2016年7月16日土曜日

推敲 1-③

快楽には文脈がある
現在でも購入可能なな唯一のヒースの著書がある。 (Exploring the Mind-Brain Relationship'' (Moran Printing, Baton Rouge, 1996) この本にはもちろんバーンズの本では触れられていない興味深い記載がある。その一つは、報酬系刺激により感じる快感は、その時何を体験していたかに強く影響を受けるということであった。
 たとえば昼食の直前に報酬系の刺激をすると、昼食は明らかにおいしくなった。またある患者はエロティックなビデオを見せられても、あまり関心を示さなかったが、報酬系を刺激すると興奮して熱中してそれを見るようになったという。しかしそのようなビデオを見ていない時に報酬系を刺激しても、性的な興奮は生じなかったという。これは一部の動物の実験に見られるような、中隔野の刺激が常に性的な興奮を呼んだという実験結果とは異なることになる。報酬刺激により増幅される快感は、あくまでも文脈的、なのだ。
ただしこの「文脈性」については、嗜癖を生む薬物を使用する人にとってはある意味では体験的に常識ともいえる事柄である。たとえば食事をした後のタバコがなぜおいしいか。それは「ああおいしかった」をより高めるという意味を持つ。あるいはコカインをセックスの際に用いる時は、その時の快感を高めるからだ。さらにはマリファナやLSDなどの幻覚剤による感覚過敏もそのような意味を持つといえるかもしれない。それらを使用することにより、普段だったら何でもない色彩に思えるものを途轍もなく刺激的な色使いと感じるような現象である。
 実はこれは私の想像ではあるが、夢にもこの報酬系の刺激が関与していると思えてならない。なぜあんな内容の夢が壮大なパノラマを見ているような感動を与えていたのだろう?と思える夢はよくある。もちろん自分自身の夢について言えることである。なぜなら他人の人の夢を聞いても、ただのわけのわからぬ展開にしか思えないはずだからだ。しかし自分が見たばかりの夢は、言葉に直すときわめて陳腐な内容には違いないが、途轍もない感動を与えてくれるように感じる。
  ということで本章の教訓。「不埒な夢」を実行した人ならば、人生の最後を音楽で締めくくりたければ、好きな曲を聴きながらスイッチを押す。美味しさに感動しながら終わりたいなら、MSG(味の素)でも口にふくんでスイッチを押す。美しさに感動しながら逝きたいなら、好きな画集でもめくりながらスイッチを押す。ただし決して報酬系ではなく、内側扁桃核に入っている電極スイッチを押してはならない。さもないととんでもない最期を迎えることになってしまう・・・・。





2016年7月15日金曜日

推敲 1-②

こんなネズミの話を聞いて、それを人に応用することを夢に見る私のような人間は不謹慎だろうか? しかしこのラットの実験に先んじて、それを人間に行った人がいた。それがこれから紹介する、ロバート・ヒース博士であった。
米国ルイジアナ州のニューオーリンズにあるチューレーン大学。そこで1950年代に初めて精神科と神経内科を合体させたのがドクター・ヒースだった。(以下、情報源は「脳が『生きがい』を感じるとき」(グレゴリー バーンズ (著), 野中 香方子 (訳),日本放送出版協会、2006年)
彼の最初の実験は1950年ということだ。脳の深部、脳幹に隣接した中隔野という部位は、人間でもそこの刺激で快感が生まれる。そこに彼が注目して行った実験のフィルムも残っているという。ストレッチャーに横たわる若い女性の姿。その脳には電極が埋め込まれていて、そこに電気が流れるようになっている。以下はバーンズの著書からの引用である。
女性は微笑んでいた。「なぜ笑っているんですか?」とヒースが尋ねる。「わかりません」と彼女は応えた。子供のように甲高い声だった。「さっきからずっと笑いたくってしょうがないんです。」彼女はくすくすと笑い出した。「何を笑っているのですか?」女性はからかうように言った。「わかりません。先生が何かなさったんじゃないの。」「私たちが何かしていると、どうして思うんですか?・・・
こうして実験は続けられたが、ヒースと彼女の会話には明らかに性的なものが感じられたという。ヒースは他の患者にも中隔野への刺激を行い、その多くはそれを快と感じたというが、反応は人それぞれであったらしい。電極をほんの1,2ミリ動かしただけで、むしろ苦痛の反応を引き起こしたりする。中にはそれにより激しく怒りを表出した人もいて、ヒースの実験を非人道的であると非難する学者もいたという。
結局バーンズの本からわかることは、快感中枢に電極をさして最後を迎えるというアイデアはうまくいきそうにないということである。彼の記述の重要な指摘を再び引用する。
「特に人間の場合に顕著な脳深部刺激のこうした不安定さから、痛みと快感は、脳の別々の部位に存在するわけではなく、むしろ同じ回路の様々な要素を共有していることがわかる。」(139ページ)
バーンズの治療に関して極めて重要なことも書いてある。「もっとも重要なことは、この種の治療では、耐性が見られないことだ」本当だろうか? 
私が想像するのは、たとえば統合失調症の患者さんの興奮が、一定の電圧で抑えられている際、それが徐々に効かなくなり、電圧を上げていかなければならなくなった、ということがなかったという意味であろう。もっともこれなら、抗精神病薬などの効果と同じである。統合失調症の患者さんに用いるリスパダールがそのうち3ミリでは効かなくなり、10ミリ、20ミリ、どんどん増えていく、つまり耐性が出来てくる、ということは起きない。しかしもし快感をもたらす刺激にも耐性がないならどうであろう? 同じXボルトの電流で多幸感を味わい続けるとしたら? これはちょうどモルヒネYmgがずっと効き続けるということになり、麻薬を使用する際のもっとも困った問題である、とめどもなく使用量が増えていくという問題は生じなくなる。真相はどこにも書かれていないようだが、これが本当だとすると、脳刺激は計り知れない可能性を秘めていることになる。精神科医の見た夢も、まんざら不謹慎だけともいえなくなってくるではないか。
ちなみにニューヨークタイムズには、ヒース先生がフロリダで1999年に84歳で亡くなった時の追悼文が掲載されている。そこには、彼が統合失調症に対する画期的な仕事を行った医師、として記載されているが、同時にCIAにマインドコントロールに関する研究を依頼されていた事実にも触れられている。これはおそらく脳刺激の有する様々な可能性にアメリカ政府も目をつけたということを意味するのであろう。
ここでドクター・ヒースの研究を俯瞰する上で、その研究の歴史をまとめてみよう。
以下はBruce Leonard という人の記述を参考にする。(David Bruce Leonard (2012)How to Worship the Goddess and Keep Your Balls: A Man's Guide to Sacred Sex。 Roast Duck Productions )。
ヒース先生は難治性の障害を抱えた患者、例えば極めて暴力的であったり抑うつ的であったり、統合失調症、治癒不可能な癲癇、震戦、深刻な疼痛を持つ人々に対して、治療を行ったという。患者の数は70名程度であったというから驚く。患者は何年にもわたって脳の特定の場所に電極を埋め込まれた。一部の患者はそれにより状態が急速に改善したという。彼は患者が快適な気分である時に、中隔野と外側扁桃核が興奮していることを見出した。ここが快感中枢、または報酬系というわけだ。また患者が強烈な怒りを体験している時は、不快中枢ともいえる領域、つまり海馬、視床、被蓋野、そして扁桃核の半分が興奮していたという。(電極にはもちろん刺激を与えるとともに、そこの電位を記録する意味もあったのである)。そして不快中枢を刺激すると、快感中枢の興奮が止まり、逆もしかりという関係を見出した。両方はシーソーの関係にあった。
 そこでヒースが考えたのは、統合失調症の患者が幻覚や妄想などの体験をするのは、それらを「中和」するような快感を十分に体験できないからではないかということである。そしてガンによる痛みを持った患者の場合は、快感中枢の刺激でそれが和らぎ、また怒り狂った患者はその気持ちが消えたというのだ。同様のことは鬱、躁、自殺傾向、他殺傾向にも言えた。彼は最終的には小脳から入って報酬系を刺激する方法に至ったという。そうすることで脳の前部のより侵襲性を伴いやすい部分を避けたのである。また電極を置いて、ペースメーカーで刺激できるようにしたという。そして幻聴が聞こえてきた場合に、電線が断線していることがわかる、などのことがあったという。
 たとえば1977年には、奥さんの首を絞めろと言う幻聴に悩まされた患者に電極を差し込み、帰宅させた。しかしまた声が再開したので調べたら、断線していたという。このようにして70名の患者の少なくとも半数はこの治療により効果があったとされる。


2016年7月14日木曜日

推敲 1-①

今日から第一回目の推敲に入る
 
(1)頭(シュ)医者(リンク)は不埒(ふらち)な夢を見る

赤は加筆修正部分

昨夜、おかしな夢を見た。その中で、私は癌を宣告され、余命いくばくもない。自分でも体力が落ちてきているのがわかる。しかし私は特別死を怖くは思っていない。むしろ楽しみなくらいだ。それには秘密がある。死ぬ前に「最後の楽しみ」が取ってあるのだ。
 思えばずいぶんしゃかりきになって走ってきた人生だった。先のことばかり考えていたような気がする。少しでも前に行けないか、そればかりを考えていた。でも最後はゆっくりと、本当の「休息」を取るというのでいいのではないか。努力の結果として受け取る快楽しか自分に許さないという自分が変わってもいいのではないか?
 ふと目の前の予定表を見る。このところ何も予定は書きこまれていない。カレンダーはまっさらだ。ただ一つだけ、一か月後のある日付に「X」と書かれている。そうだ、この日が私のXデイだと主治医に宣告されていたのだ。でもその日まで待つ必要もないだろう。この時折襲ってくる痛みに耐え続けることを思えば、もうこの世に未練はない。それに私にはまだ「最後の楽しみ」が残されている。
私は傍らの未開封の封筒を開ける。何の変哲もない、少し厚みのある茶封筒。他人から見れば、特に重要ではない書類が入っていて、開ける必要すらなくほったらかされたようにしか見えない封筒。しかしそれは特別な印「x」がうっすらと、でもはっきりとつけられているのだ。中からは小型のリモコンのようなものが出てくる。それと一緒に出てくる注意書き。そこには脳の解剖図があり、数か所に点が打たれている。それともう一つの重要な但し書き。「一度ボタンを押すと、もうこのリモコンを手放せなくなるので、くれぐれも注意すること。」
 私は少しためらったあとに私はその「on」のボタンを押す。それは実は不思議なボタンであり、私の脳の数か所がそれによりごく微弱な電気刺激を受ける仕組みになっている。それは「側坐核」や「透明中核」、「中脳被蓋野」などといった部位であり、いわゆる「報酬系」や「快感中枢」と言われている部位である。私の脳のすごく奥深く、中心の部分に細い電線を通して、電極が埋め込まれている。私の友人の敏腕な脳外科医ドクターS(通称、「時々失敗するドクターX」に極秘で手術してもらったのだ。幸い電極のスイッチとはワイヤレスでつながっているので、リモコンボタンで何とかなる。
ボタンが押された数秒後に押し寄せる言いようのない心地よさ。私は感じた。
「これだったのだ!」
私が長らく求めていたが、決して体験できなかったもの。一種の悟りにも似た境地。最後の到達点。お花畑にも似た、華やかで楽しげな、しかしそれをおそらく数倍は増幅したような境地。もういつ死んでもいい。いや、死ぬのはもう少し待ちたい。この心地よさに少しでも長く浸れるのであれば・・・・・。
ここで私は目が覚めたのである。なんと不謹慎な夢を見たのだろう。精神医学や脳科学の知識がなければ見ないような夢。なんとフシダラな人間なのだ・・・・。
ところで「不埒な」、という表現を使っているが、私自身にはこのような夢を見る根拠がないわけではない。人の一生は儚い。大抵の人が、人間が体験しうる最大の苦痛や恐怖も、最上の幸福も体験せずに、普通の人生を営むのではないか。そして人はやがて老い、力尽き、死んでいく。おそらく病院のベッドでごく少数の人に見送られながら。おそらく彼は10年ほど前だったら、「死ぬまでにあれもして、これもして…」と夢見ていた可能性がある。しかしおそらく彼はその10分の一も、百分の一も体験することなく死期を迎えるのだ。彼がチャンスを逃したからだろうか?おそらくそうではない。いざとなるといろいろな事情があり、できなかったのだ。
後に述べることだが、報酬系を別の手段で刺激することに魅了されている人は大勢いる。覚せい剤などはその典型だ。しかしそのための健康被害や払うべき社会的代償はいかばかりのものだろうか? 夢の中の私は違う。自分の脳の一部を自分でチョイチョイ、と刺激して、少しだけいい気持を味わってこの世を去るのだ。恐らく誰も体験しない「最上の幸福」を味わって。これって死刑囚が最後に一服与えられる煙草に似ていないか?

レバーを押し続けるネズミ
報酬系に少しでも関心がある人にとっては、もはや古典的とも言える実験がある。心理学の教科書には必ずと言っていいほどに出てくるが、念のために振り返っておこう。
 1954年のことだから、私が生まれる二年前だ。米国カリフォルニア大学にジェームス・オールズ教授とピーター・ミルナー教授という二人の学者がいて、ネズミを使った実験を行った。ネズミの脳の様々な部位に電極を入れ、ネズミ自身がレバーを押すことで弱い電気が流れ、脳内のそれらの部位が刺激するという装置を作った。彼らは動物の動機づけを知る上で、網様体賦活系というところを刺激することを考えていたという。そしてその部分に電極を差したつもりになっていた。そしてラットの反応を見ていると、どうやらその刺激をラット自身が欲していることをうかがわせる行動を見せた。そこで彼らはラットをスキナーボックスに入れてみた。スキナーボックスには様々なレバーや信号や、それによる報酬を与える仕掛けが備わっている。そこにレバーを設置し、それを押すとラットの脳の該当部位に信号が流れるようにした。すると・・・・ラットは一時間に2000回という記録的な頻度でレバーを押すようになったのである。

オールズらの実験の興味深いところは、ネズミは寝食を忘れて死ぬまでレバーをを押し続けた、というところであるが、おそらくこの実験が革命的であったことは間違いない。それまでどうやら脳というのは、そのどの部分を刺激しても不快感しか生まず、ネズミはそれを回避する傾向にあると信じられていたということだ。

2016年7月13日水曜日

自傷と報酬系 ④


DSMの非自殺的な自傷行為の記載を見ていて思った。三つの場合を想定していることになる。
(1)否定的な気分や認知の状態を緩和する
(2)対人関係の問題を解決する
(3)肯定的な気分の状態をもたらす
ところがここに、例えばヘロインの離脱の状態は入ってこない。禁煙中でどうしても我慢できなくて、リストカットをしました、という話も聞かない。つまり報酬系がその満足のための物質をピンポイントで求めている時、自傷はその代替手段にはならないのだ。ただしその逆はあるかもしれない。失望体験があったのでやけ酒を飲んだ、とか。家族に会えない寂しさから、覚せい剤に走ったとか(某もと野球選手?

報酬系にはいくつかの状態像が考えられるのではないか? 例えば過剰興奮状態や過少興奮状態。精神的な苦しみを抱えて、自傷行為を求める場合には、ある種の精神的な痛みを和らげるためにその手段が選ばれる。ところがそれは特定の満足手段を有するのかどうかにより性質が異なる。
過少興奮状況にある報酬系には、

1.目標となる物質が存在する場合(動的な不快1) ← 自傷は生じない。(自傷では和らげられない。)
2.目標となる行動が存在する場合(動的な不快2)← 強迫行為を行う
3.苦痛を回避している場合 (動的な不快2)
4.心理的な要因がある場合 (静的な不快)← 喪失体験など。自傷により和らげられる可能性がある。

過剰興奮にある報酬系
1.報酬勾配に導かれている場合(動的な快)
2.現時点で快楽を味わっている場合(静的な快)


2016年7月12日火曜日

自傷と報酬系 ③


自傷行為が始まる機序に関する仮説

やはり仮説がなきゃね。もちろん科学的な根拠はあまりない。昨日バスの中で、そして新幹線の中で考えていたが、やはり自傷行為にはある種のストレス状況が存在していたはずだ。ロレッタ・ブルーニング博士もそのエッセイで書いていたのだが、あるストレス状況で、それに対処する手段がないとき、人は、動物は追い込まれて、ふとしたことからパニックボタンの存在に気が付くのであろう。退屈さの極致におかれたサルは、ふと体に及ぼされる痛み刺激が、通常とは違う感覚を生むことを知る。腕をひっかく、足をどこかにぶつける、などの偶発的な出来事かもしれないが、それで十分だ。腕をひっかいても痛みではなく、何となくほっとして心地よさを与える状態になっていることに気が付く。そうして意図的な自傷行為が成立するのであろう。
このように考えると、自傷行為の成立には、極度のストレス状況、それもおそらくは幼少時に生じたもの、という仮説が成り立つのだ。ふつう私たちはストレス状況に置かれて、ある種の活動を行うことで窮地から脱出する。天敵に襲われそうになったら、物陰に身をひそめたり、必死で逃げたりするだろう。しかし自傷行為が生じるような状況では、ストレスを軽減する具体的な手段が何もない、という事情があるのだろう。退屈さもそうであるし、怒りや反抗心を表出するような機会が奪われていてその状況に耐え続けなければならないこともあろう。その時にパニックボタンが押されるのだ。
痛覚刺激からパニックボタンへの推移の成立は、種々の精神神経学的な障害でも生じることが知られる。自分の唇さえ噛み切ってしまうようなレッシュ・ナイハン症候群など。まあ一種の脳の配線異常ということになるのだろう。そしてもちろん幼少時の虐待状況もこれに相当することになる。
ちなみにDSM-5には付録に「今後の研究のための病態」というのがあり、そこに非自殺的な自傷行為 Nonsuicidal Self-Injury という項目がある。参考までに。

A.その損傷が軽度または中等度のみの身体的な傷害をもたらすものと予想して(すなわち,自殺の意図がない),出血や挫傷や痛みを引き起こしそうな損傷(例:切創,熱傷,突き刺す,打撲,過度の摩擦)を,過去1年以内に,5日以上,自分の体の表面に故意に自分の手で加えたことがある
注:自殺の意図がないことは,本人が述べるか,または,死に至りそうではないと本人が知つている.または学んだ行動を繰り返し行つていることから推測される
B. 以下の1つ以上を期待して,自傷行為を行う
(1)否定的な気分や認知の状態を緩和する
(2)対人関係の問題を解決する
(3)肯定的な気分の状態をもたらす
注:望んでいた解放感や反応は自傷行為中か直後に体験され,繰り返しそれを行うような依存性を示唆する行動様式を呈することがある
C. 故意の自傷行為は,以下の少なくとも1つと関連する
(1)自傷行為の直前に,対人関係の困難さ,または,抑うつ,不安,緊張,怒り,全般的な苦痛,自己批判」のような否定的な気分や考えがみられる
(2)その行為を行う前に,これから行おうとする制御しがたい行動について考えをめぐらす時間がある
(3)行つていないときでも,自傷行為について頻繁に考えが浮かんでくる
D. その行動が社会的に認められているもの(例:ボディービアス,入れ墨,宗教や文化儀式の一部)ではなく,かさぶたをはがしたり爪を噛んだりするのみではない
E その行動または行動の結果が,臨床的に意味のある苦痛,または対人関係,学業,または他の重要な領域における機能に支障をきたしている
F その行動は,精神病エピソード,せん妄,物質中毒または物質離脱の間にだけ起こるものではない。神経発達障害をもつ人においては,その行動は反復的な常同症の一様式ではない その行動は,他の精神疾患や医学的疾患(例:精神病性障害,自閉スペクトラム症,知的能力障害,レッシュ―ナイ八ン症候群,自傷行為を伴う常同運動症,抜毛症,皮膚むしり症)ではうまく説明されない。


2016年7月11日月曜日

自傷と報酬系 ②


報酬系はおそらく細胞死を防いでいる(仮説)あるいは
「自傷行為に至る精神は渇望に似ている」

これまでの私の思考過程を要約すると、自傷行為は、心が限界状況に達した時のパニックボタンである、ということだ。それまでは痛みという不快刺激しか与えなかった自傷行為が、突然自分を救ってくれる行為となる。普段は絶対押すべきでないボタンが、緊急時用のパニックボタンでもあった?報酬系とは駆け込み寺なのだ。そこが発動することで、精神が破滅の危機から救い出される。精神の、というか中枢神経系の、と言うべきであろう。危機状態が長く続くと、神経細胞のアポトーシス(自然死)を起こしかねない時に、報酬系はその興奮を強制的に和らげる。その意味で神経を保護しているのだ。最近の神経保護 neuroprotection は、一つの学会が出来るほどだが、( Global College of Neuroprotection and Neuroregeneration (GCNN))報酬系は絶対に細胞死を防いでいる、というのが私の仮説である。
私の発想は、ここから渇望の問題に飛ぶ。渇望とは何か、は私が昔から考えていたテーマである。脳の中は一体どうなっているのか。たとえば「苦しい…ヤクが欲しい…」は渇望だろうが、「苦しい…おなかが痛い…」とどこが違うのだろうか?プロレスなどで、寝技をかけられ「て苦しい…、ギブアップ…」とマットをたたいてサインを送るときは、渇望と似ている。だが急性膵炎で喩えようのない苦しみには、「ギブアップ」が存在しない。それでお腹を抱えてうずくまるしかない。それどどう違うのか。
幸いなことに極度の苦しみは、そのうちその人の意識を奪う。人はもうろうとなり、そのうち意識を失うということで極限状態に対処するのである。はるか二十数年前、神さんの出産に立ち会ったが、陣痛が始まった時は余裕だったが、そのうち苦しみだし、会話が出来なくなり、うずくまる様になった。これは苦しそうだな、と横で見ていたら、そのうち朦朧となっていったのである。その時点で無痛分娩に切り替えたのであるが、この体験は神さんのトラウマにはなっていない。あれほどの苦しみだったのに。意識には体験できる苦痛に上限があり、それ以上は免除してもらえるというのは見ていて少し安心したが、そこで起きているのは神さんのように意識が薄れるか、あるいは解離のように、意識を痛覚から切り離すというメカニズムである。すると渇望とはそうなる直前の、ある意味では意識が体験できる苦しみの限界ということになろうか。そしてそれに対する出口が用意されているが、得られないということを同時に意識が知っている状態。時々思うのだが、渇望の時の苦しみは、残っている意識で体の姿勢を保ち、周囲の目を気にして普通にふるまうことに限界を感じている状態とは言えないだろうか。極度の痛みを体験している時、人は最終的にうずくまってしまい、その先には意識消失が待っている。ところが人前でその痛みを隠さなくてはならない事情があるとしたら、その時の苦痛は姿勢や表情の維持ということに起因するだろう。通常は自然に出来ていることを一つ一つ随意的にこなさなければならなくなり、言わばその労作がそのまま苦しみとなる。ちょうどマラソンでゴール手前になると、普段は当たり前のように踏み出している一歩一歩が苦痛となるように。
そう、細胞死の話だった。精神医学の基礎知識として言えるのは、神経細胞は過剰な興奮によりカルシウムチャンネルが開いてたくさんのカルシウムイオンが細胞内に流入して、それが細胞を殺してしまうという、先ほどのアポトーシスという現象が生じるのである。報酬系がすることは、快感を提供するというよりは、過剰な興奮にさらされている神経細胞を強制終了してしまうという意味があるのではないか。まさに英語圏の人々が言うところの reduce the tension が生じるというわけだ。その意味では、渇望≒自傷行為に至る状態、ということが出来るのではないか。

2016年7月10日日曜日

自傷と報酬系 ①

自傷と報酬系 

自傷と報酬系との密接な関係は、ここまで本ブログを読んで来られた方にはもはや明らかであろう。世の中には自分を傷つける行為を繰り返してしまうひとがいる。「いろいろなハイがある」の章にもそれは描かれていた。自傷行為の存在は長年心理学者や精神医学者の関心の的であったことは間違いない。それに対する理解の仕方の雛形となったのが、自罰傾向である。
私が精神科医として駆け出しの頃、昔出会った忘れられないケースがある。彼女は20代後半の女性で、最近結婚した同い年の御主人と幸せな日々を送っていたが、徐々に一つの問題が生じるようになった。ご主人が朝出かけることに耐えられなくなっていったのである。ある朝、どうしてもご主人が出かけなくてはならないときがあった。すると彼女は自傷行為に及んだのだ(詳細は割愛)。
私は自分を傷つけるということの意味をそれまでまったく知らないでいたが、そこで一つの明らかなことを知った。彼女たちは精神的な辛さに出会ったときに自分の体を傷つけるということである。この一見矛盾した行為が自傷の本質であるということをまだ十分につかめないでいた。
米国でも同じだったが、一つ患者さんが繰り返すことで馴染みになった言葉があった。それは自傷することで reduce the tension が生じる、という言い方である。テンションが下がるということだる。 
この自傷行為について、動物の観察から見てみよう。というのも自傷行為は動物でもしばしば観察されるからだ。たとえばアカゲザルは自分をかむという行為をしばしば見せる。一般に霊長類は極度に退屈すると常同行為をはじめ、終いには自分自身にかみつくという行為に及ぶという。動物がフラストレーションを与えられて逃げ場をなくすとき、それは自分の一部を繰り返し噛むようになるといわれる。(以上、National Geographic Blog
The Science of Self-Mutilation Posted by Rebecca O'Connor in Taboo on June 22, 2012)
ある心理学者の書いた記事は、自傷行為について一つの重要なヒントを与えてくれる。ロレッタ・ブルーニング博は Roletta G. Breuning Ph.D は、“Self-Harm in Animals: What We Can Learn From It. Self-destructive behaviors get repeated until they’re replaced.( Posted May 21, 2013 at Psychology Today”Website) で、霊長類の観察を通して、動物が毛を抜く行動は、単なるトラウマやストレスのせいだと理解するわけにはいかないという。サルの子は親が自分の毛を抜くのを見て模倣することもあるという。そしてこれが一種のグルーミングの延長にあるという理論を提唱する。グルーミングは基本的には自分を慰撫する行為 self soothing behavior であることは確かだ。動物はそれを相手に対して行い、社会的な結びつきを深めるが、自分に対しても行う。それが度を外した形で生じるのは、ストレスやトラウマに対してそれを回避する手段がない状況に追い詰められた状態であるというのだ。それは極度のフラストレーションや「テンション」を和らげてくれる、という意味なのだ。
ただここで一つ不思議な現象がある。それは自傷行為は痛みを通常は伴わないということである。それよりはむしろ快感を、ハイを感じさせる。
結局自然が動物に、そして私たちに与えてくれたメカニズムは以下のとおりである。動物が極度のストレスにおかれ、そこから逃げられる手段がない場合(それには極度の退屈さも含まれる。退屈さとは過剰なエネルギーと時間を持っていてもそれを投入する手段を持たない状態だからである) 自傷行為は、精神的な崩壊を防ぐために報酬系を刺激するための手段なのだ。しかし報酬系が直接刺激されるような特別なボタンなどない。そこで非常ボタンが用意されている。それは通常は押されないのは、それが自己破壊的であり、その際は痛みという信号でアラームが鳴り渡り、そのボタンが押され続けることを防ぐ。ところがストレス下では、そのボタンが緊急ボタンとなる。痛みは解除され、直接報酬系に直結するのである。なかなかいい例えではないか。