2019年9月2日月曜日

書くことと精神分析 推敲 7


新たな説を唱える余地などあるだろうか?

論文や著書を書くということについて様々な考えを諸先輩や同僚や学生から聞くうちに、異口同音に聞こえてくる声があることに気が付いた。それは「論文や著作では独創性が求められるわけだが、そもそも私たちにそのような余地は残されているのだろうか?」という声である。「精神分析に関して高名な先生方が膨大な著作を残しているのに、一介の療法家である自分にこれ以上新たな発想など生まれるのだろうか?
私にはそれらの意見がとてもよくわかる気がするが、一方ではそこにはひとつの思考上のトリックがある気がする。私たちはしばしば「自分たちには独創的なものは生み出せない」という考えに捉われてしまう可能性があるのだ。
ある学問や理論について学ぶと、私たちはそこに書かれていることがすべて真実であるという錯覚を起こしがちである。特にそれが高名な学者の書いた本であれば、なおさらである。私たちはそれらの著書を読んで、不明だったり、意味がつかめなかったりする場合、たいていは私たち読む側の予備知識の不足や理解力のなさのせいだと考えがちだ。すると、この分野で最先端を行っているこの先生の論文をまず理解できないことには、その先を切り開くことなど到底無理だ、と考えてしまう。しかしそこには発想の転換が必要である。

このことについて考えるために、私たちがバイジーや担当している学生や後輩の論文を読むときのことを考えよう。あるいは査読を経験した方の場合はその方がよりわかりやすいかもしれない。私たちはそこで読みづらい部分や意味の取れない部分があると、たいていは書き手の側の表現力不足や勝手な思い込みの原因だと思うだろう。この場合は書き手の技量を疑い、批判的に読むというスタンスを取っていることになる。
しかし実際の文章はそれが著名な理論家によるものでも文章を書きなれていない初学者のものであっても、ある種の独創性と勝手な思い込みや表現力不足との混じり合いであることには変わりがない。そこには読みやすく、論文のその他の部分との整合性が保たれている部分もあれば、矛盾を含み、再考や編集のし直しを必要とする部分もある。そして興味深いことに、その理論が認められ、その道の大家として扱われるようになった分析家の文章は、ある意味ではフリーランの状態になり、誰の査読も経ずにいきなり活字になってしまうという事が生じる。そしてそれに対して先ほど述べたような「この先生が書いてあることには間違いはない筈だ」という錯覚が働いてしまう。しかし大家の作品の筆の滑りや矛盾点は、後世の分析家にとっては、その大家の説を覆したり批判したりする一つのいいきっかけとも言えるのである。
ここで一つ考えていただきたいのは、私たちはことごとく異なる脳を持ち、異なる心を持ち、誰一人として同じ思考回路を持ってはいない。たとえある分析家Aの理論に共鳴して、その分析家の論文に感動し、そこに書かれていることにことごとく同意するとしよう。しかしあなたはそれを何度も読み、それを臨床活動に応用した場合に、結局は幾つかの矛盾点や改善するべき点を見出すはずだ。それはあなたがAより優れているから、というのではなく、ただ単にAと異なる心を持っているからである。するとAの理論に基づいての論文を書く準備が出来ていることになる。あなたはいわばAという分析家の方の上に載って論文を書くことになるのだ。
ただしあなたはまた、Aの理論を読んで持った疑問点をすでにBという分析家により指摘されていることに気が付くかもしれない。すると今度はBの論文を精読することで、結局はBの意見とも異なる部分を見出すはずである。今度はAの肩の上に載ったBのそのまた肩の上に載った論文を作成することになる。ただしもちろんBの肩に載った分析家Cがすでに同じ論旨の論文を発表しているかもしれないので注意しなくてはならない。ただしそれはCに先を越されたのであなたの論文に価値がなくなるというわけではない。Cの論文を今度は精読し、そこに不満点や矛盾点を見出すはずである。それはCがあなたとは違う脳と心を持っている以上は必然的に生じることだ。
もちろんこのようなことはおそらく自然科学の世界では起きにくい。Cの論文がある種の発見であれば、Cに先を越されているという事は敗北を意味するかもしれない。ワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造が発表された翌年に、全く別ルートで同じ結論に至ったとしても、その一年の遅れは決定的にあなたの論文の価値を無意味にしてしまうであろうからだ。しかし人文科学、特に精神分析の場合にはその種の遅れはあまり問題にならない。それは真理や事実の発見という事が自然科学とはおよそ異なるニュアンスを帯びているからである。