幻覚と解離
幻聴が生じる状況は多岐にわたり、その機序を解明することは難しいが、その中でそれを解離の文脈でとらえる向きがある(Longden, et al. 2012)
Longden, E., Madill, A., & Waterman, M. G. (2012). Dissociation, trauma, and the role of lived experience: Toward a new conceptualization of voice hearing. Psychological Bulletin, 138(1), 28–76.
そこで解離性障害の症状としての知覚異常はどのように定義されているだろうか?
DSM-5で解離性の幻覚体験に相当する部分、すなわち「機能性神経症状症」の中の記載を見てみよう。そこには「感覚症状には、皮膚感覚、視覚、又は聴覚の変化、減弱、又は欠如が含まれる」とある。これは実にシンプルな説明であり、症状の形態としてはあらゆるものを取ることを想定している。またそれが解離の症状であるという診断を支持する徴としては、「ストレス因が関係している場合があること」、「神経疾患によって説明されないこと」「診察の結果に一貫性がないこと」(315)などが挙げられている。すなわち解離性の幻覚は、器質因が除外され、それが場合によってはある心理的な要因を伴って生じ、またその表れ方が状況により変動するという性質を有するのである。よく教科書に記載される管状視野(トンネルビジョン)や不思議の国のアリス症候群などはそれらのごく一例ということになろう。
また解離性の知覚の異常ということについては、そこには幻覚体験だけではなく、視覚の脱失もまた生じることになる。このような解離における知覚異常のあり方を理解するためには、いわゆる解離の陽性症状と陰性症状という考え方に立ち戻る必要があろう(Steele K. et al, 2009)(野間、岡野訳 構造的解離理論 p73)
Steele, K, van der Hart, O, Nijenhuis, E (2009) the theory of trauma-related structural dissociation of the personality. in Dissociation and the Dissociative Disorders. DSM-V and Beyond. p.239
実際繰り返される解離性幻覚は、その他の種々の身体症状と共に発生することが多い。つまりその解離症状が幻覚に特定される必然性はないのである。
そのようなあり方をする古典的な例をここに示そう。
<ブロイアーとフロイトによる症例アンナO.に見られる幻覚>
ブロイアーとフロイトによる著作「ヒステリー研究」(1895)の最初に記載されているアンナO.の示す症状は、ある意味では解離性障害が示しうる症状群を一挙に紹介してくれるという意味ではとても象徴的である。その中で彼女がどの様な文脈の中で幻覚ないし知覚異常を示したかを知る上でも簡単にさらっておこう。
アンナO.の発症は多くの症状の複合したもの、つまり「特有の精神病、錯誤、内斜視、重篤な視覚障害、手足や首の完全な、ないし部分的な拘縮性麻痺」である(フロイト全集、p.25)。これは彼女が敬愛する父親の発病をきっかけに始まった。そして自分も徐々に憔悴し、激しい咳と吐き気のためにアンナは父の看病から外される。ここでブロイアーが呼ばれたが、ブロイアーはアンナが二つの異なる意識状態を示すことに気が付く。一つは正常な彼女だが、もう一つは気性が荒く、又常に幻覚を見、周囲の人をののしったり枕を投げつけたりしたという。
その幻覚については、彼女の髪やひもが黒い蛇となって表れた。最初は午後の傾眠状態で現れたが、錯語(言語の解体)や手足の拘縮も起きていた。この視覚異常に関しては特定の色だけ、例えば自分の服の色だけ、茶色なのはわかっているのに青に見える、などのことも後に起きたという。(p.39)そしてそれは父親が来ていたガウンの青色が関係していることが分かったということだ。
ここで興味深いのは幻覚はそれ自身が単独で起きるというよりは意識の混濁や言語の解体や手足の拘縮などと一緒に生じていたということである。つまり彼女は身体運動、言語機能、情動の表出,咳や吐き気などの自律神経機能の異常などとともに知覚異常(錯覚、幻覚)を体験したのだ。
これらの知覚異常はいわば解離性の陽性症状といえるが、ブロイアーはアンナに見られた聴覚異常についても丹念に記録している。それは誰かが入ってきても、それが聞こえない、人の話が理解できない、直接話しかけられても聞こえない、物事に驚愕すると急に聞こえなくなる、などである。(p.43)
ここでアンナの知覚、聴覚異常についていえば、視覚においては陽性症状としての幻覚、聴覚に関してはもっぱら陰性症状としての聴覚脱失であるが、それが浮動性を有し、様々な形をとっているということが特徴的である。(自分の服の色の誤認の例など。)そしてそれらはまた「語ることで除去」されるという性質を持っていたのであ(p.41)。つまりDSM-5に記されている解離性の幻覚体験の特徴を備えていたのだ。
それともう一つの特徴はアンナの例では症状ごとに「心因」が見られたということである。
声紋痙攣:口喧嘩をした際に彼女は言い返すのを抑え込んだことがあったが、それが声紋痙攣を引き起こした。この症状は似たような誘因が生じた際に反復して出現した。(p.47)
右手の拘縮性不全麻痺:アンナは父親の看病をしている時、右腕を椅子のひじ掛けに乗せたまま病床の川田らに座っていて、白日夢に入った。このことが原因の一つと考えられる。(p.45)
巨視症と内斜視:アンナが目に涙をためて病床の傍らにいた時、突然父親から時間を聞かれ、時計がはっきりっ見えないために目を近づけようとしたところ、その文字盤が非常に大きく見えた。また父親に涙を見られないように抑え込む努力をしたこと。(p.47)
しかもこれらは明らかにされると共に消失したという。
現在の精神医学の見地からは、転換症状にことごとくその具体的な原因が考えられるとは言えず、その為にDSM-5でもICD-11でも心因を問うことはしなくなったが、時としてそれらが見られることがある。そしてこれもまた転換症状の一つの特徴と考えられるであろう。ただしその存在が必要条件であるということは言えない。