2014年11月22日土曜日

発達障害と心理療法 (2)

アスペルガー障害―解離性障害の反対側にいる人たち

私がNDDの問題に出会い、どのような意味で関心を持ったかについてのプロセスを示したい。
 私は2004年に帰国したが、間もなく私は多くの解離の患者さんの治療をすることになった。私の勤務先の外来に、新患として訪れる方の多くが、解離性障害としてほかの治療者から紹介されていらっしゃることになったからである。私は別に「解離外来」を開いているわけでもなく、これは私にとっては予期しなかったことであるが、そのような事態になった。これは一つには、私はアメリカに滞在中の1990年代から、外傷に関する論文を書いていたという事情がある。そして外傷関連の論文として、PTSDも解離についても同じくらい扱った論文や報告をしているはずであったが、PTSDについてはその治療を標榜する方が日本でどんどん増えていったにもかかわらず、解離を扱う臨床家は一向に増えていかないという事情があった。
  こうして私の解離性障害の患者さんとの長い付き合いが始まったが、私が非常に印象的に思うのは、解離の患者さんたちがいかに治療関係を重んじ、律儀に外来にいらっしゃるかということであった。彼女たちの多くはアポイントメントには必ず時間通りに現われ、こちらに気を使ってくれるということである。彼女たちとの治療関係やラポールは比較的形成されやすいというのが私の偽らざる体験であった。むしろそれが彼女たちの問題になっているとさえ言ってもいいかもしれない。
 ただしもちろん形成したのは彼女たちが持っている多くの人格の中で渉外担当の対人関係のスキルを持っている人格ということもできるであろう。ともあれ彼女たちとのラポールが成立しやすいということは、逆にいえば彼女たちの過剰適応を表している可能性があるともいえるのである。
 解離性の患者さんたちとの治療は多くの場合カウンセリングのプロセスを、薬物療法と組み合わせることで成立する。そこで私は多くの心理士さんたちの協力のもとに外来を行っているわけであるが、患者さんたちの多くは心理士さんたちとの治療関係を維持することがうまくいっていく。ただしもちろんここでも患者さんたちが無理して心理士さんたちと合わせている、という可能性があるという問題がある。
やがて私は次のような図式を頭の中に思い浮かべるようになった。

解離傾向≒相手を思いやる傾向≒相手の気持ちが敏感にわか(りすぎ)る傾向。

2014年11月21日金曜日

発達障害と心理療法 (1)

オトナの事情が止まらない。このテーマで考える必要が生じた。実は一年半前にまとめたことがあるので、その蒸し返しである。
 まずはこんな感じ。そもそも発達障害という概念の高まりは一体どうなっているのだろうか?留まるところを知らないようである。猫もなんとかも発達障害。私も同様だ。発達障害の概念の興味深さは尽きない。
ここでDSM-5に敬意を表して、「神経発達障害(NDD)」という呼び方をしよう。なんだかこれだとずいぶん響きが違うけれど。ともかくも私はNDDという病理の理解を深めることで、パーソナリティ障害(PD)についての捉え方が大きく変化するものと考える。そしてそれが精神療法的なかかわりに大きく関係すると思うのだ。
NDDの基本的な特徴は、持続する深刻な対人的相互反応の障害と,限定的,反復的な行動,興味,活動の様式として捉えられる(DSM-IV)。NDDを持つ人々の深刻さはさまざまであり、ひとつの大きなスペクトラムを形成しているものと考えられる。そしてそのうち軽症例ではNDDというよりはむしろPDとしての様相を呈する。実際に臨床場面で出会うNDDを有する人々の多くはさまざまな対人関係上の特徴を示すことが多い。それらは猜疑心や被害念慮のつよさ、他罰的な傾向などである。さらに他者に対する配慮や思いやりを欠いた言動が目立つ場合には、その分だけ集団への適応も制限され、またその問題が治療関係にも持ち込まれて逆転移感情を生み、治療関係をも危うくしかねない。
NDDを有する人々の思考プロセスはしばしば全か無か、all good  all badかといったスプリッティングの傾向を示し、その意味であたかも境界パーソナリティ障害(BPD)の心性を反映したような行動を招きやすい。ただしBPDの場合のスプリッティングは他者からの強烈な見捨てられ不安に由来するのに対して、NDDの場合は、相手の心が読めないことから来る猜疑心や人間不信に由来するという点が異なるであろう。ただしもちろんこのような傾向を示さないNDDの人々も多く、また男女でその対人関係上の特徴には差が見られる。
ASPをひとつのPDとして考えることは、それと類似するPDとしてのスキゾイドパーソナリティ障害(SPD)や回避性パーソナリティ障害との区別の問題を提起する。これはこの間、杉山先生もおっしゃっていたな。SPDの際立った特徴は、感情的な冷たさ、他者への無関心さなどとされるが、それらはNDDの人々が示す猜疑心や人間不信と重なる可能性があり、その意味で従来はSPDと分類されてきた人々の多くが実はASPである可能性がある。

NDDの特徴を「人の心を読めないこと」と単純化するならば、同類の問題を抱える他の障害との比較を行なうことは、その鑑別診断にも役立つであろう。それらは、見捨てられ不安に駆られて人の心を読まなくなるBPD 、人の心を読む必然性を失っている自己愛パーソナリティ障害、相手に圧倒されてその心を読む発想を持たない社交不安障害、人の心が妄想的に読めてしまう精神病状態などである

2014年11月20日木曜日

汎用性のある精神療法の方法論の構築 (4)


汎用性のある精神療法に欠くことの出来ない倫理則
最後に技法と倫理の両立性について書いておきたい。私がこれまでに述べてきたことは、さまざまな立場を包括するという方略であり、姿勢である。しかしこれらの試みを最終的に包含するのが倫理の問題であると考える。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つと考える。考えてもみよう。汎用的な精神療法の在り方に基づき、関係論的な問題を意識し、しかも脳科学的な見方についてもわきまえる治療者が、実は人間として信用することが出来ないとしたら、どのようなことが起きるだろうか?治療者が技法を、治療原則を、治療構造を駆使して治療を行うものの、それが自分のための治療であったら?
 「治療者が患者の利益を差し置いて自分のために治療をすることなどありえない」、という方もいるかもしれない。しかし基本的には治療的な行為は容易に「利益相反」の問題を生むということを意識しなくてはならない。「あなたは治療が必要ですよ。私のところに通うことを勧めます」には、すでに色濃い利益相反が入り込む可能性がある。
ちなみにこの問題について、かつて私が論じたもの(岡野:精神分析のスキルとは?(2)(精神科 21(3), 296-301, 2012)があるので、その要旨を掲げたい。また精神療法に欠くことの出来ない「倫理則」について、かつて私は30の基本指針を考えて本にした(心理療法/カウンセリング 30の心得』みすず書房、2012年)ので、それも参照していただきたい。
精神分析の理論の発展とは別に進行しているのが、倫理に関する議論の流れである。そして最近の精神分析においては、精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっている。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、インフォームド・コンセントを取りあげるならば、それは伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであるが、チェストナットロッジをを巡る訴訟などを精神分析の立場からの倫理綱領の作成を促すきっかけとなった。それらとしては分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている。
 これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
  他方「汎用性のある精神療法」はこの倫理則とどう関係しているのだろうか?「汎用性…」は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するものという特徴がある。それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「汎用性…」はその時々の患者の状況により適宜必要なものを提供するからである。結論としては、少なくとも精神分析的な「基本原則」に関しては、それを相対化したものを考え直す必要があるが、「汎用性…」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が考えられるということがいえよう。

2014年11月19日水曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(7)

「オトナの事情」が5つも重なるとつらいなあ。

4.今後の精神分析に向けて ― 離散的、非力動的な心の在り方の提案

これらを通して浮かび上がってくるのが、私が言うネットワーク的かつモジュール的な脳であり、それを通して生まれてくるのが非力動的な精神分析である。私たちは患者の言葉をまず信じつつ、深読みをせず、様々な離散的な心の在り方に目を向け、そのトラウマに根差した病理を理解しつつ、主としてサポーティブな姿勢で、治療を行っていかなくてはならない。

私がこれまでに示したような内容を踏まえて心/脳を眺めてみよう。脳とは途方もないキャパシティを備えたネットワークである。しかしそれは情報処理を行うだけではなく、判断をし、行動を起こすシステムである。その最終的な目標は生命維持といえるだろう。もちろんリチャード・ドーキンスの言うように、生物の最終目標が自分の遺伝子を後世に伝えることだとしても、動物はそれを知るよしもなく本能に突き動かされる。そこで働いているのは快・不快というスイッチであることはほぼ間違いないであろう。鮭が古巣の川の上流に向かって身をボロボロにしながら遡行するとき、彼らは川上に向かうことによる強烈な快に突き動かされているか、あるいは川下に留まることの苦痛や恐怖に突き動かされているかのどちらかである。そしてそこで出会う様々な敵との戦いに生きながらえるためのシステムが闘争逃避反応であり、それを支えるシステムがル・ドゥの描いた視床―皮質―扁桃核の経路である。
 私たちがこのようにして脳/心の在り方を理解する以上は、生命維持に反する自己破壊本能、つまりフロイトの掲げた死の本能は大胆に無視していいだろう。大脳生理学的な研究の理解は、死の本能を支持するような脳の機関を決して発見したとは言えないからだ。
 ただし私たちは1970年代よりトラウマの精神病理を学んでいる以上、以上に述べた闘争―逃避にもう一つの解離的な反応、つまりフリージング反応があることや、トラウマへの反応としてそれの反復的な体験についての知識を有しており、それがフロイトが死の本能と誤解し多心の病理の正体である可能性がある。
さて生命維持の次に必要なのは生殖であり、私たち人間もそれに対する強い欲動を有している。これは人間に備わった宿命、と考えるよりは、生殖活動に対する欲求が強い私たちが自然に選択されて今日の世界があるわけである。私たちはある意味ではこれまでの人類(あるいは生命全体)の中で絶倫中の絶倫の個体であり、生殖競争の最終予選まで残った者たちである。ただしフロイトのように幼少時の性的欲動を想定する根拠も十分にあるとは言えない。その意味では性愛の持つ意味を重視しつつ、フロイトの性欲論を大幅に棄却しなくてはならないであろう。
さて生存のための情報処理システムとしての脳に戻るが、そこでの活動の大半は無意識的に行われるということになる。それは意識化されるということが、脳が行っている予想にとって例外となるような事態しか意識化されない、というより開始期はそれ以外のことに忙殺されることで情報処理ができなくなると考えるべきであろう。いわば意識は中央処理システムで、端末からの異常のみを拾って決断を下しているようなものだ。しかしその決断さえも、かなり無意識レベルで行われているという見方を私は示した。中央処理システムではそれを承認、追認、ないし理由づけしているにすぎないといっていいであろう。その意味では無意識に圧倒的な意味を与えたフロイトの見方に近いことがわかる。
人は意識に、自主性や創造性を付与するかもしれない。しかしそれさえも大半は無意識的に行われることについては、ベンジャミン・リベなどの研究を示したことで納得して頂けるであろう。
それでは無意識的な決断や創造の生成過程をどのように理解するべきか。ここからは私の考え方であるが、おそらく快感中枢の影響が非常に大きく左右している。何を食するのか、だれと会うのか、週末にどの映画を借りるのか、物事にどのような理解を行うのか。これらはすべて快感中枢におけるドーパミンシステムにより判定される。回転寿司屋に入り、どの皿に手を伸ばすかは、具体的にはどれを食べた場合により多くのドーパミンが分泌されるかによる。この将来の快感の査定を、おそらく人は無意識レベルで、時には意識レベルで行っている。その際何がドーパミンを多く産出するかは、きわめて偶発的で恣意的な部分を含む。もちろん真っ先にマグロを決って注文する人の場合、その意味でドーパミンシステムの決定はゆるぎない。しかし最初に中トロか大トロか、いくつ食べるのか、その間にいつお茶をすするのか、などになってくると、たちまちドーパミンシステムによる決定は恣意的で予測不可能になっていくのである。

このように考えると結局、心とは離散的な在り方をする、という結論に落ち着く。こころは常に首尾一貫した論理を追及しているとは限らない。むしろ無意識≒ネットワークに生じる様々な動きがあり、それがsalient なものとなった時に意識に上る。意識はそれを理由づけする(ことに快感を覚える)という考え方が妥当であろう。
私はここでさらに非力動的な精神分析学という概念を提唱したい。力動精神医学は、そこに防衛や抵抗という概念を色濃く含む。そこにはある種の真実が意識下に存在し、それが表層に出ることに対する防衛が症状形成に関わるという考え方がある。しかしそこにはある種の機械論的、論理的な心の働きが前提となり、そこには象徴解釈などの知的なアプローチにより心の問題の解決を目指すことができるという前提がある。しかしこれまでみたとおり、心の働きは極めて恣意的、不可知的な面を持つ。治療場面は理屈では説明できない様々な行動化やエナクトメントに満ち溢れているのである。

治療論に向けて

ではこのような脳の在り方を受け入れた場合の私たちの治療はどのように変わるのか。
おそらく治療の中核は、患者さんの中に起きているネットワーク間の結びつきをより豊かなものにすることに貢献するということだろう。患者さんの頭の中でAという記憶とBという記憶は結びついていない可能性がある。治療者の中にそれらを結び付ける根拠があるとしたら、その提案は意味を持つだろう。
他方でおそらく私たちがよほど警戒しなくてはならないのは、私たちの持つ理由づけ、「解釈」の傾向である。もちろん解釈が「AB、すなわちABが関連している」という意味で用いられるのであれば、今述べた根拠から治療的な意味を持つであろう。(もちろんABが治療者の単なる思い付きだったり、患者が拒絶したりするなら、意味はないが。) そうではなくて、解釈が「AB、すなわちABだからだ」、という理由づけの文脈で用いられるとしたら、それは注意すべきであろう。フロイトが考えていた心の在り方は理論的で機械的なところがある。夢の象徴解釈などはそれの典型といえる。でも先ほど述べたように、脳の在り方は、離散的、そして非力動的である。

私が最終的に提唱するのは、非力動的な精神分析であり、それは患者の心に起きていることをそのまま受け止め、治療者の心に浮かんだ結びつきについては、その知性化の可能性を注意しつつ患者に提案するという作業である。

2014年11月18日火曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(6)

3.セントラルストーリーとしての発達―愛着―右脳―解離路線

  2.ではハードウェアとしての脳について、① それが脳は情報処理をするシステムである、② 脳の活動の実態部分は「無意識」である、③ 脳は快、不快を感じるシステムである
という三点について論じた。
もちろんそれが生まれた時から成立しているわけではない。更にそのような脳は幼少時より数多くの臨界期を重ね、そこで遺伝子の発動と環境との精妙なやり取りを通して形成され、成立していく。脳のそのような在り方が順調に成立するか、あるいは何らかの異常を伴った形で発達しているかは、そのやり取りの行われ方如何にかかっているのである。しかしこのように言うことは、人間の性格や精神病理が、母子関係に代表されるような養育環境により大きく左右されるということを必ずしも意味はしない。現在の発達論的な研究が繰り返し示すのは、フロイトが提唱したようなエディプス的な葛藤に代表される親子間の体験が子どもの人格形成に与える影響が最小限ですらあるという事実である。
 マット・リドレーは「やわらかな遺伝子」という著書で、従来の「氏(うじ)か育ちかnature or nurture」という考え方を批判し、氏も育ちも、あるいは「育ちを通した氏(うじ) Nature via Nurture(この本の原書の英語の題名でもある)という考えを提唱する。私たちはともすると、「人は生まれつきどのような存在になるかを遺伝子で規定されている」という考え方か、「いや、育ち、つまり養育環境ですべてが決まる」という主張のどちらかに偏りがちなのだが、まさに両方が人(の心、脳)の成立に関与しているということをわかりやすく説明している。彼はたとえばローレンツの刷り込みの例を挙げ、灰色ガンが生まれてすぐに目にしたものの後を追うという現象を説明した。しかしこれは特定の遺伝子がほんの一時期の臨界期にスイッチオンになった時の環境を取り込む、という現象で説明される。それを過ぎると灰色ガンは何を見てもそのあとを追うことがなくなるのだ。
 これはどういうことかというと、遺伝子は単なる青写真ではなく、それがいつスイッチ・オンになるかまで極めて細かく決められていて、その間にどん欲に環境を取り込むということなのだ。そして人の脳にはこのような臨界期が幾重にもあり、その時々で「育ち」の影響を取り込んでいく。つまりその意味では人の脳は、育ちのコラージュと言ってもいいであろう。ただそのハードウェアの大枠は遺伝子で規定されている。脳のサイズも、どこの部分が本来大きくなるか、なども決められているところがある。IQも半分はその傾向があり、すなわち臨界期に育ちを取り入れる程度や質が、遺伝子により定まっているところもある。いわば遺伝子は育ちを取り入れる受け皿であり、そこにどのような育ちが入ってくるかに個人差があることになる。たとえば言語能力に優れた子供は大きめの受け皿を持っていても、そこにどのような言語の刺激が、どれだけはいるかにより言葉の能力が決まってくるように。
このように考えると、母子関係とは、育ちのコラージュとしての脳が形成されていく上で重要な役割を果たすものの、それがその養育態度により特異的な性格を形成する役割を果たすというわけではないということだ。安全な母子関係とはちょうど木が育つための土のようなものだ。それが程度の栄養を備えている限りは、苗は順調に、そして自分の思うままに枝を伸ばして言う。しかし問題はそれが外傷的であったり、必要な栄養を備えていない場合、すなわち虐待的であったりネグレクトフルな環境である場合である。
この比喩からお分かりの通り、一般的な意味での母子関係、親子関係の子供に対する影響を考える代わりに、愛着の重要性を考える傾向が、最近の精神分析には顕著であるといえよう。特に虐待的またはネグレクトフルな環境での愛着に付随するトラウマ、すなわち愛着トラウマについての研究が盛んである。
発達論的な立場から脳科学と精神分析をつなぐ大きな役割を果たしているのが、アメリカのボールビィとも言われているアラン・ショア先生である。彼の愛着理論は解離の概念と極めて深い関係がある。ショアによれば、、愛着の問題にまでさかのぼることで、解離という心の働きを理解することができるというのだ。
母親による情緒的な調節を行えないと交感神経が興奮した状態が引き押される。すると心臓の鼓動や血圧が更新し、発汗が起き、一種の興奮状態が訪れる。しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。するとむしろ鼓動は低下し、活動は低下し、ちょうど擬死のような状態になる。この時とくに興奮しているのが背側迷走神経のほうだ。(迷走神経を腹側、背側に分けて考えるのは最近の理論である。)解離は生理学的にはこのような状態として理解できるというのである。つまり解離は、愛着障害による二次的な反応と言えるのだ。
そしてショア先生は特に、いわゆるタイプDの愛着について詳しく論じる。タイプDの愛着とは、メアリー・エインスウォースの愛着の研究のあとを継いだメアリー・メインの提唱したものである。ここで若干ではあるが、この愛着理論の由来となった研究について一言解説しておく。この研究は、子供を実験室に招き入れ、親が出て行ったところで子供が残された部屋にいきなり他人が侵入するといういわゆるストレンジシチュエーションで、ストレスにさらされた子供が示す反応についての分類である。このうちA,B,Cという分類を行ったのがエインスウォースだが、メアリーメインという後継者が、ソロモンとともに新たに発見して提唱したのタイプDである。このタイプでは子供は親にしがみついたり、親に怒ったりというわかりやすいパターンを示さず、混乱してしまうのだ。ショアによれば、タイプDの特徴である混乱disorganization と失見当は、解離と同義だという。これは虐待を受けた子供の80パーセントにみられるパターンであるという。
 わかりやすく言えば、このパターンを示す子供の親は虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に素直によっていけない。だから親に向かって後ずさったり(親に向かっていくのではなく)、親とも他人とも距離を置いて壁に向かって行く、などのことが起きるという。
このように解離性障害を、「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与える。

このタイプDについて付け加えるならば、これを示す赤ちゃんの行動は、活動と抑制の共存だとショアはいう。つまり他人の侵入という状況で、愛着対象であるはずの親に向かっていこうという傾向と、それを抑制するような傾向が同時に見られるのだ。そしてそれが、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。そしてそれがまさに解離状態であるというのだ。
これに関するもう一つの研究は、Tronick らによる、いわゆる「能面パラダイムstill-face procedure 」である。つまり子供に対面する親がいきなり表情を消して能面のようになると、こどもはそれに恐れをなし、急に体を支えられなくなったり、目をそらせたり、抑うつ的になったり、と言った解離のような反応を起こすというのだ。
このタイプDの愛着の概念が興味深いのは、そこで問題になっている解離様の反応は、実は母親の側にもみられるという点だ。母親は時には子供の前で恐怖の表情を示し、あたかも子供に対してそれを恐れ、解離してしまうような表情を見せることがあるという。そして母親に起きた解離は、子供に恐怖反応を起こさせるアラームとなるというのだ。(同論文114ページ、引用された文献はHesse, E., & Main, M. (2006). Frightened, threatening, and dissociative parental behavior in low-risk samples: Description, discussion, and i nterpretations. Development and Psychopathology, 1 8, 309-343. (つまりこれもメインの業績ということか。怪物だな。) 
このことからショアが提唱していることは極めて重要だ。幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。それはより具体的に言うならば、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンfiring patterns of the stress-sensitive corticolimbic regions of the infant's brain, especially i n the right brainの取り入れ、ということである。ちょうど子供が母親の発する言葉やアクセントを自分の中に取り込むように、と言ったらもう少しわかりやすいかもしれない。そしてこれが、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。そしてそこに解離様反応の世代間伝達も含まれる、というわけである。
これを書いていてひとつ思い出したことがある。すでに紹介したマット・リドレーの「柔らかな遺伝子」には、子供に育てられたサルが蛇を怖がらないという話が出てくる。そこで蛇に野生のサルが反応するのを子ザルたちに見せると、いっぺんで怖がるようになるという。野生のサルが檻のてっぺんまで飛びのいて、驚愕に口をパクパクさせるのを見た後は、子ザルたちは模型の蛇でさえ怖がるようになる。これはどういうことか。ある見方からすれば、子ザルたちは母親の情緒反応パターンを取り込んだのだ。ショアの言うとおりに。ところが別の見方をすれば、一緒にトラウマを味わったことになる。子供が幼少時に受けるトラウマはこのように、刷り込みの意味を含むからこそ意味が深いことになる。おそらくトラウマを起こしてきた人の様子も含めて、右脳の皮質辺縁系の回路に刷り込まれるというわけだ。そしてそれが解離についてもいえるということになる。
解離と右脳
 これまでの記述から、解離と愛着の問題の概要がご理解いただけたと思う。解離において生じていることは、愛着の障害の一環として理解できる。それは生理学的に言えば、交感神経の過活動の次に起きてくるフェーズである、副交感神経の過覚醒状態ということが出来る。
 ところで愛着や解離の理論において、特にショアが強調するのが、右脳の機能の優位性である。そもそも愛着とは、母親と子供の右脳の同調により深まっていく。親は視線を通して、その声のトーンを通して、そして体の接触を通して子どもと様々な情報を交換している。子供の感情や自律神経の状態は安定した母親のそれによって調節されていくのだ。この時期は子供の中枢神経や自律神経が急速に育ち、成熟に向かっていく。それらの成熟とともに、子供は自分自身で感情や自律神経を調整するすべを学ぶ。究極的にはそれが当人の持つレジリエンスとなっていくのだ。
逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが解離の病理にもつながっていく。つまりトラウマや解離反応において生じているのは、一種の右脳の機能不全というわけである。ショアがこれを強調するのには、それなりの根拠がある。というのも人間の発達段階において、特に最初の一年でまず機能を発揮し始めるのは右脳だからだ。そのとき左脳はまだ成熟を始めていない。するとたとえば生後二か月になり、後頭葉の皮質のシナプス形成が始まると、その情報は主として右脳に流れ、右脳が興奮を示す。(Tzourio-Mazoyer, 2002) (Tzourio-Mazoyer,N.,DeSchonen,S.,Crivello,F.,Reutter,B.,Aujard,Y. & Mazoyer,B . (2002). Neural correlates of woman face processing by2-month-old infants.Neuroimage, 15,454-46l.)
  

2014年11月17日月曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(5)


③ 快、不快を感じるシステムである

これまで論じた①、②で論じた脳は情報処理だけでなく、情動を感じるシステムでもあった。ル・ドゥの「速い経路 low road」、「遅い経路 high road」はいずれも扁桃核に情報が至ることにより、戦うか逃避するかの選択を促す。しかし心は闘争/逃避反応を示すだけではない。快を体験し、未来の快を期待し願望するシステムでもあり、それが人間の営みである。
 フロイトはそのような心のあり方をいわゆる「快感原則」として説いたことで知られる。「精神現象の二原則に関する定式」(1911)において、フロイトは無意識においては願望が幻覚的に充足され、それが快感原則であるとした。そして現実にはその充足が即座には生じないため、それを長期的に成就しようとする原則を「現実原則」としたのである。
 この二つの原則がフロイトにとって重要な意味を持っていたのは、それが彼の心のモデルから必然的に導かれるものだったからである。フロイトはそのキャリアにわたって心の中に流れるエネルギー(リビドー)を想定していた。それが貯留、鬱滞するのが不快、発散するのが快であると考えた。そしてそれが夢や無意識的な活動でのみ発散されるため、人間はそれを現実の生活でも実現するために努力をする。
ただしこの快感原則に深刻な疑問を自ら投げかけたのが、1920年の「快感原則の彼岸」であった。彼はこれを書いた動機として、快楽原則に反するような行動、つまりそれ自体が不快で不安を呼び起こす事柄を人がどうして反復して想起するのか、という疑問を持ったのだ。フロイトが当初持っていた願望充足としての無意識的活動や夢、現実におけるその遅延された成就という考えについて深刻な再考を迫られていたことは確かであろう。
ちなみに私はフロイトの「夢は願望充足である」という説に最初に出会った時、その意味の一部はよくわかった気がした。私は幼いころ、「目を覚ますと欲しかったものが枕元にある」、という夢を何度も見た。さっそく夢から覚めて枕元に手を延ばすが、そこには何もない。その時の深刻な失望をはっきり覚えている。夢で得られた満足は覚醒した時の失望につながる。空想で何かいい出来事を考えても、そこから覚めると現実に引き戻される。このことを幼いころから何度も繰り返しながら私たちは成長していく。しかし夢には不快な夢もあるし悪夢もある。それらの夢を願望充足的だと理解するのには当然無理がある。だから「快感原則の彼岸」でフロイトが至った結論は、むしろ常識的と言えるだろう。
フロイトが「快楽原則の彼岸」で至った結論はおそらくとても常識的であり、妥当なものだった。確かに人間の行動や体験には、少しも快感の追及につながるようには思えないものも多い。かつて私はフロイトの「精神現象の二原則に関する定式」の現代的な意義について論じたことがある。現代フロイト読本1(みすず書房、2008)に収められた論文で、私はフロイトの快感原則を「心は真の願望を最終的に満足させるべく働く」と言い換えたうえで、それは現在の心の在り方についても妥当であろうこと、ただしその真偽を確かめる方法はない、ということを論じた。
 そのようなフロイトの考えのある部分を支持し、別の部分を変えたのが、1954年、オールズとミルナーによる快感中枢の発見であった。ネズミはそこに電気刺激を加えて興奮させるような装置を装着すると、それこそ寝食を忘れてレバーを押し続ける。おそらく動物は、そして人間もこの快感中枢が興奮するような思考、行動をするべく定められているという理解が得られた。それまでの心理学では、人はもっぱら不快の回避という動機づけを有していると信じられたが、そうではないこと、文字通り人間がフロイトの「快感原則」に従うような装置を持っていたことが彼らの発見で明らかになったのである。
ただしこの快感中枢の発見は、あるい意味ではフロイトの図式を否定することにもなった。人にとっての快楽は、リビドーの解放ではなく、A-10 のドーパミンニューロンの刺激というボタンを押すことに過ぎないということになった。これにより人間の動機づけ、動員に関する研究は、フロイトのリビドー論を離れて一気に広範囲にわたるものを考えることになる。分析家ジョーゼフ・ヒテンバーグの唱えた5つの動因論などはその成果と言える。
ちなみにオールズとミルナーにより見出された快感中枢は、実際には単に快感を味わうだけの装置ではなかったことが、最近の研究でわかっている。快感中枢に相当するのはVTA(中脳被蓋野)からNAcc(側坐核)に至るドーパミン経路(MFB)であるが、それがある種の夢が実現した時の快感を正確に査定するための装置としての役割を持つことがわかっている。この両者を結ぶ経路であるMFBは、実は快を味わう瞬間に興奮するのではない。未来にその快が約束された時に興奮するのである。(ビールを喉に流し込むときに、ではなく、目の前にビールの缶を差し出されたときに、興奮するのだ。)このことは私たちの脳が、快感原則に、より詳細にわたって計画的に従うための、いわば羅針盤ともいえる。
以上をまとめるならば、フロイトが考えたように、人間は快を求め、不快を回避する。将来体験されるべき快、不快はドーパミンシステムによりあらかじめ、検知され、その大きさに従って人は願望をし、将来に向かって行動する。これだけなら人の心は非常にシンプルな原則に従っていることになる。しかしここに大きな問題がある。それは何が快としてその人に体験されるかは、そこにとてつもない個人差があるという事実である。香水の香りをとっても、ワインの味をとっても、小説一つとっても、それをどのように体験し、それをさらに欲するか、それとも唾棄されるかは、個人の趣味、これまでの人生の経歴、過去の体験その他により大きく規定される。場合によっては生まれつき定まっているとしか思えないような好みや嗜好がある。その理由や根拠を分析し解明し、またその快感中枢の興奮のパターンそのものを変えることは時には非常に困難となる。そしてそれが時には精神分析的な治療にとっての大きな課題となる可能性があるのだ。



2014年11月16日日曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(4)

ネット情報によると、中国のスマートフォン向け通話アプリ利用者を対象に実施した対日意識調査で、83%が日本に「反感」を示し、「好感」の回答は3%に満たなかったという。でも他方では小笠原近海に大挙して中国漁船が珊瑚を漁りに来る。日本に反感を持つからそうする、ということだろうか?そうではないだろう。
一握りの人間たちにより情報操作される隣国。一方的に身勝手な嫌悪感を持たれるのはつらいことだが、一億二千万の国民が一緒に同様の体験をしているということは心強い。隣国でも国民はむしろ犠牲者、そういうことだろうか?



②  脳の活動の実態部分は「無意識」である
― 予想するシステムとしての脳、記憶する脳
 フロイトが提言した、一番本質的な心の働きは無意識である、という考え方は、重要な発見、というよりは予見であったといえるだろう。というのも心のあり方はやはりどう考えても無意識がその大部分を占めているからである。
最近の大脳皮質の研究については、ジェフ・ホーキンスの「考える脳、考えるコンピューター」が大きな示唆を与えてくれる。彼の考えはこうだ。大脳皮質を観察すると、そこには多くのインプットと、そこからのアウトプットの経路が見られる。それは第4層から入り、第5層から出る、という形をとり、それにより成立する近接、および遠隔地の大脳皮質との情報の行き来は原則的に双方向性である。そこで行われるのは、いわばバックグラウンドでの情報処理であり、いわばジクソーパズルの個別部分の組み合わせである。パズルの縁の部分の構築、と考えればいいだろう。いまだ本質的な画像は浮かんでこない。そこで統合された情報が徐々に上位レベルの皮質に移行していくのであるが、そこで重要なのは、その情報処理が常に予想を行っているのであり、それと大きく異なる現実に直面しない限りは、上位に特別な信号を送ることはないのだ。
たとえば自宅に戻り、いつもと部屋の様子が同じならば、その視覚刺激は上位には伝わらない。いや、伝わるとしても「いつもの部屋。以上、おしまい。」程度なのである。それは弱い情報伝達であり、意識に留まることもないだろう。ところが机に見慣れない封筒が置かれていると、それは予想と異なった部分であり、直ちに上位に送られる。「デスクの上に封筒発見!」しかし注意してみると、時々来る水道の請求書であることがわかり、「訂正、ただの請求書だった。以上。」で終わる。これもこのままでは忘れ去られる運命にある。ところがその封筒が見たことのないものであり、中に妻からの絶縁状が入っていたりすると、それこそそれは一生忘れられない記憶として記銘される。
 ここで意識と無意識の働きという文脈で考えるならば、このように心の働きの大部分は無意識で行われ、しかしそれは常なる予想と現実との差異を査定するという作業であることがわかる。そしてそこで異常発見となると意識の登場になる。その意味でやはり心の働きには無意識への比重が圧倒的に大きい。ただしフロイト的な意味とはかなり異なる。フロイトの場合は「無意識に欲動が詰まっていて、それが人を突き動かす。意識はその言い訳をする。」であった。脳科学的には、「情報処理は大部分が無意識的で、統合の際、あるいは予測不可能な事態が生じたときが、意識の出番である。」大きな違いなのだ。
 実は意識的な心の持つ自発性というものが幻であり、人の行動については「無意識がサイコロを振っている」という考え方は、たとえば「マインド・タイム」の著者ベンジャミン・リベットの実験などにより示唆されている。拙書「脳から見える心」にも書いたことだが、彼の実験は人が指を動かそうと思った瞬間の0.5秒前に、脳波の動きが見られることを発見したのだ。つまりどの瞬間に指を動かすかは、無意識がサイコロを振り、「動かせ」の目が出たときに指が動き始め、意識はそれを後追いして、自分が自発的に動かしたと勘違いしたのである。
私はこのリベットの実験から、人間が実はロボットのような存在で、たまたま自分は意識や自立性を有していると勘違いしている、と主張するつもりはない。ただ私たちが意図的、自律的に行動していると持っている部分の非常に多くの部分が、無意識のサイコロ振りにゆだねられていることも確かであろうと思う。たとえば昼食をカレーにしようか、ハヤシにしようかと迷っているとき、私たちはたいてい無意識にサイコロを振らせているのではないか?あるいは「絶対ハヤシ!」と思う人でも、むしろそれは頭が最初から命じているのではないか?こんなショーもない例で申し訳ないが、私たちが本当に意図的に決めていることは少なく、また意図的に決めていることも、生理的にすでに判断が下されているということはないだろうか。

ここで私はこれ以上、意識が決めているのか、無意識が決めているのかについての議論を展開するつもりはない。(というより私の中では答えはすでに出ているのだが。)そうではなくて、私たちが自分たちの発言や行動の根拠を探り、理由づけをすることの意味が、フロイトの時代に比べてはるかに少なくなっているということを言いたいのだ。私たちの発想、決断、行動のかなりの部分が無意識から降ってくる以上、それを理性的に分析することには実は大きな無理が伴う。脳科学的に言えば、それは右脳の行動に左脳が理由づけをするという行為となる。