2026年10月1日木曜日

成田先生のこと 推敲 1

「自由人成田先生と精神療法のスタイル」

成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係にあったわけではなく、スーパービジョンをしていただいた機会もなかった。年に一度精神分析学会でお姿をお見掛けし、時々言葉を交わさせていただくだけであった。私は先生の著作を隅から隅まで読んだわけでもなかったが、私の中での先生の位置は特別なものであった。それはどのような意味でであろうか?
 これを考えると、かつて先生が2014年に精神分析学会の小此木賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はたまたまその時の司会の役をいただき、最初に先生の御略歴を簡単にご紹介した後に、「私にとっては、成田先生は精神分析学会の良心と言っていい方です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ!」とばかりに苦笑なさったことも明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり私の心の中では「分析学会の良心」であったと思うのだ。この文章は私がそう考える理由を簡潔にお伝え出来たらと思う。
 まず結論から言えば、成田先生は自由人であったと思う。精神分析学会には属されていたが、その縛りはあまりなかったのではないかと思う。そして人間として自由であることがこの良心の話とも、治療者としての資質とも深く関係しているように思えるのである。

治療者としての自由さ
 成田先生について語る前に、この治療者としての自由さということについて述べておきたい。少なくとも我が国において、精神療法(特に心理療法とは区別せずこのような呼び方をしておく)を行う際、何らかの学派の影響を受けていないということの方が稀であると言って差し支えないだあろう。精神科医あるいは心理士として大学教育や卒後教育を受ける時点で、例えば精神分析や認知行動療法やロジャース派の理論を学んでいるであろうし、それらの学派に属するスーパーバイザーについて指導を受ける可能性が高い。そして初めて患者を担当する際には、おのずと教育を受けてなじみ深い学派における常識に従うことを考えるであろう。

 たとえば精神分析学会に属し、分析関係者のスーパービジョンを受けているとしたら、治療中に迷うような出来事があれば、自分自身が常識的に判断を下すよりは、「これは分析的にはあまり薦められないな」とか「バイザーなら賛成はしないだろうな」という考えが浮かび、それに従った場合の判断を優先するかもしれない。
 具体例を示そう。ある患者が旅行から帰ったばかりで、治療者にお土産に小さなキーホルダーを買ってきたとしよう。そしてそれを差し出して受け取って欲しい、と願う。初心の治療者ならその要求をどのように理解するべきかということ段階で途方に暮れ、とっさの返事が出来ない可能性がある。何しろそのような要求を受けたことは無論初めてであるし、それまでに「患者からの贈り物をどうするか?」という内容の講義を聞いたり分析的な精神療法のテキストで読んだことなどないであろうからだ。そしてそのような時は初心の治療者は、「間違った対応をしてはいけない」という不安に駆られる一方で、そのような要求を持ち出してきた患者の側の視点を持つことは二の次になってしまいやすいだろう。むろん無理のないこととはいえ、その時の治療者は、本当に自分の感性や体験を経由して判断していないという意味では「自由」とは言えないことになる。
 では改めて、本当の自由度とは何か。それは目の前の患者の立場に立ち、自分自身で臨床的な判断を下す能力である。そしてその際「~の学派ではどのように考えるか?」は思い浮かぶことはあっても優先順位は低いことになる。このように述べると抽象的になるが、実際は至ってシンプルなことだ。要するに相手(この場合患者)の立場に立ったら何を望むかを最優先に考えることだ。(後に述べるが、成田はこれを「相手の着ぐるみを着る」と表現している。
先ほどの例では、旅先で買い求めたキーホルダーを治療者にプレゼントするという体験を持ち、例えばそれを受け取ってもらえない当の体験を持つことで初めてわかることになる。そしてその時の気持ちを持っている患者にまっすぐに応じることが自由度である。
 ただしその結果としてそのお土産を受け取るか否かはまた別の問題であることも言うまでもないだろう。嗜癖薬物を渇望する患者にそれを敢えて処方しないことにその自由度が用いられることもあるからだ。ちなみにここにはロジャース的な「自己一致」に準ずる考え方を持ち込むことも出来るであろう。その自由とは、学派の縛り、バイザーからの縛りからの自由という意味であり、決して倫理則から逃れることを意味はしない。