2010年8月31日火曜日

治療論  その2   直面化を促すのは、不可知的な「現実」である

今日も暑・・・・・以下同文。
小沢さんワッチング:もう小沢さんはヤル気である。そして私の理解では、小沢さんは怒っていて、誰も彼を止めることはできないということだ。菅さんにあそこまで言われて、彼は怒り心頭に発しているであろうし、彼はそうなると大人しくしていることなど不可能だろう。

プライドを傷つけられた時の怒りはそれこそどのような行動も取ることができる。ある意味では怒っている小沢さんはものすごい行動力を示し、水を得た魚のような状態なのであろう。一番活き活きとしている、というべきか。そしてそれは基本的には相手を破壊して、党を破壊しても止まらないかも知れない。怒りは蜜の味、とは彼のためにあるようなものではないか。

今日は堅苦しい治療論だが、小沢さん行動パターンを見ていると、結構そこに病理を感じる。しかし彼は決してカウンセリングなど受けることはないのだ。
禁欲原則の話にはいくらでも続きがある。誰が患者に直面化を促すか、という問題だった。
こんな例を考えてみよう。私がある患者Aさん(30歳代後半の男性、とでもしよう)と治療関係にある。彼は常にあるジレンマに悩んでいるとしよう。(ちなみにこれは創作である。私の現在のクライエントさんの誰も、自分のことを言っていると思われないような例にする。)Aさんはいつも自分の身の丈より一歩高い目標を持ち、それが実現するつもりになり、実際に挑戦しては失敗して失望することを繰り返す。そして「自分はどうせ駄目なんだ、取るに足らない存在なんだ」と落ち込む。その挑戦とは、たとえば就職活動でも、論文を応募するのでも、異性に声をかけるというのでもいい。いつも期待をふくらませては失敗し、死にたくなってしまうという繰り返しのAさんは、自分を見つめ直したくて私との治療を開始したとする。

治療者として週に一度Aさんと会っていると、おそらく彼のこのパターンが繰り返されていくのを私は目のあたりにすることになる。彼は理想的な自己イメージを思い浮かべ、失敗をして落ち込むというプロセスを実況中継のように報告するかも知れない。そのプロセスを彼と一つ一つ見ていく。その際、分析的な立場だったら概ね禁欲原則に従って、Aさんが夢を追うことを勇気づけたり褒めたりせずに、彼が陥っている病理、例えば現実の自己像を否認する傾向、それにより他人を見下したい願望や、一気に立場を逆転させて勝者になりたいという願望を指摘する、ということになる。確かに教科書的にはそれが治療の王道なのだ。

さてAさんの治療者としての私はどうするだろう?おそらく20年前ならこの禁欲原則に従った治療を行ったかも知れない。でも今なら違う。どのように違うかはよくはわからない。ただ禁欲原則とは全然違う関わりを持つであろうことは確かだ。

そもそも30歳代後半まで繰り返したAさんの行動パターンは、治療などで大きく変わりはしないと考えたほうがいい。治療者との出会いがよほど大きなインパクトとなり、彼の人生観を変えるに至るのでない限りは同じことが続くだろう。そして私がAさんに「また同じ過ちを繰り返そうとしていますね。」と指摘することは、おそらくそれが直接間接に周囲から指摘され、そして何よりも彼自身がそれを自分自身に呟いているであろうから、あまり新しいメッセージとして彼の心に響く可能性は少ない。
私はおそらくAさんの行動パターンをいろいろな角度から見ようとするであろう。Aさん自身も、周囲の誰も思いつかないような説明の仕方を試みるかも知れない。そのプロセスでAさんが本当は人から評価されたことがなく、その為に他人をあっと言わせたいと思い、本来は自分が不得手なことにまでも力を注いでいるということが見て取れたら、私はAさんが自分らしさを自然に発揮できるような能力を一緒にさがそうとするかも知れない。彼が評価してもらえなかったことを評価することもあり得るだろう。そしてもちろん彼がどうしても見ようとしない問題点があったら、そのことも指摘するだろう。要するに…… 治療はとても「禁欲原則」で縛られてしまうべきものではないのである。

一つここで明確にしておきたいのは、Aさんが自分の行動パターンを変えるほどのインパクトを与えるのは、残念ながら治療者の言葉ではない可能性が高いということである。治療中にあっても、Aさんは同じ問題を行動に映し続けるであろう。彼はAさ結局は同じ行動パターンを繰り返しながら、現実と行き当たって学ぶことを通して変わっていくのである。治療者はそのプロセスを一緒に体験し、考えることしかできないというのが正直なところなのだ。
最後に小沢さんがカウンセリングをしていいる場合を考える。やはり今回のような、民主党を壊しかねない行動を抑えることなどカウンセラーには不可能なのであろう。彼は現実に突き当たってもうこれ以上動けないところまで突き進み、何かを掴みとり、そして何かに失望する。カウンセラーはおそらくそれを見守ることしかできない。でも治療者が患者の人生を変えようと思うことそのものが、僭越と言われても仕方がないことなのだ。
ところで「これじゃ治療者の役割などないのではないか!」と言われそうである。その人にはこういう言い方をすることにしている。家、貴方にもチャンスがあります。貴方の治療者としての関わりが「現実」となれば、それは治療的なインパクトを持つ可能性があるのです。

2010年8月30日月曜日

治療論 その1 禁欲原則の功罪

「毎日、暑 ……」 以下同文。

●●さん。いつかはフランス留学を再開いたします。一応見出しとして出ている以上、忘れないことになっています。

ある高名な分析家の先生が次のようなことを書いてある。「精神分析とは患者の願望を満たしてはいけない。褒めてもいけない。治療者は患者さんが見ることを避けていた無意識内容に直面化するのを手伝うのだ。そうして患者さんと一緒に一番辛い体験を扱っていくのである」。いわゆる禁欲原則の考え方である。でもこれって、治療本来のあり方だろうか?何かが違う。それが私の立場である。
この問題、どうでもいいと思っている治療者も多いが、私には無視できない問題である。精神分析を一生の仕事と考えていた私としては、治療とは何か、人を助けることとはどういう事かについて、常に考えてきたが、このフロイトの原則をどのように捉えるかはもう30年来の重大な問題である。フロイトが100年前に提案した原則など、どうでもいいのではないかと思うかも知れないが、治療者の中にはこの原則をかたくなに守ることで、本来の治療者としての力を発揮できない場合があるので深刻なのである。
日常生活での体験も、学生やバイジーさんとの体験でも、私は厳しいことをほとんど言わないし、また言えないでいる。また相手を正直な気持ちで褒めたり評価したいようなことがあれば、おそらくかなり頻繁にそれを口にすると思う。つまり禁欲原則とは逆である。それはなぜだろう、と考える。それで一つ思い至ったことがある。そこでこんなテーマで書いているのだ。
もちろん学生やバイジーさん、患者さんに注文したいことは時々ある。「それはちょっとどうかな」と思うことも実はよくある。それを言わないとすれば、その一番の理由は、それにより患者さんやバイジーさんが落ち込んでしまうからだ。もちろん患者さんが一時落ち込むことは、その後の成長につながるかも知れない。でもそれが一種の抑欝的な反応を引き起こし、その間患者さんの精神的な活動が冷え込んでしまうことの方がより心配になってしまう。他方長所を指摘し、評価することは彼らに生きるためのエネルギーを与え、彼らが自らを見つめるための精神的な余裕を持つことにも繋がる。そう、治療とは相手の自己愛をいかに守りつつ治療者としてのメッセージを伝えるか、という綱渡りなのである。禁欲原則とは、そこら辺の微妙な問題をかなり大胆に切り捨てた原則なのだ。

2010年8月29日日曜日

怒らないこと その5.  恩返し? 鳩山さん、そりゃないよ。

例によってインターネットで拾ったニュース記事だ。

YOMIURI ONLINE (2010年8月28日) 党内に「鳩山氏は出しゃばりすぎ」との声も
「ロシア訪問中の鳩山氏は27日、代表選で小沢氏を支持すると表明した理由について、モスクワ市内で記者団に『小沢氏は政権交代を導き、私を首相へと導いた。その恩には恩返しするべきだ』と説明した。」
ハッキリ言って、鳩山さん、バッカじゃないの? (`×´)
先ごろ強者には怒っていいのだ、ということを書いてから、強者に対しての怒りを色々と書きたくなってきた。それにしてもネット上とはいえ、「バッカじゃないの?」とは品のない言葉だ。職業柄、患者さんにも、院生にも、特にカミさんにはそんなことを言ったら大変なことになるし、そもそもそんな言葉など頭に浮かばない。でも著名人には結構辛らつな言葉が出る。特に政治家。それほど私は鳩山さんや小沢さんを強者と思っているし、サンドバッグのように扱っていいと思っているのだ。(強者、弱者という言い方は、イヤらしい言い方だが、その背景はすでに説明したとおりだ。強者側が弱者側を搾取し、ハラスメントをしおおせるような関係をこう呼んでいるのである。虐待者、被虐待者といってもいい。いつもの例で申し訳ないが、もし鳩山さんが不眠症で私のもとを訪れたら、私は二度と鳩山さんのことを「馬鹿みたい」とは言えなくなる。彼は私のクライエントになるからだ。すると今度は、鳩山さん、あなたが不眠症だというスキャンダルを私は握っていますよ。と彼の弱味に漬け込んだり脅したり出来ることになってしまう。ちなみに私は不眠症が弱味になるとは思っていないので・・・・念のため。)

冒頭の記事に戻る。「恩返しをする」のは、鳩山さん、あなたの個人的な事情でしょ?だったらその人が総理になる資質がなくても、お世話になったらなってもらうの? どうして国民が本来選ぶべき総理を、そんな個人的な事情で決めようという発想がわくのだろう? それでいて他方では「国民の皆様のために」政治をやっているとか言っているのである。この矛盾って小学生でも感じ取ることができるんじゃないか?

ついでに言えば、「鳩山氏は出しゃばりすぎ」という議員も、もし公の席で言っているとしたら、鳩山さんとまったく同じレベル、という気がする。「アイツ、出しゃばり」というのも個人的感情でしょ?つまり「本当は僕も目立ちたいんだけれど、あいつばかり目立っている。クヤシイ!」もちろん心で思うのは自由だ(というより人間はたいていはそのレベルの感情で動いている)が、鳩山さんの発言を批判する理由としては全く的外れだろう。国際感覚欠如、とは言わないまでも、まったく「村社会の論理」に浸りきっている。そこには義理、人情、恩、和などが先行し、理性や個人が従属したり無視されたりする。実際は政治家の社会は閉鎖的だし、そこでは村社会の論理が支配することは分かっている。でもそれがまずいことを知っているから、公的にはそんなセリフが出てきてはいけないんでしょ?

でもこの「村社会の論理」は、日本人のメンタリティの根底にあって、私はそれが好きなのだから皮肉なものだ。私はどこに行ってもおおむね細やかな配慮の行き届いたこの社会にいられて幸せだと思う。でもその日本人のメンタリティのかなりの部分は盲目的な、相互信頼と相互犠牲に基づいていて、それはお互いの自由と自立性を相当に縛ることになる。

青山通りを歩いていて100円玉を落として気がつかずに立ち去ろうとしたとする。それを拾った人は私を追っかけてきて渡してくれるかもしれない。もし拾った人がそうしなかったとしても、私を追いかけるのが、照れくさく、恥ずかしかったからだけだろう。そういう人はそっとその百円玉を間近の歩道の縁石あたりにおいて行ってしまうのだ。「僕はネコババなんてしませんよ。」と自分に言い聞かせて。そういう日本人は私はとても好きだ。ほぼ百パーセント、お金が拾った人のポケットに消える社会に長年いたからだ。

ここでの心の動きは「村社会」的である。人のお金を取ってはいけない。だから追いかけてでもお金を渡すべきだ。なぜなら人はお互いに助け合って「友愛」の精神で生きていかなくてはならないから。そのような友愛の社会においては、人から受けた恩を忘れないということは絶対であり、そこには自己犠牲はあって当然である。ところで・・・・・もちろん私がお金を落としたら、人はそれを拾ったら私のもとに届けてくれてしかるべきである。人もまた私のために、自己犠牲をしてしかるべきだ。そういう社会を築かかなくてはならない。もちろん二酸化炭素の排出量を率先して抑えなくてはならない。自分からそういう姿勢を示すべきだ。25パーセント! え?アメリカは日本を頼りにして、相互平和に向けて精いっぱいの努力をしてほしい?もちろんです。沖縄のことでも力を注いでほしいって? もちろん。 トラストミー! あれ、沖縄村に行ったときは、彼らに「トラストミー」っと言ってしまった。どうしよう。彼らは全く別のことを言っているのに。まあいいか、皆の幸せのために精一杯努力をし続けてくれば、みなその姿勢に感動して許してくれるだろう。・・・・・これじゃアメリカ人じゃなくても「宇宙人」と思うのではないか。

不可知性との関連で。鳩山さんは人は皆「友愛の精神」で結びついていると思っているし、その意味では他人の心は読み取れるはずだ。その精神に従わない人は間違っているのであり、友愛の精神が足りないからだ。これはおそらく他人を不可知とみなすこととは全く逆であろう。さもなくばこう考えるはずだ。「100円玉を拾った人の心になにが起きるのかは本当は分からない。でも最終的に落とし主にお金が返るような社会を作るためには何が必要かを皆で考えよう。」

ちなみに人の心を想定内にとどめようとしている鳩山さんを「宇宙人」(つまりその心が計り知れない)と呼ぶセンスは悪くないのだろう。

うーん。結局、私は別に鳩山さんに対して怒っているわけではないらしい。ただ呆れているだけである。

2010年8月28日土曜日

怒らないこと その4. 怒ることは蜜の味

「今日も暑い」はもう書き飽きた。 NHKを見ていて思うのだが、女性キャスターやアナウンサーは、絶対美人を使っているよね。アタリマエか。従来NHKだけが、「女子アナは美人が好ましい」という命題を認めないような採用の仕方をしていたようだが(そして男性アナに関しては、未だに「人間、見た目ではないよ」を感じさせるような人材を起用しているようである)、最近はお天気お姉さんにいたるまで、”better looking, the better” への方針転換をあからさまにしているようである。
美人女子アナ、美人キャスターの起用はしかし、 決して世の男性のためだけではない。女性にとっても、子どもにとっても、整った、若い女性の顔は、見ていて心地よさを生むのだろう。だからその表紙の雑誌を手に取り、買い物カゴに入れたくなる。それは、どうしてか? それが赤ちゃんにとって一番癒される顔というわけだろう。十分に若く、笑顔が美しいお母さんのもとで、赤ちゃんは健全に育つ可能性がより大きくなるのだ。そして私たちは老若男女を問わず、その赤ちゃんの頃の「好み」を一生持ち続けるのだ。それが雑誌の表紙を飾るというわけである。(アエラのみ例外。)
コンビニの雑誌売り場にならぶ雑誌の数々。どれも表紙は若い美人の笑顔なのは、壮観でもあり、またその画一的なところは、ちょっと不気味ですらある。たまには100歳のおばあちゃんの顔が並んだっていいではないか? でもそうならないのには、私たちの中の赤ちゃんがそれを許さないからだ。(100歳のおばあちゃんは、赤ちゃんを抱っこすると手が●●●てうっかり●●●てしまうかも知れないではないか。)それに比べて若い男性の整った笑顔など、ほとんど価値なし、だ。赤ちゃんは別に若くて整った顔の男性に抱っこして欲しくないのだ。そもそもいつもお父さんに抱っこされている赤ちゃんは胸騒ぎがしてもおかしくない。だってそれはお父さんが働かずにうちにいるということだから。お父ちゃんは抱っこしてくれなくていい(とは、言い過ぎか?)

いつもの小沢さんワッチング(彼は強者だから、批判していいのだ)ニュースにあった。 「古賀氏は菅首相に電話し、「一致結束した体制を築けないか」と要請。首相は「その通りだ」と答えたという。 続いて、連合を訪れた小沢氏にも同じように働きかけたが、小沢氏は「そう思っていたが、(首相に)そういう意思がないということなので」とさらり。」

まったくよく言うよ。小沢さんは、自分への批判を人のせいにするのは、天才的にうまいのだ。ただしここにはほんの少しの真実があるらしい。菅さんが要職は小沢さんや小沢派の人に譲るつもりがなかったのだ。 それにより「友愛の鳩山さん」(やはり宇宙人だ!!)の工作は失敗。でも小沢さんには好機到来だろう。自分が首相に手を上げる口実がより確かなものになるのだから。菅さんにしてみれば、小沢さんに牛耳られる首相職などいらない、ということか。こちらも相当根に持つタイプだ。ただし相手をあらゆる手を使ってねじ伏せる力は、はるかに小沢さんの勝ち。

さて「汝怒るなかれ」のメッセージがなぜ一般受けしないのか、という問題だが、何と言っても怒るという行為はカタルシスになるし、気持ちよい行為であることが少なくないからだ。このタイトルにあるように、怒りは楽しい。人を怒鳴り散らすのは蜜の味だ。スマナサーラさんの本には、「怒りの人生に喜びはない」と書いてあるが、人に対して怒りまくることは、実は快感のもとにもなりうる。ただしそれが同時に激しい後悔や自己嫌悪を生む可能性があるのは、怒りが人を破壊し、傷つけるさまを目にするからだ。そして相手に怒りを向けている自分自身が持っている理不尽さや残虐性などに思いを至らせ、それが後ろめたさを生む。

怒りが苦しみを伴う可能性はもうひとつある。それは自分の怒りの表現が、たちまち相手の怒りをあおり、それがあまりにパワフルなために結局劣勢に回ってしまう場合だ。つまり怒りの表現が、結果的にさらなる憤懣を募らせる場合である。「この怒りたくても怒れないことに怒っている」という怒りは、これほど不快で苦しいものはない。

だから相手を破壊しても少しも後悔や後ろめたさを感じないような人や、自分の怒りが誰にも制止されずに果てしなく相手を破壊しつくす場合には、怒りはさぞかし快感だろう。暴君や専制君主はこの「怒りをいくらでも楽しめる」数少ない人たちだ。反社会的で自己愛的なリーダーにとっては怒りは蜜の味なのである。

そういえば某大国のカリスマでこんなことを言った人がいたな。「わが国は核の一つや二つを落とされても平気だ。人口が多すぎるくらいだから。」

そう、「汝怒るなかれ」は、実はもう少し怒っていいのに怒りを表明できないでいる敏感で優しい人たちにしか理解してもらえないのだ。なんとも皮肉なものである。

2010年8月27日金曜日

怒りについて その3. 思い出ばなし

このブログは気軽にサラサラと書いて、誤字などもあまりチェックせずに投稿することにしているので、頻繁に更新できるのだが、昨日はこの怒りの問題を考えていて、分からなくなった。 この怒りの問題、私自身が迷っていたり、分かっていないことなどがあまり多いということがわかった。
過去を振り返ると、豪快に怒り、他人を怒鳴りつける人を色々見てきた。私の父親も母親に対して時々かなりの大声をあげていた。さすがに手を上げたことはなかったが。父親は普段は温厚だったが、それだけに怒った時の表情や振る舞いはよく覚えている。しかし私は父親に怒鳴られたことも手を挙げられたことも一切なかった。ブツブツ小言を言われたことはなんどかあった程度だ。

やはり圧巻は、中学時代の教師たちだった。私の通った学校は進学校で、決して柄は悪くなかったが、ベテラン教師は怒鳴り方も堂に入っていた。それぞれの教師がスタイルを持っていて、それで一人前、という印象すらあった。
特に化学の教師の「プーさん」と言われる中年男性の教師は、柔道の有段者ということもあり、本当におそれられていた。授業の前に化学の宿題を忘れたことに気がついた生徒などは、蒼白になったものである。その雷鳴のような怒鳴り声と、金剛力士像そっくりの表情は、今でもありありと蘇ってくる。プーさんもその効果をよくわかっていて、悪さをした生徒に向かって、表情を曇らせ息を吸い込み、「あの雷が落ちるのか・・・」とクラスの皆が視線を落としたり身構えたりしている時に、「なーんてね」などとフェイントをかけ、皆の緊張が一気に和らいだりしたのだ。

理科の教師には怖いひとが集まるのか、Mという教師も恐れられていた。背は低いが器械体操をやっていて筋骨隆々だった彼は、理由がよくわからずに突然大きな声を出して怒ることで知られていた。一年に2,3度しか起きなかったが、いったん怒ると意味不明の言葉を発しながら生徒を飛び上がって殴る(背が低いため)という伝説がった。

大学ではさすがに授業中に怒鳴る教師はいなかったが、精神科医になると、よく大きな声をあげて後輩を指導する先輩医師がいた。患者が治療者側に対して示す怒りや暴力など、入院治療に携わるとそれこそ日常的に見られた。そしてアメリカ時代。入院病棟での患者たちは体格がよく、いったん怒りだした彼らもう凶器という感じだった。体格の劣る私など警備員を前に押し出してしか対応できないことが多かった。それもあってか、日本に帰ってからは、人が怒っているのを見ても、あまり怖くなくなった。

さて私はそれらの怒りの発露を興味深く見ていただけで、私自身が声を上げたことは殆ど無かった。思い出すだけでこの30年の中で二度しかなかった。一度は患者さんに、もう一度は家内に。どちらも思わず、というよりは「怒鳴ってみようか。どうなるかな。」という感じであり、ろくなことは起きなかった。それについては「気弱な・・・」で書いたことがあるので省略。

私自身人を怒鳴るという必要性を感じないということはラッキーなことだと思う。そして私が怒らないでいられる一つの理由は、私自身が怒鳴られ、こづかれ、いじめられ、無視されるという経験をしなかったことが大きいと思う。小学校から進学校に通うということは、それだけあからさまな暴力やいじめに暴露される機会が少なくて住んだということだろう。

ただし中学校は、基本的に生意気だった私は教師から殴られるという体験は一度や二度ではなかった。運動場の真ん中で、音楽の教師から16往復ビンタを食らったこともある。(間近で見ていたクラスメートが数えてくれていた。事情は省略)今考えれば私にとっては貴重な体験であった。自分が悪かったから仕方がないと思うし、それがトラウマになったという感覚はまったくない。

今政治の世界で色々考えさせられるのは、怒りを露にし、それを力にして政治の世界を生き抜いている民主党の小沢さんである。彼の怒りは決して人のためというところはなく、私憤そのものである。そして彼の怒りは強者としての怒り、恫喝という感じだ。彼は自分が一番偉いと思い、ライバルから挑戦を受けると猛然と腹を立てる。見ていて見苦しい限りだが、カタルシスがないわけではない。どこかにその動向を見ていたい、という気が起きる。イラ菅と剛腕小沢の一騎打ちは、政治家としてあるべき姿のほぼ逆だと思うが、それでも見ていて正直面白い。

「怒るなかれ」は私の信条だが、それはまた実行が非常に難しい課題でもある。人はどうしても怒ってしまう。それが周囲を怯えさせ、傷つけ、しかし同時に興奮させ、興味をそそる。「怒るなかれ」という信条に人は普通は興味をあまり示さないし、むしろ怒ることでそれだけ人生が分かりやすくなり、敵と味方が明確になり、自分の弱さや落ち度が曖昧になる方を好むというひとが多いのもまた事実なのであろう。

2010年8月25日水曜日

怒らないこと その3. 怒らないより大事なこと

今日はぎりぎりの更新であった。相変わらずの暑さ。ただ今日は●●さんが、「今日は月が綺麗」、と教えてくれた。
民主党というコップの中の嵐は相変わらずである。小沢さんて面白いな。「自分に対する立候補の要請については・・・・・」などと言っている。「この政治塾は、下世話な政治の話はしない」だって。この種のレトリックは生理的に受け付けない。

こうして小沢さんに対して批判的なことを書くのはなぜか。彼が強者で、私は弱者だからだ。弱者は強者を批判していい。弱者は強者からの蹂躙に身を守る手段を持たないから(というよりそれが強者、弱者の関係の定義だからだ)批判することが出来る。強者は傷つくのか?トラウマになるのか?私が小沢さんを批判して、その言葉を耳にした小沢さんが心に傷を負う、という関係であれば、既に彼は私(そして国民の大多数)に対して強者という立場にはないということになる。もし小沢さんが何らかの都合で、私の外来にやってきて、眠れないから薬を処方して欲しい、ということになり、患者さんになったとしたら、私は小沢さんに向かっての言動には、細心の注意を払い、傷つけるような言葉など一切言わなくなるだろう。それは私が彼に対して権力を乱用できる立場、すなわち強者になるからだ。
「汝怒るなかれ、ただし権力に対しては別である」って悪くないことだ。いかりや攻撃性は、依然として私たちの人生で、その正当な発露を持っているということだ。ただし・・・・・強者と戦うことは、者すごいむずかしいことでもあるのだ。

怒らないことについて書いているうちに、怒らないことより、戦うこと、の方が大切である気がした。だって怒らないことはそんなに難しくないが(言った、言った!)強い相手に戦いを挑むのは、勇気がいることだからだ。弱者に対して怒らないことと、強者に対して戦いを挑むことのどちらが人に貢献するかというと、恐らく後者ではないか。というのも強者をくじくことで恩恵を被る人は、自分だけではないからだ。というよりは強者と戦うことは、人のためにもなる分、自己犠牲的な行為だからだ。「蟹工船」なら、搾取するボスに戦いを挑むことは同時に、同じ立場にたって苦しむ仲間を解放することになる。
ところが私たちは怒らないで泰然自若をしている人の事を、強者に戦いを挑む人よりも尊敬し、理想化する傾向がある。すこしおかしな話である。何かそんなことを考えるようになってきたのは、とりあえずこのブログでこの問題を追っているからである。

2010年8月24日火曜日

怒らないこと その2. 龍馬の話に戻るまで

昨日の続きである。ちょっと長くなったが。

この世に強者、弱者は常にある。社会的な地位や性別や年齢に大きく左右はされるが、一応はそれとは独立した形で存在し、人の間に序列を生む。どこかに明記されているわけではなくても、社会の中で人はそれを感じ、推し量ろうとしている。時々顕著に表れることがある。エレベーターに乗ったり降りたり、記念写真を撮るときの立ち位置を決めたり、飲み会で座る場所を決めたりする時に必ず出てくる。オフィスの大きさ、窓への近さ、などにも出てくる。これは観察していて面白いくらいだ。

もちろん動物界ではもっとはっきりしている。猿山などを見ているとわかる。こちらの方は力関係が一目瞭然となる。ボス猿以下はっきりとした序列がある。日本の政治家を猿山に入れたらどうなるか? いわゆるαメール(ボス猿)にはだれがなるだろう?時の総理大臣か?それともやはり小沢さんがなるんだろうか?ボズざるの黒幕なんていないからな。いやその後ろに中曽根さんあたりが控えているかもしれない。長老というわけだ。でも長老がぼんやりしていると、若手のサルが雌にちょっかいを出す、ということもあるが、それは人間社会でも同じだろう。

しかし人間の場合は少し複雑だ。能力にはいろいろ種類がある。だから時と場合により誰が強いかは入れ替わる。常に強者、という人はむしろ少ない。

たとえば政治家を集め囲碁の大会をやったら、とたんに与謝野馨さんあたりが大ボスになり、小沢さんは裏工作が効かなくなって与謝野さんに頭が上がらなくなってしまうとか。(まてよ、確か最後の対局では小沢氏が勝ったんだっけ?)強者か弱者かは、ほんのちょっとしたことでも揺れ動く。昨日まで威張っていた派閥の長が、ちょっと週刊誌にたたかれただけで、それまでの「強度」が何ポイントも下がってしまったりする。
夫婦の関係だって、日常生活では奥さんのほうが強者で、ご主人は奥さんの顔色をいつもうかがっていても、実は金の出し入れに関しては主人が完全に支配していて、奥さんは何も言えない、ということもある。
しかし状況や関係性によっては、前提的な強者、弱者が決まってしまうのが問題だ。職場や学校、親子の関係などでは、強者、弱者の関係が絶対的になり、一方が他方を抵抗が出来ないくらいねじ伏せてしまえることがある。するとその関係は最近よくいわれる「対人関係上の外傷」、つまり虐待とかネグレクトとかパワハラ、セクハラなどが起きる素地となるのである。

このように強者と弱者の関係というテーマは、実は外傷の問題、搾取の問題と密接なのだ。そして外傷が人間関係のいたるところで起き、それを生みだすような強者、弱者の関係は、それこそ人間関係の細部にいたるまで網の目のように張り巡らされている。
動物の世界でもそうである。というより、動物ほどシビアに強者弱者の関係で動いているものはない。先ほどはサル社会を例に出したが、強者、弱者の関係性の中で生き残ったのが、いま地球上にいる生物だと考えればいい。(うちの犬のチビだって私のことが怖いくせに、カミさんのほうが私より強者であることを知っていて、私が怖い顔をすると、すぐ彼女の陰に隠れるのである。悔しい。そのくせカミさんが留守のときは急に態度を変えて尻尾を振ってくるのだ。)人間は洗練されているようでいて、実はこの他者との力関係にものすごく敏感であることは変わりない。よく「空気を読む、読まない」というが、読むべき一番のものは、この他者との微妙な力関係であろう。

私が「怒るべからず」、と言う時、それは怒ることが、現実の持つ不可知性を無視し、相手を白か黒かで決めつけるという傾向に基づいているからだ。そしてそれはたいていは、自分が恥をかかされて、自己愛を傷つけられたことの反応として生じるのである。
しかしこの理不尽な怒りは、自分や仲間を理不尽にいじめてくるような強者に対しては、むしろ積極的に向けなくてはならない。それは強者からのいじめやハラスメントから自分や仲間を守るためには、必要なものなのだ。そのときは相手の事情とか、相手への共感はむしろ邪魔になる。相手と戦う際は、不可知論は無意味であり、それに基づく「怒るなかれ」はかえって身を危険にさらしてしまう。強者と戦う際はむしろ善か無か、白か黒かの悉無律的な原則によらなくてはならない。だってそうではないか。自分を襲ってくるライオンにライフルを向けて引き金を引こうとしている瞬間に、「でもライオンも撃たれたら痛いだろう」などと思っている間に、ガブリ、とやられてしまうからだ。

そこで龍馬の話にようやく戻る。限りなくやさしい彼は、しかし自分より強い存在には常に戦いを挑む。あるいは弱者でも、それが自分よりさらに弱いだれかをいじめている場合には彼は黙ってはいないだろう。強い相手に怒るのは、大抵が勇気ある行為だ。それは自分や仲間の身を守る行為であるし、身を挺しても仲間さえも救おうとするその「余剰」の部分だけ、愛他的である、ともいえる。(ただしそれを愛他性と呼ぶなら、人間より下等なはずの動物の世界は、その愛他性に満ち溢れている。子孫や仲間のために親が自分を犠牲にするという行動はむしろスタンダードでさえある。)

強い相手に対する怒りは、わが身や仲間を守ろうとする、おそらく唯一の正当な怒りといっていい。怒りそのものはあいかわらず理不尽なものであるが、それでも正当なものである。正当なる理不尽さ。平和主義者のように描かれている龍馬は、権力には常に牙をむく。その時は彼の平等主義や価値の相対性や不可知論的な世界観は停止し、スプリッティングの権化となって、戦いに命を懸けるというわけだ。
こうして昨日の最初のテーマに戻る。「怒らないことと、戦うことは矛盾しない。」

ちなみに龍馬伝に描かれている人物像を見て面白いのは、限りなく優しい龍馬が、むしろその分だけ、権力と言う名の強者に対して挑戦的であるということだ。あるいは逆かもしれない。戦う相手を知っていると、守るべき相手には優しくなれるということか。
あのわかりやすい素人受けのする龍馬伝を見て、結構ハマってこんなことを書き連ねている私も、かなりミーハーだと思う。でもそれにしてもやはりフクヤマは許せない気がする。