2024年11月14日木曜日

解離における知覚体験 11

解離性幻覚とトラウマ

病的な知覚体験としてしばしば論じられるのがいわゆるフラッシュバックに伴う体験である。PTSDなどのトラウマ関連障害で患者は過去のトラウマ体験が突然知覚、感覚、情緒体験と共に蘇る。この体験を解離の文脈でどのように位置づけるかは議論が多いところだが、DSM-5(2013)に新しく加わった記述は注目を浴びた。それはPTSDの診断基準の一つに「フラッシュバックなどの解離体験」という表現が加わったことである。つまり通常言われるフラッシュバックを解離性のものとして理解する方針が示されたのだ。(より正確には、「トラウマ的な出来事が再現されているかのように感じたり行動したりする解離反応(例えばフラッシュバック)dissociative reactions (e.g. flashbacks」in which the individual feels or acts as if the traumatic event(s) were recurring) と書かれている。)

この傾向は2013年にDSM-5が発刊された時点でそれまでのPTSDの理解がより「解離より」になったことを反映しているだろう。DSM-5においては「解離タイプ」が新たに盛り込まれる予定であったが、実際には特定項目として扱われることになった。つまり解離症状がある場合には「解離を伴うPTSD」と特定することとなった。それは離人体験かまたは非現実体験とされる。

近年の研究でも、解離傾向と幻覚体験及びトラウマについての相関性を示す研究が複数みられる。

Jones, O., Hughes-Ruiz, L., & Vass, V. (2023). Investigating hallucination-proneness, dissociative experiences and trauma in the general population. Psychosis, 16(3), 233–242.

Jones et al (2023) によれば、幻覚体験には、解離が深く絡んでいると言われ(Longden et al, 2012)るが、彼らの研究では、トラウマと幻覚傾向 hallucination -proneness には顕著な関係が見られ、そのトラウマが深刻であるほど、幻覚も深刻であるという関係が見いだされたという。そして解離と幻覚傾向にも顕著な相関があったという。つまり主観的なトラウマ体験と幻覚体験を仲介しているのが解離ということだ。もう少しわかりやすく言えば、トラウマを負った人に解離が顕著で、それだけ幻覚を体験しやすいということだ。


2024年11月13日水曜日

解離における知覚体験 10

統合失調症との鑑別

ここまで解離性の幻覚についてこれまで論じてきたが、ここで特に統合失調症との鑑別で論じることには特別の意味があるであろう。というのも従来幻覚体験、特に幻聴はしばしば統合失調症にとって極めて特異的な病理ん現象として理解される傾向にあったからである。

このテーマに関しては柴山の記述を参考にしよう。(柴山雅俊(2017)解離の舞台 症状構造と治療 金剛出版.)

P209では「第14章 解離性障害と統合失調症」として知覚異常に触れている。特に解離性障害で見られる幻聴には二種類ある、と明記している。

1.フラッシュバック しばしばこれが解離性幻聴であるとされがちだが、その一部にすぎないとする。

2,交代人格(不全型も含む)に由来する幻聴。特に「死んでしまえ」などの攻撃的なものや「こっちにおいで」という別の世界へ誘いかける内容などで、これはフラッシュバックとは異なる、としている。さらに解離性の幻聴は、患者の気分との連続性が見られることが多い、とも言う。そして幻聴の主を対象化、すなわち特定できることが多く、これは統合失調症の際の把握できない、不明の主体であることとかなり異なるとする。そして柴山が特に強調するのが、統合失調症における他者の先行性という特徴だ。少し長いが引用しよう。
「概して統合失調症の幻聴は、自分の動きに敏感に反応して、外部から唐突に聞こえる不明の他者の声である。そこには自己の医師や感情との連続性は認められない。その声は断片的であり、基本的にその幻聴主体を対象化することは不可能なものとしてある。幻聴の意図するところは、常に把握できない部分を含んでいる。従ってその体験はある種の驚きと困惑を伴っている。それに対して解離性障害では、他者の対象化の可能性は原理的に保たれており、不意打ち、驚き、当惑といった要素は少ない。」


2024年11月12日火曜日

解離における知覚体験 9

 その一例としてアンナO.を取り上げよう。

<症例アンナO.に見られる幻覚>

ブロイアーとフロイトによる著作「ヒステリー研究」(1895)の最初に記載されているアンナO.の示す症状は、ある意味では解離性障害が示しうる症状群を一挙に紹介してくれるという意味ではとても象徴的である。その中で彼女がどの様な文脈の中で幻覚ないし知覚異常を示したかを知る上でも簡単にさらっておこう。

アンナO.の発症は多くの症状の複合したもの、つまり「特有の精神病、錯語、内斜視、重篤な視覚障害、手足や首の完全な、ないし部分的な拘縮性麻痺である(フロイト全集、p.25)。これは彼女が敬愛する父親の発病をきっかけに始まった。そして自分も徐々に憔悴し、激しい咳と吐き気のためにアンナは父の看病から外される。ここでブロイアーが呼ばれたが、ブロイアーはアンナが二つの異なる意識状態を示すことに気が付く。一つは正常な彼女だが、もう一つは気性が荒く、又常に幻覚を見、周囲の人をののしったり枕を投げつけたりしたという。
その幻覚については、彼女の髪やひもが黒い蛇となって表れた。最初は午後の傾眠状態で現れたが、錯語(言語の解体)や手足の拘縮も起きていた。この視覚異常に関しては特定の色だけ、例えば自分の服の色だけ、茶色なのはわかっているのに青に見える、などのことも後に起きたという。(p.39)そしてそれは父親が来ていたガウンの青色が関係していることが分かったということだ。

ここで興味深いのは幻覚はそれ自身が単独で起きるというよりは意識の混濁や言語の解体や手足の拘縮などと一緒に生じていたということである。つまり彼女は身体運動、言語機能、情動の表出,咳や吐き気などの自律神経機能の異常などとともに知覚異常(錯覚、幻覚)を体験したのだ。
これらの知覚異常はいわば解離性の陽性症状といえるが、ブロイアーはアンナに見られた聴覚異常についても丹念に記録している。それは誰かが入ってきても、それが聞こえない、人の話が理解できない、直接話しかけられても聞こえない、物事に驚愕すると急に聞こえなくなる、などである。(p.43)

ここでアンナの視覚、聴覚異常についていえば、視覚においては陽性症状としての幻覚、聴覚に関してはもっぱら陰性症状としての聴覚脱失であるが、それが浮動性を有し、様々な形をとっているということが特徴的である。(自分の服の色の誤認の例など。)そしてそれらはまた「語ることで除去」されるという性質を持っていたのであ(p.41)。つまりDSM-5に記されている解離性の幻覚体験の特徴を備えていたのだ。


2024年11月11日月曜日

男性の性加害 2

 男性の性加害との関連で、「戦争と文化的トラウマ 日本における第二次世界大戦の長期的影響」(竹島 正, 森 茂起, 中村 江里 (編) 日本評論社、2023年.)を少しずつ読んでいるが、そこに加害による心的トラウマの話が出てくる。確かに戦時中に上官の命令により敵地で民間人を撃ったという体験が亡霊のように付きまとうという心的外傷を負った戦闘兵が沢山いる。この意味での「加害トラウマ」という用語はすでにあるようだ。 加害トラウマと男性性の悲劇性との関連で言えば、男性は常にその存在により既に加害性を負っているという感覚がある。これはちょうど女性が男性を見るとそこに潜在的な加害者像を投影するというのと表裏の関係にあるかもしれない。どこかのビーチでビデオを回していた人が盗撮の疑いをかけられたという話を聞いた。あるいは電車で向かい側に座っている女性を携帯で写したところ、その女性の男性のパートナーに糾弾されたというような話も聞いたことがある。 これについて調べていると、弁護士ドットコムニュースにそれについての記載があった。少し長いが、私にとってはとても有益な情報なので引用する。https://www.bengo4.com/c_23/n_8410/

電車の座席にいる人の顔を盗撮することは、犯罪になるのでしょうか。「電車の座席にいる人の顔を盗撮したとしても、基本的に犯罪になりません。
まず、日本の刑法には『盗撮罪』はありません。また、軽犯罪法では『他人が通常衣服を着けないでいる場所をのぞき見る』行為を処罰していますが(同法1条23号)、電車の座席に対する撮影は該当しません。
なお、軽犯罪法では『公共の乗物で乗客に対し著しく粗野または乱暴な言動で迷惑をかける』行為を処罰しています(同法1条5号)。しかし、制止を振り切って顔を撮影したのであればともかく、ひそかに顔を撮影するのはこれに該当しないでしょう」。
●「迷惑防止条例」に違反しない?
盗撮は、各都道府県の迷惑防止条例違反になると聞いたことがあります。電車内で人の顔を盗撮する行為は、迷惑防止条例に違反しませんか。
「確かに、迷惑防止条例では一定の盗撮を犯罪としていますが、人の性的羞恥心を害するような行為であることが前提です。規制内容は都道府県で多少異なるものの、たとえば、東京都の『公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例』では、
(1)通常衣服の全部または一部を着けない状態でいる場所、または公共の場所、公共の乗物等において、
(2) 通常衣服に隠されている下着または身体を、
(3)撮影し、または撮影目的で写真機等を差し向け、もしくは設置する
行為が処罰されます(同条例5条1項2号、8条1項2号、同条2項1号)。
電車の座席にいる人の顔を盗撮しただけであれば、通常衣服に隠されている下着や身体を撮影したわけではないので、迷惑防止条例に違反しません。
また、迷惑防止条例では『公共の場所や公共の乗物での卑わいな言動』も処罰していることが多いです。
ズボンを履いた女性の背後から、お尻を中心として11回撮影した行為が、卑わいな言動に該当し、北海道の迷惑防止条例に違反するとされた事件もあります(最高裁判所平成20年11月10日判決、刑集62巻10号2853頁)。
しかし、質問のケースは、人に性的羞恥心を与えるものではないので、卑わいな言動にも該当しません」。

何か当たり前のことを言われているようだが、少しモヤモヤがとれる。女性を見るだけでも加害行為ではないか、と懸念する男性にとっては少し安心する内容だ。
だいたい人間同士が暮らすということには既に、素顔という形でのプライバシーをお互いに晒し合うことを前提としているのだ。さもなければイスラム世界のように女性はヒジャーブ hijab で顔を隠す必要が出てくるだろう。
しかしそれにしてもイスラム教の世界観は、女性が男性から性的に見られるということを前提としているかのようで、興味深い。コーランでは「貞節な女性たちに『目を伏せ、プライベートな部分を守り、(魅惑させないよう)飾らず』」と書かれているという。そして「ヒジャーブは女性が男性から性的な眼差しを向けられることを妨げ、男性が誘惑に負けて罪を犯すことを防ぐ役割がある」というのだ。つまりイスラム世界では女性の素顔を写真にとることはすでに「盗撮」ということになるが、その際に素顔をさらした上の女性も男性に劣情を起こさせたという意味で罪が問われるというところが男尊女卑の世界観を表していると言えるだろう。

2024年11月10日日曜日

解離における知覚体験 8

 ここらへんで執筆モードに入ることにする。次のような感じで始まるか。何しろ12月の締切りが近づいてきているからだ。

はじめに

解離症における知覚体験について論じるのが本稿のテーマである。解離症の臨床を通じて体験されるのは、患者は様々な異常知覚を訴えることが多いということである。解離症は一般的には、

「意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻および/または不連続」により特徴づけられるものとして定義される(DSM-5-TR)。そして知覚体験についてもその欠損や異常知覚が、その他の心的な機能との統合を失った形で見られる。そしてそれらは統合失調症由来のものや脳の器質的な異常により生じるものとの鑑別が必要とされることになる。特に注意が必要なのは統合失調症性の知覚異常や幻聴体験との異同であろう。

幻覚の定義としては「対応する感覚器官への客観的な入力 objective input がないにもかかわらず生じるあらゆる様式 modality の知覚的な体験」Walters, et al, 2012) である。

幻覚はしばしば深刻な精神病理との関連を疑わせるがlife time 有病率は5.2%とされる(McGrth, et al, 2015)。幻聴の機序を解明することは難しいが、その中でそれを解離の文脈でとらえる向きがある(Longden, et al. 2012) そこで解離性障害の症状としての知覚異常はどのように定義されているだろうか? DSM-5を紐解き、解離性の幻覚体験に相当する部分、すなわち「機能性神経症状症」の中の記載を見ると、「感覚症状には、皮膚感覚、視覚、又は聴覚の変化、減弱、又は欠如が含まれる」とあるだけである。ここは実にシンプルだ。というより「何でもあり」という印象を受ける。しかし診断を支持する関連特徴としては、「ストレス因が関係している場合があること」、「神経疾患によって説明されないこと」「診察の結果に一貫性がないこと」(315)などが挙げられている。すなわち解離性の幻覚は、神経疾患で説明されず、浮動性を有する傾向があるという以外には、あらゆる形を取り得ることが許されているのだ。従来は解離性の視覚症状として管状視野(トンネルビジョン)がよく記載されていたが、実際には様々な形を取り得ることを私も臨床で経験している。

このように考えると、解離性の幻覚体験は、解離性障害における知覚異常のごく一部に相当するものと考えることが出来る。感覚異常と言ってもそれが欠損していたり、変容していたり、する。そのどのあり方も存在し得るのである。 このような解離における知覚異常のあり方は、いわゆる解離の陽性症状と陰性症状という考え方に立ち戻る必要があろう。Steele, K, van der Hart, O, Nijenhuis, E (2009) 「構造的解離」ではp73で、陽性症状という用語を実際に用いている(野間、岡野)。ともかくも幻覚は解離性に特有の現象というわけではなく、解離性症状の特に陽性症状と言われるものがあらゆる形をとる中で起きて来るものということが出来る。そしてその意味では解離性幻覚は、解離症状の様々な症状の文脈の中で見え隠れするものということが出来る。 つまりはそれ単独で現れることはむしろ例外であるということだ。

2024年11月9日土曜日

男性の性加害 1

 セックス依存 sex addiction という言葉は非常に議論が多く、DSM-5からは外れたが、それでも類似の診断を下すことが出来るという。その代表が、ICD-11の強迫的性行動 compulsive sexual behavior (CSBD)である。そしてこれはICD-11の薬物使用と嗜癖性の行動 substance use and additive behviours のカテゴリーには入らず、衝動制御障害 impulse control disorder に属している。それはこの行動が前者に属するかどうかについての情報を十分に持ち合わせていないからだという(Kraus SW,2018)。 Kraus SW,et al (2018) Compulsive sexual behavior disorder in the ICD-11. World Psychiatry. 17(1):109-110. これまでよく用いられた addiction は実はその限りではないということである。そこで次の疑問。嗜癖 addiction と 衝動とはどう違うのだろうか。例の impulsion compulsion の違いの議論のようである。  ちなみに私はこのCSBDに関してとても混乱している。ICDでは compulsive sexual disorder(6C72) は Impulse control disorder に属している。あたかも compulsion と impulsion の両者は同じものとして扱っている。そしてそれはあくまでも addiction ではないという。敢えて式にすれば、 addiction (嗜癖)≠ impulsion, compulsion  ということになる。 しかしStahl 先生のテキストでは、両者を impulsive-compulsive disorder に分類し、impulsion と compulsion の間にある微妙な差に言及しつつ、そこに薬物依存も行動依存も含まれているのである!!! つまりは  addiction (嗜癖)= impulsion ≒  compulsion 

恐らく両者の違いは結構微妙なのであろう。むしろこの辺は深堀氏てもあまり意味がないような気がしてきた。  それよりももう一つ混乱していることがある。男性の性愛性について、それが嗜癖の性質を有するかどうかは別といて、性加害者のごく一部しかその基準を満たしていないというのである。それは欧米の疫学研究が明らかにしていることだ。最初は加害者の50パーセントとか考えられていたのに、実は十数パーセントだという。ということは「嗜癖は男性の言い訳」という主張は案外その通りだということになってしまう。私の考えが誤りだった可能性がある。 しかしそれにしてもこの問題は少し本題からずれている気がする。問題は男性の性行動がなぜこれほどの加害性を有するかということである。そしてそれはなぜ(確信犯的な)犯罪を起こすかどうか、ということとは少し違う問題なのだ。

2024年11月8日金曜日

統合論と「解離能」推敲 18

 結局解離は人間ないしは生命体に備わった一種のブレーカーのようなものと考えられるだろうか。動物レベルでも生じるがその時は体の動きを止めることで、いわゆる擬死反応とも呼ばれる。それにより天敵に襲われることを防ぐという意味があるのであろう。しかしそれならシンプルに気を失うか、あるいはフリージングすればいいのであり、体外離脱のような複雑なメカニズムを必要とするのか、と思う。ただし考えてみれば擬死反応はそれを客観的に見ている部分を伴うならば、そこで冷静な判断を下すことが出来るため、単なるフリージングよりは生存の確立が上がるだろう。とすれば疑似反応はフリージングの進化バージョンと言えるのか。 私が興味があるのは、解離した自分とされた自分、つまり柴山先生のいう「存在する自分」と「まなざす自分」が出会うことで何が生まれるのか、ということだ。両者の融合や統合ではなく、邂逅(かいこう)することで生まれる変化というべきか。この辺りは野口五郎のエピソードにかなり影響を受けている。彼の場合、何かのストレスが働き、体のブレーカーが下り、それが解除されるというプロセスが生じたことになる。 私はいわゆる内在性解離という概念がよくわからないが、しかしその概念は便利だと思う。何しろ角回の刺激やPCP(エンジェルダスト)の使用で体外離脱体験のようなものが生じるというのである。要するに私たちの脳内にそのような神経回路がビルトインされている可能性があるのだ。しかもそれはもう一つの主体(眼差す主体)という意味を持つのだ。 私はいろいろなところで、解離とはもう一つの中心が成立した状態だという言い方をしたが、例えば歌手が声が出ないときに、それを操っているのはこのもう一つの主体というわけだ。この二つ(あるいはそれ以上)の存在が様々な混乱をもたらすが、これは例えばシングルコアのコンピューターに、あとからいくつものCPUが加わることによって「マルチコア」になったものの、混乱が生じてしまっている状態という感じではないか。もちろん普通のPCではそのようなことはないのだが、人間の場合にそれが起きてしまう。とすれば解離はもう障害以前の能力ということにはならないだろうか。ただこの能力が使いきれなくなってしまうから障害となるわけである。

例えば黒幕人格さんの感情の暴発を考えよう。これはその人の現在の生活にとって様々な問題となりかねない。しかしそれはもともと過去の虐待的な状況の中で、相手に対して正当防衛的に発揮されるべきものであったと考えるならば、その存在自体は必然だったといえる。そして虐待的な状況でそれが発現しないことでそれを生き延びることができたのである。いわばつけが回ってきたにもかかわらず、それが障害として扱われてしまう。このように考えるとまさにこの論文の題名のように、解離は 「function 機能であり、かつ dysfunction 機能不全でもある」ものなのだ。

Richardson はその論文の中で、心の機能を病的なものとしてしか見ないのは間違いであると指摘する。そして解離もそれに類するものだという。そして私たちが情緒的に耐えがたい体験をする際に、解離が緩衝材 buffer となることは、それにより今すべきことをするためには重要な働きであるという。

ところでRichardsonは統合を薦めないいくつかの理由を挙げているのが興味深い(p.208)。

1.ある特殊な能力を持ち高度の機能を果たしていた人格にアクセスできなくなる可能性。

2.患者が再び孤独になる可能性。

3.何時もそこにいなくてはならなくなる可能性。

これらはなかなかここまでは書けないものである。でも解離を肯定的に見るならばまさにそういうことにもなろう。

そしてp.209あたりでさらに彼の主張は過激さが増す。「治療の目標は解離を絶やさないことだ。」「解離は必要であり、緊急の際に自らを離脱させるために必要なのだ」という。さらには自らの立場から離れて他者に共感することもできない、という。相手の立場をとる、ということが一種の解離だという論法である。

実はこの部分を書いていて私は新たな認識を得たという気がする。よくあるトラウマの際に人格が分かれる break off という表現を見かけるが(この Richardson 先生も同様である)、私はこれまでその考え方に抵抗があった。いかにも人格=断片、パーツ、というニュアンスを持ったからだ。しかしそれが人格の成立に関わる可能性は少なくないのではないか。つまり break off した部分は、次の瞬間からすぐに自律性を獲得するのである。それは複雑系の基本的な性質なのだ。たとえば切り出した心臓を幾つかに分解したら、それぞれが独自のリズムの拍動を開始するという事情と同じである。むしろ自律性を失うのは、他の部分との連結が生じている時である。左右脳のことを考えると、それぞれが自律性を獲得するのは脳梁が離断されたときである。

2024年11月7日木曜日

統合論と「解離能」推敲 17

 解離能の議論に関してRichardson の論文が参考になる。

Richardson RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210.


「解離とは機能的な機能不全である」というちょっと挑発的なテーマだ。

その抄録には次のような主張がなされている。

もしある現実の一部が対応するにはあまりに苦痛な場合に、私たちの心は何をするのだろうか。痛みに対する生理的な反応が生じると同様に、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。その一つのメカニズムが解離だ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常的な機能を継続することを可能にしてくれるのだ。

たとえば自分の身体に痛みが加えられる前に体外離脱を起こすというのは、能力なのか。おそらくそう考えることもできよう。それにより痛みを体験している自分から離れて観察している自分が出来上がる。柴山先生のいう「存在者としての私」に対する「まなざす私」の成立である。少し飛躍するかもしれないが、これは即自存在から対自存在になるという、私たちの自意識の成立と同じくらいの大きな転換点となるだろう。ちなみに対自存在とは、意識は自分と一体化していない、あるいは自分そのものと意識が分かれているという状態である(少なくともサルトルは対自存在についてそう言ったらしい。)これは画期的な能力であり、一つの重要な獲得である。解離における存在者としての私とまなざす私の分離は、対自存在のあり方をまさに血肉化したような現象であり、ごく一部の人たちにしか体験されないものである。これを能力と言わずして何であろう。

これとの関連で歌手野口五郎氏の体験を思い出す。(スポニチ Sponichi Annex 2024年9月23日(月)から引用。)

・・・歌手の野口五郎(66)が29日放送のフジテレビ「ボクらの時代」(日曜前7・00)に出演。35年間も歌唱イップスと闘い続けた過去を明かした。「そんな長らく苦しんだイップスを克服したきっかけはコンサートで歌ってて、ふと俯瞰で見られた瞬間があって、自分と会話しているような瞬間があって。歌を歌っている最中に“お前、ブレスしてないぞ、大丈夫?ブレス忘れたのか、大丈夫か?”“マジ、ブレスしないで歌っちゃったの?”“やべー”なんてしゃべってる、そんな瞬間があったんですよ」と野口。「そこから楽になった。今は楽しい。“今のために歌ってるんだ”って思って…。“あ~良かった、35年間イップスで。こんな瞬間があるんだったら、許す!”って思っちゃう、苦しんだことを」と笑顔で語った。・・・

これは一つの偉大な能力(治癒力?)という気がする。ただしイップス自体が解離症状という考え方もあるが。


2024年11月6日水曜日

解離における知覚体験 7

 幻聴の中でそれが正常範囲で生じるものか、病的なものかを分ける上で重要と考えられるのが、その内容が不快なものか否かという点であると指摘されている(Johns et al 2014) この論文では幻聴が陰性感情に伴い生じる場合には、それが精神病理の前兆となるとされる。まあ、当たり前の議論と言えるだろう。 幻聴の機序を解明することは難しいが、その中でそれを解離の文脈でとらえる向きがある(Longden, et al. 2012)そして解離性の幻覚体験を有する人にしばしば見られるのがトラウマ体験である。トラウマ→解離→幻聴(幻覚一般?)という路線が、精神病→幻聴という路線と共に意味を持つことになる。幾つかの研究が特に幼少時のトラウマ体験が解離傾向を生み、それが幻覚体験へとつながるという結果を報告している。

 ところで「わかりやすい解離性障害入門」星和書店 2010年 p131に次のような表を示したことを思い出した。


解離性障害

統合失調症

本人がそれを誰の声として感じるか?

「あの人の声だ」と特定出来ることが多い。(「あの人」とは交代人格である場合が多いが、かつての実際の加害者の声であることもあり、その場合はその幻聴はフラッシュバックの要素が増す。)

多くの場合、それが誰の声かがわからない。あるいは神や悪魔などの「超越的」な存在の声として感じられることもある。

どの程度声に影響されやすいか?

声におびえたり不気味に思ったりなど、様々な影響を受ける可能性がある。しかし別人の声が勝手に聞こえて来ると感じのように聞き流すことも多い。(ただし交代人格の声である場合は、時には自分がその声の主に成り代わってしまうことも生じる。)

幻聴の内容はしばしば、自分の意志や考えと区別がつかない。(通常は幻聴の内容イコール妄想内容、ということが起きる。たとえば「あいつがお前を狙っている」という幻聴を聞くと、そのことを理屈抜きで確信してしまう、など。)

関係念慮(自分にかかわってくるという印象)を伴うか?

通常は伴わない

(他人事のように聞こえる)

通常は伴う。

いつから体験されるか ?

幼少時から「想像上の友」の形で聞こえていることが多い。

思春期ないし青年期に統合失調症が発症した時、その前兆として数ヶ月程度前から聞こえ出すことが多い。

精神科の薬がどの程度有効か?

幻聴そのものにはあまり効果がない。

比較的効果がある。

(場合によっては劇的におさまる。)

 表4-1 解離性障害と統合失調症の幻聴の比較


2024年11月5日火曜日

統合論と「解離能」推敲 16

昨日の考えをもう少し進める。私たちはどういう時、なぜ「統合されている」と感じるのだろうか。一応の結論は出している。それは脳全体の一種の同期化であり、それがフロイトのいう identification (同一視、同一化)の感覚に結びついているはずだ。人格Aが「これは甲だ!」という体験を持った時に人格Bの「いや乙だろう」という声が聞こえたとする。おそらく脳のあるネットワークに生じた同期化と別のネットワークに生じた同期化がそうさせているのだ。「スイーツを食べよう」と思った直後に「ダメだよ」という考えが浮かぶ時、それは私の心に起きた同期化だ。つまり両方の同期化が私の中で順番に起きたことである。それに比べてDIDにおける同期化は、「向こう側」に起きたそれなのだ。そして同期化が起きている以上、何らかの主体(人格)がそれを自分のものと体験しているのである。とすると脳梁が繋がるということは、どちら側の同一化も「自分に属するもの」として体験することになるのであろう。

8.解離能の問題について



これまでの考察をひとことで言えば、「治療目的=統合」という考えはもう古いということだ。そしてそれはそもそもは解離=悪い事、病理と決めつける考えとも結びついていることになる。そもそも人格の統合を目指す臨床家の心のうちには解離(=病理)をなくすべきだという発想があるのだろう。しかしそうであろうか?

これとの関係で触れなくてはならないのがいわゆる「解離能」の問題である。
Judith Herman (1992)はトラウマにおいて生じる解離を一つの能力(解離能 dissociative capability) と考えた。そしてその上でトラウマの体験時にこの能力を使えるか否かでDIDとBPDを分けている。違いをもう一度示そう。

DID=解離能を有することで、トラウマの際に自己の断片化や交代人格が形成される。

BPD=解離能力を欠くためにトラウマの際に交代人格を形成できないが、その代わりスプリッティングを起こす。

どこまでこのように決めつけられるかは別として、一つの重要な見識である。
しかしこのように解離を一つの能力と見なすという立場は文献でも意外と少ない。中島幸子氏(「解離は障害であり、力でもある」精神医学 現代における解離 2024, 66:1085-1089.)は「解離は障害であり、力でもある」という論考で語っている。「解離が出来たからこそ生きのびることが出来たのであれば、それは能力であり、ゼロにしてしまう必要はないはずです。」

これは大いに注目すべき議論だ。どの様な心的機制についても何が payoffs (それによる利得)で何が pitfalls(落とし穴)かを考えるべきなのだ。そして解離にもそれがある。


2024年11月4日月曜日

統合論と「解離能」推敲 15

 7.統合の代わりに見られる共意識状態 co-consciousness

統合についての議論との関連でぜひ述べておきたいのが、いわゆる共意識状態である。こちらの方は臨床的にも非常に頻繁に見られるのだ。二人(あるいはそれ以上)の意識状態(人格)が存在し、目の前で「掛け合い」をする。 これこそ「どうせなら統合すればいいのではないか(どうしてしないのだろうか?)」という疑問を抱かせる現象である。

私の患者さんにも共意識状態が普通になっている方がいる。その方に、それぞれ別々の7桁の数字を覚えてもらったことがあったが、その方は出来なかった。「混乱してしまう」というので、それ以上はもちろんお願いしなかった。しかしこれには随分考えさせられた。二つの心が本当に別々に共存しているのであればこの作業をできるであろうが、どうも二人の違う人間が目の前にいる、という状態とも違うようだとわかった。
 この共意識の話で思い出すのはやはり分離脳状態の話だ。左右脳を分離した状態ではある種の掛け合い、ないしは言い合いが成立する。それぞれが独立して作業を行なうことも出来る。マイケル・ガザ―ニカの作成した動画で分離脳の患者さんに左右で別々の絵、例えば四角と星などを同時に描いてもらうというシーンがあったが、特に問題なく描けていた。それぞれに7桁を覚えてもらう、というのはその様な作業に相当する。しかしDIDの方にこれが苦手であるとすれば、分離脳ともまた異なる現象が生じているのであろうか。

しかし考えてみれば、私たちの左右脳は、脳梁で結ばれているから一つと感じるだけで、この場合は「心は一つ」がむしろ錯覚と言えないであろうか。

DIDの方の体験で時々聞くのは、体の一部が自分のものではないという感じである。たとえば自分の手を触っても、誰かの手を触っている感じがして気持ち悪い、ということを聞く。通常自分で自分の手を触る時は、その触覚が自分が触っているという意識による干渉を受けるのだ。だから自分で自分をくすぐることが出来ないのだ。ところがその種の干渉が起きない(起きにくい)状態が共意識状態である。

このような共意識状態が自然な統合に向かわないということの方が不思議と言えないだろうか?それほど心は統合に抵抗しているのかもしれない。

ところでこれまで一度も考えたことはなかったが、私は右脳と左脳が統合した状態であるということを自覚できるかについて自問してみた。私の右脳と左脳は別々に考えることが出来る。これまでそうしたことはなかったが、もし脳梁を切断したらそうなるはずだ。ということは「私」は左右の心の統合状態と考えるしかない。私が抵抗を感じている統合という現象を、実は実践していることになる。それはどういうことか。

例えば目の前のスイーツに手を出すかを迷う時、「糖質制限中だよね」と「ちょっとくらいいいじゃん」という二つの心があることを私は知っている。何時もこられのせめぎあいで結局スイーツに手を出すかどうかを決めている。その時私は二つの心があると思うのだろうか。

もう少し具体的な問い。もし私がスイーツに手を伸ばしそうになった時、「ダメだよ!」というこころの声を聞いた時、私はなぜそれを他人の声と思わないのだろうか? おそらくそこには例の「側方抑制の抑制」が働いているために「他者性」が減じられたり、消失したりしているのだろうか?

このように考えると、統合状態での「自分が一つ」という感覚こそ錯覚の産物という気がしてくる。


2024年11月3日日曜日

解離における知覚体験 6

柴山先生の記述に刺激されて、というわけではないが、解離性幻聴を分類するならば、FB、交代人格由来、に加えて第3のカテゴリーが必要になろう。それは解離の陽性症状としての幻聴である。そしてこれにはいわゆる転換性障害において見られるようなあらゆる幻聴ないしは幻覚が含まれることになる。もちろんそれの一部は、実はその人がDIDを有していて、そこからのメッセージとして送られてくるものであったことが判明するということもあるだろう。この柴山先生の理解はまずはごもっともである。 さて解離性の知覚症状についてのこれまでの文献を調べる作業に並行して、「本文」となる部分を書いていく必要がある。この論文の一つの意義は統合失調症的な知覚異常との鑑別である。 ここでDSM-5を紐解き、解離性の幻覚体験に相当する部分、すなわち「機能性神経症状症」の中の記載を見ると、「感覚症状には、皮膚感覚、視覚、又は聴覚の変化、減弱、又は欠如が含まれる」とあるだけである。ここは実にシンプルだ。というより「何でもあり」という印象を受ける。しかし診断を支持する関連特徴としては、「ストレス因が関係している場合があること」、「神経疾患によって説明されないこと」「診察の結果に一貫性がないこと」(315)などが挙げられている。すなわち解離性の幻覚は、神経疾患で説明されず、浮動性を有する傾向があるという以外には、あらゆる形を取り得ることが許されているのだ。従来は解離性の視覚症状として管状視野(トンネルビジョン)がよく記載されていたが、実際には様々な形を取り得ることを私も臨床で経験している。

幻覚の定義としては「対応する感覚器官への客観的な入力 objective input がないにもかかわらず生じるあらゆる様式 modality の知覚的な体験」(Walters, et al, 2012) Waters F, et al. (2012) Auditory hallucinations in schizophrenia and nonschizophrenia populations: a review and integrated model of cognitive mechanisms. Schizophr Bull. 2012 Jun;38(4):683-93.

幻覚はしばしば深刻な精神病理との関連を疑わせるがlife time 有病率は5.2%とされる(McGrth, et al, 2015)。

McGrath JJ, et al. (2015) Psychotic Experiences in the General Population: A Cross-National Analysis Based on 31,261 Respondents From 18 Countries. JAMA Psychiatry. 72(7):697-705.

その中でも機序として注目されるのが解離性の幻覚である。そして解離性の幻覚体験を有する人にしばしば見られるのがトラウマ体験である。


2024年11月2日土曜日

統合論と「解離能」推敲 14

 以上自我状態療法の流れに沿ってワトキンㇲ、杉山先生、ポールセンなどについてみて来たが、結局統合についての立場はどうなのだろうか? 本家本元のワトキンㇲ夫妻にとっては、おそらく統合は眼中になかったのであろう。すでに述べたとおり、彼らは自我状態療法において一人の人間の心に家族療法やグループ療法を応用しようと考えたのだ。彼らは家族の構成員たちに一つの心にまとまれ、とはまさか言わないだろう。あるべき姿はあくまでも平和共存である。 「講座精神疾患の臨床4(中山書店、2020)」で福井義一先生が「自我状態療法」(p.165~)で書いていらっしゃるが、「[自我状態療法は]あくまでも自我状態理論に基づいて事例を概念化するので、必ずしも自我状態との(ママ)統合という方向だけを目指すわけではない」とある。(文中の「ママ」とは、「自我状態の統合」の表記間違いかも知れないと私が思うからだ。) ちなみに同書では野間俊一先生にお願いした「解離症の治療論」(p.155~)が治療論としてはもっとも本格的で包括的なものと言えるだろうが、そこで先生はかの Colin Ross 大先生が最近出版した、小さな著作(Ross CA.Treatment of Dissociative ldentity Disorder :Techniques and Strategies for Stabilization. Manitou Communications, 2018.)を紹介した上で、そこにも依然として治療目標としては「完全な統合を目指す」と書かれているという、しかしそのような志向性を持つことで、どのパーツも排除しないこともまた強調しているのだという。

付録)

 ロス先生の近著( Ross CA.(2018)Treatment of Dissociative ldentity Disorder :Techniques and Strategies for Stabilization. Manitou Communications.) の該当箇所を読んでみたが、なんともトーンダウンしていることが分かる。

そのまま訳そう。

「治療のゴールは安定した統合 stable integration である。少なくとも私の立場はそうだ。しかしそれは患者にとってのゴールではないかも知れない。ある人は全てのパーツが共意識状態になり一緒に作業をする段階に留まることを望む。それは彼らの選択であり、その人にとって正しい選択かもしれないし、それはそれでいいのだ。」(662/1438)

そして Ross はそれでも統合の方がベターである理由を以下のようにあげる。

「1.ほんの少しの精神障害を持つことよりは、まったくもたない方がいいのではないか?

2.内部のグループ全体をマネージするよりも、一人の人間である方が時間もエネルギーも少なくて済むだろう。

3.「すべての人が調和している」状態がどれだけ続くかは誰にもわからない。

4.あなたが[パーツ同士が]協力している段階で留まるとしたら、人生で深刻なトラウマが将来生じた時に、あなたは完全に統合している状態よりも、葛藤あるDIDの状態に戻ってしまう可能性がより高いだろう。」

そして続ける。「完全に統合したDIDと部分的に統合したDIDを比較した長期的な予後の研究は存在しない。」(662/1438)。これは気弱な発言だ。そしてこの章の最後にこんなことも言っている。

「これは言っておかなくてはならない。統合はずっとずっと先のことだ。このことを現在の時点でこれ以上話す必要はない。このセッションの残りの時間は他の問題に焦点を当てよう。」「統合についてこの種の話をすることにより、パーツの抵抗も和らぎ、治療作業もスピードアップするだろう」(715/1438)。

これははっきり言って歯切れの悪い「統合論」の撤回と言えるのではないだろうか。

ところでRossはこの本の中で面白い表現を用いている。ある人格が、他の人格は消えて欲しい、と言った時に、それは integration by firing squad つまり 銃殺刑執行部隊による統合、つまり他の人格たちをdumpster  大型ごみ容器に投げ込むようなものだという。


2024年11月1日金曜日

統合論と「解離能」推敲 13

 ポールセンの用いるテクニックの中で興味深いのは「BASK要素の封じ込め containment」である。BASK モデルとは、Braun, B. G. (1988)の提唱したもので、人間の活動は behavior 行動 、affect 感情 、sensation 感覚 、knowledge 知識 というトラックにより成り立っており、解離においてはのうちどれかが欠損しているという理論である。そして「BASK要素の封じ込め」とは解離されている体験を、まとめて一つのボックスに入れておくというテクニックだという。いわば一時的に解凍されたトラウマ記憶をそのまま取っておくという作業らしい。これは仕舞いこみ、とも表現されているが、要するに外傷記憶が賦活された状態で、いわばフラッシュバックがおさまっていない状態に対する対処法と言える。それをポールセンは小さいパーツが未だに「しまい込まれていない」と表現するのだ。また興味深いのは、ポールセンはフロントパート(他者と関わる時の表向きの顔)と未解決のトラウマ記憶を抱えているほかのパーツの間の健忘障壁を利用するという姿勢だ。 ポールセンを読んでの感想を述べよう。やはり催眠から出発した療法家たちは、ワトキンㇲも含めてとても操作的で、言い方によっては「機械的、理系的」とも言える。私も「心の地下室」などの手法にはなじみがあるが、ポールセンのようにそこまでクライエントにいろいろ操作をすることには少し後ろめたさを感じる。しかしそれは彼らにしてみれば、「それでは何も治療をしていない」ということになるのだろうか。 このテーマとの関連でゲシュタルト療法を思い出す。患者さんに empty chair (空の椅子)を想像してもらい、そこに座っていると想像している誰かに話しかけてもらう。例えば自分の亡くなった母親に対して、これまで言えなかったことを言う、などである。これは単に「お母さんへの思いを話してください」ということとどれほど違うだろう? おそらくケースによれば、すごく臨場感あふれるセッションになるかもしれない。すくなくとも悪くはないやり方であろう。それなら同じ状況で「空の椅子」の手法を私達は用いるだろうか? ケースバイケースとしか言いようがない。認知療法しかり。エクスポージャー法しかり。EMDRも同様である。それらはしばしば一つのメソッドとして抽出され、プロトコールが出来上がり、その為の研修が行われる。ポールセンの推奨する治療法も、EMDRによるトラウマ処理の流れの延長として想定される治療目標と言えるだろうが、本当に現実の人間はその様に動くのだろうか。 ポールセンのテキストもプロトコールを作るうえで恐らく「統合」というかなり遠く、おそらくバーチャルな目標も書かざるを得なかったのではないかと思えてしまうのだ。