2012年4月30日月曜日

仙台への旅


昨日は仙台の精神分析のグループに招かれてシンポジウムの演者の一人として行ってきたが、結構しんどい体験であった。一緒に行ったのは(というよりはお供させていただいたのは)、精神分析の大御所であるK先生とM先生であった。シンポジウムのテーマは「精神分析から見たうつ」であった。K先生、M先生の講演内容はうつという現象の核心に迫ったものとなり、私の話はまたしても精神分析と関係ない、表層的で通俗的なものとなってしまった。まあこれはこれで想定内ということではあったが。(というよりわかっていてまたやってしまった、という感じである。)
私が話したテーマは昨今話題になっている「新型うつ病」についてであった。私自身はこのテーマは非常に興味深いものなのであり、新型うつ病とは結局一種の恐怖症ないしは不安神経症としてとらえるべきだという考えについては一定の反応は得られた気がする。
仙台の町は昨年のGWから一年ぶりに訪れたことになる。震災の影響はあまり感じられなかったが、町の建物の壁のタイルに、ひび割れたものについての印がいくつもついているところなど、特に興味深かった。

2012年4月25日水曜日

チビ日記続かず

チビ日記は結局続かず。というのもネタがないのは最初からわかっていたのだ。何しろチビの身に何も新しいことは起きていない。彼女は毎日のように散歩に連れて行ってもらい、時々おもらしをし、同じえさを食べ、静かに衰えて行っているだけである。チビと私の関係も相変わらず気まずい。彼女は相変わらず目をそらし、私が呼んでも来ない。というより呼び声自体が聞こえないから、反応するわけがない。無音の世界では、身に起こることはことごとく不意打ちという感じになるらしい。例えば後ろから近づいて尻尾を触っただけでもチビは軽い驚愕反応を起こし、「キャン !」となるのだ。それだけで神さんに、「ちびに何をしたの!」と怒られるのである。




尖閣諸島をめぐる議論に接していると、日本があるべき姿を教えてくれるようだ。石原都知事の行動に、中国側は比較的冷静なようであるが、それは意外であった。ようするに尖閣諸島の領有権を主張するのは、中国側も「あんまりだ」とわかっているからなのであろう。そしてこの時期から日本の態度を示しておくことがおそらく大事なのだ。それを怠っているとなし崩し的に尖閣諸島は領有権があいまいになり、そのうち「実効支配」されてしまい、他国のものになってしまうかもしれない。すると石原氏のような提案に対して、こんどは激しい日本バッシングが起きることにもなる。他人との関係でも言えることだろう。本当に些細なことからけじめを付けていくことが、その人との関係性にとって重要になるのだろう。

2012年3月26日月曜日

チビ日記(1)

いろいろな事情があり・・・神さんのことを書けなくなってしまった。(ちなみに神さんは相変わらず、何を書いてもいい、どうせ読まないから、と言ってくれるのであるが。)そこでとうとうチビのことしか書けなくなった。
ということでチビは相変わらず元気であるが、ますます私とうまく行っていない。明らかにこちらを警戒している。ここ数日は息子が帰っているが(息子が登場した)息子のことも警戒している。どうやら彼女はいじめられっこタイプである。何しろ少し毛を引っ張ったくらいで「ヒーン」と鳴くのである。(もう少し強く引っ張ると「キャイーン」となるのである。)時々こちらがその気がないのに少しラフに扱っただけで「ヒーン」と言われると、心外に感じると同時にもうちょっと鳴かせたくなる。私は記憶する限りは人間を苛めたことはないつもりだが(苛められたことも幸いない)、チビを通してそのメンタリティがわかる気がする。

2012年3月13日火曜日

ブログに何を書くか?

なかなか春にならない。3月も半ばになると言うのに、ダウンコートが手放せない。
先日5日に北山修先生のラジオ番組「ミュージックアンドレクチャー」にお邪魔したのが最後で、ラジオに出ると言う機会はなくなるが、面白い体験であった。担当の安藤さん、そして黒崎アナ、そして何よりもこのような場に呼んでいただいた北山先生に感謝である。

久しぶりの更新であるが、ブログを続けることに迷いを生じるようなことがいくつかあった。ブログは読みたい人が読めばいいとは言え、ある種の公共性を帯びたものであることは確かである。書くことには十分配慮をしなくてはならないとつくづく思う。
現在「心理療法の30の心得(指針?)」という原稿をまとめつつある。これまで授業そのほかで話した内容である。

2012年2月16日木曜日

心得10.治療の最終目標の一つは、来談者が「自分はこれでいいんだ」と思えることである

  先週の日曜日の対象関係論勉強会。一緒に発表した藤山直樹先生と相当言いたいことを言い合ったが、楽しかった。お互いに精神分析に情熱を傾けているいうことは確認できた。彼の真摯さはとてもよくわかった。藤山先生を見ていると、非常に精神的健康度が高く、うらやましいという気分になった。

人間は皆、心のどこかに「自分はこれでいいのだろうか?」という疑問を持っているものである。面接者が出会う来談者は、それをもう少し尖鋭な形で感じていることが多い。ある女性の来談者Aさんは、アルコール中毒で仕事をしない夫から時々暴力を振るわれるという。そして「お前が俺をちゃんと支えてくれないから俺は酒を飲むんだ」と言われ続けたそうだ。こんな屁理屈でもAさんは「やはり自分が悪いのだろうか?」と考えさせられてしまっている。何しろAさんは夫に毎日それを言われ続けるだけでなく、舅、姑からもこう責められるのだ。
「うちの息子は、あんたと結婚するまでは、酒を飲むことはなかった。だからこれは嫁のせいだ」
親としては可愛いわが子を擁護することに必死なのだ。もしこんなことを言われ続けた場合、正常な神経を持っている場合にでも人は気弱になっていくものだ。そこで面接者がAさんに「あなたは悪くない.あなたはあなたのままでいいんだ」というメッセージを伝えたとしたら、それは大きな意味を持つだろう。
ただし当然一つの問題が生じる。世の中には様々な問題を抱えている人たちがいるが、その中には「自分はこれでいいんだ」と思って欲しくない人たちもいる。彼らは「自分はこれではいけないのだ」ということを自覚し、むしろ自分を変えて行くべきなのかもしれない。たとえばAさんの夫についてはどうだろう?彼こそ妻を非難するのではなく自分の飲酒の問題に直面化し、それを改善して行かなくてはならない人のように思える。
しかしその彼が来談者となって面接者に次のように話すのだ。「結婚して以来、妻のAは私のことを心の底で見下しているようです。私のことを軽んじたり軽蔑していることは言葉の端々に感じられます。すると家に帰って彼女と顔を合わせるのがつらくなり、どうしても酒に逃げてしまうんです。僕は生きて行く価値のないダメな人間でしょうか?」
なるほど話は聞いてみるものである。Aさんの夫の言うことも全く間違っているわけではなさそうだ。Aさんは確かに夫を見下すような態度を取っているのかもしれない。とすると自分を変えなくてはならないのは本当はAさんのほうかもしれない・・・・。
こうして彼の話を聞き続けた面接者は、「僕は生きて行く価値のないダメな人間でしょうか?」と言う夫に、「あなたはあなたでいいんですよ」と言う言葉をかけているかもしれない。
ただしこちらの場合は、Aさんが「自分はこれでいいんだ」と思い至ることとは少し事情を異にする。たしかに夫の方も根源的な意味での自己肯定感を持てずに、妻に見下され、馬鹿にされたという思いに過剰に取り付かれてしまっているかもしれない。しかし彼がその結果として酒におぼれ、妻に暴力を振るうということに関しては、決して「これでいい」わけではない。彼は自分のそのような点を直さなくては、本当の意味で「自分はこれでいいんだ」と言う感覚をもてないであろう。
ところでこの心得10は、実は「アマい」と思われかねない。世の中には「自分はこれでいいんだ」と思うべきでない人もたくさんいるはずだ。そう、社会の一番の問題は反省すべき点をたくさん持ちながら無反省に生き、権力を振り回し、他人を蹂躙する人々が跋扈していることだろう。
ただし彼らはまず絶対に心理療法を求めてはやってこない。そして万が一彼らが弱気になり、面接者に援助を求めてきた場合、そこに垣間見るのは以外にも脆弱で弱気な自分、常に「これでいいのか」と言う問いを心のどこかに抱えている人たちかもしれないのである。

2012年2月15日水曜日

心得15.面接者は先入観なく話を聞くことを心がけよ


人の話を普通に、つまり先入観なしに聞くということは実は非常に難しいことだ。人は大概は先入観をもって他人の話を聞くからである。お互いをよく知り合っているはずのもの同士の会話でも、相手の話を普通に聞く事が難しくなることはよくある。親子間や夫婦間でこれはよく生じる。たとえばこんな会話がその例である。
 A:「ねえ、はさみを使った後はもとのところに戻しておいてね。」
B:
「わかったよ、もう、・・・・・ いちいち。」
A:
「何よ、その言い方!」
B:
「あ~、キミとはやってられない。」
普通に聞くということが出来なくなった者同士の会話の例である。「使ったものは元に戻しておいて」というAの要求はもっともらしいものに聞こえる。しかしすでに最初の「ねえ」という呼びかけに、苛立ちが表現されていたのかもしれない。そしてBAからの字義通りのメッセージを先入観なく素直に聞いて、反省して謝罪するということはしない。そしてAはそのBの態度に腹を立てる。それに対してBが更にキレる。
ここにはお互いに「どうせ相手は~という人だ」という決め付けがある。AにとってBはいくら言っても使ったものを戻してくれないだらしない人。BにとってAは細かいことをいちいちうるさく言う人。だから互いのメッセージは、その直接的な内容を超えて、相手に対する先入観を裏付けるあらたな証拠として相手に届くことになり、それが感情的な反応を引き起こしているのである。
ところでこの場合のA,Bがそれぞれ相手に抱いているイメージ、あるいは「どうせあの人は~なひとだ」という先入観や決めつけは極端だろうか? こんなことくらいで感情的にならずに、克服していくことで共同生活は成り立つのではないか? 互いに一見胴でもいい事にこだわっているように見える。しかし共同生活を続けている人々の間では、大体折り合いのつくところはすでについていることが多い。ABの間でさえ、そうなっているはずだ。
たとえばBがトイレを使ったあとにちゃんと蓋を閉めないが、そのことについてAはあまりこだわらないから、この件では揉め事は起きていないのかもしれない。またAは薄味が好きで、Bも似たようなところがあるから、料理の味付けについては喧嘩にはならないのだろう。
ところがAにはこだわりがある。彼女はかなりの整理好きで、文房具を置く位置には非常にうるさいのだ。他方ではBは短時間に何回もはさみを使う作業をする際に、いちいち道具箱(もちろんAの一存で設置したものだ)の所定の位置に戻しに行くのは面倒くさいし不必要だと思っているが、なんとかAに従っているというわけだ。同様にBのあるこだわりの中にはほとんどAはついていけないものの、何とか我慢していることがある。そしてそれらの点についてはもう互いの主張を「普通に聞く」ことは出来ない段階まで進んでしまうのだ。
はさみの置き場所とは他愛もない例だが、ABは互いの人生観や倫理観の違いがそこに表れるようなかかわりについても同じような食い違いを見せる可能性がある。Aが何度も持ち出す過去の親へのうらみ、Bの繰言である上司への不満。これらについてはお互いに「自分の方にも問題があるんじゃないの?」という見方を心の底ではしている。しかしお互いにそれを面と向かって言うと角が立つので、表面上はお互いの立場を擁護して、それぞれが攻撃している相手を一緒になって責めるというスタンスを取っている。しかしそれにも限度がある。家事や仕事に疲れている際は特に身を入れて聞くことができない。すると「もういい加減にしてくれ!」となる可能性がある。そう、同居するパートナー同士は互いの話のあるものについては先入観なしに普通には聞かない状態にいたっているものなのだ。
さて来談者の話を聞く面接者の姿勢は、もちろんパートナー同士とは異なる。そこには相手への尊重があり、遠慮もある。それは両者が基本的には社会的な関係にあるからであり、面接者は来談者に対してサービスを施す側だからだ。二人はため口をきくこともないし、はさみを共有することもない。そして面接者は来談者の話を素直に、普通に、何度も聞く。一つには、50分以内にそれから解放されることがわかっているからだということもある。しかし何よりも「やれ、やれ」「またか、参ったな。」という、それ自体は自然に起きる反応に流されることなく、それらを一つ一つチェックする事を、面接者の機能としてわきまえているからである。
おもえばA,Bも実は最初に出会った頃は、そうだったのだ。最初にはさみの置き場所を指定されたBは、Aのいつにないこだわりに当惑しながらも、Aに嫌われないためにすなおに言うことを聞いていたはずである。あるいはAの方も、最初はあまりうるさく言わないようにして、Bが戻し忘れたはさみを、そっと道具箱に戻していたのかもしれない。「やれ、やれ」を互いに自分の内側で処理していたのだ。
治療関係においては、面接者は来談者とのかかわりで生じる内心の「やれ、やれ」を一つ一つチェックしながら、それが自分のほうのこだわりから来ている反応なのか、それとも来談者のこだわりからなのかを考える。そしてそれがどのような形で来談者にフィードバックされたら言いか(あるいはするべきかどうか)を考える。
このように先入観なく普通に相手の話を聞くとは、実はすごく込み入った仕事なのだ。「普通に聞く」は決して「普通には出来ない」かもしれないのである。「普通なかかわり」について細かく考えていくのは、面接者の業であり、それ自身は決して「普通」ではないかもしれない。だから精神療法はきわめて人工的に「普通」や自然」を作り上げる作業とも言える。
そういえば以前に著した「自然流精神療法のすすめ」の中で、精神療法過程を「盆栽のようなもの」と表現したことを思い出した。思えば悪くない比喩のように思う。

2012年2月14日火曜日

心得16.来談者に贔屓目に話を聞くことが多くの場合は共感である

よく面接者は中立性を保ちつつ来談者の話を聞くことを薦められる。しかし本当にそうであろうか?むしろ来談者の立場にかなり贔屓目に聞くべきであることが多い。次のようなやり取りを考えてみよう。
来談者:「また店長に差別されたんです。」
面接者:「そうですか。この間もそんなことがあったそうですね。」
来談者:「今度はもっとひどいんです。連休はシフトに入れてほしくない、と前から言っていたのに、他にいないからどうしても入って欲しい、と強引に押し切られました。明らかに私に不利なスケジュールをぶつけてくるんです。」
面接者:「なるほど。あなたは前からそこは旅行にいくつもりだとおっしゃっていたんですよね。」
来談者:「そうなんです。店長は私をやめさせようとしているのかも知れません。」
面接者:「なるほど。その可能性もありますね ・・・・・・。」
このようにセッションが始まるとする。面接者の方は、もちろん来談者が店長の行為を被害的に受け取りすぎている可能性も考えている。いや、かなりその可能性が強いと踏んでいるかも知れない。でも面接者は「店長はひどい人だ」という来談者の主張にいったんは沿う。明らかに来談者に味方をし、来談者の話を贔屓目に聞くのだ。これは技法だろうか、それとも面接のプロセスの中でのごく自然な流れなのだろうか?それはたいていはそうすることが来談者に対して共感的だからだ。
来談者の話を贔屓目に、好意的に聞くというのは多くの場合、来談者に対する共感と等価である、という理屈は、当たり前すぎてちょっと盲点かもしれない。でも私達人間の物事の捉え方は、たいていは自分に甘い、すなわち自分に贔屓目であるということは確かなことである。だから面接者がそれに沿うことは、面接者が自分の心を正確に理解してくれている、と感じ取られる。そしてそれが結局は共感なのである。
(以下略)