解離性障害を扱う専門家の間で、あるいはその患者さんにかかわる家族の間で、よく「暴力的な交代人格」の扱いをいかにすべきかが話題となる。確かにそのような交代人格が存在し、患者さんがコントロール不可能な状態になることはあるだろう。しかし私はすべてのDIDの患者さんの中に「暴力的な交代人格」が存在するかは疑わしいのではないかと思う。それはかつて自分に加害的な振る舞いをした誰かのイメージが取り込まれて交代人格としての体裁を獲得したものであり、しばしば畏れの対象となるのだろう。しかしその人格が実際的に外に現れて暴力を振るうということは、少なくともそれが起きる必然性については考えにくいのではないかと思われる。端的に言ってDID(解離性同一性障害)のひとつの特徴は、その人の高い感受性であり、それは人の痛みに対しても発揮される。他人に加害的な行為をした場合に、ほかの人格が自分の振る舞いとのあまりの齟齬に、内的なブレーキがかかることは十分あるだろう。 暴力的でコントロール不可能と思われる人格の非常に多くが、実際はとても苦痛で恐ろしい体験を担っている人格である場合は多い。その苦しみを今まさに味わっている状態で現れている時に、傍目には暴力的に見えるということはあるだろう。そのような人格が急に出てきて目が据わり、いきなりカッターナイフを持ち出して自分の腕を切りつけようとするかもしれない。そのような時に家族やパートナーが動転してカッターを取り上げようとすると、激しい抵抗にあう可能性が高い。その間にカッターがパートナーの体に触れて出血したりすると、「刃物沙汰」ということになり、何かその人格が凶暴な人のようなレッテルを貼られてしまうことは十分にあるだろう。しかしこの人格が本当に「暴力的」かどうかは非常に疑わしいのである。
純粋に加害的な暴力としばしば混同されるのが、「抵抗性の暴力resistive violence 」である。これはある行動を他者に制止されたときに発動するものだ。一般の社会人にもこれは容易に誘発される可能性がある。アルコールが少々入っているときなどはかなりその閾値が低くなる。よく地下鉄などでつまらない口論から小競り合いになり、暴力沙汰へと発展することがあるが、これも発端は他者への暴行というよりは、相手を制止する動作に対して半ば正当防衛的に体が反応したということが少なくないのだ。足を踏まれた男が、立ち去ろうとする相手に「ちょっと待ちたまえ」と肩をつかんだ際に、相手が大げさな動作でそれを振り払おうとする。これ自体は「抵抗性の暴力」の要素が大きいわけだが、相手はこれを純粋に加害的な暴力と理解し、「応戦」するということから殴り合いに発展する可能性もある。
この抵抗性の暴力が興味深いのは、おそらく人から不当な形で制止されたり、体の動きを封じられたとしたら、それが発揮されないほうが不自然だったり、病的だったりすることすらある点である。真の加害的な暴力に比べて、「抵抗性の暴力」はおそらく自己保存本能に根ざしている。どんなに穏やかな人格の人も、道を歩いている最中に乱暴な運転をする自転車に行く手を阻まれたらムッとするだろうし、大きな声を出したくなるだろう。
先ほどのリストカットを止められた人格にしてみれば、気持ちが高ぶった際にいつも自分で行っていたリストカットを制止されることで怒りが高じ、家族やパートナーともみ合いになることも十分にありうる。事情を知らない家族には、家族がいきなり暴力的になった、という印象を与える可能性が高いわけであるが、本人にしてみれば自分の当然の権利を奪われたことに正当な抗議をしたという気持ちが強いだろう。
交代人格が暴力人格に間違われるもうひとつのケースは、その人格が子供人格で、相手に対して力加減を知らない場合である。大柄で筋肉質の男性のDIDの患者さんが、いきなり子供人格にかわり、地団太を踏んで泣き喚いたとしたら、子供にとっては普通のしぐさでも周囲を圧倒するに違いない。交代人格と接触する際に、いざとなったら治療者が身体的な力で圧倒できるかどうかは、治療を安全に行う上での重要なファクターといえる。
2011年1月31日月曜日
2011年1月30日日曜日
絵の才能の話
忙しい週末だった。金曜の夜は柴山先生、奥田ちえ先生と解離の研究会の打ち合わせ。土曜日は久留米の前田正治先生にお招きいただき、解離の講演会。今日は一日精神分析学会の運営委員会だった。
ということでブログを更新する時間は全然なかったが、そのかわりサッカーのアジア杯の決勝はしっかり見た。と言っても途中は覚えていない部分があるが。日本とオーストラリアの両チームが無得点のままの均衡が続く中で、いつの間にか眠ってしまったが、目が覚めると一対一で試合が終わるところだった。李選手の見事なボレーシュートのシーンが何度もテレビに映された。サッカーをほんの少しかじった立場からは、あの手のシュートを確実に決められるかどうかでプロとアマで決定的な差が生じることがよくわかる。高校のサッカー部レベルだと、あそこでボールを捉えられずに空振り、ということもあるが、しっかりゴールの枠の隅に蹴り込むところは、さすがにプロはすごいと感心した。ところで先に出た芝山先生は、画伯でもある。年末の集まりで、酒の席で差し出されたノートに、請われるままにサラサラと何人かの似顔絵を描いたことはお伝えした。その時彼は、「女性の場合は、丁寧に描くんだよ。男の場合はどうでもいいんだけどね。」とか言っていた。そこで彼が奥田先生を描いた似顔絵を今回入手したので紹介する。そして比較の意味で、以前に紹介した柴山画伯が私を書いた絵(2010年12月12日のブログに掲載)をご覧いただければ一目瞭然だろう。両者の「差」は歴然である。それにしても絵心のある人の先は、一本一本が生きている。下手な挿絵を描いた身では、それをなおさら感じる。
ということでブログを更新する時間は全然なかったが、そのかわりサッカーのアジア杯の決勝はしっかり見た。と言っても途中は覚えていない部分があるが。日本とオーストラリアの両チームが無得点のままの均衡が続く中で、いつの間にか眠ってしまったが、目が覚めると一対一で試合が終わるところだった。李選手の見事なボレーシュートのシーンが何度もテレビに映された。サッカーをほんの少しかじった立場からは、あの手のシュートを確実に決められるかどうかでプロとアマで決定的な差が生じることがよくわかる。高校のサッカー部レベルだと、あそこでボールを捉えられずに空振り、ということもあるが、しっかりゴールの枠の隅に蹴り込むところは、さすがにプロはすごいと感心した。2011年1月28日金曜日
治療論 その21.すべての人に共通すること 「理解」されることへの希求
セラピストは時々、患者さんの前でこんな思いに駆られる。「私は治療者として何をやっているのだろう?」患者さんが話を聞いてほしいと訴えかけ、その話に共感することで時間が過ぎていき、患者さんが次回のセッションを待ち望むという状況では、この考えはあまり起きないものである。患者さんが最初は持っていた治療への期待や情熱を失ったとき、あるいは最初から受診に消極的だったり、治療時間中ずっと黙っていたり、ため息を疲れたりしたとき、その思いが治療者の中に浮かぶのだ。治療は海図のない航海に似ている。いきなり自分が何をすべきか、治療がどこに向かっているかがわからなくなってしまうことがあるのだ。 そのような時、治療者が患者さんの治療動機、ニーズを考えることは重要であると思う。「結局セッションにより何を期待しているのだろう?」もう少し端的にいうと、「セッション中の治療者とのかかわりの中で、何に、どこに心地よさを感じているのだろうか?」治療者患者関係は特に安からぬ料金が絡む場合には非常にドライなものになりかねない。患者側は、ニーズが満たされなければ、一回一万円近い料金を支払う気になれないとしても、それはもっともなことだ。セラピーの一セッションごとにこのニーズが満たされれば、治療は継続していくと考えていい。逆にそれが起きていないとき、治療者は大海原でとつぜん無風状態に遭遇した帆船のような状態になるわけだ。
患者さんのニーズは実はさまざまである。とにかく一方的に吐き出すことを要求する人。セッション中ずっと目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは患者さんの持ち込む質問に一つ一つ答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、それらの根底にあるものとして、患者さんの「理解してもらう」ことの心地よさ、満足感がある、と考えるべきである。私がなぜそう考えるかといえば、これまでの経験上、患者さんの置かれた状況や、そのもつ精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感を与えないということは思い出せないからだ。人が心を持つ、とはすなわち「理解される」事を望むことでもある。どんなに深刻な妄想に駆られていても、どれほど深刻な自閉症傾向を持とうとも、理解してもらえることが喜びや心地よさを生まないということは考えられない。
もちろん患者さんが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさをも生む」ということのその苦しさそのものを「理解される」ことは、実はその人にとって安心感を生むはずである。アスペルガー障害の患者さんで、人の気持ちをまったく理解することができなくても、あるいはいかに特異で奇妙な思考パターンや妄想を持ち、それが人には理解しがたいということについては関心を払わない人でも、それだからこそ「理解される」ことを渇望するというところがある。なぜなら彼らはおそらくその独特の思考や行動パターンのために、これまで誰からも理解されずにさびしい思いをし、孤独感を抱え続けてきた可能性が高いからだ。少し逆説的な言い方をすればこうである。
「世の中でもっとも人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求しているということになるのだ。」
患者さんのニーズは実はさまざまである。とにかく一方的に吐き出すことを要求する人。セッション中ずっと目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは患者さんの持ち込む質問に一つ一つ答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、それらの根底にあるものとして、患者さんの「理解してもらう」ことの心地よさ、満足感がある、と考えるべきである。私がなぜそう考えるかといえば、これまでの経験上、患者さんの置かれた状況や、そのもつ精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感を与えないということは思い出せないからだ。人が心を持つ、とはすなわち「理解される」事を望むことでもある。どんなに深刻な妄想に駆られていても、どれほど深刻な自閉症傾向を持とうとも、理解してもらえることが喜びや心地よさを生まないということは考えられない。
もちろん患者さんが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさをも生む」ということのその苦しさそのものを「理解される」ことは、実はその人にとって安心感を生むはずである。アスペルガー障害の患者さんで、人の気持ちをまったく理解することができなくても、あるいはいかに特異で奇妙な思考パターンや妄想を持ち、それが人には理解しがたいということについては関心を払わない人でも、それだからこそ「理解される」ことを渇望するというところがある。なぜなら彼らはおそらくその独特の思考や行動パターンのために、これまで誰からも理解されずにさびしい思いをし、孤独感を抱え続けてきた可能性が高いからだ。少し逆説的な言い方をすればこうである。
「世の中でもっとも人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求しているということになるのだ。」
2011年1月27日木曜日
解離に関する断章 その13の続き ヒルガードの実験が提起する問題―私たちはみな、多重人格なのか?
先日紹介したヒルガードの実験の話の続きである。この実験が意義深いのは、では私たちはみな多重人格なのか、という疑問を抱かせることである。私自身も、この「隠れた観察者」の実験を読んで最初に思ったのはそのことだった。しかしこれは、例えば公開の(場合によっては見世物としての)催眠、いわゆるステージヒプノーシスを見た人間が一様に思うことでもある。客席から、一見無作為的に被検者を募る。その人が壇上で催眠にかかり、年齢退行を起こして小さいころの自分になって幼児の言葉で話したりする。そのような姿を見ると、誰でも催眠にかかり、誰でも別人や別の人格に成り代わるのではないか、と考えたりする。
この一見もっともな疑問に関しては、私たちは明確な答えを持たないことになる。しかしまずひとつ明らかなのは、誰でも催眠にかかるほど、話は簡単ではないということだ。このような形で催眠が導入可能な人は決して多くはない。そして年齢退行まで起こす人はさらに限られているだろう。ステージヒプノーシスでそのような現象を見た人は、よほど運がいいケースに出会ったシーンに遭遇したか、あるいは「やらせ」を見せられたか、ということになる。しかし、それでも「一般人の中で催眠にかかりやすい人の中には、潜在的に多重人格とみなされる人がいる」ということくらいは言えるかもしれない。
しかしこれに関しては別の見方もある。たまたまステージヒプノーシスで深い催眠に導入することができ、子供時代にまで退行させることができる人は、本来DIDを持った人であったという可能性だ。
この二つの可能性は、「一般人の一部」と呼べる人々とDIDを持つ人々が、数のオーダーの点でおそらくあまりかけ離れていないという事情から、なかなかどちらが正解とも決めがたいのだ。一般人のうち催眠で年齢退行を起こす人が、たとえば20人に一人であり、DIDの発症率が2万人に一人、と言うのであれば、この両者は別物ということになる。しかし高い催眠傾向を持つ人が一般人の4,5パーセントといわれ、また実際にDIDの発症率は、研究者によりかなりバラつきがあるようだが、2~4 %が相場であるらしいとすれば、現実味を帯びてくる話なのだ。(Dell, P: OUTlINE The Long Struggle to Diagnose Multiple Personality Disorder : Partial MPD. in DISSOCIATION AND THE DISSOCIATIVE DISORDERS. DSM-V AND BEYOND Edited by Paul F. Dell, and John A. O'Neil. Routledge, 2009.) ただし一般人の2~4パーセントが交代人格を持つなどということなど、まさかありえないだろう、というのが私たちの印象であるというのもよくわかる。
この一見もっともな疑問に関しては、私たちは明確な答えを持たないことになる。しかしまずひとつ明らかなのは、誰でも催眠にかかるほど、話は簡単ではないということだ。このような形で催眠が導入可能な人は決して多くはない。そして年齢退行まで起こす人はさらに限られているだろう。ステージヒプノーシスでそのような現象を見た人は、よほど運がいいケースに出会ったシーンに遭遇したか、あるいは「やらせ」を見せられたか、ということになる。しかし、それでも「一般人の中で催眠にかかりやすい人の中には、潜在的に多重人格とみなされる人がいる」ということくらいは言えるかもしれない。
しかしこれに関しては別の見方もある。たまたまステージヒプノーシスで深い催眠に導入することができ、子供時代にまで退行させることができる人は、本来DIDを持った人であったという可能性だ。
この二つの可能性は、「一般人の一部」と呼べる人々とDIDを持つ人々が、数のオーダーの点でおそらくあまりかけ離れていないという事情から、なかなかどちらが正解とも決めがたいのだ。一般人のうち催眠で年齢退行を起こす人が、たとえば20人に一人であり、DIDの発症率が2万人に一人、と言うのであれば、この両者は別物ということになる。しかし高い催眠傾向を持つ人が一般人の4,5パーセントといわれ、また実際にDIDの発症率は、研究者によりかなりバラつきがあるようだが、2~4 %が相場であるらしいとすれば、現実味を帯びてくる話なのだ。(Dell, P: OUTlINE The Long Struggle to Diagnose Multiple Personality Disorder : Partial MPD. in DISSOCIATION AND THE DISSOCIATIVE DISORDERS. DSM-V AND BEYOND Edited by Paul F. Dell, and John A. O'Neil. Routledge, 2009.) ただし一般人の2~4パーセントが交代人格を持つなどということなど、まさかありえないだろう、というのが私たちの印象であるというのもよくわかる。
2011年1月26日水曜日
治療論 21 患者さんの好きなようにしてもらう
最近挿絵を描いているが、こんな下手な絵は実際に本に挿入して恥ずかしくないか、というおしかりを受けそうである。しかし心配はいらない。実は私は昔から本の挿絵をこんな感じで描いてみて、あとはプロに「清書」(清描??)してもらっている。それがものの見事に変身するのである。私が生まれてはじめて出版した本は、Herbert Strean というアメリカの分析家の書いた「ある精神分析家の告白」という本の翻訳書であった。もう20年も前の話である。その本の各章が印象深い患者さんのエピソードで綴られていて、興味をそそる題名が付いていた。「私を誘惑した患者」」などという題である。そのため章の扉ごとにそれ風のイラストをどうしても入れたくなった。もちろん著者のDr.Strean にも承諾を得たうえである。そこでここに掲載しているような絵を、同じように稚拙なタッチで描いて、ところどころ説明を入れた。そして、その頃たまたまある雑誌を読んでいて気に入ったタッチのイラストレーターに頼んで、「清書」してもらった。するとプロは私の死んでいた線に一本一本命を吹き込んでくれたのである。自分の絵が下手だと認めるのは嬉しくはないが、プロがどのようにうまく描くかを見るのは楽しみでもある。「リフォーム前、リフォーム後」、という感じか。
今日の治療論のテーマ。「患者さんの好きなようにしてもらう。」別にネガティブな意味でこういうわけではない。「もう、勝手にせい!」という印象を与えるといけないので断っておく。(ただしそのようなケースが全くないとはいえない場合もある。)
私の治療論が「失敗学」(畑村)と深く関連しているということは何度も述べたが、畑村先生は「人間は失敗からしか学べない」とまで言っている。私はそこまで言う勇気はないが、主要な学習は、自分が主体的に選び取った行動から生まれる、ということは確かであろうという考えを持つ。端的に、自分が人から言われて、薦められて行った行動であるならば、うまくいかない場合にでも他人事で済ませたり、責任を感じなくて済んだりするということが少なくなるからだ。(では人から勧められて成功した場合は?・・・・当然自分の手柄にするのが人間の性(さが)である。)
何度も何度も言うようだが、人は簡単には変わらないものである。普通私たちは結論を先に出して、あるいは同じ思考パターンにより情報を処理して生活を送っていく。私たちの心のシステムはその時々で安定を目指すものであるから、それは半ば必然的なことなのだ。そして当然ながら少しの刺激ではそのシステムが変わることはない。そのシステムは年齢を重ねるとともにより複雑になり、また硬直化して柔軟性を欠いていく。すると余計に変わらなくなる。5歳の子供が小さなボートのように、外的な力により簡単に方向を変えられるとすれば、50歳台のサラリーマンは大きな貨物船のようなものだ。小さな横波くらいで急に舵を切ることなどできない。たとえ進行方向が受動的に変えられたとしても、そのことを否認するだけだろう。あるいは自分が自発的に変えた、とうそぶくかもしれない。彼はそれこそ自分よりさらに巨大な黒い貨物船が向こうに見え、ぶつかったらこちらが大破するような状況で、ようやく舵を切ろうとするだろう。
さてそのような人がなぜ治療者のもとに通ってくることを想定してここに治療論として書いているか、ということであるが、本来治療を求めてくる人の多くは、何らかの不安を抱えて、精神的な支持を得たいがためである。「あなたのA案は間違っていますよ。B案の方を選んでください。」といわれることを想定し、期待してくる患者さんなどほとんどいないと言っていいであろう。せいぜい「私に答えを教えてください。」という方がいるくらいだ。するとB案にしなさい、という「説教型」の治療はほとんど意味がなくなってくる。むしろ適切なスタンスはこうである。「私が同じ立場だったら、B案の方がいいように思えます。でもあなたにとってA案がいいのか、B案がいいのか、というのはやってみないとわからないことだと思います。まず今、どちらをおやりになりたいか、から出発するということにしましょうか。」
ちなみにこの話は、アドバイスは適正価格で、という前回の治療論と連動していることは言うまでもない。ただし、B案として患者さんが明らかに不利なことを行おうとしていたら、たとえば自殺をしようとしていたり、薬を急にやめようとしていたら、話は別である。
今日の治療論のテーマ。「患者さんの好きなようにしてもらう。」別にネガティブな意味でこういうわけではない。「もう、勝手にせい!」という印象を与えるといけないので断っておく。(ただしそのようなケースが全くないとはいえない場合もある。)
私の治療論が「失敗学」(畑村)と深く関連しているということは何度も述べたが、畑村先生は「人間は失敗からしか学べない」とまで言っている。私はそこまで言う勇気はないが、主要な学習は、自分が主体的に選び取った行動から生まれる、ということは確かであろうという考えを持つ。端的に、自分が人から言われて、薦められて行った行動であるならば、うまくいかない場合にでも他人事で済ませたり、責任を感じなくて済んだりするということが少なくなるからだ。(では人から勧められて成功した場合は?・・・・当然自分の手柄にするのが人間の性(さが)である。)
何度も何度も言うようだが、人は簡単には変わらないものである。普通私たちは結論を先に出して、あるいは同じ思考パターンにより情報を処理して生活を送っていく。私たちの心のシステムはその時々で安定を目指すものであるから、それは半ば必然的なことなのだ。そして当然ながら少しの刺激ではそのシステムが変わることはない。そのシステムは年齢を重ねるとともにより複雑になり、また硬直化して柔軟性を欠いていく。すると余計に変わらなくなる。5歳の子供が小さなボートのように、外的な力により簡単に方向を変えられるとすれば、50歳台のサラリーマンは大きな貨物船のようなものだ。小さな横波くらいで急に舵を切ることなどできない。たとえ進行方向が受動的に変えられたとしても、そのことを否認するだけだろう。あるいは自分が自発的に変えた、とうそぶくかもしれない。彼はそれこそ自分よりさらに巨大な黒い貨物船が向こうに見え、ぶつかったらこちらが大破するような状況で、ようやく舵を切ろうとするだろう。
さてそのような人がなぜ治療者のもとに通ってくることを想定してここに治療論として書いているか、ということであるが、本来治療を求めてくる人の多くは、何らかの不安を抱えて、精神的な支持を得たいがためである。「あなたのA案は間違っていますよ。B案の方を選んでください。」といわれることを想定し、期待してくる患者さんなどほとんどいないと言っていいであろう。せいぜい「私に答えを教えてください。」という方がいるくらいだ。するとB案にしなさい、という「説教型」の治療はほとんど意味がなくなってくる。むしろ適切なスタンスはこうである。「私が同じ立場だったら、B案の方がいいように思えます。でもあなたにとってA案がいいのか、B案がいいのか、というのはやってみないとわからないことだと思います。まず今、どちらをおやりになりたいか、から出発するということにしましょうか。」
ちなみにこの話は、アドバイスは適正価格で、という前回の治療論と連動していることは言うまでもない。ただし、B案として患者さんが明らかに不利なことを行おうとしていたら、たとえば自殺をしようとしていたり、薬を急にやめようとしていたら、話は別である。
2011年1月25日火曜日
解離に関する断章 その13 また挿絵を描いてみた(ヒルガードの実験)
ヒルガードの「隠れた観察者」についての話だ。日本語には訳されていないようだから、あまり知られていない。
私たちの中には、本来もう一つの観察している部分があり、それは多重人格の症状をきたしているか否かに関係ないという見方がある。ヒルガードは、その古典的な「隠れた観察者」の実験を通して、これが通常の人にも存在するという可能性を示した。(Hilgard, E. R. (1994). Neodissociation theory. In S. J. Lynn & J. Rhue (Eds.), Dissociation: Clinical and theoretical perspectives (pp. 32–51). New York: Guilford Press.) この実験はすばらしい。
被験者に催眠下で暗示を与える。「これから大きな音をたてますが、私があなたの右肩に触れるまでは、あなたには何も聞こえません」次に大きな音をたてて被験者が無反応であることを確かめる。 さらに被験者に「催眠中でも観察しているあなたがいて、声が聞こえています。この私の声が聞こえていれば、右人差し指を上げてください。」と指示する。(実際に指が持ち上がる)被験者が突然「大変です。私の指が誰かにより動かされました。なにか変なことが起きているようです。音が聞こえるように戻してください。」検者が被験者の右肩に触れ、催眠が解ける。
ちなみに私はこのHilgard の実験について始めて読んだ際、解離や人格の分離という現象の奥深さを非常に深く印象付けられたのを記憶している。
私たちの中には、本来もう一つの観察している部分があり、それは多重人格の症状をきたしているか否かに関係ないという見方がある。ヒルガードは、その古典的な「隠れた観察者」の実験を通して、これが通常の人にも存在するという可能性を示した。(Hilgard, E. R. (1994). Neodissociation theory. In S. J. Lynn & J. Rhue (Eds.), Dissociation: Clinical and theoretical perspectives (pp. 32–51). New York: Guilford Press.) この実験はすばらしい。
被験者に催眠下で暗示を与える。「これから大きな音をたてますが、私があなたの右肩に触れるまでは、あなたには何も聞こえません」次に大きな音をたてて被験者が無反応であることを確かめる。 さらに被験者に「催眠中でも観察しているあなたがいて、声が聞こえています。この私の声が聞こえていれば、右人差し指を上げてください。」と指示する。(実際に指が持ち上がる)被験者が突然「大変です。私の指が誰かにより動かされました。なにか変なことが起きているようです。音が聞こえるように戻してください。」検者が被験者の右肩に触れ、催眠が解ける。
ちなみに私はこのHilgard の実験について始めて読んだ際、解離や人格の分離という現象の奥深さを非常に深く印象付けられたのを記憶している。
2011年1月24日月曜日
なんのためのブログか?
昨日は結局ブログの更新を出来なかったが、ここでなんのためのブログか、というテーマで考えてみた。
自分で9カ月近くやってみた結果、ブログを続けるとはどういうことかがある程度はわかった。まず私の場合は若干の強迫があり、「ほぼ毎日」というペースを自分で勝手に作ってしまったというところがある。普通はこんな頻繁なものはない。時々更新、というのが主流だろう。でもとにかく「自分のブログを作ったのだから続けなくては・・・」というのはある。小さいけれど開店しています、という感じだ。客が訪れる以上は店にあるものが賞味期限きれだったり、棚に埃がたまっていたりするわけにはいかない。何しろブログは一応「人目に触れている」からだ。
また私のブログには、読者からの感想の欄を敢えて作っていないから、私にはあまり関係ない。一般にブログを続ける一番のモティベーションは、なんといっても読者からの反応だろう。結局はこれに一喜一憂する人が圧倒的に多い。だから私のブログはその点でも変わっている。
これらのほぼ毎日更新、そして読者からの反応を聞かないという二つは私の特殊事情であるから一般化できない。要はブログはそれぞれの人が微妙に異なるモティベーションのもとに続けているわけだ。そこで私にとってのモティベーションであるが、やはり「自分からの発信」ということを考える。これは本を書くということと繋がっている。表現したい、ということがある。(同時に非常に恥ずかしい、ということがあるので、出し方がややこしくなる。)次に発想を書き取っておくことに意味があるということ。毎日結構これでも大事な気づきがある。ブログは日記代わりというわけだ。そして執筆。ここに乗せるという短期的な目標を持ちながら、計画している本の内容をまとめている。この二つは、ではどうして自分で公開せずに書き溜めないのか、という疑問を生むだろう。しかしそこには結局は話し相手がいることで、話が進むという事情があるのだ。
私はその意味で純粋な描き下ろしというのは案外大変なことであろうと思う。多少なりとも可視化できる話し相手なしで、書き続けることは、壁に向かって講演の練習をするようなところがある。そこに相手に直接語りかけているという感覚がないと、モチベーションの糸が切れやすくなるのだ。だから作家は定期的に訪れる編集者に読ませるつもりで書き進むということをしたものである。
この編集者というのは絶好の相手である。それは向こうがそれを仕事としてくれるからであり、こちらから押し付けるわけではないからだ。向こうがいくら暇だって、無理して聞いてもらうのは悪い。聞いてもらうこちらの方にも負担になる。ブログは、聞きたくない人は開かないという意味では決して押しつけではない。私はこれでも「ブログを書いているから読んで」、といったことはだれにもないのである。しかし読む人にとっては、win win となるよう(つまり読む人が読んだら、何らかの意味で読んでよかったと思えるような内容にしているつもりではあるが。)
ということでブログは続く。
自分で9カ月近くやってみた結果、ブログを続けるとはどういうことかがある程度はわかった。まず私の場合は若干の強迫があり、「ほぼ毎日」というペースを自分で勝手に作ってしまったというところがある。普通はこんな頻繁なものはない。時々更新、というのが主流だろう。でもとにかく「自分のブログを作ったのだから続けなくては・・・」というのはある。小さいけれど開店しています、という感じだ。客が訪れる以上は店にあるものが賞味期限きれだったり、棚に埃がたまっていたりするわけにはいかない。何しろブログは一応「人目に触れている」からだ。
また私のブログには、読者からの感想の欄を敢えて作っていないから、私にはあまり関係ない。一般にブログを続ける一番のモティベーションは、なんといっても読者からの反応だろう。結局はこれに一喜一憂する人が圧倒的に多い。だから私のブログはその点でも変わっている。
これらのほぼ毎日更新、そして読者からの反応を聞かないという二つは私の特殊事情であるから一般化できない。要はブログはそれぞれの人が微妙に異なるモティベーションのもとに続けているわけだ。そこで私にとってのモティベーションであるが、やはり「自分からの発信」ということを考える。これは本を書くということと繋がっている。表現したい、ということがある。(同時に非常に恥ずかしい、ということがあるので、出し方がややこしくなる。)次に発想を書き取っておくことに意味があるということ。毎日結構これでも大事な気づきがある。ブログは日記代わりというわけだ。そして執筆。ここに乗せるという短期的な目標を持ちながら、計画している本の内容をまとめている。この二つは、ではどうして自分で公開せずに書き溜めないのか、という疑問を生むだろう。しかしそこには結局は話し相手がいることで、話が進むという事情があるのだ。
私はその意味で純粋な描き下ろしというのは案外大変なことであろうと思う。多少なりとも可視化できる話し相手なしで、書き続けることは、壁に向かって講演の練習をするようなところがある。そこに相手に直接語りかけているという感覚がないと、モチベーションの糸が切れやすくなるのだ。だから作家は定期的に訪れる編集者に読ませるつもりで書き進むということをしたものである。
この編集者というのは絶好の相手である。それは向こうがそれを仕事としてくれるからであり、こちらから押し付けるわけではないからだ。向こうがいくら暇だって、無理して聞いてもらうのは悪い。聞いてもらうこちらの方にも負担になる。ブログは、聞きたくない人は開かないという意味では決して押しつけではない。私はこれでも「ブログを書いているから読んで」、といったことはだれにもないのである。しかし読む人にとっては、win win となるよう(つまり読む人が読んだら、何らかの意味で読んでよかったと思えるような内容にしているつもりではあるが。)
ということでブログは続く。
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