2019年9月3日火曜日

書くことと精神分析 推敲 8


精神分析の原著論文でいかに独創性を盛り込むかについては、何をテーマに選ぶかも非常に重要になってくる。これまであまり論じられていないテーマを選ぶことはワクワクするような楽しみを感じさせる一方では、テーマとしてふさわしくない、と却下される可能性がある。面白い、と言ってくれる査読者と、なんじゃこりゃ、と門前払いをする査読者に分かれるだろう。またすでに多くのことが論じられているテーマは、受け入れられる可能性は高いものの、そこで他の論文とのし烈な競争があり、その中で独創性を主張するのもそれだけ難しくなる。査読もまた別の意味で厳しくなるだろう。常にこのバランスが重要なのだ。
すでに査読者が登場しているが、実は論文を発表することとは、査読者との戦いを前提としている。かつてグレン・ギャバード先生が、論文を書く際にまず何を決めるかと問われて、どの専門誌に投稿するかという事だと言っていたのを思い出す。当時は納得が行かなかったが今になるとその意味が分かる気がするのだ。各専門誌には独特の性格があり、そこで多く扱われてきた論文と大きく異なっているものはなかなか受け入れられないだろう。だから受理される論文を書くためには、どの専門誌に投稿するかというのは決して無視できない問題なのだ。そして論文を投稿する際に、投稿先の専門誌の査読者との対話がどのように進むのか、という形で考えるといいだろう。査読者だったら自分の論文をどのように位置づけるか、という事をまず考えるのである。つまりは自分がその専門誌の査読者ならどう考えるだろうか、という事である。その上で少し考えてみる。
たとえばすでに論じられているテーマとして、逆転移について書くことを考えるとする。するとそのために読むべき論文の数は膨大であろう。たとえそれを日本の専門誌に原著論文として投稿しようとしても、わが国ですでに多くの論文が発表されている。もちろん日本語の専門誌に投稿する際には我が国の研究を網羅することは大事であるが、たとえば国際誌に投稿するためには、英語で書かれた逆転移の論文にもっぱら目を通す必要があり、その分情報を獲得する上では不利である。そもそも精神分析がオーストリアのウィーンでドイツ語で始まり、英語圏で発展したことを思えば、ドイツ語や英語を母国語としない私たちが彼らの議論に追い付くためにはそれだけ多くの努力を払わなくてはならない。しかも巧みな英語表現も込めた論文を作成する必要がある。
しかしその精神分析でも我が国からの発信が大きな意味を持つ場合がある。その例として北山先生を取ろう。北山先生はかつて、日本人には日本人として貢献できる部分があるという話をされていた。日本には古沢先生や土居先生のように日本の文化に根差した精神分析理論を構築して発進したという例がある。西欧人の土俵に乗るのではなく、こちらから新たな土俵を提供するような気概がなくてはならない、というお話だったと思う。
実はこの北山先生の話はそれまさしくその通りであり、一般の研究についてもいえる。それまでの研究の土俵に入り、そこですでに存在している何人もの研究者と競うのは大変であり、おそらくその土俵ですでに発表された論文はことごとく目を通して理解しておく必要がある。しかしおそらくそれよりも大事なのは、みずからがある土俵を提供することで新たな分野を開拓することが出来る。もちろんその土俵をどのようなものにするかはとても大切である。精神分析という巨大な土俵の横に全く別な土俵を作ったとしても、ほとんど誰からも相手にされないであろう。そこで精神分析という土俵の中のすでに数多く出来上がっている小さな土俵の上に載り、その上で新たな土俵を提示していく必要がある。すでに存在するような理論はあたらな土俵とはなり得ない。しかし既存の土俵とは少し異なる新たな土俵を提示することで、斬新さをアピールすることが出来るかも知れない。新しい土俵を作ることの利点は、他の土俵でそこにある理論をことごとく取り込んだ理論を構築する必要がないという事である。