2014年1月16日木曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(32)


実は私は自分の著述が誰かによって継承されているということを全然知らないでいた。臨床心理の教員となり、院生の書く修士論文を通して、すでに何回かこの種の研究を目にするようになったのである。例えば対人恐怖尺度と自己愛の尺度を使って研究協力者を4つのグループに分けることができる。あとはそれぞれのグループの特徴を抽出して比較することで様々な所見が得られることになる。
この種の研究で決まって出てくるのが、自己愛の傾向と対人恐怖傾向は概ね相反的であるという傾向である。つまり自己愛の傾向が高い人は、対人恐怖傾向は概ね低いということである。これは直感的にもよくわかる。自己愛的な人は外向的で人を巻き込み支配するタイプであり、引っ込み思案で気が弱い対人恐怖傾向とは全く逆ということになる。
 ではどうして共存し得るのだろうか。改めて考えてみたい。私の二次元モデルの図を見ていただきたい。私は「恥に対する敏感さ」、と「自己顕示欲」という二つの次元を考えた。前者は今から考えると少しおかしな言葉だが、まあ対人恐怖傾向と同じと考えていただきたい。後者は自己愛、とは言わずに「自己顕示欲」としたのである。実は今から思えば、私が自分で持っている傾向は本当に自己愛傾向なのか、というのがわからなかった。私は確かに自分を表現したいとは思うが、人を支配するという願望が人一倍強いとは思わない。私が持つ自己愛のイメージは「対人恐怖と逆のタイプ」とは異なるものなのだ。あえて言えばコフート的な自己愛、ということだろうか?でもカンバーグ的な自己愛ではない・・・・。あまりこのブログで扱ってこなかった重要な問題である。
カンバーグタイプとコフートタイプの自己愛?

まあわかりやすく言えば、これは厚皮型か薄皮型か、ということだ。傍若無人か、気弱か、ということもある。見たところかなり異なる。後者は一件対人恐怖的だ。ただし対人恐怖と違うところは、「自己愛の傷つきに極めて敏感だ」ということである。対人恐怖は、もっぱら対人場面が怖い。薄皮型は、自己愛の傷付きに敏感・・・。両者は果たして違うのか?実は対人恐怖の人だって、「だってみんな自分のことをおかしいと思っているんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないか、と思うから」というかもしれない。
この種の議論が起きてきたのは、1980年代以降になり、米国でいわゆる恥の議論が高まってきたということと関係している。