2023年6月6日火曜日

エッセイ 4の8の微修正

 3.「わかる」とはネットワークの間の新たな結びつきの形成である

 1,2までの前提で、分かる、という体験について考えよう。それは例えば「Aとは結局Bのことだったのだ」という形をとるであろう。その時それぞれ一つのネットワークの結晶として存在していたAとBの間にある連結が生じる。それはそれまで唯一無二のものとして結晶を形成したネットワーク同士がつながる、ということである。それまではAとBは個別に、別々のリズムで活動していたが、「わかる」という体験の後は、Aの活動とBの活動は連結することになる。それは具体的にはA,Bの二つのネットワークの間が同時に、同期化することを意味する。そしてそれによりA=Bが新たに一つの結晶として活動をするということになるのだ。

以下のGIFアニメはそれを表現する目的で作成された。A,Bは最初は別々の体験であり、両者に関係はない。それがこの図である。

                         そしてAとBとは同じものだと「わかった」場合には右側の図で表されるケットワークが形成されたことになる。

この事情をもう少し分かりやすく説明しよう。例えば新しく配属された職場で同僚となったCさんと暫くかかわりを持ち、その人となりについてある程度理解したとしよう。そしてある時、実はあなたの小学校時代のクラスメートCちゃんと同僚のCさんが同一人物であったことが分かったとする。Cちゃんもあなたも別のクラスに分かれ、さらに別々の中学に進学して再会することもなく、やがてCちゃんはすっかり成長して結婚して名前も変わっていたため、CちゃんとCさんが実は同一人物であることに気が付いていなかった。そしてたまたま出身地が一致していたことからお互いに幼馴染であることを知ったのである。

あなたはそのことが分かった瞬間に「そうだったんだ!」という驚きの声をあげるかもしれない。それは同僚Cさんに関して持っていた結晶と、Cちゃんについて持っていた結晶が、突然連絡路が出来てつながるという体験だからだ。そしてあなたは「そういえば・・・・」という体験を数多く思い出すはずである。

「Cさんのような口調や表情をどこかで見たことがあると思っていたが・・・」とか「Cさんの強情さは、小学校の時のCちゃんとそっくりだ。」などである。その時二つの結晶はN次元上で同期化して光る新たな点となるはずだ。

ちなみにネットワークAとBこのようなつながり方については、かなり昔にドナルド・ヘッブDonald Hebbという神経学者が次の原則を唱えている。「同時に発火する神経細胞同士はつながる Neurons that fire together, wire together.” 」(1948)

Cという人の二つのイメージは、同時に思い浮かべられることで一つの結晶として形成されたのである。

 

2023年6月5日月曜日

社会的トラウマ 10

 このところ調べている Incentive sensitization model が面白い。この理論の提唱者であるKent Berridge の論文(最近はかなりのものがネットでただで手に入る)を読んでみると、確かに重要なことが書いてある。

Berridge, K. C., & Robinson, T. E. (2011). Drug addiction as incentive sensitization. Addiction and responsibility, 21-54. The MIT Press.

 そもそも私たちが考えていた嗜癖の理論は不完全だったというのだ。最初は好ましく思っていた(liking のプロセス)薬物などの刺激に慣れてくると、好ましい感じが失せても必要とする時期(wanting)が来る。それが嗜癖というわけだ。ではどうしてそれでもヤクに手を出すのか。その理由としては離脱の苦しさ、というのが定説だった。私もそう考えていた。「やると気持ちいい」→「やらないと苦しい」に代わるというわけである。ところがBerridge 先生によるとこの理論は必ずしも正しくないという。そもそも離脱がそれほど苦しくない薬物もある。コカインも覚せい剤も、ヤクが切れると「潰れ」の時期が来る。鬱で体が動かない状態だ。でもヘロインのような塗炭の苦しみではない。それに…とこの論文は言う。苦しい離脱の時期が過ぎたとしても、例えば注射器や白い粉を見ただけで途轍もなくヤクを使いたくなる。依存症の人の生活で何が苦しいかと言えば、離脱の苦しみを毎日味わうということではない。日常生活で出会う様々な cue によりスリップしたくなる衝動をいかに抑えるか、ということだ。だから覚せい剤中毒の人にとって刑務所にいることはさほど苦痛ではないだろう。絶対にヤクが手に入らず、それに関する誘惑がない環境はむしろ過ごしやすいわけだ。← ここら辺は私自身にその経験がないのでかなり想像が入っている。

ところで脱線だ。次のような状況はどうだろう? もちろん実際の人間を実験台に用いることは出来ないので、思考実験である。ある受刑囚を薬物により昏睡状態にしたうえで、依存薬物を与える。覚せい剤の静脈注射を例えば数日に一度、など。そして無意識状態での依存症を形成するとする。その人が覚醒して体験することはどういうことだろうか。彼は苦しいだろうか。何かをすることでその苦しみから逃れることが出来るとわかっていても、自分が薬物の静脈注射を受けたということは一切記憶にない。だから注射器を目にしても、白い粉を与えられても何のことだかわからないであろう。では彼は特に薬物依存を形成していない人と同じような生活が送れるのだろうか? そもそも渇望は体験せず、苦しさもないのか?

この質問、チャット君に英語でしてみた。すると・・・・・

結構答えてくれるのである。それが以下の問答である。

 私:Regarding  the incentive sensitization model, an addict might show an intensive desire to use drugs when a cue for the drug use is given, such as a picture of syringes or white powder, etc. However, if the addict is unconscious throughout the process of addiction formation, he might be totally unaware of these cues. Does that mean that in such a situation, the addict does not demonstrate any craving in his daily situation and therefore is practically able to live a normal life, like non-addict?

チャット君は即座に返してきた。かなり長文なので、そのうち要点だけを抽出しよう。

If an addict is unconscious throughout the process of addiction formation and does not consciously experience or associate cues with drug use, it is possible that they may not exhibit the same intense craving in their daily life when exposed to those cues. In such a situation, the addict might not demonstrate the same level of craving or experience the same triggers as a conscious addict would.

 理屈から言えばそうですね。意識的には薬物の使用を思わせるような Cue に反応することのない依存症の人を作ることが出来るでしょう。

そうか、チャット君もそう思うか。ところが以下の文章が続く。 

Unconscious exposure to drugs and cues associated with drug use may still have underlying neurobiological effects, even if the individual is not consciously aware of them. . Additionally, addiction involves other aspects such as physical dependence, withdrawal symptoms, and various social, psychological, and behavioral consequences, which may impact an addict's ability to live a normal life.

 薬物医の使用に関連した無意識的な暴露により神経生物学的な効果は引き起こされるであろう。それに嗜癖は他の問題、例えば身体的な依存、離脱症状、そして様々な社会的、心理的、行動的な結果がその人が正常な生活を送ることが出来るかという問題に関わってくる。

 もちろんチャット君の回答が正しいという保証はないが、私の考えを否定するような研究成果も特にないらしいのだ。

ただし私がここで問題にしている点についてお判りいただきたい。依存や嗜癖とはどういうことか。あることをしたら嗜癖物質や嗜癖行動に至ることが出来るという状況の認知的な把握により、渇望が生まれるのだろうか。例えば現金を持ってパチンコ屋に行ったら、またパチンコが出来るとわかったら、いてもたってもいられずに同僚の財布からお金を抜き取るなどの行為が起きるのであり、そもそもパチンコの台が存在しないような異国の地ではそれをできなくて苦しむということがないのか。ともかくも依存の問題はとてつもなく奥が深く、「離脱が苦しいから嗜癖行動や嗜癖物質に舞い戻る」という単純なものではないことだけは確かなことである。

私はまだIncentive sensitization model を把握できていないが、このモデルは恐らくそのような問題提起をしているだけで、特にその解決方法を示しているわけではないと言えるだろう。

 

2023年6月4日日曜日

社会的トラウマ 9

 ドーパミン問題と対象をモノ扱いする傾向

最近読んだ「もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学」(ダニエル・Z・リーバーマン, マイケル・E・ロング他. Lieberman, D (2020) the Molecule of More.)はこのことを考えるまたとない参考書である。

彼の提言は、心理学で長い間定説となっていた、ある前提に切り込む。その前提:「すべての快楽は最終経路であるドーパミン経路を通過する。あらゆる快はドーパミンが支配する。」

私はずっとこれを信じて来たので、それにそぐわない事態をどのように説明したらいいかがわからなかった。この本に書かれていることはそれに一つの答えを出しているし、脳科学的にはそちらの方が常識になりつつあるのだ。彼の主張を一応「欲望」と「満足」と分けよう。両者は違う、ということを彼は言っている。欲望は未来において得られるものを願望することであり、満足とは現在において満たされる体験を言う。これらは脳内において別々の化学物質により支配されている。前者はドーパミンであり、後者は彼が今ここでHere and Now(”H & N”)の物質、すなわちセロトニン、オキシトシン、エンドルフィン、カンナビスである。前者はもっと、もっとという追及を促すのに対して、後者は現在の体験による満足を与える。前者は「もっと、もっと」という心境、つまりもっと刺激を、もっと驚きを求めることを促す。そしてその追及の為に感情や恐れや道徳心が犠牲となる。つまり「今は持っていない」ということこそが問題となる。それは期待を意味する。他方ではH&Nでは「今持っている」ということが問題となる。

ここまでで確かなことは、男性の性愛性においては、明らかに前者なのだ。例えばプレゼントを受け取ると、それが包み紙に覆われていることで見たい、という願望が生まれる。そしてそれが現れた時点でピークに達した後にその喜びは失われていくという。

いわゆるincentive sensitization model に従った議論だ。

 

 

2023年6月3日土曜日

学派間の対立 3

 これは何度も私が書いていることだが、ここで例に出すとしたらやはりこれしかない。1992年、私がメニンガーのレジデントの3学年目に持ったケースだ。私はバイザーの指示に明らかに憤慨した。この様な考え方は受け入れられないと感じた。それはそのバイザーが背景とする学派にも向けられていたと思う。少なくとも彼が指導するようにはケースに当たることは出来なかった。だから自分としては二つの考え方の一つを何となく選択した、というわけにはいかなかった。その例を挙げてみる。

そのころ35歳だった私は7歳の少年M君の精神療法を担当した。M君は性的虐待と両親の離婚の犠牲者である。彼は結果的に母親に捨てられる形になり、父親とその親戚のもとに引き取られた。M君との精神療法は、私がレジデント3年目の週一回の精神療法の枠で担当し、4年目に進学する際には終了することになっていたが、多くの例外が設けられていたため、4年目になっても引き続きM君の担当が出来ると考えていた。

さて一年がもうすぐ終わり、レジデントの4年目にも引き続き彼とのセラピーを続けられるつもりで、バイザーAに許可を取りに行ったところ、それは出来ないと言われた。あくまでもレジデントの3年目以内に終わらせるべきだ。それがルールだからということであり、A先生はそれをかなり厳密に守るタイプの分析家だったのだ。私はA君に精神療法を次の年度になっても続けられるような期待を持たせたことに後ろめたさを感じ、もうすぐ精神療法を終了しなくてはいけなくなったことについて、「M君、もうすぐこの精神療法を終了しなければならなくなった。こちらの都合で申し訳ない。」と言った。M君は「別に気にしないよ」といいながら寂しそうだった。

私はその経緯をA先生に話したが、こう言われた。「君が謝罪したことは誤りだったね。それは逆転移のアクティングアウトというものだ。母親に捨てられた体験を繰り返そうとする君に対して、M君は怒りを表現してしかるべきだろう。ところが君が先に謝ったりしたから、M君はその怒りを先に封じられてしまったのだ。」 

私は狐につままれたような気になった。「そうなんだ・・・・・」と理屈では思える気がしたが、やはり納得が出来ない。そこでもう一人の私の成人のケースを担当してくれているバイザーBの意見を聞いた。彼は「僕の考えはA先生とは違うな。君がM君に謝らないとしたら、キミの罪悪感を防衛していることになるね。それこそアクティングアウトだ。」

私はドクターAの意見が受け入れられなかったというよりは、そのような考えを醸成するような精神分析的な伝統に嫌悪したのである。 

私は医者になって10年目だったが、3年前までは学派に選り好みはなかった。でもそれから3年たち、私はかなりはっきりと、その二つの考え方に異なる匂いを嗅ぎ、そして激しくバイザーAの意見を嫌悪した。そして考えてみれば、それをその時に初めて体験したというよりは、バイザーA の意見を「また例の態度だな」と、あたかも随分とそれを感じさせられてきたように感じたのである。

これは何度も私が書いていることだが、ここで例に出すのがふさわしいであろう。例のクライン派とコフート派のケース。1992年に持ったケースだ。明らかに私は憤慨した。両方ともありうる、と私は考えないわけにはいかなかったが、自分だったらこういう風には出来ないと思えた。そう、自分で出来るかが関係している。親にいつも怒られた(決して褒められなかった)という体験と逆の体験をしてどうなるか。ということだ。

2023年6月2日金曜日

連載エッセイ 4の8

 3.「わかる」とはネットワークの間の新たな結びつきの形成である

 1,2までの前提で、分かる、という体験について考えよう。それはそれまで唯一無二のものとして結晶を形成したネットワーク同士がつながる、ということである。しかしそれは単にA,Bの二つのネットワークの間に繋がりが形成されるというわけではない。それにより両者は同時に、つまり同期化して点滅し、そのために新たな一つの体験として成立することである。以下のGIFアニメはそれを表現する目的で作成された。上の図ではAとBは別物であり、別々に点滅している。ところが下の絵ではAとBが一つに繋がって同期化している。



この事情をもう少し分かりやすく説明しよう。例えば新しく配属された職場で同僚となったCさんと暫くかかわりを持ち、その人となりについてある程度理解したとしよう。そしてある時、実はあなたの小学校時代のクラスメートCちゃんと同僚のCさんが同一人物であったことが分かったとしよう。Cちゃんはあれからすっかり成長して結婚して名前も変わっていたため、たまたま出身地が一致していたことから判明したのだ。あなたはその瞬間に「そうだったんだ!」という声をあげるかもしれない。それはあなたにとってはおそらくかなりの驚きを伴った体験である。それは同僚Cさんに関して持っていた結晶と、Cちゃんについて持っていた結晶が、突然つながるという体験だからだ。そして「そういえば・・・・」という体験が数多く出てくるはずである。「Cさんのような口調や表情をどこかで見たことがあると思っていたが・・・」とか「Cさんの強情さは、小学校の時のCちゃんとそっくりだ。」などである。その時二つの結晶はN次元上で同期化して光る新たな点となるはずだ。


2023年6月1日木曜日

連載エッセイ  4の7

 2.ニューラルネットワークの結晶がひとつの体験を構成する

この原則もある意味では非常にシンプルな事実かもしれない。常に揺らいでいる神経細胞は、でも時々はっきりとした振る舞いをする。それは大きな信号を発してそれを周囲の神経細胞に伝えるのである。そしてその結果としてそれを受け取った神経細胞がグループとして光ることがある。イメージとしては夜空の星のうちある星座だけがリズミカルに光っている感じだろう。私がこのギフアニメで苦心して示したのはそのような状態である。

では具体的に体験とは何か。例えばこれが「リンゴ」についての体験を表しているとする。リンゴは音としてのそれだけでなく、味の記憶、視覚的イメージ、手に持った感触など、様々な体験を併せ持つだろう。だからこのリンゴを代表するネットワークは聴覚野視覚野にも体性感覚野にも枝を伸ばしていることがある。それにこの「リンゴ」のネットワークは、常にそのまとまりの全体が光っているとは限らない。リンゴの味を思い浮かべているときは、その視覚野にかかっている部分はあまり光ってはいないかも知れない。ただしそれはリンゴを視覚的に思い浮かべようとすればすぐに光が増す。結局この「リンゴ」を表すネットワークはそれ全体がある程度「温まって」いて、いつでもその範囲を広げることが出来るようなものと考えられるだろう。

ここで私がなぜネットワークの「結晶」と呼ぶかを説明しよう。このパターンは実は神経細胞間が強い結びつきを持っていて、その全体が一緒になって(同期して)興奮するようになっている。そして私たちが「リンゴ」の確固たるイメージを持つほど、そこに参加する神経細胞は厳選管理されて維持されるのである。ただしその周辺部に関してはその限りではない。例えば色合いについてはそれを表す神経細胞はその時々で細部が異なる可能性がある。何となく青いリンゴをイメージしている時の結晶は、真っ赤なリンゴをイメージしている時のそれとは微妙に異なっているはずだ。

このネットワークの結晶が複数存在している場合の例を考えよう。「霧」のネットワークと「霰」のそれを思い浮かべていただきたい。ご存じの通りキリ、とアラレと読む。ある程度年齢が言った日本人なら、両者は明らかに違うし、読み間違いをすることもないだろう。ただ漢字をあまり知らない外国人や小学生なら両者があいまいになるし、パッと見た目は区別がつかないかもしれない。霧も霰も、それを区別できる私たちの脳では、異なるグループの神経細胞が興奮することになる。おそらくかなりたくさんの細胞が共通して興奮するとしても、霧の場合には興奮せず、霰の場合には興奮する神経細胞がおそらくあり、その逆もある。いわば神経細胞のなす結晶構造が違うわけだ。この結晶は独特の味わいといってもいい体験となる。霧という文字を見て遠くがかすんだぼんやりとした視界をありありと思い浮かべる。それは空からパラパラと氷の塊が降ってくる霰のイメージとは全く異なる。

あるイメージ、記憶、思考などはことごとくニューラルネットワーク上の結晶であるという考えは、突き詰めて言えば、私たちの一つの体験が一つの結晶である、ということだ。私たちがある体験を、それ以外の体験と区別した独自のものとして体験する際、その結晶は唯一無二のものである。

その意味で脳科学者ジェラルド・エデルマン(2000, p.164)は、体験をNの神経細胞が作るN次元上の一点、と表現した。Nとは実は途方もないものである。1000億、などのオーダーだ。そしてそれだけの次元を持った空間を考えた場合、結晶は一つの点にあらわされる。

Edelman,G., Tononi,J. (2000) A Universe of Consciousness. How Matter Becomes Imagination. Basic Books.

2023年5月31日水曜日

トラウマとPD 1

 新しい「大人の事情」が来た。8月入稿。

 トラウマとPD

 パーソナリティ障害personality disorder (以下PD)に関する議論は大きく様変わりをしているし、またその様な運命であるという印象を受ける。DSMにおいて多軸診断が廃止されたのはその表れと言えるのではないか。PDがいかに分類されるべきかという問題とともに、そもそもPDとは何かという、いわばその脱構築が問われるような動きが起きているのではないか。

 かつて私が論じたのは、以前のような意味でのPDはその一部が次々と別のものに置き換わる可能性があるということである。そもそもPDとは思春期以前にそのような傾向が見られて、それ以降にそれが固まるというニュアンスがある。その意味でPDと呼べるものはあまり残っていないのではないかという印象を持つ。
 以下は私の印象である。もっとも筆頭にあげられるべきBPDはいったん置いておこう。従来それと同列に扱われることも多かったスキゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。スキゾタイパル、スキゾフレニフォルムなどはDSMでは統合失調症性のものとして改変されている。
 また自己愛性PDについては、それが置かれた社会環境により大きく変化して、あたかも二次的な障害として生まれてくる点で、従来定義されているPDとは異なるニュアンスがある。 
 更にはDSM-5やICD-11 に見られるいわゆるディメンショナルモデルへの移行がそもそもPDの脱構築に大きく貢献していると言わざるを得ない。もしこの議論に従うとしたらPDはそれぞれの人間が持っている、遺伝的な素因にかなり大きく左右されるような要素の組み合わせということになり、カテゴリカルな意味はますます薄れる。いつかどこかで書いたが、例えばジャイアン型PD,のび太型PD,スネ夫型という明確なカテゴリーを思い描く傾向にあった。
しかしいざ実際の人々を分類して行ったら、典型的なジャイアン型もすね夫タイプも意外と少なく、結局はジャイアン30%、のび太30%,スネ夫30%付近の人ばかりになり、結局は「ドラえもん混合型」PDの人ばかりになってしまったという感じである。(実際には混合型PD)それならその通りそれぞれの%で記載していった方が合理的になるが、結局「ジ30の30ス30PD」ではその人のプロフィールを直感的に思い描けないという問題になるのだ。
(図はのび太50%+スネ夫50%=トンガリという説。)https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2208/24/news143.html

 私は個人的にはカテゴリーモデルを捨てきれないが、その候補として残るのは恐らくBPD,NPD,反社会性、回避性くらいということになり、これはまさしくDSM-5 の代替モデルで最終的に提唱されたカテゴリーに近いということになる。

ただしその中でしぶとく生き残るのがBPDなのだ。