恐る周囲の一番聞きやすい同僚や上司に尋ねてみる。そこから先は先ほどのような会話が行われるであろう。
自分が不正に加担しているのではないかと感じ始めた時点で、さっそくその不正を正すために公的機関に通報する、という人がいるだろうか?彼はそれによりせっかく得た職を失い、一家を支えることが出来なくなるかもしれないのだ。組織における不正に加担することを一切拒否するとしたら、おそらくその人のほうがどこか変わっていて、融通が利かず、「話がわからず」、他人とうまくやっていけない、すなわち健全な社会人とはいえないという可能性すらある。なんとオソロシイことだろう?組織ぐるみでの不正が、実は私たちが正常であるからこそ起きるとしたら。
ところで組織において不正を働く人は、これまで考えた「弱い嘘」や自己欺瞞の傾向を持つのだろうか?あるいは組織において不正に加担する人の心に起きていることは「弱い嘘」や自己欺瞞と同じなのだろうか?否、いずれとも異なるだろう。第一に彼らは、その人個人としては嘘や自己欺瞞とは無縁の人である可能性がある。その彼が不正に手を染め続けるとすれば、それが「皆がやっていること、その意味で後ろめたさを本来もつ必要のないもの」という意識であろう。いわば治外法権としての世界でぎりぎり合法的な活動を行っているという意識に近いかもしれない。ただしそこでの法律はすべて不文律であり、暗黙のうちにしかその内容は伝えられないことであるが。

2016年8月21日日曜日

推敲 10 ②

自己欺瞞を支える「自然に心から消えるに任せる」という機制

自己欺瞞を支えるのは何か? どうして4尾しか釣っていなかったことを忘れる事が出来るのだろうか?私の考えを示そう。
 このような形での「忘却」は、忘れよう、忘れようと意図的な努力を行うのとは違い、きわめて容易で、受け身的であることがわかる。前者の忘却は力で意識の外に押しやる運動。後者はむしろ力を抜くこと。前者はほっておけば舞台にせり出してくる思考を無理やり舞台裏に押し込む作業。後者はほっておけば舞台裏に引っ込んでいく思考をそのままにしておくこと。フロイトの用語を使えば、前者は逆備給を持つ思考であり、後者はそれを持たずに自然に前意識、または無意識に沈んで行き、そこにとどまろうとする思考。後者については、それが意識という舞台に登場することで苦痛を呼び起こすという、きわめて快楽主義的な原則が働く。そしてそれが舞台裏に退くことで罪悪感や恥辱などを伴う際にのみ、逆備給を獲得する。前者は水中に沈めた風船のように浮かび上がろうとするものであり、後者は(最初に入っていたはずの)空気が抜けてしまい、風船そのものの重さもあり、浮かび上がってくる力を失った、しぼんだ風船のようなものなのだ。
実は哲学者サルトルも、この私と似たような説明をしていた。ということでサルトルに立ち戻ろう。
 自己欺瞞を哲学的に表現すると、実はとてもムズカシイ。それは例えば次の様なものとされている。「対自が即自化された自己を進んで受け入れ、しかもなお自分を対自とみなすような態度」。(富沢克、古賀敬太 (著)「二十世紀の政治思想家たち―新しい秩序像を求めて」ミネルヴァ書房 2002年。)
たとえば次の様な説明が入ればわかりやすいだろう。「人間は自由であることを宣告されている。人間には自由であること以外の存在の仕方はない。しかし同時に自由は「不安」と表裏一体である。たとえば厳かな式典で突然叫び出す自由を自分は持っている。それは実に不安や恐怖を掻き立てる。いつ自分がその自由を行使して叫びだし、一斉に怪訝の目を向けられるかわからないのだ。(トゥレット症候群の人の苦しみはそれだが、その場合の叫び声はもはや症状であり、自由の行使とは別物だな。)自由は責任や不安と表裏一体なのだ。だから人はその不安を避けるために自由を放棄することがある。たとえば人前ではおとなしくして、決して規範を犯すようなことはしない存在。そう決め込んでしまう。それは安全かもしれないが、自分の自由を殺している状態でもある。それは本来の対自的な存在ではなくて、即時的な存在に成り下がることになる。そこらへんにある石ころとか、ペンのように、おとなしい聴衆の一員、というわけだ。しかしそれでいて自分は対自存在、すなわち自分に向き合い、自由を受け入れる存在と思い込むとする。それが自己欺瞞だというわけだ。
「存在と無」には、こんな例が出てくる。ぶどうの房に手を伸ばすが、あいにく届かなかった。男は言う。「フン、どうせまだ青すぎておいしくないぶどうに決まっている。」イソップのすっぱいぶどうの例のようだ。ここにある自己欺瞞はわかるだろうか。ぶどうに手を伸ばすという自由の行使は、期待はずれという苦痛を伴う可能性を前提としている。自由を行使する人間は不安や苦痛と向き合わなくてはならない。ところがぶどうが手に届かないとわかると、自分がぶどうを取らないという自由を最初から行使したかのごとく振舞う。
しかし他方では、人間は自由であると同時に、本来自己欺瞞的でもある。それは私がすでに書いたように、ほっておいたらそちらに沈み込むような性質を持っている。サルトルも「存在と無」(ちくま学芸文庫)で次の様な驚くべき(でもないか?)ことを書いている。同じことを言っている!!!
われわれは、眠りにおちいるような具合に自己欺瞞におちいるのであり、夢みるような具合に自己欺瞞的であるのである。ひとたびかかるあり方が実現されると、そこからぬけ出すことは眼をさますのが困難であると同様に、困難である。それは、自己欺瞞が夢またはうつつと同様に、世界のなかの一つの存在形態であるからである。(P.223)

自己欺瞞は勝者の証である???

このように自己欺瞞を「心から自然に消えるに任せる」という働きから説明した場合、やはりそれにも巧拙が考えられる。わかりやすく言えば、自己欺瞞的な人は、やはりこの「技」に長けているのである。それを支持するとても興味深い説を唱えている人がいることを紹介しておきたい。ウィリアム・フォン・ヒッペルと進化生物学者ロバート・トリヴァースの論文だ。彼らによれば、「自己欺瞞の能力は他人にそれと見破られる可能性を排除するために進化したという。」(意識と無意識のあいだ マイケル・コーバリス著、鍛原多惠子訳 講談社ブルーバックス 1915年)。(元の論文は、Von Hippel W, Trivers R: The evolution and psychology of self-deception. Behavioral and Brain Sciences 2011, 34:1-16.)

わかりやすく言えばこんなことだ。人は嘘をつくとき、それを嘘と知っている場合にはそれが態度に出てしまう。だからそれを信じ込むことが適応的というわけだ。ある人が真実と異なることを主張したとしよう。それが虚偽であることは誰の目にも明らかである。しかしその人にとってはいつの間にか、それが真実と感じられてしまう。著者たちはここでこのブログのテーマである報酬系にとっても重要な点を指摘する。自己欺瞞は意図的に嘘をつくことによる多大な労作を軽減してくる。そこには罪悪感に関連した心的ストレスや、嘘をつき続けるために必要な認知プロセスをも含むだろう。簡単に言えば人は自己欺瞞により省エネをするのだ。その意味でかりそめの自己一致は快感に通じている。そしておそらく虚偽を真実にすり替えることは、脳科学的にはさほど難しいことではないのだろう。だからいわゆる偽りの記憶、という現象も存在する。偽りの記憶の権威であるエリザベス・ロフタスは、彼女自身が見たはずのない母親の死体の様子をまざまざと回想することが出来るという。またジャン・ピアジェは、4歳の頃目の前で暴行を受けた乳母の顔を思い出すことが出来(後に乳母の狂言だとわかった)、ヒラリー・クリントンはボスニアを訪問したときに狙撃を受けそうになったという記憶について語るが、実際にはそのような事実はなかったとのことである。(すべて上述の書「意識と無意識のあいだ」に書かれている例。)
ちなみにこの両著者は、その自己欺瞞が可能なための心の機制として、解離をあげている。これも興味深い。ただしこの解離には、意識的記憶と無意識的記憶、自動的な心的内容と意識的な心的内容、など様々なものが想定され、解離の概念の拡張が必要かもしれない。
ところで前出のトリヴァースという学者の「互恵的利他行動」という概念も興味深い。WikiPedia の該当項目を参照する。「互恵的利他行動は無条件ではない。まず協力することで余剰の利益を見込めなければならない。そのためには受益者の利益が行為者のコストよりも有意に大きくなければならない。次に立場が逆転した場合に先の受益者が返礼しなければならない。そうしなければ通常、最初の行為者は次回からその相手への利他的行動を取りやめる。互恵主義者が非互恵主義者による搾取を避けるために、互恵主義者は「いかさま師」を特定し、記憶し、罰するメカニズムがなければならない。最初は利他的に振る舞うが、相手も利他主義者でない場合には援助を取り下げるこの戦略はゲーム理論のしっぺ返し戦略と酷似している。おそらく互恵的利他主義のもっとも良い例であるのは、チスイコウモリの血液のやりとりである。チスイコウモリは集団で洞穴などに住み、夜間にほ乳類などの血を吸う。しかし20%程度の個体は全く血を吸うことができずに夜明けを迎える。これは彼らにとってしばしば致命的な状況をもたらす。この場合、血を十分に吸った個体は飢えた仲間に血を分け与える。それによって受益者の利益(延長される餓死までの時間)は失われる行為者の利益(縮小される餓死までの時間)を上回る。また返礼をしない個体は仲間からの援助を失い、群れから追い出される。
より身近な例はインターネットのファイル共有コミュニティである。他者からダウンロードしたファイルを共有することを拒否する人はヒル(Leecher)と呼ばれ、そのような人の情報は参加者の間で共有されて、コミュニティへの参加を拒否される。」
まさにこの文中に書かれていることだが、他人の血ばかり吸い続ける人は結局はその集団から追い出される。そういう人を英語では leech (蛭)というらしい。ということは、少しでもその集団から追い出されるのを遅くするためには、自分が蛭であることに気が付かず、後ろめたさも見せずに堂々と血を吸わなくてはならないということか。

2016年8月20日土曜日

推敲 10 ①

第10章 自己欺瞞と報酬系の問題

「自己欺瞞」の心理

本章で、この「弱い嘘つき」と類似してはいるが、本質的に異なる現象を論じたい。それは「自己欺瞞」である。こちらの場合は、自分が嘘をついているという意識はさらに遠のく。自分が自分に嘘をついている、自分を偽っているという状態だからだ。
自己欺瞞は、実存哲学者ジャン=ポール・サルトルがしきりに問題にしたテーマである。自己欺瞞とは、フランス語でmauvaise fois、それを英語ではbad faith と訳している。自己欺瞞という訳は定訳になっているが、まあまあ、というところか。英語だと、自己欺瞞はSelf-deception ということだが、bad faith としているのは、それがフランス語の直訳としてはぴったりくるからだ。Mauvaise = bad, foi = faith というわけである。そしてサルトルにとっては人間にとって自己欺瞞は本質的なあり方であるという。
 サルトルの言う自己欺瞞の意味するところは、社会的なプレッシャーにより、内発的な自由や心のそこから信じている行為を捨てて、誤った価値観を持つこと、という意味とされる。もう少しわかりやすく言えば、自分を偽る、ということだ。Aという思考や感情を持っていることをどこかで自覚しているはずながら、自分自身にとってもそれを持っていないことにする。
本書は哲学書ではないから、ここからはサルトルの自己欺瞞のテーマからは離れ、ここで理解したようなこと、つまり「自分自身に嘘をつくこと」という前提で議論しよう。すぐ明らかになるのは、自己欺瞞は、虚偽(きょぎ)、嘘、とも違う。それは虚偽や嘘は自分が他人に対して嘘をついているという自覚がある。つまりAの存在を自分自身には認めているのだ。釣った魚が4尾だけであったことを知っているのだ。ところが自己欺瞞はそれがあいまいになっている。おそらく4尾だった、ということは心のどこかにあるのだろう。そして同時に、6尾だったのだ、と自分に対しても周囲に対しても言うのだ。
 ちなみにこの自己欺瞞とは、心の理論の代表格である精神分析理論には出てこない概念だが、実際には「否認」に類似するものと言えるだろう。
そしてこの自己欺瞞の問題がどうして報酬系と関係するかと言えば、それが結局は自己中心性、自己愛傾向、他人を利用して自己を利するという問題と複雑に絡んでいるからである。わかりやすく言えば、自己欺瞞は一部の私たちに心地よさをもたらす。ただしその一部の人たちとは、自己中心性や、自己愛傾向、あるいはまさにトートロジカルな言い方だが、「自己欺瞞的な人」なのである。
自己欺瞞についてさらに論じるうえで、ある興味深い精神医学的な事実を紹介しよう。脳科学に興味のある精神科医たちにとっては常識ともいえる話だ。私達の脳は右半球と左半球に分かれており、脳梁というかけ橋でつながっている。そして時々精神医学的な理由から、この両方の半球の間の架け橋を切断する必要が生じるのだ。この様に聞けば不思議な印象を持つかもしれないが、脳の組織はその多くが左右に一対ずつあり、言わば左右対称の器官なのである。もちろんそれを束ねて形で脊髄につながっていくのであるが、それぞれに血液が還流していて架け橋の部分を切り離しても大量出血することはない。そして驚くべきことに、それで気を失ったりすることはないのだ。そしてさらに驚くのは、左右に切り離された脳は、独自の心を示すことになるのだ。これを離断脳、といい、この事実が発見された当時は大変なインパクトを与えた。
さて問題は、離断脳状態にある右脳、左脳は独自の仕方で外界と情報をやり取りし、意思伝達をすることが出来る。
この分離脳の実験を試みたマイケル・ガザーニガの例として有名なのだが、彼は分離脳の患者の右脳に「立って歩きまわるように」と指示した。そして今度は左脳に「何をしているのか?」と尋ねた。すると患者は、「飲み物を取に行くところだ」、と即答したというのである。
ここで読者の中には、どうやって右脳と左脳に別々に指示を与えたり質問が出来たりするのか疑問をお持ちだろう。そのためにごく簡単に説明するならば、脳は、右半球は体の左半分を支配し、左半球はその逆、という役割分担を行っている。ただしその間をつなぐ脳梁によりたちまち情報は統合されて、「あ、これは右半球由来の情報で、あれは左半球だ」ということはない。右耳と左耳の情報は脳梁を通じて即座に混じってしまうのだ。それはステレオで音楽を聴く場合に、左右の耳から別々の音が聞こえてきて、それが混ざっているという実感をほとんど与えないのと同じだ。そしてステレオはモノラルで聞くよりずっと奥行きが感じられる。それは右耳と左耳から別々の情報が快って、統合されるプロセスで、立体感が生じるからだ。その意味で情報が初期の段階でステレオで入力し、それから統合されるという仕組みには意味があるのであろう。(同様のことは視覚における立体視についても言える。ただし視覚は、実は視野によって両側性に脳で処理されるために、少し話は厄介になるが。)
この「飲み物を取りに行く」と即答した男性に戻ろう。彼は自分の行動の根拠を聞かれ、それが明確でないことを知るや否や、すぐさま取り繕ったことになる。本当は自分がどうして立ち歩いているかわからないはずであるのに、次の瞬間にはそれを合理的に説明したわけである。
 さてこの男性ははたして嘘をついているのだろうか?この問題に答えるために、私達の脳が常に行っている可能性のある働きについて考えよう。私たちが通常の脳を備えて日常的に活動をしている際、そこで起きている可能性のあるのは、ある種の自動的な、無反省的な行動ないしはそれへの傾向であり、同時にそれを理由づける理性の働きである。それがこの分離脳の実験において見事に表れているとは言えないであろうか?もしそうである場合、その自動的、ないしは無反省的な行動とはある種の快適さを生むものが選択されるのではないか?上の例であれば、右脳への情報のインプットは、「立って歩き回るように」という指令であった。それは彼の脳にプログラムされ、体が無反省に、自動的に動き、それに対して抵抗することは出来なかった。自動的に動き出している行動を阻止することは不安や苦痛を生むものだ。その意味ではその行動は快楽原則に従ったものであろう。そしてこのことは、私たちの行動が第一に快楽の追及、ないしは不快の回避を意図され、脳の別の部分はそれをいかに、どのように正当化し、合理化するかに腐心しているか、ということを表しているのだ。
この分離脳の実験を、報酬系の見地から捉えよう。右脳は快楽原則に従った行動へと向かう傾向にある。私が別書「脳科学と心の臨床」(岩崎学術出版社、2008年)で論じたように、右脳は「気まぐれなイノベーター(変革者)」である。その時その時に欲した方向に行くように自ら自身を仕向けるのだ。それとは異なり左脳は「論理的に疑い、理由付けをする」脳である。両者の方向性は逆なのだ。そしておそらく両方の傾向は常に綱引きをしている。ちょうどステレオサウンドを聞くように、脳は両方の傾向を聞き、統合しているのである。もちろん実際に人間の心がそのような動きを見せているかはわからない。しかし分離脳の実験はそのような仮説を抱かせるのである。
このように考えると、嘘や自己欺瞞はまさに左脳の真骨頂ということになる。問題は、脳全体、つまり右脳、左脳の連合体が、左脳のでっちあげを知っているか、ということなのだ。分離脳の場合は、左脳は自分がでっちあげをしているということを、ニュアンスとしては知らないようである。高速で言い訳をした後、悪びれる様子がないからだ。(実は同様の現象は、右半球の脳梗塞で見られる「反側否認」という現象に見られる。左半身が麻痺していることを、言語脳(左脳)は途方もない作話や言い訳により否認するのである。) しかし実際の脳は左右が脳梁でつながっているから、左右の情報の行き来は起きていることになる。そしてより高度な脳の機能、つまり自己反省や内省が行えるはずであろう。しかしそれでも左脳のでっち上げをどの程度意識化しているかについては怪しい話だ。
 ここで少なくともこの件について二つの可能性が考えられる。一つは脳全体が左脳のでっち上げを知っている場合であり、その人は「飲み物を取りにいく」と他人に嘘をついていることになる。そして自分の嘘を自覚しているからこそ、嘘をつき続けることが出来る。少なくとも「弱い嘘」については、脳が左右に分かれて情報を発し、その後に統合するという仕組み上、ほぼ自然に起きる現象といえるだろう。
 しかしもう一つの可能性がある。心が嘘をついているということについて知らない場合である。つまりは脳全体で自分のしていることを内省しても、結局は分離脳の段階を出ず、左脳の話のでっち上げに気が付かない場合だ。そしてそれが自己欺瞞に相当することになる。自己欺瞞、という言葉からわかるとおり、これは自分で自分を欺いている状態なのである。自己欺瞞の話の関連で分離脳の話を出したのにはわけがあった。分離脳の状態では、通常は左脳は本気で「飲み物をとりにいこうとしている」と信じていることが知られている。分離脳は自己欺瞞脳でもあるのだ。
自分で自分に嘘をつく、ということはどういう状態だろうか?「軽い嘘」のことを思い出そう。魚を釣りに赴き、実際は4尾釣ったのに、6尾だという、あれだ。「軽い」なりに嘘だから、本人は「本当は4尾」だということを知っている。だから「あなたと一緒に釣りをした人に聞いたが、あなたは4尾しか釣れなかったと証言しましたよ」などといわれると、すぐにシドロモドロニなり、嘘がバレてしまう。その危険を十分に自覚しているのだ。
 ところがここにある自己欺瞞を用いる人がいて、4尾を釣ったのに6尾釣ったということを半ば信じてしまう人が登場する。彼は不思議なことに、嘘をついたという自覚がない。彼は頭の中で4尾をさっと6尾に置き換えて、平気なのである。彼は自分自身に嘘をついてしまう。もし証言者がいて4匹しか釣れなかったのを見た、といわれると、彼はきっとこういうのである。「その人が嘘をついているのだ。」あるいは証拠写真を見せられたら、こういうのである。「その証拠写真は細工がしてあると考えるしかない。コラージュだ。」コラージュだと言い張る人は嘘をついているのだろうか?そうではない。それは嘘を信じる側の自分なのだ。自己欺瞞とは自分に嘘をつくといったが、そこには嘘をつかれた自分がいて、もう一人の自分の言うことを信じる。そして事実が間違っているしかない、という結論に至るのである。

2016年8月19日金曜日

推敲 9 ②

アリエリーの説は結局「人は皆マイクロ・サイコパス」であるということであろうが、それをもっと単純化させ、「人間はある程度の自己欺瞞は、持っていて普通(正常)である」と言い換える事が出来よう。これが含むところは大きい。人が真っ正直であろうとした場合、その人はむしろ強迫的な性格であり、病的とさえいえるかもしれないのである。

昔こんなことがあった。アルバイトで勤務していた精神科病棟の主任看護師はオードリー(仮名)という中年の黒人女性だった。彼女はいつも硬い表情を変えず、冗談が通じないとは思っていたが、あまり気にしないでいた。ところがある日私がナースステーションにあったボールペンをポケットにしまおうとするのを目ざとく見つけ、「先生、それは病院の備品ですよ。」と私に注意してきたのである。私は最初オードリーが冗談を言っているのだと思い、「そうだね、泥棒になっちゃうね。」とおどけて言ったが、オードリーはニコリともせず、大真面目である。恐らく私はその日筆記用具を忘れてきていて、ナースステーションのペン立てに無造作に入っていた安物のボールペンの一本をカルテ記載に使った後、そのまま拝借して別の病院に向かおうとしていたのだ。まだオードリーの大真面目さに気が付かなかった私は「じゃ、貸してもらうということでよろしくね。」ところがオードリーは強硬な姿勢を変えない。「ドクター、それはいけません。備品の持ち出しは禁止されています。」もちろんわたしはあきらめて、ボールペンをペン立てに戻した。
 私がこの
20年以上も前のこんなエピソードを、オードリーの名前や表情を含めて覚えているのは、このオードリーの融通の利かなさがあまりにも印象的だったからである。不思議なことであるが、私はオードリーを人生であった最も倫理的な人、として記憶しているわけではない。むしろこれまでで一番カワっていた人たちの一人として思い出されるのである。

ではどうして変わっていない、普通の人たちは、少しのことをごまかすのか?それはそうすることが快感原則に一致するからだ。魚釣りの成果を4尾と言うより6尾と言ったの方が自慢のしがいがある。財布に千円札が4枚しかないよりも、六枚のほうが良いに決まっているではないか。それと同じだ。ちょっとした快感。でも私たちはそれを積み上げながら生きている。バーゲンで100円が90円になっていただけれも飛びつくではないか。あとは嘘をついていることによる良心の呵責がどの程度それに拮抗するかだ。その拮抗点がその人にとっては(4尾という正直な値と比べて)10尾でもなく、5尾でもなく、6尾ということだ。このような嘘を「弱い嘘」と呼んでおこう。
話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と友人から聞かれれば、「すごく良かった」というだろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でも。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。これは礼儀としての「盛り」でも、それ以外でもいえることだ。例えば「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと日常のエピソードを話すときは、たいして驚いた話ではなくても、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきだろう。そしてアリエリーの「魚が6尾(本当は4尾)」はその延長にあるものと考える。
そこで話を最初の賄賂を受け取った政治家に戻す。彼の嘘もこの魚の話の延長なのだろうか?恐らく。そして「秘書が受け取ったかもしれないが報告を受けていない」というのは、「絶対に受け取っていない」と言うよりは良心の呵責が少ないはずなのだ。そして「秘書が・・」と「弱い嘘」をつくことは、「ごめんなさい、受け取りました」と頭を下げるよりはるかに快感原則に従うのだ。

抑圧という名の魔法は果たして可能なのか?

先ほどのべた議員さんの心のプロセスをもう少し探ってみよう。この議員が賄賂を受け取ったことを「忘れて」しまうということは起きるだろうか? もしそうなった場合は「嘘」や「弱い嘘」ではない。本当に「忘れて」しまい、あるいは偽りの記憶で置き換えられるのである。そうなると「賄賂は受け取っていません」と主張する議員に基本的には良心の呵責はないことになる。これは一種の心の魔法のようなものだ。
ただ人の心はそうやすやすと、この魔法を使わせてはくれない。心に置くことが苦痛だからといって、それを記憶から消去してくれるような装置は私たちの中には通常は備わっていないのである。
ここで「抑圧」の話をしなくてはならない。ある考えや衝動などをなぜ心から追いやることができるのか? 「出来る」とフロイトは考えた。フロイトは思い浮かべることが心に痛みを生じる場合、その内容は意識から押しのけられ、無意識にある、と考えたのである。わかりやすく言えば、思い出すのが嫌なことは、都合よく忘れるという現象が生じると主張したのだ。そしてその心の痛みとしてフロイトは幾つかを考えた。それらは「ウンザリ感、恥、罪悪感、不安」がある。要するにさまざまな不快である。
具体例に則して考えよう。ここはある女性が職場でフロイトにならってセクハラを受けた、という例を選びたい。(なぜならフロイトがこの抑圧の原因として主として考えたことは、性的な内容だったからだ。)その女性はセクハラの記憶を思い出すたびに「ウンザリ感、恥、罪悪感」を体験する。つまりセクハラをしてきた上司のことを考えるとウンザリし、またそんなことをされて恥だと思う。また自分にもある程度の原因があったのではないかと思うと、罪の意識も感じるのだ。この恥とか罪の感情は、性的な内容を含んだものに特有かも知れない。それに性的な出来事はどこか隠微で、隠されなくてはならないという気持ちを私たちに生む。それで心の外に追いやることができる、とフロイトは考えた。
精神分析の理論は、この「思い出さないようにする」心の働きとして、様々なものを考えた。否認 denial、否定 negation、排除 foreclosure、抑制 suppression、解離 dissociation ・・・・・ とたくさん出てくるわけだが、結局これらは「抑圧」という名前でひとくくりにされると言っていい。少なくともフロイトはそう考えた。
ただし抑圧により忘れられた記憶は、通常の忘却とは違う、とフロイトは考えた。なぜならその本体は消えてなくなったわけではなく、無意識という心の別の部分に移ったと考えたのである。無意識とは通常私たちが思い浮かべることのできるもの以外の膨大な内容を蓄えた心の部分であり、通常はそれを意識化する、つまり思い浮かべる事が出来ない。
このフロイトの図式をもう少しわかりやすく表現してみる。意識とはスポットライトを浴びた舞台のようなものだ。そこで起きていることが意識されることだ。しかし舞台のそでや舞台裏では別のことが進行している。ところがそこにはスポットライトがあっていず、暗いままなので、観客にはそこでの動きが見えない。しかし、とフロイトは考えた。舞台裏で起きていることはさまざまな形で、「象徴的に」表舞台に影響を与えるのである。
ここまで私は「思い出したくないものは、思い出さなくなる」ことを当たり前のことのように書いているが、この問題は実はすごくややこしい。「いやなことを考えない」ということが果たして可能なのかという問題は、脳科学的にも結論を出すのが難しいらしい。なぜならいやなことは「気になること」でもあり、心はそれを放っておかないからだ。人があることを考え続ける、やり続けるというのはよりシンプルである。心はそこに戻っていけばいいのだから。ところが不快な場合は、それがいったん心に入り込みそうになると、それを押しやるという努力を必要とする。その方法はどのようなものだろうか?それを否認するような言葉を発したり、違う証拠となるような理屈を考え続けたり、その不快な事柄を思い出させた人に向かって怒ったりするだろうか。それが本当に可能なのか?

いわゆるTNTパラダイム

 心は不快なことを本当に忘れる力があるのか?実はこのテーマは簡単なようでいて、とても難しいことだ。だから現代の実験心理学ではひとつの流行のテーマでもある。それはいわゆるTNT問題(think/not think paradigm、考える・考えないパラダイム) と呼ばれ、多くの研究がある。そのうちの一つを紹介しよう。
 まず被験者を集め、ある事柄に結び付けられた無関係の別の言葉を記憶してもらう。空―靴、城―虹、などという風にペアで覚える。それをたくさん覚えてもらうのだ。すると「空」と聞いたら、「靴」、と頭に浮かぶようになる。ここまでが第一段階である。そして次にその言葉を与えられたときに、そのいくつかについては、わざと想起しないように指示するのである。たとえば「城」と聞いたら、それが何に対応していたかを思い出さないように、被検者に指示するのだ。これが第二段階だ。そして第三段階としては、その訓練をした結果、被験者は、想起しないように訓練された単語のペアは、それ以外に比べてより思い出せなくなるのか、それとも変わらないのか、という研究をすることになる。
この研究の結論として得られたのは、考えまいとしたことは、より多く忘れられていったということだ。フロイトの抑制の理論はその意味ではおおむね正しかったと言えなくもない。
これについてはわが国の研究者の業績もある。(松田崇志(2008)「記憶の抑制に対する効果的な方略の検討 Think/no-Think パラダイムを用いて」人間社会環境研究 15号、2008・3 189~197.)ところがこの研究は、忘れようとして被験者がどのように涙ぐましい努力をしているかが同時に描かれているのだ。私はそれを読んでびっくりした。彼らは最初の単語が示されたとき、それに関連した別の単語を思い出さないようにするために、別のことに意識を集中させたり、最初の単語から連想されるものを考えるなりして、つまり「ほかのことを考える」ことで無理やり考えないようにしていたのである。しかしこれは果たして自然に「忘れる」ことなのだろうか?
このTNTに関する研究で、もう一つ紹介しておく。スウェーデン・ルンド大学のゲルト・ワルトハウザー教授は、被験者に脳波測定装置をつけた状態でこの抑圧の効果を実験したという。そして一連の実験の最後に、脳波記録を確認したところ、被験者が情報を忘れた過程を見てみると、記憶の抑圧をつかさどる脳の部位である前頭葉が活発に活動し、それが記憶の検索をつかさどる海馬の活動を停滞させていた。前頭葉が活発になればなるほど、彼らは記憶の抑圧がうまくできていたのだ。
このTNT問題に関する実験が教えてくれるのは次のことだ。私たちは考えたくない、あるいは考えるべきではないことを、そうたやすく忘れるわけにはいかないということだ。少なくともフロイトが考えたように、心がその考えの内容にギュッと圧力をかけることで、つまり「抑圧」することで意識の外に追い出すような芸当はできない。だからその代わりに「一生懸命別のことを考える」という涙ぐましい努力が必要になるのだ。そうすることで海馬の検索機能を一時的に抑え込むことで、やっと思い出せない状態を作り上げていたということになる。でもそれはおそらく本当の意味で忘れたことにはならない。自分は「Aということを思い出さない努力をしている」という意識は残るだろう。先ほどのTNTの例では、「空」と聞いて、それに関連した「アレ」(正解は「虹」であった)を思い出さないようにしている、という意識は残る。それが思い出すまいとする人間の努力の限界なのだ。そしてその意味では、人間は「弱い嘘つき」のままなのである。
ちなみに弱い嘘つきである私たちに働いているのは、抑圧ではなければどのような仕組みなのであろうか?この問題については専門家の間に一定の見解があるわけではないが、実はそれほど難しく考えることでもない事実であると思う。それは、ある思考内容は、それを心においても痛みを感じないからこそ、それを無視、放置できるということだ。「実は魚を4尾しか釣っていないのに6尾釣ったと申告している」という事実は、良心にとってさほど痛くない。「自分はそこそこ正直である」という自覚に抵触しないからだ(少なくともアリエリーの説によれば)。「自分は何も1尾を6尾といっているわけではない。4尾は釣っていたのだ。」それでいい。あとは話を盛ることによる快感が勝ってしまう。
 もちろん4尾を6尾というのは明らかに嘘である。5尾くらいだったらまだ許せる、という人もいるだろう。あるいは先ほど例に出した看護師オードリー(仮名)だったら、絶対にそのような話を盛ることはしないかもしれない。(せいぜい4.01尾くらいか????)でもたいていの人はその種の弱い嘘をつくことで人生を送っていく。というよりは、いつもの言い方だが、そのような人が最も生存に適していたから現代に生き残っているということなのだろう。

2016年8月18日木曜日

推敲 9 ①

第9章 嘘という名の快楽 2.―「弱い嘘」つきは人間の本性に根差す

本章から嘘と報酬系の問題について本格的に論じよう。
私は精神科の医師だが、人の心は知れば知るほど分からなくなっていく。わからないからこそ面白いというところもある。その中でも興味がわくのは、人はなぜ嘘をつくのか、という問題だ。といっても前章のOB方氏の類の類まれなる嘘ではない。私たち皆が日常的につく嘘である。
 つくもちろんその中には積極的に許される嘘もある。他人を傷つけないための嘘(英語で “white lie” という表現がある)などは、それをつくことに良心の呵責はない。
はるか昔のことだが、アメリカに住んでいたころ、ある子供に輸血が必要な非常事態が生じたことがある。同じ血液型の母親が、病院で、「ぜひ自分の血を取ってほしい」と申し出た。アメリカは体重が一定以下だと輸血用の採血をしてくれないという決まりがある。貧血でも起こされたら困るのだろう。そこで母親は輸血係のナースに体重を尋ねられた。彼女はそんなことなど知らず、正直に答えた。「118ポンド(55キロ)です」するとそのナースは、「困りますね、ちょっと足りませんね。」と言った。大切な自分の子供の手術のためにどうしても輸血をしてあげたいという母親の心を知っていたナースはこういったのだ。「輸血をするには120ポンド(56キロ)以上の体重が必要です。いいですか、もう一度聞きますよ。あなたの体重は何ポンドですか?」母親は答えた。「はい!120ポンドちょうどです!」「よろしい、では採血の準備に入ります」。母親は幸い輸血後も貧血で倒れることがなかった。手術も無事終わり、みな満足したのである。
おそらく世の中はこんな風に回っている。もちろん体重100ポンドを切る女性が120ポンドと虚偽の体重を報告するのは正しい行為ではない。もし120ポンドないとエントリーできない競技があったとして、本当は118ポンドの人が体重を上乗せして報告するとしたら、それは明らかな不正だ。でもこの母親とナースのやり取りに見られる嘘は大抵の場合許されるだろうし、それで社会はよしとしているというところがある。

いやなことは考えない、という心理

上の white lie の例は他人を守り、共通の利益を図るための嘘といえる。それは社会通念上許されることが多い。しかし自分の利益のための嘘も、私たちは平気でつく。それも通常は犯罪者とは考えられないような政治家や学者がつくのだ。人はどうして事実を直視せず、明らかに誤りと思える事柄に固執するのだろうか? この問題も考えていくうちに、報酬系の問題とのつながりが見えてくるのだ。私たちのつく嘘は、それが報酬系を刺激するということで説明できることが実は多い。それが本章のテーマである。
 先日テレビを見ていたら、ある政治家が予算委員会か何かで、賄賂を受け取ったかどうかを尋ねられていた。「私はこれまでに不正を一切していません。」それに対して野党の議員が畳み掛ける。「いや、受け取ったか受け取らないかを聞いているのです」件の議員は言う。「記憶があいまいです。秘書に確認する…。」 「きのうA誌(週刊誌)の記者には、相手との接触を肯定したそうですが?記事に書いてありますよ。」と威勢のいい野党議員は週刊誌の該当ページを開いて振りかざす。疑惑の議員はこう答える。「だから、相手と会食したことはある。それから秘書が何かを受け取ったかもしれない。しかし私は報告を受けていない ……。」
聞いていても何とも往生際が悪いが、その政治家は嘘をつこうとしているのか? これは否認か?虚言か?はたまた解離か?自己欺瞞か?それは分からない。それにこのような場合、しばしば本人は嘘をついているという実感がなかったりするから驚きだ。嘘をついているように思える人がいったいその自覚がどれほどあるのかは、実は驚くべきほどにあいまいであることが多い。
しかしひとつ確実に言えることがある。それはその政治家にとっては、賄賂を受け取ったという記憶を心に置くことはとてもつらいのだ。できるなら触れたくない。だから彼は会見を回避する。いっそどこかに逃げ出したい。自分はふと悪い夢を見ているのではないかと思うだろう。ある時は「あれはなかったんだ」という気持ちになる。賄賂は受け取っていないと思える瞬間も確かにあるのだ。しかしまたその記憶は突然戻ってきて、心に痛みを与える。このように「忘れる」ことと情動は深く関係しているようだ。少なくともうれしいこと、誇りに思うことを人は簡単に忘れようとはしないものだ。
するとまた、ごく単純な発想が湧いてくる。ある事実を否認するのは、それを考えることがつらいからであり、否認が快を生むからではないか? つまり疑惑の政治家にとっては、それが事実に即しているかどうかという判断は二の次なのである。彼の最大の関心事は、「いかにそのことに触れず、他人に触れさせないか」ということであり、各瞬間にどうやってその場を乗り切るかしか頭にないのである。
それにしても上記の政治家の嘘はどれほど異常で病的なのか?それは分からないが、私はOB方さんの嘘よりははるかに頻繁に出会う、その意味では「正常範囲の」嘘ではないかと思う。もちろん正常イコール=正義、ということでは決してないが、その意味ではかなり「異常」性は低くなってくる。それでも私は政治家がことごとくこの種の嘘をつくとは思いたくない。だから比較的頻繁に見られる嘘、くらいに理解しようか。
しかしここに「一般の人は普通に嘘つきである」という理論が登場する。

人は健康な状態で、本来「弱い嘘」つきである、というアリエリーの主張
  
社会行動学者ダン・アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みた。彼の著書『ずる―嘘とごまかしの行動経済学』(櫻井祐子訳、早川書房、2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
 アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは、人は自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるという考え方である。そこでは行動は、正しいか誤りかという判断ではなく、損か得か、という判断基準に基づいて決められる。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうと考えるわけである。私が述べた「人は快楽原則に従う嘘はつく」という主張と一見近い。実はこの種の性悪説、「人間みなサイコパス」的な仮説はすでに存在し、それを無批判に信じる人も多かった。
 しかしアリエリーの研究グループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は実験に参加した人に対する報酬を多くしても変わらず(というよりは、虚偽申告する幅はむしろ後ろめたさのせいか、多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)、ごまかしは縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじて保てる水準いっぱいまで嘘をつき、ごまかす」。 そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人に自分は6尾釣った(ということは二尾は釣った後逃がした、人にあげた、という言い訳を用意することになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。そしてその程度のごまかしなら良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく行えるというわけだ。
 もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその認知の共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点で、かなり現実的で、私達を少しがっかりさせるのが、このアリエリーの説なのである。

2016年8月17日水曜日

推敲 8 ②

「仮置き」という名の禁じ手

ところでOB方さん事件の後、私はなぜ研究の捏造が行われるのかについて興味を持っていた。OB方さんの「スタップ細胞」をめぐる一連の事件、そして東大や京大の医学部で最近生じていると報道されている論文の不正に関する報道を目にしながら、私は今、恐ろしい可能性について考えている。科学論文って、案外不正の巣窟なのではないか?データの改ざんは、私が想像していたよりはるかに頻繁に行われているのではないか? 
しかし考えてみれば、高知能で社会的な適応を十二分に遂げたはずの人たちの多くが脱税や贈収賄などの罪を犯すことは周知のとおりである。ということは犯罪行為は一般の人でも容易に行われうるということなのだろうか?私たちはそれほど反社会性を備えた存在なのだろうか?
論文の不正のテーマに戻るならば、科学論文は、その気になれば、いくらでもデータの改ざんが出来るのではないかと疑ってしまう。なぜならば、データの信憑性を最終的にチェックする方法がないからだ。たとえ公正を期するために、「科学論文には、ローデータとして実験ノートの提出が必要である」という決まりを作ったとしても、そこに鉛筆で数字を書き込むのは当事者なのである。すべての実験過程で特定の第三者が目を光らせるなど、ありえない話だ。
それにしても私は最初、犯罪者でもない人たちが、どうしてありもしないデータをでっち上げて論文を作ることができるのかがわからなかった。論文を書く人たちは高い知能だけでなく、当然世間の常識や通常の倫理観は備えているだろう。どうしてそのような人たちが窃盗や万引きまがいの罪を犯すのだろうか?
この問題を考えていくうちに、いくつか納得のいく事情を知ることができた。これもまた報酬系の問題なのである。その決め手となったのが、データの「仮置き」という行為だった。ある論文を書くとき、仮説の通りのデータが得られた場合を想定し、その仮想的なデータを組み込んだ論文を作成する、ということがあるらしい。それをデータの「仮置き」というそうだ。もちろんこれ自体は十分に根拠のあることだ。株主総会の練習だって、総会屋対策に総会屋さん役を立てて練習するではないか。(あまりいい喩ではないか?)
 ある大学での論文捏造が問題になった時、「仮置き」を誤って本当のデータと見なして論文を書いてしまったと説明された。あってはならないことだが、このような仮置きデータの使われ方が巧みに研究者たちの心を犯し、上の心の「アソビ」レベルで扱われたらどうだろう?マイクロサイコパスレベルの通常人が、ついつい犯してしまうような、通常の自己欺瞞の範疇に、これが入り込んだら?
そのようなことが起きるからこそ、人はあれほど論文をねつ造し、データを改ざんするのではないか?最初の頃はあくまでも「仮に」置かれていたデータが、論文の提出期限が迫っても、なかなか実験データが上がってこないため、他の部分もその仮置きデータに沿って書き足されていく。あとは最後の最後にそこに正しいデータを入れ替えればいい、という段になって、例えば仮に置かれていたデータ「8.1」の代わりに「8.5」が実際のデータとして上がってくる。それだと予想と異なり、論文を書き直さなくてはならない。その時実験結果を報告してきた院生に教授が尋ねる。「もう一度聞こう。君は目がかすんで、スクリーンの数字を、実際は8.1なのを8.5と読み違いをしてはいないか?え? 僕の言っている意味がわかるかい?」 そのような状況に立った院生の何人かに一人が、「ハイ、教授。正しくは8.1でした」と答え、研究ノートにも8.1と記載する・・・・。そういう問題なのかもしれない。
あるいはインサイダー取引など、かなり怪しいのではないか?株の取引などしたことがないので純粋に想像だが、例えば知り合いの会社社長が電話をしてくる。「君にはいろいろお世話になったね。だから君には少しばかりお礼をしたくてね。わが社のある製品が、今度特許を取得して・・・・。おっと余計な話は禁物だな。私の独り言だと思ってくれ。じゃ元気でな。」
あれほど厳しく罰せられるインサイダー取引。でもこの種の会話をする人たちは正真正銘のサイコパスでなければならないのか?

図表加工が改竄を疑われるとは「思いもしなかった」

研究の世界には「データの仮置き」という独自の習わしないしは文化のあることを紹介したが、ではOB方さんの行為もその延長線上にある、ということを言いたいわけではない。やはり彼女の場合は、明らかに仮置きのレベルを超えていた。敢えて言えば、彼女の中で、個別のデータではなく、架空の研究そのものを頭の中に「仮置き」してしまったというところがある。そしてそれには彼女の独特の思考プロセス、おそらくかなり病理性をはらんだものと言えるだろう。 
 私は学生時代に、バンドの濃さで示される量ではなく、バンドの有無を論文の図表で示す場合には、曖昧ではなく明確に示すべきだと指導を受けたことがあり、あるか、ないか、を見やすく加工することが改竄を疑われる行為だとは思いもしなかった。 

「(スタップ細胞が存在するという前提に立つと)後はそれをどうやって信じてもらえるか、である。ならわかりやすい手法がいいではないか。その場合には借りてきた写真でもいい・・・。なんかそら恐ろしいロジックである。これはたとえば別の例を考えてみるとわかりやすい。UFOは存在する。それは真実だ。それを皆にわかってもらうためには、夜空にぼんやりと写ったUFOの写真よりも、たとえば灰皿を空中に投げてそれを撮った写真を提示した方が、形がハッキリしていてわかりやすいではないか。UFOが存在するのが真実なのだから、そのような小細工は本質に影響はないし、当然許されるはずだ。」
これも「虚偽や悪事による影響との心的距離が増し、体感しにくくなる」例に当てはまるが、それは図表を改ざんした論文を同僚や上司に見せたときの反応がそれに相当する。「あるある、みんなやってんだから・・・」と彼女は想像したに違いない。というか「そのような指導を受けてきた」、と主張することはそれを意味している。とするとこの世界には常識なのかもしれない。それにしても「思いもしなかった」とは・・・・。
やはりOB方氏は例外である。それが通常つかれる嘘のレベルを超えていたために、あれほど多くの学者が彼女の言動に惑わされてしまったのである。しかし彼女の例は、嘘と報酬系の関連を考えさせる上大きな意味を持っていたといえるだろう。

2016年8月16日火曜日

推敲 8 ①

第8章    嘘という名の快楽

虚言症の心理

 「スタップ細胞はありまぁす」。という、うら若い女性の訴えるような声が会場に響いた。

2014年4月9日、一連の騒動が一段落して二ヶ月ぶりに公の場に姿を見せたOB方晴子氏。記者会見では動揺や緊張を最初は見せたものの、その後の質問になると落ち着きを取り戻す。そして「スタップ細胞はあるんですか、ないんですか?」という記者の単刀直入の質問に答えたのが、冒頭の言葉だ。そして彼女は、「すでに200回以上スタップ細胞の作成に成功している」、「写真は何百枚とある」、と「研究成果」を訴えたのである。
おそらく日本の学問の歴史の汚点として長く人の心を去らないであろうOB方問題。一番の問題は、彼女の発した言葉、取った行動が常人の想像を超えていたことにあると私は考える。私はスタップ細胞が実在するかどうかを判断する立場にない。それがありえないとは、100%断言できないのではないか・・・。と私が今でも書くとしたら、それはやはりOB方マジックの影響下にあるかもしれない。
何が言いたいのかを説明しよう。あることに確信を持ち、それにしたがって行動する人を見て、普通私たちはそれが事実だと考えるだろう。それが一見善良で真摯な研究者の言葉であり、しかも若く愛らしい女性だとしたら、その真偽を疑う理由がない。それに彼女を信じた人たちはきっとこう言っていただろう。
「いったい彼女がスタップ細胞という話をでっち上げるような理由などあるでしょうか?他の人が追試すればいずれはバレてしまうような嘘を彼女がつく理由などあるはずがありません。」
確かにそうなのである。普通なら誰もそのようなことを考えないだろう。ありえない話だ。そしてそのようなことが起きること自身がまれなことで、そのために多くの人が彼女の話を信じ、そしてそれがOB方事件へと発展したのである。
それにしてもなぜ・・・。
 私にもその理由はわからない。しかしひとつ言えるのは、スタップ細胞が存在しているという前提のもとでの言動を行う際に、彼女の報酬系が興奮し、彼女に心地よさや安心感を与えていたということだ。そう、報酬系という観点から見た彼女は、そのように考えざるを得ない。「スタップ細胞がある」と断言することは彼女に不安や後ろめたさを感じさせた可能性がある。しかし同時に、そしてそれ以上に彼女にとってそれは心地よいことだったはずである。だから彼女はその主張を今でも続けているのだ。
こういうのは当たり前といえば当たり前の話かもしれないし、何の解決にもならないかもしれない。人が何かをするのは、それが結局心地よいからだ。しかしそこまで話を戻すことで見えてくることもあるだろう。

虚言(きょげん)・・・・。いやな言葉、響きである。人を欺くことを目的とした言動。しかし簡単に人を欺くようにはとても思えないような嘘も存在する。本当に欺きたければ別のやり方がいくらでもありそうに思えるような嘘。本当にスタップ細胞が存在しないと仮定したなら(私もしつこいところがある)、OB方氏の虚言は、その類のものである。
本書でも何度も触れるたことだが、人が同じ行動を繰り返す場合、大きく分けて二つの可能性がある。ひとつはそれが何らかの快感に結びついているから(衝動的行為 impulsive behavior)。もうひとつはそれが苦痛(不安)を回避するから(強迫的行為 compulsive behavior)。私はOB方氏がスタップ細胞の実在を繰り返して主張することで何らかの不安を回避しているという印象を受けない。いや、その可能性は否定しないながらも、彼女がそれにより回避しているものが思いつかない。嘘をついているという事実だろうか?でもそれならむしろ逆効果ということになる。嘘をついていることを隠すために別の嘘をつく、ということならよく人はする。「嘘を嘘で塗り固める」、というヤツだ。彼女ならたとえば「私は○○さんに唆(そそのか)されたんです」とか「××さんに嘘のデータを渡されたんです」、とか言うという手もあるだろう。でも彼女は実際には「スタップ細胞はありまぁす」を繰り返すか、せいぜい「もう200回成功しました」など、ますます墓穴を掘るだけの事を言っている。あるいは誰かに脅され、うそをつく事を強要されているとか? まさか・・・。
やはり可能性は、OB方さんはスタップ細胞を作ったという考え、ファンタジーに浸り、快感を覚えていたと考えるしかないだろう。私はOB方さんが二月の記者会見で見せた、晴れがましい表情をよく覚えている。シャッターを浴びてちょっと上気して、満足そうな笑みを浮かべていた彼女。二か月後の4月9日の、まったく笑顔の消えた、沈痛な面持ちの彼女とは大きな違いである。彼女はスタップ細胞を作ったリケ女の鏡として脚光を浴び、とても嬉しかったのだろう。彼女がスタップ細胞を架空のものとして認めることはその快感を放棄することになる。単純に言えばそういうことだろう。どうしてそれが出来ただろうか?少なくとも彼女にはそれが不可能だったのだ。
もちろん私は読者の次の様な声をすぐに聞くだろう。「でも嘘がばれることの恐ろしさはなかったのでしょうか?普通の人間ならあのような場合に晴れがましい顔をして記者会見をすることなど出来ないのではないでしょうか?」
この問題には少し精神医学的な議論が必要だろう。といっても精神医学で人の心を説明しつくすことなど出来ない。おおよそこんな風に説明できるだろう、という大雑把な議論しか出来ない。そう断った上で言えば、彼女の心には一種のスプリッティングが生じていたであろうということだ。彼女はファンタジーに浸っているときは、通常の判断力や理性を保留することが出来たのであろう。これは彼女が妄想をもっていたということではない。妄想の場合には、それに伴う言動の異常さ、奇矯さに、周囲がそのうち気がつくであろう。自分の言動の真実さを信じているために、その虚偽性が露見するのを避けるための努力を行わないからだ。そしてそれに関してさらに問うていくと、さらに妄想的な内容が出てくるので、周囲はそうと気が付くのである。
 しかしOB方氏の場合には、極めて巧妙にデータを捏造していたことになる。その上でその捏造データを真実のものとするファンタジーを作り上げてそれに浸ったのである。しかし同時に現実にはそれが存在しないことをわかっていたはずである。その上で、ファンタジーと現実の二つの世界を行き来できたことになる。それがスプリッティングと私が表現している状態なのだ。
ちなみに類似の状態として解離がある。しかし解離の場合は、別の人格状態が真実を語りだす、あるいは過去の記憶を保持しないという様子が見られることになるが、OB方氏からはそれを示すものが伝わってこない。
スプリッティングという機制を用いることで、それを用いない通常の人ならとても考えられないようなことが彼女には可能になる。一方ではファンタジーに浸り、その世界で満足体験を持つ。そして今度は現実の世界に戻って嘘が露見することを防ぐべく努力する。Aの世界とBの世界。彼女はその間を比較的自由に行き来できたはずである。しかし両者はそれでもスプリットされ、十分に分かれていたからこそ、Aの世界でのファンタジーは快楽を与えたはずだ。それはそうだろう。嘘をつきながら、まもなくそれがばれるということを同時に考えていたら、嘘による偽りの喜びに浸れるわけなどないはずだからだ。心に同時にありながら、個別に体験できる。スプリッティングとはそういう心の働きなのだ。

この種のスプリッティングはたとえば依存症などではしばしば見られる。パチンコが自分にも家族にもよくないことがわかっていながら、どうして人はパチンコ屋に開店前から並ぶのだろう? あるいは覚せい剤が身を滅ぼしているとわかっていて、どうしてやめられないのだろう? パチンコも覚せい剤も、やっている最中はその快感に抗うことが非常に難しいだろう。その瞬間はもう片方の現実を忘れるのだ。そしてそれがOB方さんの嘘とどこが違うのだろうか?恐らく本質的には違わないのだ。
OB方さん事件から二年たらずして、本人の手記『あの日』(講談社、2016年1月)が出版された。その中の彼女の記述を見ると、やはりOB氏は単に嘘の上に嘘を構築している、というのとは異なる議論を展開しているようだ。おそらく彼女の話には、自分にも他人にも不正直なところが含まれているのであろう。敢えて見るところを見ずしてストーリーを作り上げてしまっている。たとえば、データ改ざんについては、次のように述べているという。
 
図表加工が改竄を疑われるとは「思いもしなかった」。・・・私は学生時代に、バンドの濃さで示される量ではなく、バンドの有無を論文の図表で示す場合には、曖昧ではなく明確に示すべきだと指導を受けたことがあり、あるか、ないか、を見やすく加工することが改竄を疑われる行為だとは思いもしなかった。

 どうだろう?「自分はこのような指導を受けた。」「あるかないかを見やすく加工することが必要だ」だから他のところから取ってきてもオーケー、 ということになる。それはおそらく彼女が心の中で行っていた理由づけでもあるのだろう。細かい虚偽の積み重ね。その延長線上にはスタップ細胞が存在する、というストーリーまで構築されていく。それぞれの過程で彼女の中では安易で心地よい選択へと流されたのである。