2022年1月5日水曜日

偽りの記憶 推敲 1

 本論文は「偽りの記憶」についての考察である。私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1990年代はずっとアメリカで臨床を行っていたが、これらの関心にワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマである。そしてあっという間にFMSF(偽りの記憶症候群財団)が出来上がった。欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこの偽りの記憶の論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。
 偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。
 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベスロフタスその人である。ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994)から要約すると以下のようになる。

私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。
 ところでロフタスとワシントン大学は2003年に、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、タウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。しかしそれ以後もロフタスの「回復した記憶の理論」は児童虐待の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判され、「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていたと言われる。

Jenkins, WJ (2017) An Analysis of Elizabeth F. Loftus's Eyewitness Testimony. Routledge.

 ところで常識的な立場からは、ロフタスの主張は概ねその通りであるという事は言えるだろう。記憶はしばしば書き換えられるだけでなく植え付けられることもある。記憶は脳にデータとして保存されているというわけではない。ただし多くの記憶内容は信頼に足るという点も事実である。つまり記憶は概ねにおいて現実を反映しているものの、細部に亘るに従い忘却されたり改変されたりする、というのが真実だ。そして後は程度問題であり、ケースバイケースである。とんでもないあり得ないストーリーを「想起」する人もいるが、それほど高頻度に起きることではない。かと思えばフォトグラフィックメモリーを誇り、教科書を隅から隅まで正確に再現する人もいる。だからロフタスの主張はそれを極論として用いるならばどちらも誤解を招く可能性があるのだ。